豪烈甲者カンタロス




第一話 穢れた英雄






 この物語は架空のものであり、実在の人物、組織、地名、昆虫とは一切関係ありません。
 



 血の味がする。

 捕食本能を癒し、飢餓感を埋めてくれる、生臭い味が。
 大量の肉塊が、噛み砕いた骨が、醜く潰れた内臓が、内臓の消化液で溶解され、分解され、吸収されていく。
とろりと柔らかく溶けた肉塊の養分が体液の隅々にまで行き渡っていき、六本の足に満遍なく力を与えてくれた。
爪先から滴り落ちる赤黒い液体を啜り、緩やかに息を吐く。朧だった視界は次第に晴れやかになり、光を捉えた。
複眼に映り込むそれを見るべく、振り返る。轟音と土煙を立てながら猛進してくる、分厚い鉄板で出来た獣だった。
四つ足の代わりに四輪を唸らせながら接近した鉄の獣は、上部に付いた黒光りするツノを曲げ、光と煙を放った。
反射的に飛び上がり、生乾きの羽根を広げた。放たれた光が地面に没すると次々に吹き飛び、嫌な匂いがした。
血と体液で緩んだ泥を蹴散らしながら止まった鉄の獣は、胎内から先程喰ったものと似た物体を産み落とした。
それらはいずれも奇妙なものを身に纏い、手には鉄のツノを携えており、穴の空いた細長い先端を据えてきた。

「撃てぇ!」

 耳障りで湿っぽい声が放たれると、そのツノから一斉に閃光と熱が飛び出し、生乾きの外骨格を叩いてくる。

「脱皮して間もない成体だ、今なら我らの装備でも倒せる!」

 強烈な衝撃が全身に降り注ぎ、仰け反る。熱い飛礫は外骨格に細かな傷を付けたが、潰れて足元に落ちた。
絶え間なく注ぐ衝撃から逃れるべく後退るが、先程喰い散らかしたモノの残骸に足を取られ、倒れ込んでしまう。
足音が近付き、周囲を取り囲む。泥の張り付いた複眼に映るのは、息を荒げている者達と、熱を持ったツノだ。

「十五号、制圧完了!」

 一人が声を上げると、もう一人も叫んだ。

「火炎放射器の用意を急げ!」

「研究棟はどうなった?」

 また一人が言うと、別の一人が答えた。

「ひどい有様だ。丸一年は肉が食えそうにない」

「この辺りも焼き払うしかないな。これで何度目だよ、研究所がおシャカになるのは」

「やっぱり、こいつらを兵器に転用しようなんて無茶だったんだ。成功するわけがない」

 虫。その単語を聞き取った途端、巨体に反比例して矮小な脳に痛みに似た電流が駆け巡った。

「焼却班の用意が完了した! 攻撃部隊は退避しろ!」

「待て、その前に」

 薄く湯気が上がるほど熱を持った鉄のツノが、己のツノに押し当てられた。

「こいつの脳みそを」

 ぎち、と自動小銃の引き金が押し込まれる直前、彼は希薄な自我に力を得た。そして、覚醒した。


「…誰が虫けらだ」


 自動小銃を掴み、折り、兵士を抉る。胸元を貫いた上右足を真上に曲げて根本から首を押し出し、握り潰す。

「大人しくしてりゃあ好き勝手言いやがって、俺を誰だと思ってやがる! 下等生物が!」

 呆気なく吹き飛んだ頭蓋から溢れた脳と髄液が爪と上右足を伝い、汚らしい肌色が散らばった。

「喋った…虫なのに…?」

 唖然とした兵士の顔を掴み、後方に曲げてへし折ると、動脈から生温い血液が吹き上がった。

「俺が喋って何が悪い!」

 天を示すように雄々しくツノを振り上げると、巨体の甲虫は発達した二本の足で直立し、黒い複眼を輝かせた。
一人が勇敢にも銃を向けるが、それを突き飛ばして肋骨ごと心臓を破り、その隣で震える兵士を蹴りで両断した。
腸と肝臓を散らしながら上半身が転げ落ちた兵士は、背骨の飛び出た下半身を僅かに前進させるが崩れ落ちた。
その上半身を掴み上げた甲虫は、大きく口を開き、だらりと零れ落ちてきた肌色のチューブを一気に飲み込んだ。
チューブが千切れた箇所から内容物が散り、血と混じった。その上にある筋肉と骨も喰らってから、投げ捨てた。

