豪烈甲者カンタロス




第二話 爛れた関係



 朝は嫌いだ。
 鮮烈で、清潔で、潔白だ。だから、虫酸が走る。桐子は窓から差し込む鮮やかな朝日を睨み、舌打ちした。
ベッドから身を起こし、疲労の残る頭を押さえた。首の後ろ側に出来た接続痕が、かすかな痛みを放っている。
目を覚ます前から、胃は空腹を訴えている。だが、それは桐子の肉体ではなく、女王の卵が求めているのだ。
桐子は腹部を撫で、その内側の異物を確認した。引き摺り出したい衝動に駆られるが、彼のためには必要だ。
憎たらしい物体だが、これがなければセールヴォランは桐子を受け入れてくれることはなく、喰ってしまうのだ。
彼になら喰われても良い、とは思うが、今はまだその時ではない。桐子は、人型昆虫を根絶しなければならない。
セールヴォラン以外の人型昆虫を根絶しなければ、セールヴォランは戦術外骨格のままで命を終えるだろう。
だが、彼以外の全てを滅ぼしてしまえば彼は地球上でただ一人の人型昆虫となり、生き長らえることが出来る。
そのためには、どんなこともしてみせる。桐子はシーツを剥がして裸身に巻き付けると、続き部屋の扉を開けた。

「おはよう」

 桐子の部屋と繋がった部屋には窓がなく、空気も淀んでいた。重たく湿った、人間の生温い匂いが流れてくる。
桐子が開けた扉から差す朝日以外の光源はなく、桐子の体は淡い光に縁取られ、白いシーツが眩しく輝いた。

「そろそろ、あなたの体にも馴染んできた頃よ」

 裸足の水っぽい足音を連ねながら、桐子は暗い部屋の奥へと進んでいく。

「十五号に破壊された研究所から持ち出せた女王の卵は、たった一つだけだったわ」

 桐子の薄い影が、更に暗い影に吸い込まれる。

「それがあなたの子宮に定着するなんて、素敵な偶然ね。女王の卵は誰にだって挿入出来るけど、皆が皆、受け入れられるわけではないわ。卵の成分にアナフィラキシーショックを起こしてショック死することだってよくあるし、子宮が小さすぎて挿入した途端に内臓破裂で死ぬこともあるわ。挿入した途端に女王の卵が孵化して、子宮と腸を食い破って出てきちゃうことだってあるんだから」

「やめてぇ…」

 渇きと怯えに掠れた、弱々しい抗議が影の奥から聞こえた。

「あら、どうして? あなたは選ばれた子なのよ、もっと喜んだらどうなの?」

 桐子が優しく笑みを零すと、声の主は頭を抱え、がたがたと震えた。

「やだ、こんなの、あたし…」

「嫌がることなんてないわ。あなたは、人型昆虫を滅ぼすための兵器として生まれ変わったのよ」

「違う、あたしは」

「じゃあ、どうしてあなたはこの研究所にいるのかしら? あなた自身の意志がなければ、いられないのよ?」

「あたしは騙されたんだぁあああっ、こんなことだって知ってたら来るわけないじゃんかよぉおおおっ!」

 錯乱した叫びを上げ、声の主は短い髪を振り乱した。

「そんなの、まだ良い方よ」

 桐子はシーツを引き摺りながら近付き、影の中に膝を付いた。入院着を身に付けた、少女が座り込んでいた。
それほど身長の高くない桐子よりも更に小柄で、手足にはまだ筋肉も脂肪も付いておらず、胸元も平らだった。

「だって、あなたはまだ生きているじゃない」

 桐子が少女の頬に触れると、少女はびくっとした。

「あなたみたいな家出少女は、今までも沢山連れてこられたわ。彼女達は、あなたみたいに女王の卵を挿入されるだけじゃなくて、私の彼や彼の兄弟の餌になってくれたのよ。もちろん、皆、生きたまま食べられたのよ」

「やだ、や、やあああ」

 少女は耳を塞ぐが、桐子はその両腕を握り締め、強引に引き剥がした。

「素敵だったわ。あの子達の最期。頭から囓られて脳を垂れ流す子もいれば、腹を割かれて腸を引き摺り出されて啜られる子もいれば、背骨を折られて脊髄を吸われる子もいたわ」

