豪烈甲者カンタロス




第一話 穢れた英雄



 授業が終わってしまえば、行くところはない。
 兜森繭は通学カバンを片手に、夜の街を歩いていた。至るところで、毒々しい色合いのネオンが輝いている。
駅前通りを行き交う人々の顔触れは変わり、帰宅を急ぐ会社員や学生から、歓楽街を目指す者達になっていた。
彼らは制服姿の繭を好奇の目で見、時には下卑た言葉を投げかけるが、繭の耳はどんな言葉も届かなかった。
 見えるのは、ローファーのつま先と汚いアスファルトだけだった。今となっては、涙を流す余力も残っていない。
どうせ、家に帰っても誰もいない。暗くて冷たくて何もない、空っぽの箱だ。家族は自分一人しかいないのだから。
家に帰ると、他の家の窓明かりが目に付く。暖かな笑い声や夕食の匂いを感じてしまえば、寂しくなってしまう。
だから、授業が終われば、家とは反対方向に行くことにしている。騒がしい町中にいれば、気が紛れるからだ。
たとえ事件や事故に巻き込まれたとしても、誰も惜しんでくれる人間はいない。いっそのこと、死んでしまいたい。
だが、自殺する勇気はない。高いところに立てば足が竦むし、刃物を持てば震えてしまうし、首を括るのは苦しい。
我ながら、中途半端だと思う。家に帰りたくないのなら死ねばいいのに、考えるだけで実行出来たことはなかった。
 だから、いつも誰かが殺してくれる時を待っている。路地裏に連れ込まれて、金品も服も奪われてしまいたい。
自分が傷付いても誰も悲しまないのだから、どんな目に遭ってもいい。訳も解らないうちに、殺されてしまいたい。
そう思うから、あまり治安の良くない歓楽街を歩いているのだが、却って不審がられて誰も近付いてこなかった。
見るからに柄の悪い面々も、遠巻きに見ているだけだ。場合によっては、警察官を呼ばれて帰されることもある。
高校でも浮いている人間は、世間でも浮いてしまうのだろう。繭は糸より細いため息を吐き、カバンを持ち直した。
 不意に、重みのある水音が耳を掠めた。水がたっぷり染み込んだ衣服の固まりを、地面に投げ捨てたような。
同時に、嫌悪感を掻き立てる鉄錆臭さが鼻を突いた。水商売の女性達から甲高い悲鳴が上がり、人間が散る。
必死の形相で走る彼らは、棒立ちの繭を押しのけていった。繭はその勢いで転びそうになったが、姿勢を戻した。
そして、顔を上げると、点滅するネオンの明かりを受けて直立している物体が、ぐちゃぐちゃと何かを喰っていた。
 二本足で立っているが、腕が多かった。引き裂いたモノを持つ手は大きく、爪が尖り、指は三本しかなかった。
肩幅は繭のそれの三倍近くあり、背中には楕円形の甲羅に似た物体を背負い、胴の部分は節に分かれている。
腹部の両脇からは、人間が持つはずのない二本の足が生えていた。それも自在に動き、足元のモノを拾った。
やはり三本の爪が生えた腹部の足は、拾ったモノをぶぢゅっと引き裂き、飛び散った液体の一粒が繭に届いた。
 頬に当たった生温い液体を掬い、明かりの下に出してみる。指に絡んだ液体は、ぬめぬめと光る鮮血だった。
よく見ると、訳の解らない物体が喰っているのは人間だった。それは、先程まで客を呼び込んでいた青年だった。
それが解るのは、着ていた服が引き裂かれて落ちているからだ。だが、喰われているのは彼だけではないらしい。
片足だけしか残っていない彼の傍には、別の血溜まりが出来ていて、そこには派手なアクセサリーが沈んでいた。
足首だけが填っているエナメルのハイヒールと頭皮の一部らしき髪の毛の固まりもあり、女性も喰われたらしい。

「畜生。こいつらが臭すぎて、女王の匂いが途切れちまった」

 すると、その物体は声を発した。力強く、荒々しい、男の声色だった。

「ん」

 物体の視線が、繭に定まった。繭はそれと目が合ったものの、驚くこともなくこれで死ねるのだと安堵していた。
周囲では人々が我先にと逃げ出していて、大量の悲鳴と怒声が入り乱れているが、やはり耳には届かなかった。
だが、物体が発した声だけは、良く聞こえていた。ずっと見ていたために、注意がそちらに向いていたからだろう。

