アステロイド家族




真実は刃の如し




 真実が、虚構を壊す。


 鈍い頭痛が、脳を圧迫していた。
 マサヨシはHAL号の操縦席に身を預け、額を押さえていた。あの薬が抜けるまでは、操縦することは出来ない。
コクピットの後部では、イグニスが不安げにこちらを見つめていた。だが、頭痛に配慮してか、声は掛けてこない。
相棒の気遣いをありがたく思いながら、マサヨシは深く息を吐き、モニターが放つ光が映る天井を見上げていた。
 混濁していた意識が晴れてきたのは、数分前だ。それまで、自分がどこで何をしているのかすら解らなかった。
ここがダンディライオン号の船内であるということも思い出せず、十年前の記憶に浸り、現実を見失いかけていた。
サチコと出会い、サチコと恋に落ち、サチコと結婚し、サチコが死ぬまでの記憶がひどく鮮明に再生されたからだ。
彼女の感触や匂いまでもが生々しく蘇り、胸が詰まる。手首に残る注射針のかすかな痛みだけが、現実だった。
意識が晴れてきたといっても、まだ不安定だ。気を抜けば、十年前にいなかったイグニスのことを忘れそうになる。
イグニスと出会ったのは、サチコが死んでから数ヶ月後のことなので、夢に似た記憶の海の外側にある記憶だ。

「何があったのかは知らねぇが」

 イグニスはマサヨシに顔を寄せ、覗き込んできた。

「なんだったら、格納庫の内壁をぶち抜いて、宇宙に出ちまってもいいんだぜ。操縦システムと俺の回路を繋げば、ある程度なら操縦出来るからな」

「気持ちだけで充分だ」

 マサヨシは目元を押さえ、大きく息を吐いた。

「イグニス。俺は、何時間ぐらい寝ていたんだ?」

「マサヨシがコクピットから格納庫に戻ってきたのは、三時間五十八分二十七秒前だ」

「そうか…」

 マサヨシは薄く瞼を開き、相棒のマスクフェイスを仰いだ。

「戻ってきた時、俺は何か言っていたか?」

「色々とな」

 イグニスは佇まいを直し、マサヨシの背後で胡座を掻いた。

「サチコをもう死なせるわけにはいかない、とかなんとか。そういえば、前に言っていたよな。二度も死なせた、って。俺が知っているサチコはナビゲートコンピューターの方だけなんだが、その前にもサチコがいたのか?」

「俺の妻だ」

 マサヨシの返答に驚いたイグニスは、思わず身を乗り出した。

「お前、結婚してたのかよ!?」

「今もしている。死別したんだ、十年前に」

 マサヨシは乾いた喉を動かし、力なく述べた。

「お前と出会う前の話だ。俺は従軍していて、次元探査船の船長を任され、一年間航海に出たんだ。サチコはその時の搭乗員で、本当に優秀な研究員だった。俺がサチコに惚れたのが先か、サチコが俺に惚れたのが先なのかは、解らない。それを聞く前に、サチコは死んだからだ。ハルと一緒に」

「じゃあ、ハルってのは」 

「俺とサチコの間に生まれるはずだった娘だ。あの子には、その名前を付けたんだ」

「だったら何か、ハルは死んだ娘の代用品だったってことかよ!」

「返す言葉もない」

「俺も、あの連中も、女房が死んで寂しいから自分の周りに掻き集めたんだな!?」

「否定する気はない」

 覇気のない答えを繰り返すマサヨシに、イグニスは両の拳を固めて肩を怒らせた。

「そんなことのために、俺は生かされたのか? お前の自己満足のためだけに、俺は拾われたのか?」

 感情に任せて床を殴り付け、イグニスは怒鳴った。

「答えろよ、マサヨシ!」

「…ああ」

 掠れた声を漏らしたマサヨシに、イグニスは顔を背けた。

「最低だ」

「だが、これだけは信じてくれ。ハルや、お前達を思う気持ちに嘘はない」

「そうでなけりゃ、困るんだよ」

 コクピットに、冷え切った沈黙が流れた。イグニスが怒るのはもっともだ。むしろ、怒られない方がおかしい。
いつか、話さなければならないことだと思っていた。あの薬で記憶の蓋が外されたのは、好都合かもしれない。
嘘は、いつか破られる。この十年間で塗り固めた、苛烈な現実から己の心を守るための壁は壊す必要がある。
そこから先をどうするのかは、皆が決めることだ。自分勝手な嘘で皆を縛っていたマサヨシに、その権利はない。