「やだやだやだやだやだ、やだ、やだあ!」

 少女は頭を激しく左右に振るが、桐子は手を緩めず、手首を折りかねないほどの力を込めた。

「だから、あなたは誇りに思うべきなのよ。女王の卵を孕めたことを、そして、この私の声を聞けていることを」

 うぐ、と少女は呻き、身を捩った。入院着の裾が湿り、生温い水溜まりが床に広がった。
 
「あら、はしたないわね」

 桐子は少女の手を離して突き飛ばすと、背を向けた。

「蜂須賀さん。気が済んだら、そこから出ていらっしゃいな。女王の卵が栄養を欲しているだろうから、飢えるくらい空腹になるはずよ。いくら怖くても、食欲には勝てないもの」

 桐子が部屋から出て扉を閉めると、少女の喉を引き裂かんばかりの絶叫が辺りに響き渡り、桐子は陶酔した。
せいぜい、絶望するがいい。その方が、こちらとしても扱いやすくなる。下手に自尊心が残っている方が面倒だ。
桐子は裸身を覆っていたシーツを投げ捨てると、カーテンを開いた。清らかな朝日が、少女の裸身を包み込む。
肌を舐める日差しは、吐き気がするほど温かい。セールヴォランの体内のように冷たければ、素晴らしいのに。
 窓の外に広がる景色は、最悪だった。晴れ渡った空と桐子の間には、鈍い光を帯びた鉄の棒が並んでいた。
研究所の前後左右だけでなく、上空にも鉄柵の蓋がされていた。たまに脱走する、人型昆虫を捕獲するためだ。
だが、人間相手の方が効力を発揮している。捕らえられて運ばれてきた少女達は、すぐに脱走してしまうからだ。
手が高圧電流で焼け爛れても尚逃げ出そうとするので、兵士の手で射殺してもらい、人型昆虫に喰わせている。
この研究所に連れてこられる少女達のほとんどは、親や学校の束縛を嫌って家出して、夜の街を彷徨っていた。
捜索願を出されている少女は仕方なく家に帰しているが、そうではない少女は、人型昆虫の餌か苗床にされる。
 だから、先程の少女、蜂須賀ねねは運が良いのだ。女王の卵が定着したのなら、当分は死なずに済むからだ。
ドアがノックされたので桐子は生返事をした。ドアを開けたのは薫子で、全裸の桐子を見た途端に顔をしかめた。

「服ぐらい着なさい、だらしないわね」

「あら。生き物は本来服なんて着ないわ、服を着ている人間の方が異常なのよ」

 桐子はしれっと受け流し、肉の薄い裸身を見せつけた。

「全く…」

 薫子は呆れつつも、手にしていたファイルを開いた。

「十五号の痕跡の分析が完了したから、報告するわね。あのトンネルにいた女王の卵を持ち去ったのは、十五号と見てまず間違いないわね。人型バッタの死体を全て検分してみたけど、どれも女王の卵は持っていなかったしね。せいぜい兵士の死体を喰っていたぐらいで、後は何もないわ。それと、十五号と思しき人型昆虫と女王の目撃証言があったんだけど、少し妙なところがあるのよね」

「妙って、どんな?」

「死体が一つ足りないのよ」

 薫子はファイルの中から無惨に食い散らかされた人間の手足の写真を抜き、桐子に向けた。

「第一研究所を破壊して逃亡した十五号が最初に降り立ったのは、第一研究所から五十七キロ離れた歓楽街よ。そこで十五号は呼び込みの男とホステスを一人ずつ喰ってから、高校生ぐらいの女の子に手を出したらしいのよ。でも、その死体が見つからないのよ。歓楽街には制服のリボンが、トンネルには制服の切れ端が落ちていたんだけど、死体だけがないの。桐子、あなたはどう思う?」

「喰われてないのだとしたら、女王になったんじゃなくて?」

 桐子はその写真を一瞥してから、タンスを開けて下着を取り出し、身に付けた。

「そう考えるのが一番簡単よ」

「安直すぎるけどね」

 薫子はファイルの先で、桐子を示した。

「だから、あなたに任務を与えるわ。十五号と女王に接触した可能性がある少女を見つけ次第、殺しなさい。但し、卵は回収出来る状態にしなさい。今度こそ、ね」

「それで、その十五号と接触した少女の身元は特定出来たのかしら?」

 白いブラウスを着た桐子がストッキングを履きながら問うと、薫子は言った。

「制服の切れ端だけだったから、学校だけしか特定出来なかったわ。六本木の都立高校よ」

「へえ」

 紺色のタイトスカートを履きながら、桐子はやる気のない相槌を打った。薫子は事務的に続ける。

「だから、その都立高校に掛け合って、女子生徒の名簿を提出してもらうのよ。その後、適当な理由をでっち上げて身体検査でもすれば、どの女子生徒が十五号に接触したか特定出来るわ」