「あなた、何?」

 繭は身動ぎもせずに、それを見上げた。それは赤黒い足跡を付けながら、歩み寄ってきた。

「俺は俺だ。それ以外の何者でもねぇ」

 それは、繭を見下ろしてきた。頭部からは太いツノが伸びていて、夏場に見かける昆虫に良く似ていた。

「カブトムシ…?」

 繭が小さく呟くと、物体の上右足が伸び、繭の襟元を掴んで易々と持ち上げた。

「俺はお前を喰う。女王を制して犯すためには、まだまだ餌が必要なんだよ」

 ぎちぎちぎちぎち、と繭の目線の先で、カブトムシに似た巨体の物体は肉片の絡む顎を打ち鳴らした。

「食べるのなら、すぐに食べて。その方が、気が楽だから」

 繭は両手をだらりと下ろし、通学カバンを地面に落とし、両足も垂らした。

「解ってるじゃねぇか」

 赤黒い飛沫の付いた複眼に、繭が映る。繭は恐怖は微塵も感じなかったが、安堵のあまりに涙が滲み出した。
これで、やっと解放される。人型カブトムシは繭を引き寄せると、大きく顎を開いて、血混じりの唾液を落とした。
その一筋が繭の額から顎を伝い、制服を汚した。間近に迫った異形の口に、繭は目を閉じ、死を待つことにした。
が、予想した痛みも衝撃も訪れなかった。代わりに背後から生臭い強風が吹き付けて、スカートが大きく翻った。

「女王!」

 人型カブトムシが、歓喜の叫びを上げた。繭が振り向くよりも先に、細いものが繭の全身に絡み付いた。

「え?」

 途端に、制服の襟元とリボンが千切れ、人型カブトムシが遠のいた直後、背中から生温い液体の中に没した。
視界も塞がり、喉と鼻に苦い液体が流れ込んでくる。飲むまいと口を閉じようとすると、柔らかな管が喉に入った。
ずるずると滑り込んだ管は喉から胃にまで入り込み、鼻と耳にも入り込み、そればかりか下着の中にまで入った。
 体を引き裂かれるような激しい痛みに、口に入った柔らかな管を噛み、繭は目を剥いて悲鳴を上げそうになった。
だが、声は出なかった。胃にまで入り込んだ管は声帯も押さえ込んでいるらしく、腹がひくひくと震えるだけだった。
胃液しか溜まっていない胃から込み上がった胃液が口の端から溢れたが、体を包み込む液体に混じって消えた。
何を差し込まれたのかは解らないが、どこにかは解った。それを理解した途端、繭はにわかに恐怖に襲われた。
何が起きているのだろう。自分はどうなっているのだろう。だが、それを何一つ知らないまま繭は意識を手放した。
 このまま、死んでしまえればいいのに。




 だが、繭は再び目覚めていた。
 背中には冷え切った地面があり、下半身には鈍い痛みがある。視界には霞が掛かり、音もまだ濁っていた。
耳の中に入っていた液体が零れる感覚の後、ようやく音が戻ったが、聞こえてきたのは木々のざわめきだった。
体を起こすのが嫌で、繭は目だけを動かした。辺りは真っ暗で何も見えないかと思ったが、次第に目が慣れた。
頭上には、カーブの付いた天井が真っ直ぐ続いていた。長方形のパネルが整然と並び、奥へと連なっている。
横たわっている地面の上には、掠れた白線が引かれている。どうやら、ここはどこかのトンネルのようだった。
しかし、ライトが付いていないので封鎖されているのだろう。その証拠に、薄い光の入る出口には看板がある。
看板の両端には太い鎖が伸びていて、端まで繋がれている。脳に血流が戻ると、思考する余裕も戻ってきた。
 恐らく、ここは都市部から離れた峠道にあるトンネルだろう。だが、車に乗せられて運ばれた記憶はなかった。
電車は通っているだろうが、こんな場所には駅はない。ぼんやりと考えていると、記憶も緩やかに戻ってきた。

「そうだ…私…」

 人型のカブトムシに出会い、喰われそうになったところで、他の何かに邪魔された。

「やっと、死ねると思ったのに」

 繭は唇を歪めて泣き出そうとしたが、息を吸って腹を引きつらせた瞬間、異物感と痛みに襲われた。

「うぐうっ」

 思わず背を丸め、腹を押さえた。口と喉に残っていた粘液と共に、僅かばかりの胃液を吐き戻してしまった。
苦味と酸味の混じるそれを吐き出してから、繭は恐る恐る水分を含んだスカートを上げ、中の様子を確かめた。

