長い夢を見ていた。 ひどく生々しく、現実味のある、それでいて嘘臭い夢だった。頬を撫でる朝日が暖かく、覚め切らない目を刺した。 体には軽い疲労感すら残り、記憶は鮮明だ。だが、夢は夢だ。見慣れた天井が、頭上に広がっているのだから。 ベッドの右側は空になっており、彼女の体温が僅かばかり残留していた。いつものように、一番先に起きたのだ。 カーテンは既に開いていて、鮮やかな空には雲が漂っていた。スクリーンパネルなどではない、本物の空だった。 起き上がって窓を開けると、映像とは違う生々しい色が直視出来た。流れる雲の形状も、一つも同じものはない。 緩やかに寝室の空気を乱す風も、水と草の匂いが濃かった。体に掛かる重力も、人間があるべき世界の重みだ。 やはり、地球こそ故郷だ。マサヨシは青々と茂る山に見下ろされた市街地を見渡し、自然と笑みを零していた。 旧人類と新人類の種族間戦争により、地球は核兵器によって焼き尽くされ、海が干涸らび、放射能に汚染された。 種族間戦争に勝利した後、宇宙で暮らし始めた新人類は全ての生物が死に絶えた地球を甦らせようと尽力した。 だが、そう簡単には行かず、放射能を除去するだけで数百年掛かり、生態系を元に戻すのも二百年は掛かった。 どれほど汚れ、荒んでいても、やはり故郷を見捨てることは出来ず、発達した科学技術の粋を集めて再生させた。 マサヨシらは、スペースコロニーから再生した地球に移住した第一世代だが、実験的措置の枠を抜けていない。 ようやく巡り始めた季節はまだ不安定で、都市や市街地はほとんどが建設途中で、社会は出来上がっていない。 地球上に人が生きるための循環を生み出し、人の流れを作るために送り込まれたので、実質的には任務である。 だが、それでも地球は地球だ。マサヨシは肺に真新しい空気を満たしてから、着替え、寝室からリビングに出た。 南向きのリビングには、寝室よりもより多くの日差しが差し込み、窓辺に並んだ観葉植物の葉を輝かせていた。 リビングに面した対面式のキッチンからは、調理の音が聞こえる。マサヨシが近付くと、手を止め、彼女が笑んだ。 「おはよう、マサヨシ」 「おはよう、サチコ」 マサヨシは愛妻を引き寄せ、口付けた。エプロン姿のサチコは、照れ笑いを零した。 「今日も良いお天気ね。洗濯物が良く乾くわ」 「あの子は?」 「まだ起きていないみたい。起こしてきてくれないかしら?」 「相変わらずだな、うちのお姫様は」 マサヨシは笑み、リビングを出て子供部屋に向かった。廊下にも、妻が作る朝食の暖かな匂いが広がっている。 新婚当初はひどい料理ばかりだったが、結婚して十一年が過ぎた今では慣れたもので、随分と美味しくなった。 今日は何を食べさせてくれるのか、と期待しつつ、マサヨシは子供部屋のドアを軽くノックしたが返事はなかった。 「入るぞ、ウェール」 ドアを開けると、ベッドの上で娘がひっくり返っていた。寝相が良くないので、毛布は床に蹴り落とされていた。 「うー…」 娘は不満げに呻きながら身を捩り、父親を見やった。 「まだねむいー…」 「早く起きて支度をしないと、ダイアナちゃんが迎えに来ちゃうぞ。学校にも遅刻するぞ」 マサヨシが娘の体を起こしてやると、娘は腫れぼったい目を擦った。 「髪の毛、やってー」 「それは去年までだ。今年からは自分でやるって決めたじゃないか」 ほら、とマサヨシは子供部屋の可愛らしいカーテンを開け、日差しを入れた。 「…うん」 ウェールは小さく頷き、ベッドから降りて大きく伸びをした。 「それじゃ、俺はリビングにいるからな。早く支度をするんだぞ」 「解った、パパ」 まだ眠たげだが、ウェールは子供用の小さなタンスを開けて服を物色し始めたので、マサヨシは部屋を出た。 一人娘、ウェールは今年で十歳になる。