戦え。朝食を守るために。 がっしゃぐっちゃぬっちゃ。 箸と呼ばれる二本の棒を小鉢に突っ込んで、ヤブキは一心不乱にそのおぞましき内容物を掻き回していた。 時折箸を引き上げて、白濁した粘液が絡んだ豆を引き上げては、また中に戻して更に盛大に掻き回している。 そのたびに、不快感を誘う饐えた匂いが鼻を突く。他の料理の匂いを打ち消してしまうほど、強烈な匂いだった。 ヤブキはひとしきり内容物を掻き回していたが、満足したらしく、箸を抜いて小鉢を皿に載ったトーストに傾けた。 「待ちやがれですぅ!」 思わずミイムは腰を上げたが、一瞬遅く、それはでろりとトーストの上に広がった。 「え? なんすか?」 ヤブキは小鉢の内容物をトーストにぶちまけてしまうと、箸を回して器用に粘液の糸を切った。 「あ、う、あわわわわぁ…」 ミイムは泣きたい気持ちになりながら、先程まで柔らかな湯気を立てていたヤブキのトーストを見下ろした。 ヤブキがぶちまけたモノがトースト全体に広がっており、綺麗な焦げ目もバターの香りも陵辱されてしまっている。 おまけに、トーストの熱がヤブキのぶちまけたモノを熱しているせいか、饐えた匂いは一層ひどくなっていた。 ヤブキは何の躊躇もなく自分のトーストを取ると、口元を覆っているマスクを開いて口を開け、中に押し込んだ。 その様を、マサヨシとハルはただ呆然と見ているだけだった。ヤブキが何を食べているのかが解らないのだ。 ミイムは謎の食品で朝食の席を台無しにしたヤブキを罵倒しているが、ヤブキはそれを気にせず食べている。 恐らくは発酵食品だと思われるのだが、マサヨシの知識にはないタイプの食品で、匂いがやたらと強いものだ。 ヤブキはあっという間に謎の食品を載せたトーストを食べ終えると、口の周りにべっとり付いた粘液を拭っている。 「あ、マサ兄貴とハルも喰うっすか?」 と、ヤブキは小鉢を掲げたが、マサヨシは半身を引いた。 「いや…遠慮しておこう」 「お兄ちゃん、それなーに?」 ジャムをたっぷり塗ったトーストを食べていたハルは、ヤブキに尋ねた。ヤブキはにっと笑う。 「この間言っていた納豆っすよ。これは買い付けてきたやつっすけど、今日から作ろうと思うんす」 「作れるのか?」 マサヨシが興味と困惑を混ぜた顔で問うと、ヤブキは大きく頷いた。 「納豆菌と大豆さえあれば、いくらだって量産出来るんすから!」 「ボクは絶対許しませんからねぇ! これはテロですぅ、バイオテロなんですぅ!」 頭に血を上らせたミイムとは対照的に、ヤブキはしれっとしている。 「そんなに大袈裟なもんじゃないっすよ。せいぜい一キロちょいぐらいしか作らないっすから」 「…パパさん、一キロってどれくらいですか?」 ミイムは、怖々とマサヨシに向いた。マサヨシは少し考えてから、テーブルの上のジュースのボトルを指した。 「そうか、太陽系圏の単位だから知らないのか。これの満量と同じ重量だ」 「これと…」 ミイムは半分ほど中身が減っているジュースのボトルを両手で持ち、凝視していたが、わなわなと震える。 「そんなに大量に作られたら、それこそ一大事ですぅ! そうなる前に全部破棄しますぅ、焼却処分ですぅ!」 「何を喰おうが何を作ろうがオイラの自由じゃないっすかぁ!」 小鉢を抱えて後退したヤブキを、ミイムは凶悪な目で睨み付けた。 「ボクが丹誠込めて作った栄養も彩りもバッチリな素敵朝ご飯を、一度ならず二度までも台無しにしやがったんですよぉ! これが怒らずにいられるかってんだコンチクショウですぅ! さあその宇宙の害悪を引き渡しなさい、イギーさんに焼き尽くしてもらうんですぅ!」 「イグニスがそれを引き受けるとは思えないんだが」 と、マサヨシが呟くも、ミイムは聞いておらず、テーブルを離れてヤブキに詰め寄っていく。 「速やかに危険物を引き渡しやがれ、このバイオテロリストがっ!」 