「正直、俺、嬉しかったんだぜ?」

 イグニスは背を丸め、項垂れた。

「十年前にお前に拾われて、組まないかって誘われた時、まだ戦えるんだって思えてよ。ルブルミオンの中でも本当に必要とされたことがなかったから、余計によ。なのに、それが嘘だったってのか?」

「あの時はな」

「中途半端な気を遣うんじゃねぇ。そういうのが、一番傷付くんだよ」

 マサヨシの曖昧な言い回しに毒突いたイグニスは、力一杯拳を握り締め、噴出寸前の怒りを押さえ込んでいた。
彼が嘆いているのは、信頼していた戦友に命を救われた経緯よりも、代用品の娘にされた少女のことなのだろう。
イグニスは誰よりもハルを愛している。無条件に慕って、無遠慮に好意や愛情を注いできてくれた少女だからだ。
トニルトスほどではなかったが、当初は頑なだったイグニスの心が解かされていく様をマサヨシは間近で見ていた。
だから、イグニスが苦しむのは無理もない。マサヨシは言葉を掛けようとしたが、波立たせるだけだと飲み込んだ。

「…帰ろう」

 絞り出すように呟いたイグニスは、立ち上がり、マサヨシを見下ろしてきた。

「家に着いたら、今までお前が俺達に吐いてきた嘘を洗いざらい話してもらうぜ。じゃねぇと、気が済まねぇ」

「そのつもりだ」

「だったら、さっさと薬を抜けよ。俺の操縦が信用出来ないんだろ?」

 イグニスはマサヨシに背を向け、足早にコクピットを後にした。荒々しく重たい足音が、次第に遠ざかっていった。
背中にその震動を感じながら、マサヨシは目を閉じた。これで全てが終わる。元々、終わりしか見えなかったのだ。
紛い物の日々を支えていた根底は、嘘だけだ。芯にあるものも、周りを固めるものも、何もかもが偽物の生活だ。
 嘘は真実には敵わない。嘘が甘ければ甘いほど真実は辛く、重ねた時間が柔らかければ柔らかいほど鋭利だ。
これは報いだ。自分のことばかりを考え、その場凌ぎの甘言を吐き出し続け、痛みから目を逸らしていたからだ。
 やはり、現実からは逃げられない。




 ただ、空しいだけだった。
 足元に流れ落ちている熱い水には黒い染料が混じり、手足を伝って排水溝に流れ込み、浅い渦を巻いていた。
込み上がる嗚咽にも力はなく、手足は脱力していた。出しっぱなしのシャワーから溢れる温水だけが、優しかった。
熱い蒸気の立ち込めるシャワールームに設置された鏡には、髪の色が元に戻りつつある無様な女が映っていた。
降り注ぐシャワーの勢いに合わせて頭頂部から黒が剥がれ始め、その下からは見慣れたブロンドが現れていた。
瞳孔の色を変える塗料も剥がれ、少しでもサチコに近付けるようにと努力した化粧も、全て温水に押し流された。
立ち上がる気力も失せるほど打ちのめされると、涙すら出ない。ジェニファーは髪を掻き上げて、温水を散らした。

「馬鹿な男」

 唇に残る彼の感触が悔しさを呼び起こすが、怒りに至るほどの熱は生まれなかった。

「一生、死人と結婚してなさいよ」

 きっと、勝てると思っていた。過去に捕らわれているマサヨシの心を揺さぶるには、過去になるしかないのだと。
そう思って、サチコになろうとした。朧な意識であれば、髪と瞳の色さえ同じながら見分けが付かないだろう、と。
マサヨシが過去に溺れている最中、ジェニファーは調べ尽くしたサチコの情報を元にして、髪と瞳の色を変えた。
サチコが選ぶであろうシンプルな服を着て、サチコならこの程度だろうと加減した化粧を施して、声色も調整した。
その出来には、多少は自信があった。殺したいほど憎んだ女と酷似した姿になった自分は、非常に滑稽だったが。
 マサヨシがジェニファーのことをサチコだと思ってくれたのは、ほんの一瞬で、すぐに別の物だと気付いたらしい。
生身の体温と質量を持ったジェニファーの体を求めたのもその時だけで、内心期待していたことは起きなかった。
マサヨシは己を責め、決して許そうとしない。自分を許さないことが、サチコに対する償いになると信じているのだ。
それは、これから先も変わらないだろう。サチコの姿を装ったジェニファーを拒絶したのは、罪を重ねないためか。
マサヨシ自身も、自分自身を何よりも強く責めていれば、他人からは責められないと心の底では解っているのだ。
サチコへの愛の証としても有効だし、己を戒めることが出来るだろう。だが、それは単なる現実逃避でしかない。

