豪烈甲者カンタロス




第十一話 濁った正義



 黒田が百香と再会したのは、国立生物研究所の病室だった。
 青ざめた顔の妹は、虚ろな瞳で天井を仰いでいた。黒田が部屋に入り、ベッドに近付いても、反応しなかった。
黒田は百香に言葉を掛けようとしたが、何を言えばいいのか解らなかった。それ以前に、言葉が出てこなかった。
そして、何をどう思うべきかも解らなかった。黒田はその場に立ち尽くしたまま、拳を固め、呻き声を殺していた。
 都内の公園で百香が女王の体内に捕らわれて十数分後、軍と研究所の部隊が駆け付けて女王を捕獲した。
櫻子が百香を誘拐して女王に与えた直後に連絡していたからだ。そして、女王は射殺され、百香は救助された。
人型昆虫の卵が大量に詰まった女王の腹部の中に押し込められていた百香は、体液と神経糸にまみれていた。
百香は救助を行った兵士の手から百香を奪うと、揺さぶって強く呼び掛けたが、百香は目覚めることはなかった。
黒田から奪い取られた百香は、そのまま国立生物研究所に移送され、その中の研究施設で身体検査を受けた。
現場に居合わせた黒田と櫻子にも一通り身体検査が行われたが、櫻子は正気を失ったままで元に戻らなかった。
黒田に過去を告白したことで、櫻子の中で張り詰めていたものが途切れてしまい、理性も飛んでしまったのだろう。
だが、同情することは出来ず、顔を見たら殴ってしまうことは免れなかったので、黒田は櫻子とは面会しなかった。
 鉄格子で塞がれた窓の外は暗く、星も見えない。黒田は百香の横たわるベッドの傍に崩れ落ち、肩を怒らせた。
何がいけなかったのだろう。黒田は櫻子の過去も含めて愛そうと思っていたし、気持ちが変わらないことも伝えた。
だが、櫻子は百香を奪い、女王に与えた。妄信的に執着する姉を遠ざけ、黒田との幸せな未来を形作るために。

「おにいちゃん」

 今にも消え入りそうな弱々しい呼び掛けに、黒田ははっとして顔を上げた。

「百香!」

「お兄ちゃん。私、何かいけないことをしたのかなぁ?」

 百香は涙を落としながら、黒田に小さな手を伸ばしてきた。

「櫻子姉ちゃん、怒らせること、しちゃったのかなぁ? だから、私、あんなことされたのかなぁ?」

「違う、お前は何も悪くない!」

 黒田は百香の手を取り、握り締めた。百香は黒田の手を掴み、顔を伏せる。

「でも、私、もう人間じゃないんだって。あのでっかい虫が、私のお腹の中に、何かを入れたから、もう…」

「そんなもの、手術をすれば取り出せる! 百香は百香だ、何も変わっちゃいない!」

「でも、解るの。これが、私に繋がってくることが」

 百香は薄い入院着の上から、楕円形の膨らみを持った下腹部を押さえた。

「怖いよ、助けてよ、もうこんなの嫌だよお兄ちゃん!」

 百香はベッドから立ち上がろうとしたが、じゃり、と異様な金属音が狭い部屋に反響し、百香はベッドに倒れた。

「あ…?」

 目を見開いて硬直した百香に、黒田は心臓が凍り付いた。そして、百香の足を隠している掛け布団を剥いだ。
百香の細い両足首には、穴の開いた分厚い金属板が付けられていた。鎖が結び付けられ、壁に繋がっている。
鎖は太く、簡単に千切れるものではない。百香はがちがちと歯を鳴らしていたが、黒田の腕を痛むほど掴んだ。

