豪烈甲者カンタロス




第二話 爛れた関係



 放課後になり、繭は真衣と共に下校した。
 高校を出て私鉄に乗り、自宅の最寄り駅で下車した繭は、途中でスーパーに寄って買い出しをすることにした。
付き合わされる形で同行した真衣は面倒そうではあったが、繭の持っているカゴに次々と品物を放り込んできた。
挙げ句、今は持ち合わせがないので一緒に払ってくれと頼んできた。繭の金を奪ったのだから、ないわけがない。
しかし、繭は敢えて何も言わずに頷いた。現金は先程銀行口座から引き出したばかりなので、手持ちは多少ある。
それに、真衣の放り込んだ品物は繭の買った大量の食料品に比べれば少ないので、大した額にはならなかった。
 スーパーを出た二人は、並んで歩いた。もちろん、荷物を持っているのは繭だけで、真衣は通学カバンだけだ。
その間、真衣はずっと一人で話していた。繭が答えても答えなくても関係なしに、下らない話題を繰り返していた。
内容は主にクラスの話題で、誰それが付き合っているだの別れたの浮気したのしないの、とそれだけでしかない。
だから、繭は真衣の話を聞いていなかった。聞いたところで何の意味もなく、覚えるだけ無駄だと思ったからだ。
 十数分程歩いて、繭の自宅に到着した。繭は真衣を玄関に待たせてから、リビングへと真っ先に駆け込んだ。
ドアを開けて中を覗くと、西日の中に巨体が立ち上がっていた。言い付けた通りに、繭の帰りを待っていたらしい。

「ただいま、カンタロス」

 繭が小さく声を掛けると、人型カブトムシはぎりぎりと顎を噛み合わせた。

「今まで何してやがったんだ、他の虫共がお前を見つけたらどうするつもりだ」

「もうちょっと待っててね、カンタロス」

 繭は買い込んできた食料品を冷蔵庫に詰めてから、玄関先で携帯電話をいじっている真衣を呼んだ。

「いいよ、塚本さん。上がって」

「御邪魔しまーす」

 やる気のない声で言ってから、ローファーを脱いだ真衣は廊下を歩いてきた。

「人間か」

 途端に反応し、カンタロスはぴくんと触角を上向けた。繭は冷蔵庫を閉め、頷いた。

「うん。カンタロスのために連れてきたの。お腹、空いてるでしょ?」

 真衣の足音がリビングに近付き、扉の前で止まった。どさり、と通学カバンが廊下に落ち、真衣は後退った。

「何…こいつ…」

 限界まで見開かれた真衣の瞳は、カンタロスを凝視していた。カンタロスは顎を鈍く鳴らしながら、踏み出した。

「気が利くじゃねぇか、女王。変な匂いがするが、まあ喰えねぇこともなさそうだな」

「何よこれ、説明してよ!」

 廊下の壁に背中を押し当てて、真衣は喚いた。繭は動じずに、淡々と答えた。

「カンタロス。彼は、私の友達なの」

「友達って…あんた、頭おかしいよ! だってこれ、虫じゃん!」

 真衣は怯えに声を震わせ、しきりに首を横に振った。

「カンタロスはカンタロス。虫じゃないよ」

 繭は真衣の足元から通学カバンを奪うと、逆さにして中身を床にぶちまけて、ブランドものの財布を拾った。

「あんた、何してんの!」

 にじり寄る巨体の人型カブトムシと財布を開く繭を見比べ、真衣が動揺して叫んだ。

「盗られたものを取り返すために決まっているじゃない。塚本さんこそ、私のことを何だと思っているの?」

 繭は真衣の財布を開くと、今日、奪われた分の紙幣を抜いた。

「お願い、カンタロス」

 繭が小さく命じると、カンタロスの巨体が躍動した。大きく踏み込んで、強靱に発達した上右足を突き出した。
カンタロスの鋭い爪の生えた足先は、真衣の胴体を貫いて壁に埋まり、抉れた腹部からは血と体液が溢れた。

「あ…ぁ…?」

 事を理解出来ていない真衣は、血の溢れ出した口元を歪めた。

「すぐには殺さないでね、カンタロス」

「どうしてだ。俺はもう、腹が減って腹が減ってどうしようもねぇんだよ!」

 カンタロスがぐじゅりと爪先を捻ると、真衣は激痛に痙攣し、絶叫した。

「ぎゃあうあぉああっ!」

「確かめておきたいことがあるから」

 繭は真衣の派手にデコレーションされた携帯電話を拾うと、フリップを開き、メールの発着履歴を確かめた。

「あ、やっぱり。塚本さんって、中島さんにメールしてたんだ」

 真衣がメールを送信した相手である中島美沙は、女子グループのリーダー格だ。そして、いじめの主犯である。
繭とは違う意味で大人しい女子や男子に目を付けてはいびり倒しているが、成績は良いので教師の評判は良い。

