アステロイド家族




宵月夜



 丑三つ時に、密やかなる宴を。


 娘達が寝静まると、この狭い世界もまた寝入る。
 リビングの明かりを落としてから掃き出し窓を開け、少し冷ややかな風を室内に招き入れて、深く息を吸った。
この家を離れて訓練生達を鍛え上げている間に、いつのまにか季節は移ろい、春から夏に移り変わっていた。
夜風に混じる湿気と草の匂いも変わり、肺に染み入る温度も僅かながら上昇しており、時の流れを感じさせた。
 マサヨシはブランデーのボトルを持ち、掃き出し窓のすぐ外に設置されている縁側に似たベンチに腰掛けた。
もう一方の手に持っていた二つのグラスを並べて、ブランデーのキャップを開け、二つのグラスに均等に注いだ。
そして、先にベンチに待たせていた愛妻のフォトフレームの前に片方のグラスを置いてから、軽く叩き合わせた。
澄んだ硬質な音色が、暗い庭先に広がった。マサヨシは在りし日の妻を見つめていたが、グラスに口を付けた。
 強い酒を一口含むと、鋭い刺激が口中を刺した。同時に濃縮された香りが鼻に抜け、飲み下すと胃が熱した。
マサヨシとは違い、サチコは酒をほとんど飲まない人間だったが、ブランデーはコーヒーや紅茶に入れて飲んだ。
だが、ほんの数滴だけでもサチコを酔わせるのには充分な量の酒精だったらしく、必ず彼女が先に寝てしまった。
翌朝になるとサチコは申し訳なさそうな顔をしたが、マサヨシは笑って言った。付き合ってくれるだけで充分だ、と。
一人で飲む酒も悪くないが、相手がいるとまた味が違う。増して、それが愛する女性ならば格別に味が良くなる。

「サチコ」

 マサヨシは研究員時代の愛妻の写真を眺めて、頬を緩めた。堅苦しい制服に身を包んだ彼女は、笑っていた。
次元探査任務後に撮影したもので、サチコは恥じらいながらもマサヨシの頼みに応じ、ファインダーに収まった。
笑顔は愛情に溢れていて、顔立ちも出会った当初に比べれば幾分優しくなっており、この頃は母ではなく女だ。
マサヨシとは婚約したばかりで、ハルもまだ身籠もっていないので、その愛情はマサヨシにだけ向けられていた。

「君の娘達は、元気に育っているよ。元気すぎるぐらいだがな」

 マサヨシは、指先で妻の輪郭をなぞった。

「だから、俺は寂しくない。君もそうであればいいんだが」

 生温いブランデーをもう一口含み、嚥下する。その味は妻と共に飲んだものと全く変わらず、胸を締め付けた。
どうせ、明日も休みなのだ。酔いが回るまで酒を喰らってしまおう、と思ってグラスを傾けていると、気配がした。
振り返ると、暗がりの中でグリーンのゴーグルを輝かせている大柄なサイボーグが、廊下から顔を出していた。
マサヨシがブランデーのグラスを掲げると、彼は一礼して、足音を立てないように気を遣いながら近付いてきた。

「どうもっす、マサ兄貴」

 マサヨシの隣に腰を下ろしたヤブキは、両手を付いて頭を下げた。

「だが、お前は寝ていたんじゃなかったのか?」

 アウトゥムヌスと、とマサヨシが付け加えると、ヤブキはこんこんと側頭部を小突いた。

「なんか、頭が冴えちゃったんすよ。こんな成りっすけど、オイラだって人間っすから。そういうマサ兄貴は」

「サチコと飲んでいたんだ」

 マサヨシが傍らのフォトフレームに目をやると、ヤブキはサチコにも礼をした。

「御邪魔しちゃって申し訳ないっす、サチコ姉さん」

「まあ、サチコも許してくれるさ。騒ぎ立てなきゃな」

 マサヨシがにやりとすると、顔を起こしたヤブキはマサヨシに振り向いた。

「あー、そりゃ心外っすよ心外。いくらオイラだって、こんなド深夜に大酒喰らって暴れるほど非常識じゃないっす」

「その辺を弁えているなら、自分の酒でも持ってこい。これは俺とサチコの酒だ」

 マサヨシがブランデーのグラスを示すと、ヤブキは立ち上がってキッチンに向かった。

「だったら、とっておきがあるっすよ、とっておき」

 ヤブキは真っ暗なキッチンに入ると、明かりも付けずに床下収納を開けた。暗視機能が作動しているからだ。
蓋を開け、更に深い闇に満ちた空間に手を突っ込み、調味料や料理酒のボトルの間から一升瓶を取り出した。
キャップ全体を包んでいるフィルムを捻って破り、指先でキャップを押し上げると、ぽん、と軽快な破裂音がした。
食器棚を開けて、ヤブキが以前買い揃えた徳利と揃いの猪口を取り出すと、徳利に一升瓶を傾けて注ぎ込んだ。