「俺は腹が減ってんだよ」

 甲虫が踏み出すと、取り囲んでいた兵士達は引きつった悲鳴を上げて逃げ出した。

「この俺に喰われることを光栄に思え、下等生物!」

 投げ捨てた上半身だけの兵士の頭部を、ぱきゃりと踏み潰す。飛び散った脳髄と脳漿が跳ね返り、足を汚す。
鉄の獣、装甲車から浴びせられる閃光は光量を増したが、目眩ましになるどころか丁度良い照明になっていた。
軽快な発砲音と共に自動小銃が掃射されるが、兵士全体に動揺が広がってしまったらしく、掠りもしなかった。
立ち位置から懸け離れた地面が抉れ、吹き飛び、ライトの閃光を妨げる硝煙の煙を増やすだけでしかなかった。
装甲車から現れた兵士は火炎放射器を向けてくるが、手近な死体を拾って投げてやると、悲鳴を上げて逃げた。
その際に火炎放射器もかなぐり捨て、転びながら駆けていく。その無様な姿に、不思議な感情が込み上がった。
 甲虫は笑った。内蔵された発声装置が音割れするほどの凄まじい音量で、笑い、殺し、喰い、そしてまた笑った。
笑いが収まった頃には、装甲車は引っ繰り返されており、いずれも大量の死体と炎に包まれて燃え盛っていた。
数十人はいた兵士は、皆が皆、喰われていた。ある者は頭部を、ある者は胸部を、ある者は手を、ある者は足を。
ある者は死体すらなく、服の切れ端が血溜まりに沈んでいるだけだった。立っているのは、甲虫ただ一匹だった。

「腹は一杯になったが、今度はかったるいぜ」

 甲虫は頭を振り、頭頂部から突き出した立派なツノに張り付いた血や体液を落とした。

「だが、俺にはやることがある。だから、俺は外に出た。そうだろう、俺?」

 ばらばらと頭上から降ってきた爆音に気付き、甲虫は藍色の夜空を仰いだ。

「ありゃ…なんだ?」

 羽根を回転させて浮遊する鉄の獣。ヘリコプター。生まれ持ったものとは違う脳から、するりと単語が出てきた。
ヘリコプターの前方から照射されたサーチライトが、甲虫の体を舐める。だが、すぐさま反転して上昇を始めた。
夜に馴染まない白い機体の側面には、国立生物研究所、と書かれており、これもまた意識せずとも理解出来た。
そして、自分が何なのかも自覚していた。覚醒した当初は解らなかったが、もう一つの脳が的確に教えてくれた。
 人型昆虫。そして、対人型昆虫用戦術外骨格、試作十五号。脱ぎ捨てたサナギの殻にも、15 と印されている。
もう一つの脳は叫ぶ。本能を律せよ。人に従え。人を食うな。虫を殺せ。虫を潰せ。虫を食え。虫こそが敵なのだ。
だが、それらの言葉は本来の脳には伝わるどころか上滑りするばかりで、熱く煮え滾る本能には勝てなかった。
だから、解っていた。自分が知能を得た人型昆虫であるということと、人型昆虫は人を淘汰するべき生き物だと。
 そして、本能は叫ぶ。己の遺伝子を残せ。優秀な子孫を増やせ。愚劣な人間に代わり、この世界を支配せよ。
そのためにすることは、既に解っていた。甲虫はヘリコプターを追わずに琥珀色の羽を広げ、夜空に身を投じた。
 人型昆虫の女王を見つけ出し、孕ませるために。




 足の下で、骨が砕けた。
 漆黒の瞳を舐める炎は明るく、外骨格に染みる熱は強い。あまり近付きすぎると、彼の体組織が焼けてしまう。
人間もそうだが、彼にとっても炎は大敵だ。いかに強靱な外骨格であろうと、蛋白質なのだから簡単に火が回る。
そんなことになっては、何の意味もない。いつものように注意を払いながら、傷付きやすい薄い羽を折り畳んだ。
 生存者は、まず見込めないだろう。鍬形桐子は視神経に直接伝わってくる映像を眺めながら、触角を曲げた。
人型昆虫を人工孵化させ、培養し、生体改造を施していた研究棟は最も被害が大きく、鉄骨すらも曲がっている。
研究員の宿舎も全焼しており、窓は全て割れている。今は、その割れた窓から消火が行われている最中だった。
至るところにコンクリートの破片が散乱し、人間と思しき残骸が転がり、ぶすぶすと生臭い煙を立ち上らせていた。
生焼けの頭蓋骨から溶けた脳がどろりと流れ出し、瞳孔が真っ白く煮えてしまった目玉が肉片に埋もれていた。

