アステロイド家族




鈍色の欲動



 輸送戦艦ダンディライオン号とのランデブーは、太陽系外周部で行われた。
 太陽の輝きは遙か遠くあり、あらゆる命を生み出した恒星がもたらす影響も薄くなり、太陽風も弱まっていた。
太陽系を中心として周辺宙域を見下ろす位置に浮かぶ次元管理局よりは近いものの、遠いことには変わりない。
冥王星の周辺を過ぎると太陽系統一政府の管理宙域からも離れてしまうため、センサーを掠める反応も減った。
 太陽系内で暴れ回る宇宙海賊の主な活動宙域は、大型輸送船や旅客船が航行する木星から外側の軌道だ。
理由は至って簡単で、木星の先には小惑星で構成された環を持つ巨大なガス惑星、土星が浮かんでいるからだ。
軍や傭兵のスペースファイターに追われたとしても、環の中に突入すれば追っ手を攪乱することが出来るからだ。
だが、天王星から先の宙域は無許可航行を取り締まる軍の警戒も厳しいため、大抵は土星でワープドライブする。
 それを踏まえて考えると、太陽系外周部でのランデブーは不自然であり、援護の必要はないものだと思われた。
ダンディライオン号は、常識的な範疇で考えれば強い船だ。実際、その火力はHAL号の数十倍近くはあるのだ。
護衛は口実で、全く別の依頼を吹っ掛けるつもりかもしれない。これまでにも、彼女との間にそんなことがあった。
 ダンディライオン号の格納庫にHAL号を回収されたマサヨシは、イグニスを先に降ろしてから格納庫内に降りた。
人間の生命維持活動を妨げない温度に調節された空気が充満する船内で、セバスチャンが二人を待っていた。

〈お待ちしておりました〉

「おう」

 イグニスは左手を挙げてから、彼に近付いた。

「にしたって、今日はまたえらく遠い場所に呼び出したな。お前らがアステロイドベルトに来りゃいいだろうが」

〈マスターには事情がございます〉

「それが何なのか、とっとと話してくれや。一度エンジンが冷めちまうと、また暖気するまで時間が掛かるんだよ」

〈ご招待の理由について、私はマスターから情報を得ておりません〉

「あ?」

 イグニスはあからさまに不審がり、マサヨシは彼に近付いた。

「どういうことだ、セバスチャン」

〈私はマスターの御命令通りに、あなた方をお呼び付けいたしました。ですが、私は、その理由を明言出来ないのでございます。なぜなら、マスターは私に何もお話しして下さらなかったからです〉

 電子合成音声を平坦に連ねるセバスチャンに、イグニスは肩を竦めた。

「電卓女よりつまんねぇ野郎だな、相変わらず」

「とりあえず、ジェニファーのところに行くしかないな。案内してくれ、セバスチャン」

 マサヨシは愚直な自律型機動歩兵に命じたが、セバスチャンは動かなかった。

〈その御命令を受け付けることは禁止されております〉

「ますます解らねぇな」

 イグニスが首を捻ると、セバスチャンはマサヨシの前にホログラフィーモニターを映し、船内見取り図を出した。

〈マスターはブリッジにいらっしゃいますので、どうぞお進み下さいませ〉

「じゃ、お前は何をするんだよ」

 イグニスに小突かれたが、セバスチャンはやり返すこともなく突っ立っていた。

〈待機を命じられております〉

「じゃ、俺はどうしてりゃいいんだよ」

 不満げなイグニスに見下ろされ、マサヨシは少し考えてから返した。

「トニルトスだったら、キャロライナ・サンダーの引退記念限定発売のライブディスクをエンドレスで見るんだろうが、お前はそうもいかないからな。とりあえず、セバスチャンと一緒に待機していろ」

「こいつが相手だと、つまんねぇことこの上ないぜ。さっさと戻ってこいよ、マサヨシ」

「話を終えたらすぐに戻ってくる。それまで辛抱していてくれ、イグニス」

「おう。待つってのは性に合わねぇけどな」

 イグニスの声を背に受けつつ、マサヨシは床を踏み切った。船内は弱重力なので、歩くよりも飛ぶ方が速い。
格納庫から通路に繋がる隔壁を抜けると、通路の壁に造り付けられたハンドルを握り、前に倒して作動させた。
壁の内側でワイヤーが動き、マサヨシの体は運ばれた。何度も乗船しているので、船内の構造は把握している。
いくつかのルートを辿って進み、ブリッジに到着した。搭乗員が実質二人だけなので、ブリッジであっても静かだ。
 マサヨシがブリッジに入ると、操縦席にジェニファーが座っていた。彼女も、相変わらずのパイロットスーツ姿だ。
マサヨシに気付いた彼女は操縦席を回して立ち上がると、緩やかに踏み出して飛び、マサヨシへと接近してきた。