「そんなの、面倒だわ」

「でも、これが効率的なのよ」

「いっそ、その高校の女子生徒を全て殺してしまえばいいのよ」

 桐子はブラウスの襟元から長い髪を引き出し、背中に流した。

「セールヴォランの爪で、子宮を裂いてしまうのよ。そうすれば、誰が女王かなんてすぐに解るわ」

「そりゃそうだけど、いちいち殺していたんじゃ後始末が面倒だし、許可を取るのだって大変なんだから」

「それをするのがあなたの仕事でしょ、チーフ」

 桐子は桜色の唇を舌先で潤わせ、うっとりと目を細めた。

「私の仕事は、セールヴォランを王にすることなのよ。私は女王だもの、彼が王になるのは必然よ」

「解ったわ。あなたの作戦を上に掛け合ってみるわ。まあ、それが一番手っ取り早いのは確かだしね」

 薫子は桐子を説き伏せることを諦め、承諾した。

「よろしくお願いね、チーフ。セールヴォランも、自衛軍の殉職者という名の生け贄だけじゃ物足りないもの。若くて瑞々しい女の子をたっぷり食べなきゃ、彼だって力を発揮出来ないわ」

「はいはい。女王様の仰せのままに」

 薫子が出ていった後、桐子はベッドに腰掛けて髪を梳いた。セールヴォランの外骨格に似た、艶やかな黒だ。
身支度を終えたら、食堂に向かおう。食べるだけ食べて体を満たさなければ、セールヴォランと一つになれない。
 桐子は、戦闘行為を行うために与えられた地位に見合った軍服を着ているが、正直言って好きではなかった。
だが、私服のほとんどはセールヴォランの体液で傷め、支給される軍服や戦闘服も同じようにダメにしてしまう。
だから、手元にあるまともな服は軍服ぐらいしかない。けれど、私服を買いに街まで降りるのは面倒だと思った。
桐子は紛れもない美少女なのだが、化粧をすることもなければ着飾ることもなく、髪型を変えることすらなかった。
そのどれもが、セールヴォランと合体する際に煩わしいと思うからだ。桐子の価値観の中心は、セールヴォランだ。
出かけないのも、セールヴォランと離れるのが切ないからだ。桐子は胸が詰まってしまって、ほうっと息を零した。
 早く、彼に会いたい。




 いつものように、繭は一人きりだった。
 単調な授業を終えて昼休みになったが、繭に話しかけてくる生徒はおらず、視線を向けてくる者すらいなかった。
それもまた、いつものことだ。ざわざわと騒がしい教室で行き交う会話は繭を通り抜けていき、耳に入らなかった。
それ以前に、興味がない。内容のない会話に時間を割くぐらいなら、ひどい空腹をなんとかしなければならない。
登校する前にコンビニでいくつかパンを買ったがそれでも足りる気がしなかったので、購買に行こうと思っていた。
購買を利用したのは数える程度なので、少しだけ新鮮な気持ちになった。繭は三つ折りの財布を出して、開けた。
すると、朝、入れたはずの千円札が数枚消えていた。夕食の買い出しをするために、朝方引き出したものだった。
使った覚えもなければ、財布に触った覚えもない。思わず顔を上げて周囲を見回すが、皆、繭を見ていなかった。
繭の視線に気付いても、すぐに目を外して友人同士で笑い合った。繭が何を言ったとしても、聞きもしないだろう。
 ずくり、と胸中が疼いた。財布を握る手に力を込めていたが、繭は唇を引き締め、制服のポケットに押し込んだ。
今までにもこんなことがあった。だから、これもいつものことだ。誰が盗っていたとしても、どうでもいいことなのだ。
いや、誰が盗っていたとしても関係ない。今は彼がいる。彼に一言命じれば、彼は、この教室の皆を全て喰って。
 今、自分は何を考えたのだ。繭は椅子を倒すほどの勢いで立ち上がり、今し方頭を過ぎった考えを振り払った。
激しい音に、皆、少しだけこちらを見たがまた会話に戻った。繭は呼吸を整えながら、カバンから昼食を出した。
教室から出ようとすると、足音が近付いた。繭が振り返ると、そこには弁当箱を手にした塚本真衣が立っていた。
以前は手を加えていなかった髪は色が染められ、派手な巻き毛になり、化粧も手が込んでいて濃くなっていた。
クラスの中でも目立つ女子のグループと似たり寄ったりの格好なので、遠目に見れば見分けは付かないだろう。

