豪烈甲者カンタロス




第十二話 現れた真因



 地下へと至る道は深く、長かった。
 頭上に見える穴は遙か彼方で、数十メートルは落下しただろう。全身に女王の匂いがこびり付き、酔いそうだ。
人型昆虫の肉体は強化改造のための道具とはいえ、少なからず黒田の脳に影響を及ぼし、感覚も変えていた。
だが、今は虫の本能に煽られている場合ではない。ブラックシャインは女王の作った穴を眺め、触角を揺らした。
 アスファルトの下に封じ込められていた湿った土には、いくつものパイプが埋設されていたが、全て折れている。
中には都市ガスもあったが、運良く土塊に塞がれている。目を凝らして水道管の無事を確かめてから、進んだ。
意気込んで飛び込んだのに溺死しては、正義もくそもない。足音と気配を殺すため、ブラックシャインは這った。
上中下両足を土に噛ませ、闇を見通せる複眼とあらゆる匂いを感じ取る触角を動かしつつ、進行方向を探った。
地下鉄と思しき震動が土に染み渡り、六本足を揺さぶったが、それとは異なった震動も六本足に伝わってきた。
人間の悲鳴も入り混じり、騒がしくなっている。恐らく、三組の中の一組が女王を街中に連れ出してしまったのだ。
無用な被害を避けるためにわざわざ明治神宮球場に配置して敵を誘導したのに、これでは作戦の意味がない。

「どいつもこいつも、自分のことしか考えてないのか」

 ブラックシャインは毒突きながらも足を進めたが、数百メートル進んだところで異物を感じ、足を止めた。

「ん」

 女王の穴の側面が膨らみ、ぼろぼろと土が落ちてきた。触角を掠める空気に、女王とは違う匂いが含まれた。

「来たか」

 土を掻き分けて現れたのは、人型ゴキブリだった。一匹が穴の中へと飛び降りると、次から次へと溢れてきた。
事前にブラックシャインが命令を下し、率いた群れだった。彼らはきちきちと鳴きながら、こちらに歩み寄ってきた。
円筒形の土壁を這い上がりながら近付いてきた一匹が、かちかちかちと規則的に顎を鳴らして触角を動かした。

「そうか…」

 人型ゴキブリが伝えてくる情報を受け取り、ブラックシャインは顎をさすった。

「厄介なことになりそうだな」

 ブラックシャインはその人型ゴキブリを小突いてやってから、女王の体格に合わせて広がった穴を歩き出した。
トンネルよりも狭く、下水道よりは広い。ブラックシャインと化してからは、何度となく東京の地下に潜入してきた。
下水道は当然のこと、様々なパイプが埋蔵された隙間、電線や通信ケーブルが収められたパイプなどを巡った。
当初は、人型昆虫との戦闘後に民間人に目撃されないための逃走経路として探したのだが、目的が変わった。
人型昆虫と女王の出現頻度が爆発的に増えたことで、彼らが地下から出現していることが判明したためである。
ブラックシャインが使用していた地下経路に命令を下した人型ゴキブリの群れを送り込み、女王の探索を行った。
その課程で女王の巣と思しき地下空洞をいくつか見つけ出したものの、いずれも空で女王は巣立った後だった。
収穫は何もなかったわけではなく女王の巣の位置に規則性があることを発見したが、そこまでで進展はなかった。
 東京タワー直下に真の女王がいるのではないか、というのは現時点でも仮説に過ぎず明確な根拠はなかった。
今までにも、根拠を得ようと東京タワー付近の地下に人型ゴキブリを送り込んでみたが、何度行っても全滅した。
ブラックシャイン自身が近付いてみたこともあったが、女王や人型昆虫の群れと遭遇して交戦した後に撤退した。
だから、真の女王の話も三人の少女達と戦術外骨格を引き入れるための餌であり、担ぐための嘘のはずだった。
だが、今し方人型ゴキブリが伝えた情報は、明治神宮球場に出現した三匹の女王の巣は一つである、とのことだ。
三匹の女王が示し合わせたように現れたのは偶然ではないと思っていたが、予想が現実に重なると寒気がする。

「進むべき、か?」

 ブラックシャインは人型ゴキブリの群れに囲まれながら進んでいたが、足を止めた。進むべきではない、と思う。
女王一体でも、倒すのはかなり厳しい。ブラックシャインは戦術外骨格ほどの腕力はなく、人型昆虫で精一杯だ。
だが、ここで引き返しては、何の意味もない。仮説が真実だとするならば、早急に真の女王を殺す必要がある。
しかし、勝ち目はない。けれど、彼女達の援護は望めない。ブラックシャインは考えあぐねたが、両の拳を固めた。