「温度、室温でいいっすよね? この時期に熱燗ってのは変だし、冷や酒ってタイプの酒でもないんで」

「好きにしろ」

「これ、開けるのが楽しみだったんすよねー。日本酒ってのは、早く飲まないと味が落ちちゃうっすから」

 ヤブキは浮かれた足取りで、徳利と猪口を載せた盆をマサヨシの元に運んできた。

「それで、何の酒だ?」

 マサヨシが土色の猪口を取ると、ヤブキはすぐさまマサヨシの猪口に徳利を傾けた。

「クボタっすよ、クボタ」

「人名か?」

 マサヨシが聞き返すと、ヤブキもまた自分の猪口に徳利を傾け、並々と注いだ。

「たぶんそうなんじゃないっすか? 地名かもしれないっすけどね」

「では、改めて飲もうじゃないか」

 マサヨシが猪口を高く持ち上げると、ヤブキも顔の高さまで持ち上げた。

「我が家の安寧と、オイラ達の運命を交わらせてくれたサチコ姉さんの心の平穏を願いまして」

 乾杯、との二人の声が重なった。二人は同時に猪口の日本酒を飲み干し、ヤブキは歓喜の唸りを漏らした。

「くぁー!」

「確かに旨いな」

 今までに飲んできたものとは、別格の甘みと深みだ。マサヨシが感嘆すると、ヤブキは早々に二杯目を注いだ。

「そりゃあもう! 過去の研究で磨きに磨き上げられた環境再現技術を集約させて発展させ、ほぼ完璧にニホンの気候を再現したグリーンプラントで作ったんすから、違って当たり前っすよ! 安い値段で出回っている日本酒ってのは、大体が米とアルコールと糖分を合成させただけの模造品なんす。日本酒に限った話じゃないっすけど、酒は単なるアルコールじゃないっすからね。緻密な技術と気候風土が作り出すものっすから、環境を整えなきゃ良い味が出なくて当然なんす。もっとも、この味もまだ完璧じゃないらしいっすけどね」

「相変わらず、その手のことにだけは詳しいな」

 マサヨシが感心すると、ヤブキはマスクフェイスを少し開いた隙間から日本酒を流し込んだ。

「オイラの取り柄はこれしかないっすからね。どうせやるなら、徹底的にやった方が気持ちいいってもんっすよ」

 いつもなら昆虫の口に似た飲用チューブを使うところを、敢えて使わずに飲むことに、ヤブキの心意気を感じた。
酒を傾ける目的は、水分補給とは違うからだ。それ以前に、ブランデーや日本酒は一気に飲むような酒ではない。
時間を掛けて味わって、緩やかに、心地良く酔うための酒だ。マサヨシは猪口に口を付け、湿らす程度を含んだ。

「んで、その」

 ヤブキは猪口に残った酒を軽く揺らし、映り込んだ月明かりを波打たせた。

「なんだ」

 マサヨシが聞き返すと、ヤブキは珍しく言葉を濁した。

「なんか、思わないんすか?」

「だから、何がだ」

「オイラと、むーちゃんのことっすよ」

 ヤブキは僅かに俯き、声色も落とした。

「前は違ったっすけど、今はむーちゃんはマサ兄貴の実の娘じゃないっすか。でもって、オイラの方は進化した旧人類じゃないっすか。こういう場所だから仕事にも出られないし、自分でも危なっかしいって解っているからインテゲル号で出稼ぎにも行けないしで、とっくに成人しているのにマサ兄貴達に養われているんすよ。ミイムはレギーナっすから下手なことは出来ないし、むーちゃん達はまだ子供だから当たり前っすけど、オイラはそうじゃないっすよ。もちろん、畑仕事をするのは好きだし、それが皆のためになるって思っていても、たまに思うんす。こんなんで、本当にむーちゃんをお嫁さんにもらっていいのかなって」