「オイラはただ喰ってただけじゃないっすかぁ!」 ミイムに追い立てられたヤブキもテーブルから離れ、ダイニングからリビングへと後退っていく。 「パパ、まだママもお兄ちゃんも食べ終わってないよ…」 ハルは二人の残した食事を見ていたが、渋い顔をした。食事の途中で立ってはいけない、と躾けてあるからだ。 ハルの手本になるべき二人がこの体たらくとは、情けない。マサヨシは咳払いをしてから、テーブルを小突いた。 「二人とも、一旦テーブルに戻れ。戦闘開始するのは朝食を終えてからだ、いいな」 「でもぉ、パパさぁん…」 泣きそうな顔を作ったミイムに、マサヨシはもう一度強く言った。 「ミイム、ヤブキ」 「了解っす」 ヤブキは敬礼してから、テーブルに戻った。ミイムもむくれていたが、マサヨシには逆らえず自分の席に戻った。 マサヨシは自分の分のサラダを食べ終えてから、コーヒーポットを取り、二杯目のコーヒーをカップに注ぎ込んだ。 だが、ミイムの淹れてくれたコーヒーの素晴らしい香りも、ヤブキの食べた納豆のおかげで台無しになっていた。 コーヒーの香りは解るのだが発酵食品独特の匂いが強烈すぎるので、せっかくの香りが半減してしまっている。 確かにミイムの気持ちも解らないでもないな、と思いながら、マサヨシは爽やかな酸味と鋭い苦みを味わっていた。 だが、これは切っ掛けに過ぎなかった。 部屋の中央に、見慣れない物体が居座っていた。 朝食を終えた後に走り込んできたマサヨシは、多少汗を掻いたので着替えを取り出すために自室に戻った。 ヤブキの部屋は未だ造られていないので、マサヨシの部屋の半分はヤブキの私物に占領されているままだった。 壁一面にマイクロコンテナがびっしりと並べられているが、それでもまだ余ってしまうので間仕切りと化していた。 部屋の中心を縦断する形で直列しているマイクロコンテナの右半分はヤブキで、左半分がマサヨシの居住区だ。 マサヨシは一応片付けもして掃除もしているのだが、ヤブキは片付けも掃除も頻度が低いので荒れ果てている。 布団も万年床で、上げているところを見た回数は少ない。畑仕事が上手く、礼儀正しくても、その他はダメらしい。 そして、本題である。部屋の中心を縦断しているヤブキのマイクロコンテナの上に、用途不明の箱が乗っていた。 箱の下には何かのシートが敷かれていて、シートの端にはコードが繋がっており、コンセントに差し込んであった。 マサヨシがシートに触れてみると、ほんのりと温かかった。保温用らしい。となれば、おのずと察しが付いてくる。 「まさか…」 マサヨシは物凄く嫌な予感を覚えつつ、箱の蓋を開けた。途端に、暖かな空気と共にあの匂いが立ち上った。 「ヤブキぃッ!」 マサヨシが叫ぶと、どたばたと激しい足音がしてヤブキが駆け戻ってきた。 「はいっ、なんでありましょうかっ!」 部屋の前にやってきたヤブキは、敬礼した。マサヨシは箱を持ち上げ、ヤブキに突き出した。 「なんでこれを俺の部屋で作るんだ!」 「キッチンで作ろうとしたんすけど、ミイムに妨害されちゃったんす」 「だからって俺の部屋はないだろう、俺の部屋は!」 「でも、他にあると思うっすか?」 悪気の欠片もないヤブキに、マサヨシは温まった大豆の入った箱をぐいっと押し付けた。 「ここはお前と共有しているが、元々は俺の部屋なんだ。正直、この匂いを付けられては困るんだ」 「大丈夫っすよ、換気しておけば」 「布という布に匂いが付くと思うぞ」 「えー、オイラは気にしないっすよー」 「俺が気にするんだ! そもそもお前は居候だろうが! 少しは分別ってものを弁えろ!」 全く、とぼやきながら、マサヨシは本来の目的である着替えを取り出した。 「じゃあ、どこで納豆を作ればいいと思うっすか?」 ヤブキに問われ、マサヨシは苛立ちに任せて言い捨てた。 「この家の中でなければどこだっていい!」 