父親譲りの栗色の髪と母親譲りの青い目を持つ、可愛い盛りの娘だ。 だが、同時に生意気盛りでもある。すっかり口が達者になって、何かあればすぐに言い返してくるようになった。 反抗期とまでは行かないが、親としては複雑だった。年端もいかない頃の素直さが、時折無性に懐かしくなる。 けれど、それもまた娘の成長の証だ。マサヨシはリビングに戻る前に、洗面所で顔を洗い、髪も簡単に整えた。 リビングに戻ってくると、既に朝食の準備は終わっていた。三人分の食器が並び、朝食が湯気を立てている。 キツネ色に焼けたトースト、ふんわりと柔らかなスクランブルエッグ、茹で立てのソーセージ、フルーツサラダ。 サチコは鼻歌を零しながら、コーヒーメーカーのポットを取り、マサヨシと自分のカップにコーヒーを注いでいた。 いつも通りの、穏やかな朝だった。 その日、マサヨシは非番だった。 なので、妻の家事を手伝えるだけ手伝い、買い物にも付き合った。暇を持て余すのは好きではないからだ。 マサヨシは四人乗りの中型エアカーを運転して、郊外のショッピングセンターまでサチコと共に買い出しに出た。 天気が良いからか、同じように空中を行き交うエアカーは多い。市街地の奥で、空の色を吸った海が煌めいた。 品の良いワンピースの上にカーディガンを羽織っているサチコは、助手席の窓を開け、遠くに見える海を眺めた。 吹き込んだ風が彼女の髪を乱し、少しだけ付けた香水の香りを散らす。母親のそれとは違った女の匂いだった。 「ねえ、マサヨシ」 サチコはマサヨシに向き、期待を込めた声を掛けてきた。 「海に行きたいんだろ?」 いつものことじゃないか、とマサヨシがにやけると、サチコはメガネの下で視線を彷徨わせた。 「だって、こういう時ぐらいしか二人きりになれないんだもの」 「海じゃなかったら、山だしな」 「川の時もあったじゃない!」 サチコはちょっとムキになったが、すぐに頬を染めて身を引いた。 「要は、どこでもいいのよ。あなたと一緒なら」 「買い物が終わったら、気が済むまで付き合ってやるよ。俺も君と一緒にいたいからな」 「でも、そういう時に限って緊急呼び出しが掛かるのよね…」 切なげにため息を零したサチコに、マサヨシは苦笑した。 「仕方ないだろう。機械生命体がいつ攻めてくるか解らないんだから」 「地球って、どうしてこう頻繁に狙われるのかしら。私達が結婚する前にも、異星人に襲撃されたわよね」 「神聖コルリス帝国だな」 「私達新人類が、あのウサギみたいな耳の生えた異星人を滅ぼせたのは、奇跡にも等しいわよね」 「ああ、今でもそう思う。途中で神聖皇帝が病死してくれなかったら、滅ぼされていたのは俺達の方だった」 マサヨシは十二年前の戦乱を思い起こし、表情を強ばらせた。そこで、ふと、今朝のことを思い出した。 「そういえば」 「そういえば?」 サチコにオウム返しに問われ、マサヨシは夢の内容を反芻しながら返した。 「今朝、物凄くおかしな夢を見たんだ。今攻めてきている機械生命体の火炎将軍と雷光将軍に酷似した外見の機械生命体と、神聖皇帝とそっくりなクニクルス族の少年と、戦乱に乗じて革命を起こそうとした第三人類の指導者と同じ名前のサイボーグが出てきたんだ」 「それで?」 「経緯は不明なんだが、俺とその連中は同じ空間で暮らしていたんだ。ウェールに似た子供も住んでいたな」 「じゃ、私も出てきたのかしら?」 「ああ、出てきた出てきた。神経質でヒステリックな、ナビゲートコンピューターだったよ」 「何よそれ。私だけ扱いがひどくない?」 むくれたサチコに、マサヨシは肩を竦めた。 「そう怒るな。たかが夢の話じゃないか」 「だって、ナビゲートコンピューターよ? せめてオペレーターぐらいにしてほしかったわ」 今でもオペレートは出来るもの、とサチコは子供っぽく拗ねた。