 先程の明るさとは打って変わり、ヤブキの語り口は重たくなった。誰にも言えずに、心中で淀んでいたのだろう。
それきり、ヤブキは黙り込んだ。二杯目の日本酒をくいっと飲み干してしまうと、三杯目の日本酒を猪口に注いだ。
マサヨシは手の中の猪口を弄びながら、考えあぐねた。ヤブキの懸念も良く解るが、安易な答えは返せなかった。
このコロニーに置いて、ヤブキの位置付けは重要だ。畑を耕し、作物を育てることは、彼以外の誰にも出来ない。
四姉妹の世話も、ミイム一人では立ち行かない。いくらミイムが有能な母親役であろうとも、何事にも限界はある。
故に、今、ヤブキが働きに出るのは望ましくない。育ち盛りの娘達を食べさせ、構い、甘えさせられなくなるからだ。
だが、ヤブキにも男の沽券というものがあるのだ。それ自体は痛いほど理解出来るし、否定出来るわけもない。
母親役として完全に割り切っているミイムとは違い、ヤブキは男だ。愛する女性に相応しい男になりたいのだろう。

「そうだな…」

 マサヨシは、青白い月光を帯びたヤブキのマスクフェイスを見やった。

「焦る必要はないと思うぞ、ヤブキ。お前はまだ二十歳で、アウトゥムヌスは十歳なんだ。最低でも五年はある」

「でも、五年って結構長いっすよ? でもって、五年も過ぎたら女の子はめっちゃ成長しちゃうっすよ? むーちゃんだって、いつか変わっていくんす。だから、むーちゃんがオイラを見る目もちょっとずつ変わっていくと思うんす。それが、なんか、怖いっていうか、困るっていうかで」

 ヤブキは三杯目の日本酒には口を付けず、猪口に視線を落としていた。

「なんすかねぇ…。こういうこと思うの、オイラらしくないって解っちゃいるんすけど、一度考え出しちゃうとどうにもこうにも止まらなくなっちゃったんすよ。んで、言えるのがマサ兄貴ぐらいしかいなくて」

「よく解る」

 マサヨシは猪口に唇を当て、少しばかり飲んだ。

「俺だって、明確な自信を持って生きているわけじゃないからな。宇宙を飛んでいる時以外は、だが」

「そればっかりは、そうでなくっちゃ困るっすよ。オイラ達は、マサ兄貴達に守ってもらう側なんすから」

「だが、お前はアウトゥムヌスを愛しているんだろう?」

「当然っすよ。むーちゃんのためだったら、どんなことも出来るって本気で思うっす」

「だったら、それでいいんじゃないか。お前とあの子の関係は、俺が口を挟んでどうにかなるレベルじゃないしな」

「なんか投げやりな回答っすね」

 少々不満げなヤブキに、マサヨシは肩を竦めた。

「俺は軍人だ。そして父親だ。だが、カウンセラーにはなれないんだよ」

「ま、それもそうっすよね」

 ヤブキは猪口を口元に当てて傾け、半分ほど飲んだ。

「オイラもそんなところじゃないかなって思っていたんすけど、イマイチ自信が持てなかったんす。だから、そうだって思っても確信が持てなくて、同じことで悩んじゃうんすよね。誰かに聞いてもらえばまとまるかもしれないって思ったから、マサ兄貴に話しちゃったっすけど、そうそう都合良くは行かないっすね。こればっかりは、自分の力でなんとかするしかないっすから」

「解っているじゃないか」

「そうでもないっすよ」

 ヤブキは猪口に残った日本酒を飲み干し、四杯目を注いだ。

「んで、今度はオイラの方から聞いてもいいっすか?」

「何をだ」

「サチコ姉さんのことっすよ」

「何を聞きたい?」

「生身のサチコ姉さんは、本を正せばマサ兄貴が作ったナビゲートコンピューターのサチコ姉さん、なんすよね? だけど、マサ兄貴が作ったサチコ姉さんは、こっちのサチコ姉さんをモデルにして作ったわけっすから、二人の存在は同一であると同時に別々でもあるんすよね。だから、どこかしらで時系列が捻れているんすよね。でも、あのアニムスさんとやらのおかげで、タイムパラドックスが起きなくて済んでいるんだと思うんすよ」

「俺もそれは考えてみたが、そう考えなければ説明が付かない。というか、そう考えるしかない、と言うべきだ」

「オイラ達が知っているのはナビ子のサチコ姉さんだけっすから、まあなんとか区別は付くんすけど、どっちのサチコ姉さんとも接していたマサ兄貴からするとめっちゃ変じゃないっすか?」