マサヨシはバスルームに向かって大股に歩いていると、リビングからサチコの操るスパイマシンがやってきた。 サチコはマサヨシの周囲を巡っていたが、部屋の中に突っ立っているヤブキを一瞥し、状況を察したようだった。 〈マサヨシ。ヤブキ君にあんなことを言っちゃっていいの?〉 「まあ…少々言い過ぎたかもしれないが、付け上がらせるよりはマシだろう」 バスルームに入ったマサヨシは着替えを置き、棚から折り畳まれたタオルを取り出した。 〈でも、この分だと、ヤブキ君の行き着く先は一つだけね〉 サチコの言葉に、マサヨシはシャツを脱ぎかけていた手を止めた。 「…だろうな」 〈私は知識として食事の重要性は知っているし、ヤブキ君が作ろうとしている納豆の栄養価の高さもちゃんと知っているから、ここは否定せずに受け入れてみるべきだと思うわ〉 「そう思うのか?」 〈ええ〉 「だが、風呂にまで付いてくることはなかったんじゃないのか、サチコ」 〈きゃあ、ごめんなさい!〉 小さく悲鳴を上げて、サチコはバスルームから飛び出した。その様に、マサヨシは笑わずにはいられなかった。 この行動が女性らしさに関する計算に基づいたものか、感情回路が成せる技かは、マサヨシには判断出来ない。 だが、どちらにせよ微笑ましいと思うのは、マスターの欲目だ。だから、先日の言葉もそう受け止めることにした。 リリアンヌ号で検診を受けている際に暇を持て余したマサヨシは、サチコに連絡を取り、他愛もない会話をした。 その中でサチコは、マサヨシに対して特別な感情を抱いているのでは、と思わせるような人間臭い発言をした。 その真意は解らない。すぐに二人とも態度をいつもに戻したし、マサヨシもサチコを問い詰めることはしなかった。 問い詰めてはいけない、と思ったからだ。なぜそう思ったのか自分自身も解りかねるが、そうなのだから仕方ない。 マサヨシがシャワーを終えて出てくると、予想通りヤブキはガレージに行ったらしく、イグニスの叫声が聞こえた。 イグニスはヤブキが持ち込んだモノが発酵食品だと知ったらしく、俺のアレクサンドラを穢すなあ、と喚いている。 どうやら、スペースデブリだけでなく、ジャンクの山にも名前を付けているらしい。しかも、前回同様女性名である。 マサヨシは今更ながら、ヤブキに言い捨てた文句の内容を後悔していた。もう少し、言葉を選んで言うべきだった。 勢いに任せると、ろくなことにはならない。 マサヨシがリビングに戻ると、ミイムが腐っていた。 窓を全て開け放って換気扇を勢い良く回しているため、風通しが良すぎて風呂上がりには肌寒いほどだった。 ハルは、リビングテーブルに潰れているミイムを心配げに揺すっていたが、ミイムは変な声を出すだけだった。 マサヨシは水を飲むべくキッチンに入り、納得した。ヤブキの持ち込んだ発酵食品は、納豆だけではなかった。 大型冷蔵庫の手前に置かれているのは、漬け物樽だった。今度は、さすがにマサヨシも知っているものだった。 蓋を開けてみると、中には黄色掛かった茶色いものがたっぷりと詰まっており、これもまた独特の匂いを発した。 「ぬか床、ってやつだな」 「ふみゃああん…ボクのキッチンなのにぃー…」 うみゅみゅう、と泣きそうな声を零し、ミイムはリビングテーブルに頬を押し当てている。 「パパ、ヌカドコってなぁに?」 ミイムの傍から離れたハルはマサヨシの元に駆け寄ってきたが、漬け物樽を覗いたが、匂いで身を引いた。 「もしかして…これのこと?」 「ああ。これなら俺も知っている。食べたことはないが」 「お兄ちゃんって、変なものが好きなんだねぇ…」 ハルは興味はあるが怖いのか、マサヨシの影からぬか床を見つめていた。 「次から次へと、よくもまぁ持ち込んでくれるもんだ。兵舎に住んでいたにしては、私物が多い気もするが」 マサヨシはぬかみそがみっちりと詰まった漬け物樽の蓋を閉めてから、ぽんとハルの頭を撫でた。 