「ひっ」

 その様に、繭は浅く息を飲んだ。スカートの下から現れた太股の間からは、自分自身の血が流れ出していた。
あの痛みは、本当に裂かれたことによる痛みだったのだ。生理痛とは異なる鋭い痛みが、ずきずきと響いてくる。
下着は引き裂かれて見る影もなく、スカートも千切れている。足に力が入らず、冷えた体の中で涙だけが熱い。
 がちがちと歯を鳴らしながら身を丸めた繭は、両腕を掻き抱いた。腕に爪を立てるが、震えは収まらなかった。
死にたいと思っていたのに、怖いことは怖いらしい。開き直りきれない自分が滑稽だったが、笑えはしなかった。
だが、少しでも落ち着かなければ。繭は震えながらも身を起こし、気付いた。傍らに転がる、もう一つの物体に。
 トンネルの出口から降り注ぐかすかな月明かりを帯びた巨体の昆虫が、繭の隣で腹部を開いて倒れていた。
歓楽街で出会ったカブトムシとは、比べ物にならない大きさだった。全長だけでも大型トラック程度はありそうだ。
頭部からは二本の長い触角がだらりと垂れ下がり、二つの複眼は金色に煌めき、薄く大きな羽は銀色だった。
繭の体よりも長く太い六本の足と十数節の胴体は純白で、こんな状況でさえなければ美しいとすら感じる色だ。
清らかな純白の虫の姿を見て、繭が最初に思い出したことは、大量の卵を産み落とす女王アリのことだった。
女王アリは日々大量の卵を産み落とすために胴体が発達しているのだが、それと特徴が良く似ていたからだ。
 白い虫の楕円形に膨らんだ胴体は、真ん中から縦に割れていた。十数本もの管と、内臓が零れ落ちていた。
管の先端は、繭が倒れていた場所に向かって伸びている。また、体液と思しき液体も、繭の元まで続いていた。

「もしかして、私、今までこの中に…?」

 繭は正視することを躊躇いながらも、腹部が縦に裂けた虫に目を向けた。丁度、一人分の空間が空いている。
だが、一体何のために。あの人型カブトムシのように食べるためならば、腹の中に人間を入れるのはおかしい。

「みてぇだな」

 乱暴でぞんざいな言葉が、トンネルの壁に反響した。突然聞こえた自分以外の声に、繭は硬直した。

「わざわざ追い掛けてきたってのに、なんだよこの有様は。むかつくな」

 聞き覚えのある、男の声だった。繭は身を縮めながらトンネルの出口に向くと、ツノの生えた影が立っていた。
それは、先程の人型カブトムシだった。生々しい血臭を撒き散らしながら近付いてきたそれは、繭の前に立った。

「お前、一体何なんだ」

 解るわけがない。涙目の繭が首を横に振ると、人型カブトムシは不満げにぎりぎりと顎を擦り合わせた。

「せっかく俺が犯してやろうと思ったのに、勝手に死んじまいやがって。女王のくせに弱っちいな」

「じょ、おう…」

 その単語には、覚えがある。繭がこの虫に捕らわれる前に、人型カブトムシが叫んだ言葉だったからだ。

「この役立たずが!」

 人型カブトムシは巨大な虫の腹部の裂け目を掴むと、一気に引き裂いた。

「仕方ねぇ。喰うか」

 人型カブトムシは女王の裂けた腹部から出てきた産卵前の卵を拾い、口を開いてかぶりつき、内容液を吸った。
中身を吸い尽くした半透明の殻も囓り、食べてしまうと、人型カブトムシはまた新しい卵を拾って中身を吸い出した。
一心不乱に女王の腹の中身を喰らう人型カブトムシに繭は気色悪くなってきたが、もう吐き出せるものはなかった。