「セバスチャン、いる?」

 ジェニファーが鏡を小突くと、内側に内蔵された立体映像展開装置からホログラフィーモニターが投影された。

〈はい。私の本体は、お二方の機体と共に格納庫に待機しております、マスター〉

「格納庫のロック、開けておいて。あいつらがいつでも出られるようにね」

〈了解しました〉

「それと、マサヨシの通信コードと履歴を全部削除しておいて」

〈よろしいのですか、マスター〉

「いいのよ、もう」

 ジェニファーは鏡に映る素顔の自分に向けて、自虐の笑みを浮かべた。

「これ以上、嫌な女になりたくないから。私にも、それぐらいのプライドはあるわよ」

〈了解しました〉

 躊躇いもなくセバスチャンは答え、数秒のラグの後に報告した。

〈マスターの御命令通りに、マサヨシ様の通信コード、並びに通信履歴のデータを全削除いたしました〉

「そう、いい子ね」

 ジェニファーはシャワーを止めると、壁に造り付けのラックからシャンプーボトルを取った。

「そうよ。ちょっと、寂しかっただけなのよ」

 濡れた髪に甘い香料が混じったシャンプーを馴染ませ、良く泡立てて染料を落としながら、独り言を漏らした。
長い間、一人で生きてきた。どこの馬の骨とも付かない宇宙海賊の女から生まれ落ちた時から、ずっとそうだ。
構ってくれる人間はいたが、愛してくれる人間はいなかった。母親は、ジェニファーを生んで間もなく男と逃げた。
育ての親はいたが、二人はジェニファーの人格を直視することはせずに、上辺だけの家族関係を造っていた。
運び屋稼業を始めてからは、様々な男と出会い、中には本気で溺れた男もいたが、皆、ジェニファーから去った。
 マサヨシも、その中の一人に過ぎない。一人で生きていることに慣れていても、人の温度が恋しくなる時がある。
彼との出会いは、丁度そのタイミングと重なっただけなのだ。マサヨシには悪いことをした、と今更ながら思った。

「ねえ、セバスチャン」

 再びシャワーを出して泡を洗い流したジェニファーは、相棒に尋ねた。

「私のこと、好き?」

〈答えるまでもございません〉

「そう」

 手に取ったリンスを長い髪に行き渡らせながら、ジェニファーは口元を上向けた。

「だったら、まだ生きていけるわ」

〈マスター。よろしければ、背中を流させて頂きますが〉

「余計なお世話よ」

 彼の思い掛けない言葉に、ジェニファーは吹き出した。

「何よ、いきなり人間臭くなっちゃって。変なウィルスでも取り込んじゃったの?」

〈そういうわけではございませんが〉

「だったら、どういうわけよ?」

 ジェニファーがにたつくと、セバスチャンは珍しく回答に困っていた。彼が言い淀むのは、滅多にないことだった。
セバスチャンの人格プログラムにはほとんど手を加えていないが、彼なりに自己進化と成長をしていたのだろう。
マサヨシが死んだ妻に似せるためにかなり手を加えたサチコに比べれば感情の幅は少ないが、可愛らしかった。
今後、彼の人格を引き出すことが楽しみになるだろう。ジェニファーはリンスを流し、ボディーソープを泡立てた。
 一人で生きていく日々は、どうしようもなく空しい。いつも心のどこかに虚ろな穴が空き、誰かを求めて止まない。
それが人でない時は金であり、金でない時は力であるだけだ。だが、何を求めたとしても、穴が埋まることはない。
けれど、埋める真似事をしてみたくなる。誰かを一心に求めている間は、少しだけ空しさが紛れてくれるからだ。
心の穴が埋まることがなければ、空しさに負けた欲動が消えることもなければ、誰かから愛されることもないが。
 顔を上げて、生きていくしかない。







08 11/2