「助けて、お兄ちゃん! お兄ちゃん、お兄ちゃん!」

「…大丈夫だ。すぐに、外に出られる」

 黒田は自分に言い聞かせるように言い、百香の両肩を押さえて向き直らせた。

「そんなの嘘だ、私もお兄ちゃんも死んじゃうんだぁ、あの虫みたいなのに喰われちゃうんだぁああっ!」

 錯乱して髪を振り乱す百香を、黒田は力一杯抱き締めた。

「俺が百香を守る。そのために、俺は軍人になったんだ。だから、俺を信じてくれ」

「お兄ちゃん…」

 百香は黒田の戦闘服を握り締め、涙に濡れた顔を上げた。

「今は、少しだけ辛い目に遭っているだけだ。すぐに元の生活に戻れる。だから、今だけは我慢してくれ」

「うん」

 百香は涙を拭い、引きつった笑みを作った。

「解った、今は我慢する。だけど、ちゃんと迎えに来てね。でないと、許さないからね」

「…ああ」

 黒田は百香の髪を撫でたが、ちゃんと笑みを作れたか解らなかった。自分でも、白々しい嘘だとは思っていた。
研究所から出られる保証もなければ、家に帰れる保証もない。増して、百香が卵を摘出されるはずがなかった。
回収された百香を搬送する研究員達は、これまでの仮説を立証するための検体が得られた、と喜々としていた。
人型昆虫に対する決定打となる兵器、対人型昆虫用戦術外骨格を開発するために不可欠な存在なのだ、とも。
 対人型昆虫用戦術外骨格。黒田も名を聞いたことはあったが、漏れ聞こえてくる情報は惨いものばかりだった。
戦術外骨格用に改造された人型昆虫は死ぬばかりで、実験のために連れてこられた人間も喰われている、と。
失敗続きなのに開発が中止されないのは、人型昆虫には軍の所有する通常兵器が全く通用しないためだった。
黒田自身も経験したことだが、人型昆虫の強靱な外骨格は弾丸など軽く弾いてしまい、貫通することはなかった。
有効なのは火炎放射と爆撃だが、あまり派手に戦っては国民に人型昆虫の存在を知られる、と上層部は言った。
黒田の知る限りでも何十人も死んでいるのだから、公表するべきだとは思ったが、一兵士にそんな権限はない。
 研究所に移送されていく百香に追い縋った黒田を取り押さえた研究員は言った。彼女は必要な犠牲なんだ、と。
これ以上人間を犠牲にしないためにも、誰かが身を差し出さなければならない。君の妹は尊い存在なのだ、とも。
だが、そんなものは詭弁だ。百香でなければならない理由もなければ、百香がこんな目に遭うべき理由もない。
 黒田は百香を抱き締めながら、嗚咽を殺して泣いた。百香は黒田にしがみついたまま、離れようとしなかった。
やはり、黒田の言葉が嘘だと解っているのだ。だが、信じるふりをして外に出られるとの希望を持とうとしている。
それが尚のこと胸を締め付けてきたが、黒田は兄らしくすることに努め、百香に出来るだけ明るい話題を話した。
今度の休みにはどこに出掛けようか、次の誕生日には何をしよう、などと、懸命に途切れた未来を手繰り寄せた。
 無駄な足掻きだと解り切っていたが、そうせずにはいられなかった。




 それから、十数時間後。黒田は、百香と対峙していた。
 銃口を向けた先にあるのは、太い鉄格子で作られた頑強な檻。四方からの照明を帯びた、鉄柱が鈍く輝いた。
青々と雑草の茂る地面に置かれた冷たく金気臭い箱に閉じ込められているのは、人間を凌ぐ体躯の異形だった。
 艶々と黒光りする外骨格、赤褐色の頭部、そこから生えた太い触角、引き摺るほど長い腹部、その先の赤い棘。
これもまた引き摺るほど長い、両腕に見える上両足と中両足と下両足の側面にはびっしりと短い足が生えていた。
人型ムカデだった。胸部と腹部の外骨格には、薄く切れ目が入れられ、人を入れるための細工が施されていた。

「これより、対人型昆虫用戦術外骨格試作一号との演習を開始する!」

 黒田の背後で号令が掛かり、黒田の両脇の兵士達は引き金に指を掛けて、黒田も震える人差し指を掛けた。
きちきちきちきちきちきち、と人型ムカデは顎を擦り合わせて音を作り出し、狭い檻の中で長い腹部を揺らした。
撃て、との号令が上がるが黒田は引き金を引けなかった。だが、他の兵士は躊躇わずに人型ムカデに発砲した。
放たれた弾丸は檻に当たって跳ねるものもあったがほとんどが着弾し、人型ムカデの周辺に硝煙が白く散った。
一発も貫通したものはなく、潰れた鉛が檻の底板に落ちた。人型ムカデは触角を上げて左右に振り、顔を上げた。