「まるで戦争ね」

 桐子が鋭利なつま先でその頭蓋骨を蹴り飛ばすと、穴から沸騰した脳が飛び、顔の皮膚がずるりと剥がれた。

「あら、失礼」

 桐子はつま先に付いた肉片をコンクリート片に擦り付けて剥がしてから、駆け寄ってきた兵士に向いた。

「それで、どうだった?」

「研究棟の培養槽を全て調べましたが、十五号だけが見当たりません」

 兵士が答えると、桐子は鋭く尖った爪先で口元を押さえた。

「やっぱり、暴走した子がいたのね。それ以外に考えられないわ」

 くすくすと笑みを零す桐子の姿に、兵士は硬く引き締めていた口元を歪めかけたが寸でのところで押し止めた。
十七歳の少女とはいえ、桐子は一等陸尉なのだ。そして、人型昆虫に対抗することの出来る唯一無二の戦力だ。
 兵士の前に立つのは、全長2.4メートルの人型クワガタムシだった。夜空に向け、凶暴なあぎとが伸びている。
漆黒の外骨格はライトを浴びて艶やかに輝き、下部の足を伸ばして直立しており、鉱石に似た瞳を蠢かせていた。
人間の大胸筋のように分厚く盛り上がった胸部の外骨格が、ぐぢゅりと重たい水音を発して動き、悠長に開いた。
その中には、青い体液にまみれた少女が包み込まれていた。冷たい夜気を感じ、少女、桐子は瞼を持ち上げた。
だが、脳に伝わったのは己の網膜で捉えた映像ではなく、クワガタムシの目を通して捉えた高位置のものだった。

「うふふふふふふ」

 桐子の微笑みが零れたのも、己の喉ではなく、クワガタムシの後頭部に埋め込まれた発声装置からだった。

「嬉しい、セールヴォラン?」

「桐子が嬉しいのなら」

 その発声装置から、桐子の声とは全く違う、成人男性のものに似せた合成音声が発せられた。

「早く会いたいわね、十五号に。一体どんな子なのかしら、とっても楽しみだわ」

 ずちゅ、とクワガタムシの胸部から裸体の上半身を押し出した桐子は、頸椎に接続していた神経糸を外した。

「きっと、おいしいわよ」

 大量の体液と共に喉に詰まっていた太い神経の束が抜けると、桐子は自分自身の声で言った。

「ねえ、セールヴォラン?」

 どろりとした内臓の隙間に滑り込ませていた華奢な肢体を引き抜くと、陰部に差し込まれていた神経も抜けた。

「あはぁ…」

 陰部から自身の体液による糸を引きながら、桐子は愉悦に頬を緩め、背筋を這い上がっていく性感に震えた。
全身を包んでいた甲虫の体液が雫となり、ぱたぱたと足元に落ちた。血と体液に濡れた草の上に、足を降ろした。
青い体液に濡れた長い黒髪を絞ってから、手に付着した体液を舐める。人間のそれとは違う、生臭みがあった。
 十七歳にしては身長が低めで小柄だが、その分を差し引いても、鍬形桐子は魅力に溢れた美しい少女だった。
きつめだが涼やかな目元が印象的で、少女から大人になりかけている曖昧さが背徳的な雰囲気を生んでいる。
細い骨格を柔らかく包み始めた脂肪と重さを増しつつある乳房は、死体を焼く炎に照らされて眩しく光っていた。
兵士の中には少女に目を奪われている者もいたが、すぐさま少女の背後に控えている甲虫に睨め付けられた。

「桐子」

 その声に、桐子は表情を硬くした。事後処理に忙しなく動く兵士達の間を、一人の女性が擦り抜けてやってきた。
大量に転がる死体に眉一つ動かすこともなく、紺色のパンツスーツを着た女性は足早に二人に歩み寄ってきた。
桐子より頭一つ半背が高く、手足も長く、顔立ちも品良く整っており、長い黒髪をまとめてバレッタで留めていた。
首から提げている身分証明書には、彼女の顔写真と氏名が記載されていた。国立生物研究所主任、水橋薫子。

「あら、チーフ」

 桐子が愛想笑いを作ると、薫子はタオルを投げ渡してきた。

「まずは体を拭きなさい」

「私はこのままでも構わないわ。だって、まだセールヴォランの中にいるみたいなのだもの」

「何百年経とうと、あんたの趣味だけは理解出来ないわ」

「チーフこそ、研究対象にもう少し愛情を持った方がいいんじゃなくて?」

「深追いしすぎて戻ってこられなくなるよりは余程マシよ」

 薫子は携帯電話を取り出すと、フリップを開いた。

「今し方、本部からの連絡があったわ。十五号の行き先がトレース出来たのよ」

「私とセールヴォランならすぐに出られるわ、出撃許可を」

「それがそうもいかないのよ」

 薫子は桐子の前に携帯電話を差し出し、液晶画面に地図を表示させた。

「現在、十五号は住宅地を越えて都市部に向かっているわ。追跡するのは簡単だけど、人が多くなればその分目撃される危険性が増えてしまうのよ。いくら私達が情報操作を出来るといっても、限界があるわ。それに、今の時代、どんな人間だってカメラを持っているわけだしね」