その様が可笑しくて、マサヨシは笑いを堪えた。 確かに、サチコは管制官に必要な免許は全て持っている。研究員になる前は、管制官を目指していたからだ。 だが、途中で方向転換して次元管理局研究員となり、結婚して退職するまでの間に優秀な研究成果を残した。 マサヨシと出会ったのは、その頃である。その頃のサチコは真面目さ故に神経が張り詰めていて、刺々しかった。 結婚し、ウェールを産んでからは心身共に丸くなった。あの頃のサチコなら、絶対にしないであろう表情も増えた。 拗ねた顔もその一つだ。それが無性に可愛らしくて笑っていると、サチコはますます拗ねて顔を背けてしまった。 その横顔を見、ふと、夢の内容をもう一つ思い出した。あの世界では、サチコの現状は少しだけ変わっていた。 それを思い出さなかったのは、思い出したくなかったからだ。万が一、こちらでもそうなったら、と思うと恐ろしい。 だが、あれは夢なのだ。現実ではない。マサヨシはそう思い直し、ショッピングセンターへ向けてハンドルを切った。 今、やるべきことは買い物だ。 買い物を終えた後、マサヨシはサチコの望みを叶えた。 海岸沿いにエアカーを停め、砂浜を並んで歩いた。日が陰り始めているからか、吹き付ける潮風は冷えてきた。 薄着のサチコは少し寒そうに身を縮めていたので、マサヨシはジャケットを脱いで、彼女の背中に被せてやった。 サチコは嬉しそうに笑み、遠慮がちに腕を組んできた。細い腕が絡められ、長身だが華奢な体が押し付けられた。 砂浜には、絶えず波が押し寄せる。高い波が崩れて爆ぜると、細かな海水の飛沫が散り、足元を濡らしてきた。 砂に混じり、数年前には見られなかった貝殻が打ち上げられていた。これもまた、生態系が戻りつつある証拠だ。 サチコが足を止めたので、マサヨシも立ち止まる。サチコはマサヨシの肩に頭を載せ、組んだ腕に力を込めた。 マサヨシもサチコの肩に回した手を引き、距離を狭めた。愛妻の感触は、厳しい任務で強張る心を緩めてくれる。 だから、あの夢のことも笑い飛ばせる。マサヨシは心地良さそうに目を伏せているサチコを見下ろして、呟いた。 「あの夢には、まだ続きがあってな」 サチコは肩から頭を上げ、夫を見上げた。 「あら、そうなの?」 「ああ。夢の中では、君は死んでいたんだ。だから俺は、ナビゲートコンピューターに君の名を付けたんだ」 「何を言い出すのかと思ったら」 サチコは動じることもなく、笑った。その様に、マサヨシは安堵した。 「そうだよな。君が死ぬなんてことは」 「だって、それっておかしいわ」 サチコはメガネの下から青い瞳を上げ、マサヨシを見つめた。 「死んだのは、あなたの方じゃないの」 潮騒が遠のく。妻の体温が冷える。世界が色褪せていく。 「そんなことを忘れちゃうなんて、また自我防衛プログラムが働いちゃったのかしら」 サチコは夫の腕からするりと腕を抜き、一歩身を引いた。 「あなたは、神聖コルリス帝国との最終決戦に出撃した時に、スペースファイターごと撃墜されたのよ」 「そう、なのか?」 マサヨシが戸惑うと、サチコはマサヨシの襟元を探り、ドッグタッグを取り出した。 「そうよ。生前のあなたの意識と記憶は全てこの中に収めてあったから、それを元にしてマサヨシの人格を復元したのよ。そして、マサヨシと同じ外見のアンドロイドボディを造らせて、その中にAIを移植したのよ」 ドッグタッグを離したサチコは、愛おしげにマサヨシを見上げてきた。 「だから、あなたはマサヨシなのよ」 「だが、俺は」 ならば、この現実は虚構なのか。マサヨシが後退ると、サチコはマサヨシの手を取り、頬に寄せた。 「あなたは死んだけど、こうして生きているわ。私があなたを愛している限り、あなたは死なないわ」 「俺は…死んだ…?」 マサヨシは手のひらに伝わってきた妻の体温に、身動いだ。