「いたい…」

 人型ムカデの発声装置から零れた幼い声に兵士達はどよめき、黒田は耐え切れずに自動小銃を投げ捨てた。
途端に上官の叱責が飛び、殴られたが、自動小銃を拾えなかった。人型ムカデの中にいるのは、妹なのだから。
人型ムカデを狙撃することは実用化には必要なことだと言われたが、何がどう必要なのか黒田には解らなかった。
というより、解りたくもなかった。再度殴られて転倒した黒田は、口角泡を飛ばす上官ではなく、妹を見つめていた。
冷たい外骨格の中に入った百香を思うと、動けなかった。嘘を吐いたばかりか、銃口を向けてしまったのだから。
どう謝ればいいのだろう。なんて言えば許してくれるのだろう。黒田は頭を蹴られたが、最早痛みは感じなかった。
百香の方が余程辛い、苦しい、悲しい、怖い、痛い、寂しい。だから、今自分が受けている所業などなんでもない。

「やめて」

 ぎち、と人型ムカデが檻を成す鉄格子を握り、潰した。

「お兄ちゃんを、いじめないでぇええええっ!」

 人型ムカデの放った幼い泣き声に、黒田の頭を踏み付けていたジャングルブーツが外れ、皆の視線が向いた。
人型ムカデは全ての気管を開いて荒い呼吸を繰り返していたが、潰した鉄格子を曲げ、引き抜き、投げ捨てた。
一本、二本、三本、四本と外して巨体を出せるほどの隙間を作ってから這い出した人型ムカデは、再度叫んだ。

「私の、大事なお兄ちゃんなのにぃっ!」

 下両足が蹴り付けた地面が太い爪で抉れ、草と土が飛び散る。生温い空気が切り裂かれ、烈風が生まれた。
一瞬にも等しい間で兵士の列に接近してきた人型ムカデは、錯乱した叫びを散らしながら上両足を振り上げた。
黒田の頭上で上官の頭がヘルメットごと切断され、鉄製の器に入った頭蓋骨と脳漿が、黒田の腹部に落下した。
それを視認することもないまま、黒田は上官を切り裂いたままの格好で立ち尽くす人型ムカデを仰ぎ見、呟いた。

「百香、なんだな?」

「ごめんなさい、でも、私は」

 人型ムカデは血と皮膚の貼り付いた爪で頭を抱え、触角の先を黒田に向けた。

「こうしないとこの子がお兄ちゃんを食べるって言うから! 私が言うことを聞いて大人しくしているなら、お兄ちゃん一人だけなら生かしてやってもいいって言うから!」

「何を、言っているんだ…?」

「やめてぇ、私に近付かないで、武器を向けないでぇ、この子が戦っちゃうからぁあああ!」

 銃声に振り向いた人型ムカデは、不規則に発砲する兵士達に飛び掛かって、でたらめに上両足を振り回した。
戦いと言うにはぞんざいで、踊りと言うには血生臭く、遊びと言うには荒々しい。腕や足が、呆気なく宙を舞った。
折れた自動小銃が地面に刺さり、放たれなかった弾丸が散らばり、いくつもの絶叫が重なり、血飛沫が上がった。
切り裂かれた腹部から零れた腸や内臓を押し込めて逃げ出そうとする兵士の頭部が潰され、新たな血が噴いた。
あっという間に兵士は全滅し、人型ムカデは手近な兵士の死体から引き摺り出した内臓を銜えると、噛み締めた。