「ここから先は、お前らは付いてこなくてもいい」

 ブラックシャインは人型ゴキブリに指示し、駆け出した。人型ゴキブリはざわめいたものの追っては来なかった。
所詮、それだけの関係なのだ。彼らの忠誠心の薄さが少し癪に障るが、厚すぎても嫌かもしれないな、と思った。
どう足掻いても、相手はゴキブリなのだ。そんな連中に好かれたところで、気持ち悪いだけで嬉しくも楽しくもない。
ブラックシャイン自身がゴキブリの改造体なので嫌悪感が紛れているだけであり、生身の頃は大嫌いな虫だった。
だから、過去の自分が今の自分を見たら笑うどころか逃げるだろうな、と自嘲しながら、ブラックシャインは駆けた。
 速度を上げ、駆ける、駆ける、駆ける。音もなく土を蹴り、湿って淀んだ空気を滑り、触角と薄い羽を揺らしていく。
複眼を舐める光はなく、油を塗ったようにてかる外骨格を包む土の匂いは重く厚くなり、土の感触も変わっていく。
トンネルを進むに連れて徐々に傾斜がきつくなり、鋭利な爪を持っていなければ滑り落ちるほどの角度になった。
地下鉄の音も地上の震動も聞こえなくなり、緊張感を与える静寂が深まり、聴覚は痛みを感じるほど張り詰めた。
 視界はゼロ、音もなければ空気の流れもほとんどない。だが、僅かばかりの匂いの変化を感じ取り、爪を立てた。
ざっ、と下両足の爪が土に食い込んだが先端が僅かに遊んだ。ブラックシャインは後退ってから、真下を睨んだ。
永遠に続くかと思われた地下道が途切れ、虚ろな穴が開いていた。以前に見つけた地下空洞と似た女王の巣だ。
地上に現れる直前に脱皮したのだろう、暗闇の中に白くふやけた皮が落ちていて水気を含んだ匂いを放っていた。

「だが、これで終わりじゃないはずだ」

 低く呟いたブラックシャインは、足元を蹴り付け、巣の中へと飛び降りた。

「はっ!」

 下両足を曲げて着地してからすぐに立ち上がり、真正面に勢い良く駆け出したが空気の歪みが触角に触れた。
思わず足を止めると、巣の下方が揺れ始めた。地震か、或いは地下鉄か、と思ったが、すぐに間違いだと悟った。
 地面が波打ち、巣が歪む。だらしなく落ちていた白く湿った皮が持ち上がり、生き物のように揺れ、倒れてきた。
ブラックシャインは素早く回避したが、真後ろから飛び出してきた物体に気付くのが遅れ、背面部に直撃を受けた。

「ぐあっ!?」

 拳よりも遙かに大きく、鋭い打撃だった。ブラックシャインは転倒したが受け身を取り、起き上がった。

「なんだ…これは」

 光のない世界で、空気を乱すものがあった。ぐにゅぐにゅとしなやかに曲がりながら、女王の匂いを放っている。
甘ったるく、神経を掻き乱す匂い。外骨格と内臓を移植されただけとはいえ、人型昆虫のオスの感覚も持っている。
ブラックシャインは抗いがたい欲動に襲われたが、人間の理性で押さえ込み、視界を強めながらそれを見据えた。
 四方八方から生えた金色の糸が、淫靡に踊っていた。だが、直径は数十センチはあり、糸と言うには太すぎる。
糸と思ったのは、見知ったものに似ていたからだ。戦術外骨格が少女との合体に用いる、神経糸に酷似している。
神経糸は人型昆虫特有の器官であり、当然ながら女王も体内に有している。となれば、と思った時には遅かった。

「ぐおああっ!」

 頭上と足元から突き出してきた神経糸がブラックシャインに巻き付き、首と下両足を締め上げた。

「ぐぇ、おぅ、あぎぃ」

 上両足と中両足を動かそうとするも、上下の神経糸の先端から枝分かれした細い神経糸に動きを封じられた。
ぎちぎちぎちぎち、と神経糸と外骨格が競り合い、生身の部分である骨が軋む。このままでは、体が分断される。
普段は呼吸に使っていない喉でも、圧迫されると苦しかった。意識が飛びそうになりながらも、鋭利な爪を開いた。
関節を捻って上両足を戒める神経糸を断ち切ってから、首に絡み付く太い神経糸を切断し、下両足を解放した。
思い掛けない反撃に神経糸が跳ねた瞬間に飛び退き、距離を置いたが、ブラックシャインは苦しさで膝を付いた。
締め付けられた喉だけでなく、首の後ろにも痛みがある。傷を付けられたのか、と触れてみると体液が付着した。