「いや、そうでもないが」

「んで、マサ兄貴はどっちのサチコ姉さんが好きなんすか?」

 ヤブキの放った質問の飛躍ぶりに、マサヨシは口に含んだ日本酒を飲み損ねて盛大に咳き込んだ。

「急に話を変えるな!」

「いんやあ、別に変わってないっすよ。主軸はあくまでもサチコ姉さんなんすから」

 へらへらと笑うヤブキに、マサヨシは頬を歪めた。

「全く…」

「んで、どっちなんすか?」

 興味津々に迫ってきたヤブキに、マサヨシはぐっと日本酒を飲み干した。

「どっちもだ!」

「それじゃ答えになってないっすよー、三角関係確定っすよー」

「どっちも同一人物なんだからいいじゃないか」

 鬱陶しくなってきたのでマサヨシはあしらおうとするが、ヤブキは引き下がらなかった。

「んで、マサ兄貴。真面目だけど照れ屋でクーデレなサチコ姉さんと、ヒステリックだけどお茶目で女の子ーって感じのサチコ姉さんと、どっちがいいんすか?」

「だから、どっちも好きでいいじゃないか」

「ま、オイラも大人のむーちゃんと子供のむーちゃんはどっちも好きっすけど、マサ兄貴はまた別格っすよ別格。ラブパワーで宇宙と次元の均衡を保っちゃうような人なんすから」

「あれは俺じゃなくてサチコがやったことであってだな」

「でも、サチコ姉さんの行動理念のど真ん中にいたのは、マサ兄貴だったじゃないっすか。あっちでもこっちでも」

「だが、それだけじゃないと思うぞ。俺以外の動機もあるはずだ」

「けど、やっぱりメインは愛じゃないっすか、愛」

 けたけたと笑うヤブキの声色は、少々上擦っていた。いつのまにか、ヤブキには酔いが回っていたようだった。
だから、こんなにも粘っこく絡んできたのだろう。かくいうマサヨシも酔いを感じていたが、高揚するほどではない。
サチコはサチコだから好きなのだ。生身であっても、ナビゲートコンピューターであっても、サチコだから好きだ。
アニムスと一体化したサチコのことも、もちろん愛している。生きる次元が違うから、触れ合えないのが残念だが。

「でーも、なんかいいっすねー」

「何がだ」

 マサヨシが若干苛立ちを込めて言い放つと、弛緩したヤブキはマサヨシに身を傾けてきた。

「マサ兄貴の口からサチコ姉さんのことを聞けるのって」

「な…」

 別に惚気ていたつもりはないのだが。マサヨシがひどく焦ると、ヤブキはマサヨシの肩を荒っぽく叩いた。

「マサ兄貴が幸せだと、オイラも幸せっすよ」

 んっ、とヤブキはマサヨシの飲みかけのブランデーを一気に飲み干してしまうと、両腕を突き上げた。

「何せ、オイラの未来のお父さんっすからね!」

「少し声を抑えろ。他の皆が起きたらどうする。何気なく俺の酒を飲むな」

 ヤブキのはしゃぎようにマサヨシが辟易すると、ヤブキはブランデーのグラスをマサヨシの目の前に出した。

「さあ、続きっすよ続き!」

「だがな、お前に潰れられたら俺が困るんだぞ。二百キロ超のサイボーグを動かせるわけがないだろうが」

「いいじゃないっすかマサ兄貴ぃ、息子孝行っすよ息子孝行!」

「未来の、だろうが。それに、なんで親が息子に孝行しなきゃならないんだ」

「だって、嬉しいんすよ。本当のお父さんが出来るんすから」

 酒による高揚と心からの喜びに、ヤブキは浮かれていた。マサヨシは困っていたものの、怒らないことにした。
ヤブキもまた、本当の家族を知らずに育った人間だ。彼とその妹を造り出したのは、二人の科学者だったからだ。
両親の顔をした科学者が与える感情は愛情に見せかけた紛い物であり、ヤブキを愛していたわけではなかった。
だからこそ、ヤブキは嬉しいのだろう。数年後の未来に、心から愛し合っている妻と同時に父親が出来ることが。
義理ではあるが、父親は父親だ。互いの歳が近いので、当分は今のような友人関係を引き摺ってしまいそうだが。
ヤブキと出会った当初は、予想もしていなかった。だが、今となってはそれにとやかく言うつもりは欠片もなかった。
 むしろ、喜ばしいことだった。サチコは喜んでくれるだろうか、とマサヨシはサチコのフォトフレームを見下ろした。
平面モニターの中で微笑んでいる愛妻は、十一年前の一瞬を切り取った時のまま、表情は変わることはなかった。
マサヨシはその優しい笑顔を撫で、笑んだ。サチコの前に日本酒を注いだ猪口を置くと、代わりにグラスを取った。
 未来の息子と、酌み交わすために。






08 12/27