「もも、か…」

 黒田が自失していると、人型ムカデは赤黒く濡れた肝臓を囓って飲み下し、ぢゅるりと唾液を啜った。

「え、何、なんでそんなことが解るの? え、でも、だけど、櫻子姉ちゃんは…」

 人型ムカデは背骨の露出した上半身を囓っていたが、ぞんざいに放り出し、研究所に振り返った。

「ダメだよ! 私、そんなこと考えてない! 櫻子姉ちゃんはお兄ちゃんの大事な人なんだから、私、邪魔だなんて思ったことは一度もない! お願いだから何もしないで、良い子にしてて!」

 百香の絶叫に重なり、黒田でも百香でもない男の声が発声装置から発せられた。

「いいじゃねぇかよ。俺とお前はこれから一心同体なんだ、願いぐらい叶えてやるぜ?」

「ダメぇえええええええっ!」

 百香が引きつった声を上げるが、人型ムカデは駆け出した。黒田が立ち上がった頃には、既に手遅れだった。
人型ムカデは上中下両足と短い足を器用に操って、研究所の建物全体を囲む鉄格子に昇り、鉄柱を断ち切った。
しなやかに屋上に飛び降りた人型ムカデは、異変を察知して出動した護衛部隊に迎撃されたが身動がなかった。
銃撃が止んだ瞬間に飛び出し、長い上両足を鞭のようにしならせて、一撃で数人の上半身と下半身を分断する。
砕けた臓物が舞い上がり、血飛沫の雨が降る。外骨格を濡らした人型ムカデは壁を這って、下の階に向かった。
研究施設が備えられた四階だった。黒田はようやく我に返って駆け出すと、鉄格子の扉の鍵を撃ち抜き、壊した。
 窓を割って緊急警報が鳴り響く研究所内に飛び込んだ黒田は、入り乱れる研究員を突き飛ばし、階段を昇った。
駆け上るに連れて、血の匂いが濃くなる。二階を越えて三階に突入すると途端に強烈になり、血溜まりがあった。
三階の階段には、出動したはいいが一発も撃つ前に殺された兵士の死体が転がり、踊り場で重なり合っていた。
上半身と下半身を分断された者、右半身と左半身に別れた者、首を失ったために痙攣と出血を続ける者、など。

「お兄ちゃん…」

 四階の廊下を見上げると、上両足に研究員の死体を引き摺った人型ムカデが、ゆらりゆらりと歩いていた。

「お願い、私を殺して。でないと、この子が櫻子姉ちゃんを」

「俺がお前の願いを叶えて何が悪い。女王だって、俺の力を求めているんだろ?」

 人型ムカデが粘りつくような声で喋ると、百香はそれを遮った。

「違う! 私はただ、お兄ちゃんと一緒に家に帰りたかっただけ! それなのに、あなたが勝手に暴れ出しちゃったんだよぉ! 人なんか殺したくない、だからもう止めてぇえええ!」

「嫌だね。俺はお前を手に入れた、俺は選ばれた虫なんだ。選ばれてるんだから、優れているんだ」

 ぎ、と人型ムカデは顔を動かし、廊下の片隅で身を縮めている櫻子に向いた。

「だから、俺は素晴らしく機嫌が良い。俺が王になる前祝いに、お前の願いを叶えてやるよ」

「輝之君」

 殺された研究員達の血で白衣をまだらに染めた櫻子は、黒田の姿を認めると、目を大きく見開いた。

「ごめん、な」

 さい、と言う前に櫻子の頭が弾け飛んだ。精一杯の謝罪を込めた目が潰れ、鼻が砕け、顎の上半分が割れた。
血混じりの脳漿が壁を汚し、艶やかな髪が付いた皮膚と頭蓋骨がごろりと転がり、肉の奥に舌と喉が垣間見えた。
ひゅる、とかすかに残った空気が肺から押し出されたが声にはならず、櫻子の首から下がぐにゃりと倒れ込んだ。