「うっ!?」

 途端に、脳に異様な感覚が駆け抜けた。自分のものではない思考が入り乱れ、知らない者の声が響き渡る。
だが、それは一瞬で消え失せた。頸椎に神経糸を接続された時間が短かったから、効果が弱かったのだろう。
けれど、脳を探られた余韻は残っていた。ブラックシャインはよろけながら立ち上がると、息を荒げ、頭を抱えた。
自分のものではない記憶が、意識を塗り潰そうとする。無数の卵。無数の女王。それを生み出す、巨大な女王。
 早く、ここから出なければ。女王を生み出す女王は存在した。それを仲間に報告しなければならないのだから。
だが、足が動かない。記憶の奔流が頭痛を呼び、戦闘高揚剤が薄れ始めたことで畏怖に心身を侵されていく。
女王に意識を奪われる前に逃げなければ、と懸命に自分を奮い立てて飛び上がり、駆けながら、思っていた。
掛け替えのない妹でもかつて愛した女でもない、女の笑顔と言葉だった。その度に、外界への執念は強くなる。
 最早、否定出来なかった。




 東京地下鉄銀座線の外苑前駅で、女王は絶命していた。
 カンタロスは全身にこびり付いた女王の体液を振り払ってから、ホーム入り口の階段に填った女王を見上げた。
階段には女王に押し潰された乗客の死体が転がり、頭部や胴体だけでなく、手足も弾け飛んで平たくなっていた。
階段を伝って流れ落ちた血の筋はいくつもあり、池が出来ている。女王は頭部が失われ、胸部の中が覗いていた。
カンタロスが捻り取った頭部はホームに投げ落としたのだが、その際に何人かが潰され、呻き声が聞こえていた。
生き延びた乗客達は逃げ惑っているが階段もエスカレーターも死体に塞がれ、エレベーターも緊急停止している。
線路を逃げようにも、頭部を捻り取るよりも先に追って捨てた足が挟まれていて、車両も入ってこられない状態だ。
 思った通り、女王は狭いところに押し込めれば簡単に倒せた。カンタロスは安堵しながら、長いホームを歩いた。
巨体の昆虫に悲鳴を上げて逃げ出したOLに視線が向いたが、それは繭の意志ではなかったのですぐ感付いた。

「カンタロス、お腹空いたの?」

『あれだけ暴れりゃあな』

「じゃあ、いいよ」

 繭が答えると、胸部の外骨格が開き、にゅるりと神経糸が伸びて繭の体が押し出された。

「ぷはあっ」

 久々に感じる外気を思い切り吸い込み、繭は体液に濡れた足をホームに下ろした。

「適当に喰ってくる。お前はそこにいろ」

 カンタロスに命じられ、繭は髪に付いた体液を絞りながら頷いた。

「うん」

 カンタロスは悠長な足取りで生き残った乗客に近付いていくが、彼らは捕食される恐怖から逃げ出してしまった。
分厚い壁に反響する悲鳴の大きさに辟易し、カンタロスは手近な死体を掴んで放り投げ、壁に衝突させてやった。
途端に頭蓋骨が砕けて脳漿が飛び散り、赤黒い染みが出来た。悲鳴は途切れなかったが、何人かが転倒した。
カンタロスは逃げ遅れた女性を掴み、上右足の爪でおもむろに頭部を跳ね飛ばすと、噴き出してきた血を啜った。
 喉を鳴らして新鮮な血液を飲み干すカンタロスを横目に、繭はホームを見渡し、少し懐かしい気持ちになった。
中学時代から、自宅の最寄り駅の外苑前駅は通学のために毎日利用していたが、二度と使うことはないだろう。
ここから少し歩けば、自宅に帰れる。それを考えた途端、繭は急にホームシックに駆られて切なくなってしまった。
人型昆虫対策班分室での生活には何不自由ないが、着慣れた自分の服が手元にないのでやりにくい時もある。
日用品を持ち出すのは無理でも、せめて服と下着だけでも持ってこよう。カンタロスを操る余力も、まだ少しある。