「ほら、これでもう大丈夫だ」 〈でも、ぬか漬けも保存が利くし栄養価も高い食品だから、決して悪いものじゃないのよ、ハルちゃん〉 マサヨシの背後から現れたサチコが、ハルに近寄る。すると、リビングテーブルの傍で、人影が立ち上がった。 長い髪をゆらりと揺らしながら体を起こしたミイムは、目が据わっていた。長い耳にも力が入り、ぴんと伸びている。 「決めました」 「何を決めたんだ」 マサヨシは顔を上げ、ミイムに向いた。ミイムは薄い唇を引きつらせる。 「これ以上ボクのキッチンを侵犯するというのなら、ボクにも考えがありますぅ」 「あのなぁ、ミイム。キッチンは家と同じく共有財産で、本を正せば俺の金で」 「覚悟しやがれヤブキ! このボクを怒らせたらどうなるか、その無遠慮で非常識で自分勝手な低レベル極まりない脳髄に徹底的に叩き込んでやるですぅ!」 「だから、人の話を聞け」 「みゃはははははははははっ、パパさん、熱線銃をお借りしますよぉ!」 妙な高笑いを上げたミイムは、リビングを飛び出した。マサヨシはぎょっとして、ミイムを追い縋る。 「ちょっ、ちょっと待て! 最後の発言は母親役として、というか、人としてどうかと思うぞ!」 おいこらミイム、とミイムを引き留めようとマサヨシは必死に声を上げるも、ミイムの行動は恐ろしく早かった。 マサヨシが自室に向かった時には既に手遅れで、ミイムはマサヨシが枕の下に入れている熱線銃を握っていた。 そのまま窓を開けて身軽に飛び出すと、腰を落とした態勢のまま駆け出し、あっという間に遠ざかっていった。 小柄だから身軽だろうとは思っていたが、それにしては動きが的確だ。まるで、特殊部隊の兵士のようだった。 マサヨシは半ば呆然としてミイムの後ろ姿を見つめていたが、ガレージから顔を出しているイグニスを手招いた。 「イグニス」 「追えってんだろ。まあ、あの野郎の気持ちは俺にも解るがよ…」 イグニスはのそりとガレージから出てくると、悠長に伸びをして関節を鳴らし、最後に首を回した。 「あんな馬鹿共でも、家族は家族だからな。マサヨシ、お前も後で来いよな。ここではお前がリーダーなんだから」 「この通り、威厳のないリーダーだがな」 マサヨシが苦笑いを浮かべると、イグニスは軽く手を振った。 「ああ、全くそう思うよ。だが、一応リーダーはリーダーだ。お前の命令に、素直に従っておくことにするさ。それに、放っておいたらヤブキが殺されちまいそうだからな」 「ヤブキもサイボーグだ、簡単にやられはしないさ。恐らくはな」 マサヨシが言うと、イグニスは辺りをぐるりと見回し、ヤブキの居所をすぐさま発見した。 「だが、このままじゃ、その願いは叶いそうにないぜ」 ヤブキの居所に向かい、ミイムが疾走しているのが見えた。この分だと、数分もしないで追いついてしまうだろう。 イグニスは正直面倒だったが、万が一どちらかがやられでもしたら夢見が悪いしハルが泣くので出ることにした。 埃を巻き上げるので脚部のスラスターは使用せず、地面を踏み切って飛んだ瞬間に反重力装置を作動させた。 ある程度高度を取ってから、脚部ではなく背部のアクセラレーターに火を入れて、ミイムとヤブキの元へ向かった。 マサヨシはイグニスの後ろ姿を見送りつつ、ため息を零した。たかが発酵食品、されど発酵食品、ということか。 ひとまず、サチコにハルのことを任せてから出よう。マサヨシはベルトを締めたが、武器は差し込まないことにした。 それにしても、ミイムの食べ物に対する執着心は強烈だ。ヤブキのせいで朝食が台無しになった時もひどかった。 いつも愛想がいい分、怒らせると恐ろしいのだ。母親役の選択を間違えたかな、とマサヨシは今更ながら思った。 もっとも、母親役なのに男であるという時点で間違いなのだが。 08 3/25 |