「さくらこ、ねえ、ちゃ…」

 櫻子の頭蓋骨の破片が付いた爪を見つめた人型ムカデはよろけたが、不自然な動きで姿勢を戻した。

「お前はこの女が憎いんだろう、嫌いなんだろう! だったらもっとやっちまえ、俺はその方が好きなんだよ!」

「いやあああああああっ!」

 百香と人型ムカデの人格が鬩ぎ合っているためか、人型ムカデはぐねぐねと身を捩って、上両足が揺らされた。
引き摺っていただけだった腹部をうねらせ、櫻子の胴体に突き刺して壁に叩き付けると、中両足で胸を貫いた。
百香の気が触れたような悲鳴に人型ムカデの哄笑が重なる中、櫻子だったものの肉が切られ、内臓が落ちた。
抱き締めれば柔らかな弾力のある体が裂かれ、ふくよかな乳房が潰され、滑らかな腹部が割られ、足が折られ。
黒田が触れた肌が、黒田に触れてきた手が、黒田を受け入れた陰部が血に塗り潰され、愛液の代わりに滴る。
 吐き気を覚えることも忘れて、黒田は座り込んでいた。櫻子を赤黒い肉塊に変えた人型ムカデは、振り返った。
太い触角が曲がり、黒田を捉えた。ぼたぼたと血の滴る上両足を揺らしながら、人型ムカデは歩み寄ってきた。

「さあて、次はお前だ。お前がいると、女王がうるせぇんだよな。お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんってさぁ!」

 人型ムカデは爪の間に引っ掛けていた櫻子の心臓を投げ飛ばし、黒田の胸に落とした。

「櫻子…」

 櫻子を成していた肉塊に触れられずに黒田が硬直していると、人型ムカデはきちきちきちきちと顎を鳴らした。

「人間ってのは俺達以上に単純だよな。ちょっと甘い顔してみせりゃ従ってくれるし、ちょっと大人しくしときゃ言うこと聞くようになったって思い上がるし、マジで喰う以外に価値ねぇな」

「来るな…来るな…」

 黒田は腰に力が入らず、足は血と体液に汚れた床を滑るだけだった。

「おおい、そりゃないんじゃねぇの? だって、この中には」

 ぐばり、と人型ムカデは胸部の外骨格を開いて見せ、鼻と口と首に神経糸を繋がれた百香の姿を露わにした。

「可愛い可愛い妹がいるじゃねぇか、お兄ちゃん?」

 青い体液に濡れた百香の顔色は悪く、生気もない。人型ムカデはにたにたと笑い、しきりに顎を鳴らしている。
百香。大事な妹。大切な家族。幸せにするはずだった相手。それなのに、自分は一体何をしているのだろうか。
櫻子と結婚して家族も増やし、今まで以上に愛してやろうと思った。それなのに、求めた傍から滑り落ちていく。
だから、最後に残ったものだけは、百香だけは失うわけにいかない。黒田は夢中でナイフを抜くと、振り上げた。
人型ムカデの上両足は、長く重たい分だけ初動には僅かなラグがある。そして、懐に飛び込まれれば隙が多い。
その時はそれが解っていたわけではなかったが、黒田は人型ムカデが曝した体内にナイフを突き刺し、抉った。

「ぐぇあああっ!?」

 悲鳴を上げたのは人型ムカデではなく、百香だった。黒田が戦慄すると、人型ムカデは黒田の左腕を切った。
骨が叩き折られて神経が断ち切られ、肉が千切れて血が噴き出す。黒田がよろけると、間もなく追撃が届いた。

「よくも俺を切りやがったな、人間め!」

 一息で両足が切断され、黒田は背中から転がった。起き上がろうにも左腕はなく、右腕も肘が折れてしまった。
痛みのあまりに右手からナイフが落ち、床に貼り付いた。黒田は激痛の奔流に喘ぐが、声が出ないほどだった。

「女王の兄貴だからな、礼儀として喰いきってやるよ」

 黒田の右腕がへし折られ、神経と筋が千切れた。人型ムカデは大きく顎を開き、黒田の右腕を噛み砕いていく。
戦闘服に包まれた肘が喰われ、腕が喰われ、手首にまで及んだ時、人型ムカデの顎の動きが不意に止まった。
凄まじすぎる痛みで歪んだ視界の中で、人型ムカデはでたらめに首を振り回しながら、分厚い胸部に爪を立てた。