今まで感じていたもの全てが、薄っぺらくなった。 朝日の温もりも、朝食の味も、愛娘の感触も、そして、妻の体温も。機械仕掛けの体が、感じていたことになる。 妻の手を振り払い、手の甲に爪を突き立てた。乱暴に切り裂かれた皮膚から流れ出た血は、鉄の匂いがない。 血液に酷似しているが、全くの別物だ。皮膚の下に脈打つ血管も、筋肉組織も、骨格も、何もかもが作り物だ。 「大丈夫よ、マサヨシ」 サチコはマサヨシの手の甲にハンカチを当て、巻いた。 「何も、問題はないわ」 「俺が死んだのなら、ここにいる俺は一体何なんだ!」 混乱したマサヨシが叫ぶが、サチコは至極穏やかだった。 「あなたはあなたよ。それ以外の何者でもないわ」 「ウェールは、俺が死んでいることを知っているのか!」 「いいえ、知らないわ。負傷したけど生き残った、とだけ教えてあるの。でも、いずれ話すことになるわ」 「どうしてこんなことをしたんだ、サチコ!」 「そんなの、解り切っているわ。また、やり直すためよ」 「だが、俺は、俺は」 「あなたは、私の傍にいてくれるだけでいいの。それだけで、いいのよ」 サチコは砂を踏み締め、近付いてくる。マサヨシは急に愛妻が異形の者に思え、畏怖した。 「君は、それで本当に幸せなのか!」 「幸せよ」 「俺は、俺の偽物なんだぞ! 俺は本物の俺とは違う、昔と変わらずに君を愛せるか解らない!」 「私は愛しているわ。どうなろうと、何であろうと、マサヨシはマサヨシだもの」 「どうして、そこまでするんだ?」 波打ち際に至ったマサヨシは、足を止め、肩で息をした。サチコはマサヨシの胸に縋り、顔を埋めた。 「あなたと、生きていたいから」 サチコは細い肩を震わせ、声を詰まらせる。 「マサヨシが死んだ時、辛くて、寂しくて、悲しくて、たまらなかったわ。でも、お腹にはウェールがいたから、死ぬことは出来なかったのよ。けれど、あなたがいなくなった世界なんて想像も出来なかったし、したくなかったの。だから、自分自身にとってもウェールにとっても良くないことだと解っていたけど、あなたを造ったの」 「サチコ…」 マサヨシが妻の肩に触れると、サチコは目を閉じた。 「今はいいかもしれないけど、私は歳を取っていって、あの子も大きくなっていくわ。けれど、あなたの時間は永遠に動かない。あの日、宇宙で撃墜された時から一秒も動かないの。思い出はあるけど、未来はないの。ごめんなさい、マサヨシ。一番辛いのは、あなたよね」 か細く泣きながら、サチコはマサヨシの背に腕を回してきた。愛妻を引き離せるわけもなく、優しく抱き締めた。 だが、これは自分の意志ではない。かつての自分が持っていた記憶が成す、意志に似た行動パターンなのだ。 それが解ると、彼女との会話すらも色褪せる。マサヨシが本物のマサヨシだったら、言うであろう言葉だからだ。 今のマサヨシが作り出したものは、何一つとしてない。言葉も、表情も、感情も、愛情も、かつての自分のものだ。 目の前の女の寂しさを埋めるために作られた存在で、自分自身が望まれて生まれたわけではないのだと悟った。 だが、その空しさと悲しさすらも自分のものではない。マサヨシという男だったらそう思うであろう、感情の一つだ。 この女を愛おしいと思うことも、あの娘を大事だと思うことも、全てが。だが、彼女を引き離すことは出来なかった。 偽物でも、紛い物でも、作り物でも、愛おしいことに変わりない。マサヨシはサチコを抱く腕に力を込めていった。 本物の自分が死んだことで、偽物の自分が生まれた。彼が死ななければ、己を認識し、活動することはなかった。 そして、彼女を知ることもなかった。自分を通して本物へと注がれる愛だと既に解っていても、愛に応えたかった。 偽物でも、本物と同等に彼女を愛している。 08 11/8 |