「待って、兜森さん」

「塚本さん?」

 繭がきょとんとすると、真衣は繭の腕を取った。

「お昼、一緒に食べよ?」

「あ…うん」

 繭が頷くと、真衣は繭を引っ張るように歩き出した。

「じゃ、屋上に行こうか。今日は良い天気だしね」

 真衣の横顔を見つめながら、繭は喜ぶよりも先に戸惑っていた。真衣は、繭を避けていたのではなかったのか。
確かに、以前は真衣は繭と親しくしてくれていた。教師からも無視されることのある繭に、いつも挨拶してくれた。
だが、近頃は挨拶すらなくなり、目が合っても逸らされてばかりなのに。腕を掴んでいる真衣の手は生温かった。
鼓動が高鳴り、息が詰まる。嬉しいと思いたいが、真衣の真意を疑ってしまう。屋上には、何があるのだろうか。
引っ張られるまま、廊下を通り、階段を上った繭は屋上に出た。他の女子のグループが、既に昼食を摂っている。
 真衣は繭をフェンス際に座らせるとその隣に腰掛け、小振りな弁当箱を広げ、食べ始めたので繭も食べ始めた。
繭は真衣の様子を窺いながらも、食欲に任せてパンを押し込んだ。朝、あれだけ食べたのに胃が空っぽだった。
食べながら、あることに気付いた。誰も昨日起きた事件について話していなければ、ニュースでも報道していない。
歓楽街で巨大なカブトムシが人間を喰っていたのだから、大事件だ。トンネルに現れた人型バッタの大群もそうだ。
なのに、誰もそれを知らないのは不思議だった。やはりあれは夢だったのでは、と思うが、腹部には重みがある。
夢なら良かったのに、と考えながら、繭は三つ目のパンを食べ終えた。真衣も食べ終えて、弁当箱を閉じている。

「塚本さん」

 繭が細い声で問うと、真衣は快活な笑顔を向けてきた。

「ん、何?」

「どうして、私なんか誘ったの?」

「だって、私達は友達じゃないの。友達だったら一緒にいるのが当然だよ」

「でも」

「だからさ、兜森さん。明日もよろしくね」

「何を?」

「私の口から言わせないでよ、こんなこと」

 真衣の手が、繭の制服のポケットに触れてきた。中には、札を抜かれた財布が入っている。 

「友達ってさぁ、最高だよね」

 真衣が向けてくる笑顔は変わらず、明るかった。

「だからさぁ、まだ私と友達でいたいでしょ?」

 また一人になりたくなかったら、もっと金を寄越せ。そういうことなのだと悟った繭は、何も言えなくなって俯いた。
泣くことすら出来なくて、ぐしゃりとパンの袋を握り締めた。真衣が馴れ馴れしく話しかけてくるが、聞こえなかった。
耳障りの良い言葉も上滑りして、耳に届いてこない。腹の底で重たく粘ついた感情が煮え滾って、脳に昇ってくる。
 カンタロスに会いたい。カンタロスの力が欲しい。カンタロスがいなければ。カンタロスに喰わせてやらなければ。
彼はそのための存在だ。それに、喰わせてやらなければ、彼は飢える。真衣の犠牲は、そのために必要なのだ。

「ねえ、塚本さん。今日、うちに来ない?」

 繭が呟くと、真衣は怪訝な顔をしたが了承した。きっと、今頃、カンタロスは腹を空かせて家で待っているのだ。
カンタロスは、繭の唯一の味方だ。両親から捨てられ、友人もいない繭にとっては、カンタロスだけが全てなのだ。
戦士を飢えさせないことも、女王としての役目だ。繭は込み上がってくる笑みを押し殺して、最後のパンを開けた。
 まだ、空腹は収まらない。





 


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