「何しやがる、てめぇ、人間のくせに、俺を操るんじゃねぇえええっ!」

 人型ムカデの意志に反して胸部の外骨格にめり込んだ爪は、呆気なく外骨格を引き裂き、体液を溢れさせた。
血液よりも若干冷たい青い飛沫が黒田の熱い傷口を濡らし、血溜まりを薄める。人型ムカデはよろけ、喘いだ。
無惨な爪痕が付いた胸部の外骨格は内側から叩かれ、押し開かれた。そして、中から百香が転がり出てきた。
口や頸椎や陰部に接続されていた神経糸を引き抜いた百香は、黒田が落としたナイフを拾って、立ち上がった。

「…よくも、お兄ちゃんを、櫻子姉ちゃんを!」

 百香は人型ムカデの開きっぱなしの胸部に、ナイフを振り下ろした。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。

「死ねっ、死んじゃえっ、どっか行け、あんたなんか大嫌い!」

 ナイフを振り下ろすたびに人型ムカデの体は跳ね、百香を切断するべく上右足を振り上げるが届かなかった。
百香は激しく呼吸を荒げながら、無心に刺し続けた。神経糸が、内臓が、膜が、体液が、外骨格が壊れていく。
銀色の刃は青く汚れ、人型ムカデが食べたばかりの櫻子の肉片も絡み、破れた内臓から生臭い体液が漏れる。
百香がナイフを振り下ろす手を止めたのは、人型ムカデが完全に沈黙し、体液も大半が失われた後のことだった。

「お兄ちゃん」

 青い体液と内臓に汚れたナイフを落とした百香は、黒田の傍に横たわり、身を丸めた。

「なんか、疲れちゃった。一緒に寝ても、いいよね?」

 黒田が言葉を返すよりも早く、百香は瞼を閉じた。しばらくは浅い呼吸が続いたが、弱まり、途切れ、止まった。
肌の色が体液の青さとも血の気の薄さとも違う青さになり、息絶えたのだと解った。脆弱な体を酷使されたためだ。
黒田は体を動かそうとするが、百香に近付くことも出来なかった。それが無性に悔しく、黒田はぼろぼろと泣いた。
 なぜ、自分は何も出来なかっただろう。その無念さが黒田を生にしがみつかせてくれ、唯一の生存者となった。
両手両足を失った黒田は別の研究所に移送され、虚ろな意識のまま受け答え、生体実験の材料と化していた。
薬による夢とも現実とも付かない世界に浸りながら、思った。誰も守れずに生きるぐらいなら死んだ方が良い、と。
 だが、黒田は生き続けた。数え切れないほどの手術を乗り越え、人と虫が融合した新たな生命体として蘇った。
戦闘高揚剤による精神高揚は黒田から躊躇いや恐怖を捨てさせ、子供の頃に憧れたヒーローになれた気がした。
政府の命令で出撃し、虫を殺し、人を守る自分を誇らしく思う傍らで、櫻子を狂わせた薫子への復讐心が滾った。
そして、いつしか黒田が戦う理由は真っ当な正義のためではなく、正義という名を付けられた私怨になっていた。
掴み所のない正義に縋って自分を誤魔化すよりも余程楽で、黒田は私怨を燃やして戦い、そして薫子を殺した。
 しかし、薫子を殺した今、黒田が戦う理由は薄れた。振り翳すべき正義は汚れ、守るべき者は何一つとしてない。
虫に魅入られた少女達を解放することもなければ、利用する始末だ。正義を口にするだけでもおこがましかった。
けれど、あらゆる行為を正義と言い張らない限り、ブラックシャインにならない限り、黒田は立ち上がれはしない。
ブラックシャインは黒田が幼い頃に思い描いたヒーローとは懸け離れているが、それでもヒーローはヒーローだ。
 たとえ、血と体液に汚れていようとも。