「ねえ、カンタロス」

 繭は早々に二人目を食べ始めたカンタロスに、声を掛けた。

「ちょっとだけ、家に帰ってみない?」

「なんでだ」

 全身を赤黒く汚したカンタロスは、若いサラリーマンの腹部を開いて内臓を喰い荒らしていた。

「今更、あの巣に戻る意味もねぇだろ」

「うん、そうだけど、でも、服とか下着とか持ってきたいから」

「つまらねぇモンに執着持ちやがって」

 カンタロスはぐちゃぐちゃと硬い筋肉を噛み締めていたが、飲み下した。

「まあ、いいだろう。但し、手間取るなよ。俺はそんなに機嫌が良いわけでもねぇ」

「うん。ありがとう」

 繭は少し笑むと、カンタロスに近付いた。カンタロスは再び胸部の外骨格を開き、神経糸を伸ばした。

「さっさと入れ」

 繭はカンタロスの体内で大きく膨れ上がった胃とその内容物を見、僅かに顔を歪めたが、躊躇いなく入った。
神経糸を繋がれたが、彼と感覚が共有しきるまでは胃袋に詰め込まれた人間の体温が肌に染み込んできた。
だが、すぐに繭自身の感覚は薄らいだ。カンタロスと化した繭は、女王に塞がれた浅草側の出口の反対を見た。
渋谷側の出口にも戦闘の影響で死体が散らばっており、逃げ惑う乗客が溢れているが出られないことはない。
カンタロスは羽を広げると浮上し、ぎゃあぎゃあと醜悪に喚いて他人を押しのけながら逃げる人々を追い越した。
 階段を抜けて地上に出ると、女王を引き摺り込む途中で起きた戦闘に巻き込まれ、死んだ人間が倒れていた。
辛うじて外苑前駅から逃げ出したはいいが、また現れたカンタロスに怯え、狂ったように叫んでいる者すらいた。
怯えられるのはあまり面白くなかったので、カンタロスは高度を上げてビル群の上空を過ぎ、自宅へと向かった。
 住宅街に入ったカンタロスは、無数の屋根の中から繭の自宅を見つけ出すと、高度を下げて門の前に降りた。
閉ざされた門扉を開けようとして、気付いた。誰もいないはずのリビングの掃き出し窓から明かりが零れている。

「あれ?」

 繭が訝ると、カンタロスも不思議がった。

『お前、巣を出る前に明かりを消してきたよな?』

「うん。そのはずなんだけど…おかしいなぁ…」

 カンタロスに意志を送り、胸部の外骨格を開いて合体を解除させた繭は、自分の目でリビングを覗き込んだ。
カーテンの隙間から、人影が見えた。見覚えのある背中。聞き覚えのある声。自分のものとは違う、料理の匂い。
それが何か察した瞬間、繭は息を呑んだ。後退るよりも早く、カーテンが引かれて窓が開き、家人が顔を出した。

「お帰りなさい、繭」

「あ、あぁ…?」

 繭が心底驚いたので、カンタロスは繭と家人を見比べた。

「おい、どうした、女王」

「そんなところに立っていないで、早く中に入りなさい。夕飯、出来てるからね」

 エプロンを付けた女性はにこやかに笑い、窓を閉めた。中に戻った彼女は、ソファーに座る男性に話しかけた。
二人は笑みを向け合い、和やかに会話している。繭はそれが信じられず、信じたくなかったが、無意識に呟いた。

「お母さん…? お父さん…?」

 これは夢か。妄想か。繭は身勝手極まりない両親に対する怒りを感じたが、それを上回る喜びに震えていた。
捨てられたのに、愛されなかったのに、殺したいほど憎んでいたのに、帰ってきてくれると全てが氷解してしまう。
どうしてこんなことがあるのだろう。だけど、今はカンタロスがいる。けれど、両親が恋しかったのもまた事実だ。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。繭が困惑していると、玄関のドアが開き、再び母親が顔を出して手招きした。

「ほら、何してるのよ、繭。お風呂も沸いてるから、先に入っちゃいなさい」

「あ、うん…」

 繭は母親の温かな笑顔に頷き返し、ふらふらと歩き出した。

「おい、女王!」

 カンタロスは繭を引き留めるが、繭は玄関のドアに手を掛けた。

「大丈夫だよ、カンタロス。お風呂入って、ご飯食べたら、すぐに戻ってくるから」

「待て、女王! おい、おいこの野郎!」

 カンタロスが追い縋るも、繭は玄関に入った。その場に取り残されたカンタロスは、所在をなくして立ち尽くした。
なぜ、あんなものに心惹かれるのだ。なぜ、あんなものを選ぶのだ。なぜ、自分ではないのだと、怒りが湧いた。
だが、それ以上の空しさが胸に迫る。今すぐにでも玄関をぶち壊して侵入したいが、鉛のような躊躇いが生じた。
普段なら難なく壊せるはずのものが、壊せない。カンタロスはやるせなくなって門扉を殴り付けたが、拳を下げた。
 背を向けて飛び去ろうとしても、羽が広げられなかった。女王に対する未練だけではない、苛立ちのせいだった。
カンタロスはちらちらとリビングを窺いながら、飛び去ることも出来ず、壊すことも出来ない焦れったさに苛まれた。
それらを繭にぶつけてしまいたいが、肝心の繭は巣の中だ。引き摺り出したいが、出すことすらも躊躇ってしまう。
そんな自分にも苛立ったカンタロスは、顎が割れてしまいそうなほど力一杯顎を噛み合わせ、感情を吐き出した。
 今までになく、悔しかった。





 


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