「久し振りね、マサヨシ」

「お前も元気そうで何よりだ、ジェニファー」

 マサヨシはジェニファーに礼儀で笑みを返してから、ヤブキの一件を思い出した。

「タケル・ヤブキとシンシア・ヤブキの二人を太陽系に輸送したのはお前か?」

「なんで知ってんのよ?」

「まあ、色々とな。大っぴらには言えないが、そのおかげで」

 だが、そこから先は続けられなかった。生温く柔らかなものが口に覆い被せられ、ぬるりとしたものが滑り込む。
反射的に、マサヨシは歯を閉じていた。顎を押さえ付ける手には力が込められ、背中は壁に押し付けられていた。
 体にのし掛かる他人の重みと共に、化粧の匂いに入り混じった、蠱惑的で甘ったるい女の匂いが鼻を掠める。
久しく感じていなかった感覚に、マサヨシは背筋が逆立った。忘れかけていた衝動が、体の奥底から戻ってくる。
しかし、受け入れられなかった。マサヨシはジェニファーを強引に突き飛ばし、彼女の唾液に濡れた唇を拭った。

「何のつもりだ」

「何って、見ての通りよ」

 よろけたが踏み止まったジェニファーは、軽く息を弾ませていた。

「悪い気はしないと思うけど?」

「馬鹿なことを言うな。冗談で済ませるなら、このまま帰ってやる」

 マサヨシは自分のものではない味が残る唇を何度も拭い、愛妻への強い罪悪感に苛まれた。

「そんなわけないじゃない」

 ジェニファーはマサヨシに近付き、物欲しげに唇を舐めた。

「あんたって嫌になるほど真面目だから、もう十年はしてないんでしょ? だから、随分溜まってるんじゃない?」

「お前、酒でも引っかけてんのか?」

 マサヨシは後退ったが壁に背を阻まれ、扉を叩くも既にロックされていた。

「酒なんか飲まないわよ、せっかくのあんたの味が薄れちゃう」

 ジェニファーは、マサヨシとの距離を詰めてくる。

「その気にならないんだったら、させてあげようじゃないの。あんたも男なんだから、そんなことは簡単よ」

「来るな!」

 強烈な罪悪感に煽られたマサヨシは、思わず熱線銃を抜いてしまった。

「悪いが、今の俺には女に手を出すほど余裕はない!」

「ないんじゃなくて、したくないんでしょ?」

 ジェニファーは熱線銃の銃口を天井に向けさせてから、マサヨシに顔を寄せた。

「俺は…」

 間近に迫った生々しい女の匂いにむせかえりそうになりながらも、マサヨシは妻の名を口に出した。

「サチコ以外の女は、抱けない」

 その名が出た途端にジェニファーは目を見開き、マサヨシの襟元を掴んで揺さぶり、喚き散らした。

「十年も前に死んだ女に、いつまでも義理立てしてんじゃないわよ!」

 マサヨシの襟元を握り締めながら、ジェニファーは嫉妬に震えていた。こんな時でも、あの女は邪魔をしてくる。
どう考えても有利なのに、負ける意味が解らない。生者は死者に勝るのが常識で、死者は何も出来ないのに。
なのに、あの女は未だに彼を縛り付ける。時間と共に美化された記憶という最強の武器を使って、戒めている。
それが、どうしようもなく憎い。ジェニファーはマサヨシを壁に叩き付け、涙を滲ませながら感情のままに叫んだ。

「どうして私は、あんな女に勝てないのよ! 私とあの女の何がどう違うってのよ!」

 悔しくて、憎らしくて、気が狂いそうだ。

「この十年、私はずっとマサヨシを見てきたわ!」

 優しげな笑顔の裏に、絶望を宿した男。

「少しでもマサヨシに近付けるならって思って、やりたくもない仕事を引き受けたりしたわよ!」

 いつも寂しげで、その眼差しは誰も捉えていなかった。

「仕事の上だけだけど、信用されるようになって本当に嬉しかったんだから!」

 けれど、近付けば近付くほど、彼を守る呪縛に気付いた。

「なのに、マサヨシの目には私なんて絶対に映らない!」

 しかし、彼は。

「そのくせ、訳の解らない連中を次から次へと掻き集めて、つまんない家族ごっこなんて始めて!」

 ジェニファーが埋められない空虚さを、いとも簡単に埋めてしまった。

「何が娘よ、何が父親よ、何が家族よ! そんなの全部、あんたの作った嘘じゃないの!」

 マサヨシは伏せ気味だった瞼を動揺で押し上げ、瞳孔を収縮させた。

「狭い場所に変な人形並べて、一人遊びしてるだけじゃないの! あんたはあいつらが好きなんじゃなくて、自分が好きなだけでしょうが! あの女が死んだのが寂しいから、自分を満足させたかっただけじゃない! いい加減に目を覚ましなさいよ、いつまでもお人形遊びしてんじゃないわよ!」