「おい、お前」

 じゅるり、と卵の中身を啜り上げた人型カブトムシは、繭に振り向いた。

「な、に…?」

 引きつった喉で辛うじて答えた繭に、人型カブトムシは体液で濡れた黒い複眼を向けてきた。

「どうして俺は、お前を喰いたいって思えないんだ?」

「そんなこと、言われても」

 解るわけがないのだから、聞かないでくれ。困惑した繭が肩を縮めると、人型カブトムシは唸った。

「なんだ、この匂い。なんだ、この感じ。神経がびりびり来やがる」

「それ以前に、あなたは何なの?」

 繭は怯えながらも、聞き返した。人型カブトムシは、真っ直ぐに繭を見下ろしてきた。

「俺は今、強烈に不愉快だが、暇潰しに答えてやる。俺は…」

 その言葉の続きは、爆音に掻き消された。同時に猛烈な風がトンネルに吹き込み、砂や枯れ葉を巻き上げた。
目が眩むほどの閃光が、トンネルの暗闇を塗り潰した。繭は砂と光に痛みを感じながらも、辛うじて目を開いた。
閃光の主は、鉄の鳥だった。ばらばらと四枚の羽を回転させながら降下したヘリコプターが、照らしているのだ。
続いて現れた装甲車が横向きに停まり、トンネルの出口を塞いでしまうと、そこから人間が次々に吐き出された。

「また出やがった」

 人型カブトムシは食べかけの卵を投げ捨て、トンネルの出口に向いた。

「また、って」

 繭が混乱していると、人型カブトムシは素っ気なく答えた。

「俺がなんかしようとすると出てくるんだよ、こいつらは。いちいちうざってぇな」

 繭は懸命に目を凝らし、光の奔流の中にあるものを捉えた。それは、ずらりと並んだ自動小銃の銃口だった。
そして、隙のない構えの兵士の一団だった。繭は後退ろうとしたが、足が動かなかったのでその場に座り込んだ。

「おい、メス」

 人型カブトムシから呼び掛けられたが、すぐには解らず、繭は呆然としているだけだった。

「人間のメス!」

 苛立った叫びでやっと自分が呼ばれていることに気付いた繭は、訳も解らず返事をした。

「う、あ、はい」

「そこにいろ。適当に喰ってくる」

 人型カブトムシは、逆光の中へと歩み出した。何を言われたのかが脳に至らず、繭は座り込んだままだった。
なぜ、自分だけは喰われないのだろう。なぜ、彼は喰いたいと思えないのだろう。その理由は、解らなかった。
だが、これでは死ねないままだ。繭は涙と女王の体液に汚れた顔を覆い、背中を丸め、低い嗚咽を漏らした。
 トンネルを揺さぶるほどの、号令が轟いた。すぐさま銃声が鳴り響き、女王の死臭に硝煙の匂いが混じった。
だが、それは長くは続かなかった。金属がひしゃげ、裂かれ、潰された後、衝撃を伴う熱風が繭に襲い掛かった。
白い閃光とは違った赤い光がトンネルを照らし、死した女王を朱色が舐める。目を上げると、車両が燃えていた。
異常事態にヘリコプターは緊急回避したが、回転翼に何かを巻き込んでバランスを崩し、斜面に落下していった。
先程以上に激しい破壊音の後、再度爆音が轟いた。尾翼をツノのように上げて墜落した機体が、炎上している。
 二つの光源に入り口が照らされるが、兵士達の姿はなく、強靱な後ろ足を持つ人型昆虫が彼らを喰っていた。
縦長の頭部には複眼が備わり、長く細い触角を忙しなく動かし、広げていた羽を閉じ、人間の頭部を噛み砕いた。
言うならば、人型のバッタだ。人型バッタは一体ではなく、石油臭い黒煙を上げる装甲車の後ろにも隠れていた。
トンネルの両脇の森からも複数の個体が現れたが、彼らは兵士の死体を漁ることもせず、二人を直視してきた。

「女王の匂いに釣られて来やがったな、野良め」

 人型カブトムシは、鬱陶しげに毒突いた。

「だが、一足遅かったな。女王はとっくに死んじまったよ。その死体も俺が喰った。何しに来たんだ」

 きち、と一番前に出ている人型バッタが小さく鳴いた。すると、十数体の人型バッタの視線が繭へと向かった。
炎の映り込んだ無数の複眼に睨められ、繭は戸惑った。人型バッタは、体格の半分以上を占める足を曲げた。
細長いつま先がアスファルトを噛み、蹴り付けた。一瞬にしてトンネル上部まで飛び跳ねたが、視線は外さない。
熱風を切りながら迫る人型バッタと視線を合わせたまま、繭は無意識に妙な異物感がある腹部を押さえていた。
 ぎちぎちぎちぎちぎちぎち。きちきちきちきちきちきち。バッタというバッタが鳴き、叫び、吼え、一斉に跳ねた。
その目標は捕食対象である人間の死体でもなければ、女王と呼ばれる虫の死体でもなければ、甲虫でもない。
 繭、ただ一人だった。





 


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