 意識を現実に引き戻させたのは、苦痛だった。
 息苦しさと重苦しさで喘ぐとがちがちと顎が開閉し、複数の気門から空気を吸い込んだ腹部が上下を繰り返す。
分厚い外骨格が重たく、残された肺を圧迫する。辛うじて人間らしさを保っている胃から胃液が逆流し、喉を焼く。
だが、吐き返せなかった。喘ぐあまりに開きっぱなしになっていた喉を、逆流してきた胃液が再度胃の中に戻った。
その不快感を堪えながら、黒田は身を起こした。やはり、薬を使って眠るべきだったと後悔したが、既に手遅れだ。
 寝汗の代わりに分泌液が増えたのか、シーツが外骨格に貼り付いていた。それを引き剥がし、ベッドから降りる。
黒田は閉ざしたままのカーテンを引き、日差しを入れた。油を塗ったようにてかる外骨格が光を跳ね、眩しかった。
自室のドアがノックされたので黒田が曖昧に返事をすると、鍵を掛けていなかったドアが開かれ、紫織が現れた。

「目が覚めましたか、黒田二佐?」

「目が覚めない方が、まだ楽だったかもしれないな」

 黒田はガラスに映る醜悪な己を見つめていたが、部屋に入ってきた紫織に振り返った。

「言われた通りに、戦闘高揚剤と鎮痛剤の補給を行いましたが」

 紫織は黒田の背後に近寄ると、両手に抱えた分厚いファイルを握り締めた。

「あまり、使わない方がいいと思います。どの薬も限界まで効力を高めてあるものですし、今の使用頻度でも二佐の肉体の許容量を超えていますから、これ以上使うのは…」

「あれがなければ、俺はブラックシャインになれない。ブラックシャインでない俺には、何の価値もない」

 黒田は三本の爪を固めた拳でガラスを殴り、浅いヒビを作った。

「俺は本当に守りたいものを一つも救えなかった。だから、救えるものがあれば救いたいんだ」

「私達は、今まで二佐に何度も助けて頂きました。二佐がいなければ、今の東京は、いえ、日本はありません。二佐が水際で女王や人型昆虫を倒し続けていたから、私達は生きていられるんです。だから、もっと」

 紫織はファイルを足元に落とし、黒田の背負う茶褐色の羽に身を寄せた。

「御自分を褒めてあげて下さい。でないと、可哀想じゃないですか」

「俺に触るな。汚れちまう」

 黒田は外骨格に染み入る他人の体温を感じ、心が緩みかけたが、両の拳を固めて戒めた。

「それと、これ以上綺麗事を並べ立てるな。君は、俺に同情している自分に酔っているだけだ」

「かもしれません。でも」

 紫織は躊躇いがちに手を伸ばし、黒田の拳に触れた。

「誰かを守れるぐらい強い男の人を、素敵だって思うのはいけないことですか?」

「ああ、思うね。俺はゴキブリだ。誰もが恐れ、誰もが憎み、誰もが怯える、害虫の中の害虫だからな」

 黒田は紫織の手を振り解いて素早く振り返り、その目の前に爪先を突き付けた。

「俺を好く方がどうかしている」

「仕方ないじゃないですか。好きだなぁって思った時には、もうどうしようもないんですから」

 紫織は爪先に怯えることもなく、照れ笑いを零した。

「…勝手にしろ」

 紫織の態度に辟易した黒田が爪を下げて背を向けると、紫織は頭を下げた。

「では、失礼します」

 紫織はファイルを拾って抱えると部屋を出ていき、ドアが閉まり、体重の軽い足音が廊下を遠ざかっていった。
爪と背中に残る他人の体温の優しさと紫織の甘ったるく温い言葉の数々に、黒田は窓を殴りかけて拳を止めた。
代わりに殴り付けられた壁は抉れ、壁紙と断熱材が破れた。紫織の自分勝手な好意に酔えたら、どんなに楽か。
だが、それだけは出来ない。櫻子を愛していた過去を否定し、百香を守るどころか死なせた自分から目が逸れる。
 過去は過去だと思いたいが、過去がなければブラックシャインはなく、誰かを守れるほどの力は得られなかった。
黒田は枕元に折り畳まれたままの赤いマフラーを複眼の端に捉えたが、顔を上げられず、肩を震わせて呻いた。
 この苦しみから逃れるためにも、ブラックシャインに変身しなければ。





 


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