 彼を壁に押し付ける手を緩め、ジェニファーは速まっていた呼吸を整えた。

「嘘は、もう沢山でしょ?」

 涙を拭い、出来る限り柔らかな笑みを浮かべたジェニファーは、優しく囁いた。

「現実なら、ここにあるわよ」

 自失しているマサヨシの手を取り、胸元へと導いた。

「マサヨシ、私を愛して。そうすれば、二度と嘘なんか吐かなくていいんだから」

 パイロットスーツ越しに手のひらに伝わってくる女の感触を味わいながら、マサヨシは胸中を揺さぶられていた。
ジェニファーの言葉に、何一つ嘘はない。全て真実だ。過去に縛られていることも、嘘で造り上げた家族のことも。
嘘が嫌になっているのも事実だ。アウルム・マーテルとの戦いの前に気付き、その結果、心のままに戦い抜いた。
だが、その末に二人目のサチコを失った。今までに重ねてきた嘘の報いを受けたのは、本人ではなく伴侶だった。
これ以上嘘を重ねれば、またいつか歪みが起きる。そして、また誰かが犠牲になる。嘘の中には、正義などない。

「…すまん」

 だが、嘘であろうとも、偽物であろうとも、紛い物であろうとも。

「俺には、あの家こそが現実なんだ」

 マサヨシはジェニファーの手を振り解き、手のひらに残る感触を消すために強く握り締めた。

「俺達の関係は嘘で出来ている。だが、絆は本物なんだ」

「馬鹿じゃないの?」

 俯いたジェニファーは、ベルトの後ろに手を回した。

「マサヨシがいるから、そうだってだけでしょ? マサヨシがいなくなったら、あいつらなんて簡単にばらけるわ」

「それはどうだかな」

 マサヨシは右手に握ったままの熱線銃を挙げ、ジェニファーに据えた。だが、トリガーに指を掛けられなかった。
右手首に、細い針が突き刺されたからだ。筋に至るほど深く刺さった針を伝い、赤黒い血液の粒が数滴落ちる。
針の本体は、小さなシリンダーが装填されている注射器だった。シリンダーが押し込まれると、薬液も動き出した。
 血管の中に、強引に異物が流し込まれる。マサヨシはそれが全て流し込まれる前に、ジェニファーの手を払った。
力任せに注射器を引き抜いて投げ捨てると、右手首に作られた真新しい傷跡から溢れる血が指に絡み付いた。

「これは、何なんだ」

 小さな痛みが鼓動と共に脈打ち、そのたびに薬液が巡る感覚に苛まれながら、マサヨシは膝を折った。

「そんなに過去が好きなら、思う存分浸ってくればいいじゃないの」

 右手首を押さえて崩れ落ちたマサヨシを見下ろし、ジェニファーは頬を歪めた。

「私がマサヨシの現実になれないなら、過去になってあげるわ」

 静脈に注射された薬が回り始め、マサヨシは意識が薄らいだ。何の薬かは解らないが、催眠作用があるようだ。
ここで眠ってはいけない、とは思うが、硬く張り詰めていた神経が呆気なく黙らされていき、痛みすら薄れていった。
ジェニファーの姿が朧になり、手足の力が抜けていく。人工の睡魔に抗うことは出来ず、マサヨシの意識は没した。
 苦悶の表情で意識を失ったマサヨシを見つめるジェニファーは、サチコへの勝利を確信し、笑みを広げていた。
意識が戻ったら、マサヨシの過去は現在になるだろう。そうすれば、ジェニファーはサチコとして振る舞えばいい。
呼ばれたら答え、求められたら応じ、愛されたら愛する。サチコに奪われた全てを、ジェニファーのものに出来る。
恍惚で弛緩したジェニファーはマサヨシの前に膝を付き、長らく求めていた男の体を探って、彼を存分に味わった。
 これで、彼の心を奪い取れる。







08 10/25