「殺してしまえばいいじゃない。だって、私とセールヴォランにはその許可も出ているんだもの」

「そう簡単に言ってくれるけど、事後処理は言うほど簡単じゃないのよ」

「だったら、関係者も殺せばいいじゃない。それだけのことよ」

「だから…」

 桐子を言いくるめることを諦めた薫子は、開き掛けた口を閉じた。彼女には、一般常識というものが欠けている。
だが、それもまた仕方ないことだ。桐子は、セールヴォランと共に人型昆虫と戦うために世間から隔絶されている。
 対人型昆虫用戦術外骨格は、少女を体内に収め、少女の意志と己の能力を用いて敵と戦うための兵器である。
言わば、生きたパワードスーツなのだ。だが、誰もがこの兵器を使用出来るわけではなく、様々な制限があった。
 第一に、小柄な女性でなければならない。対人型昆虫用戦術外骨格は巨体だが、その体内はあまり広くない。
百五十センチ足らずでなければ、入ることすら出来ない。その上、女王の卵と呼ばれる物体を持つ必要がある。
女王の卵を有する女性は人型昆虫を魅了する特殊なフェロモンを発するようになるので、捕食されなくなるのだ。
当然、桐子も体内に女王の卵を持っている。そうでなければ、セールヴォランに近付く前に殺されてしまうだろう。
 桐子は愛おしげに微笑みながら、かしずいているセールヴォランを抱き寄せ、気味の悪い口元にキスしている。
セールヴォランもまんざらではないらしく、中両足を伸ばして桐子の背に回し、体液に濡れた裸体を撫でている。
見ているだけで、吐き気がする光景だ。薫子は死臭と人型昆虫の体液の匂いで胸が悪くなったが、押さえ込んだ。
すると、携帯電話が震えた。ボタンを押して受信すると、試作十五号の進行方向に女王が現れたとのことだった。
十五号は成虫として目覚めたばかりだが、生殖機能は持っている。このまま女王と交尾させるわけにはいかない。

「桐子!」

 薫子は鋭く声を上げ、甲虫と戯れる少女に歩み寄った。

「緊急事態発生よ! 女王が出現したわ! セールヴォランを装備し、十五号を追い、直ちに破壊せよ!」

「うふふ、そう来なくっちゃ」

 桐子はセールヴォランから離れると、しなやかに両腕を広げた。

「さあ、セールヴォラン。私を抱いて」

「桐子が望むのなら、僕もそれを望む」

 桐子の体に回していた足を外したセールヴォランは、きちきちと顎を鳴らしながら体の前面の外骨格を開いた。
筋肉のように屈強だが金属のように艶やかな外骨格が上から順番に開いていくと、隙間から体液が流れ出した。
胸部、腹部、腰部の外骨格が開くと、出撃前にセールヴォランが摂取した肉塊が詰まった内臓が露わになった。
噛み砕かれた頭蓋骨と消化途中の大腿部が、半透明の胃袋の中で泳いでいるが、桐子は笑みを崩さなかった。
それどころか、笑みを増した。彼女がセールヴォランに背を向けると、その体内から接続用の神経糸が伸びた。
黄色く太い神経糸は桐子の全身に絡み付き、年相応に脂肪の付いた太股と、丸く膨らんだ乳房に食い込んだ。
高く持ち上げられた桐子は俯き、首の付け根から頸椎に神経糸を接続させて神経を繋ぎ合わせ、一つになった。
 生温い体液に満ちた人型昆虫の体内に入る際に口と鼻と耳にも別の神経が滑り込み、喉の奥を押さえ付けた。
そして、女王の卵が眠る子宮に繋がる膣にも一際太い神経がずるりと滑り込み、桐子は甘い快感に仰け反った。
女王の卵に触れるために蠢くセールヴォランの神経を感じつつ、桐子は彼の感知した同族の気配を感じていた。
人型昆虫と一体になれば彼らの持ち得る強靱な運動能力を行使出来るだけでなく、超常的な感覚も共有出来る。
だから、人間には到底感知出来ない人型昆虫の気配も難なく感知することが可能で、レーダーよりも正確だった。
薫子や本部が伝えてくる情報など、精度が低くて当てにならない。その点、セールヴォランは誰よりも優秀なのだ。
 桐子の感覚に、遠く離れた街のざわめきが届いた。その中には、人型昆虫でしか出せない音が混じっていた。
規則的な羽音。分厚い外骨格が擦れる音。そして、女王の存在感。どくん、と子宮の奥で卵が僅かに胎動した。
女王を殺さなければならない。それは桐子に与えられた任務であると同時に、彼の恋人としての義務でもある。
愛する人型昆虫、セールヴォランの子を孕むのは自分でなければならない。だから、一刻も早く殺さなければ。
 女王になるのは、桐子だ。







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