「へえ…」

 真衣のメールを読んだ繭は、頬を歪めた。内容は、いかに繭を追い詰めるか、という話題ばかりだった。

「や…ちがう、それ、ちがうから…」

 血と吐瀉物に濁った声で弁解する真衣に、繭は冷ややかな目を向けた。

「何が違うの?」

「それは…みさが」

「中島さんが持ちかけてきたから、私をいじめようって思ったの?」

「そお、だから、それは」

 真衣は何度も頷き、かすかな希望に縋るように手を伸ばしてきた。

「嘘吐き」

 繭は真衣の発信したメールを開き、真衣へと見せつけた。最初に話題を出していたのは、真衣の方だった。

「だから…それは…」

「ねえ、塚本さん。今、誰と話したい? 中島さん? それとも彼氏の高田君? それとも前彼の先輩?」

「あんた、何するつもり…」

「そりゃ、決まっているじゃない」

 繭は発信履歴から辿って中島美沙の番号を選択すると、通話ボタンを押して真衣の目の前に突き出した。

「最後の言葉ぐらい、あるでしょ?」

 ひゅえ、と真衣の引きつった喉が奇妙な音を漏らした。

『はいー、もしもしー? どしたの真衣、なんかドジった? それとも兜森から大金巻き上げたん?』

 軽薄な中島美沙の声が聞こえ、真衣の震えが増した。

「美沙、あの、あのね」

『んー、なんか声遠くない? そこ、アンテナ立ってないんじゃね?』

「ぐぶぇあがっ!」

 繭が目配せすると、カンタロスは真衣の体内に突っ込んでいた爪先を上げ、ぐぢゅぐぢゅと内臓を掻き回した。

『ちょっとマジ大丈夫!? ていうかあんた、どこにいるの!?』

「お願い美沙、警察と救急車呼んで、でないと私死んじゃう、死んじゃうううううっ!」

 涙と涎をだらだらと流しながら叫ぶ真衣に、繭は淡々と述べた。

「それ、違うよ。塚本さんはね、カンタロスに食べられるの。もちろん、生きたまま」

「いやあああああっ、おねがいゆるじでええっ、じにだぐないいいいぃ!」

 半狂乱になって暴れ出した真衣に、繭は携帯電話をその胸ポケットに差してやった。

「もういいよ、カンタロス。綺麗に食べちゃってね」

「言われるまでもねぇっ!」

 カンタロスは途端に歓喜し、真衣の腹部を抉り抜いた穴に左上足も突っ込むと、横に裂いて体を分断させた。
真衣の撒き散らす汚らしい悲鳴が増大したが、上半身と下半身が別れた瞬間に途切れ、声は聞こえなくなった。
肺の下から、横隔膜が剥がれ落ちていたからだった。顎が外れるほど開いた口からは、僅かな息が零れていた。

「やっと喰えるぜ、人間を!」

 カンタロスは真衣の背骨が折れた下半身を掴むと、顎を開き、かぶりついた。

「ゆっくり食べてね。私も、後で夕ご飯食べるから」

 繭は一心不乱に真衣の下半身を喰らうカンタロスを見上げてから、廊下に転がる真衣の上半身に近付いた。
俯せに倒れている真衣の胴体からは、千切れた腸や潰れた肝臓が散らばり、廊下に長い血痕を残していた。
乱れた髪の隙間から目を上げた真衣は、憎悪の充ち満ちた目で繭を睨んできたが、繭は表情を変えなかった。
真衣の胸ポケットに差し込んだままの携帯電話からは、通話相手の中島美沙の取り乱した声が漏れ聞こえる。
 繭はそれを聞き流しながら、自分がしたことを思い知っていた。カンタロスの力を借りたとはいえ、人殺しだ。
だが、罪悪感は湧かなかった。むしろ、得も言われぬ爽快感が胸中を吹き抜けて、繭は笑みが浮かんできた。
こんなに簡単なことを、なぜ今までしようとすら思わなかったのだろう。もっと早く行動に移していれば良かった。
けれど、これからは思った通りのことを存分に出来る。繭はカンタロスが捕食する様を見ていたが、背を向けた。
 ひとまず、制服から着替えよう。




 最後の一体の外骨格を砕き、殺した。
 びしゃびしゃっと飛び散った体液が、濡れた外骨格に貼り付いた。触角から感じる体液の匂いは、生臭かった。
頭上から降り注ぐ街灯が、足元に広がる汚らしい海を輝かせる。カンタロスは拳を抜き、人型カナブンを捨てた。
足を折り曲げて崩れ落ちた人型カナブンは、同族の死体の上に折り重なり、びくんびくんと足を痙攣させている。
 カンタロスと化した繭は、呼吸をする代わりに肩を動かしていた。ようやく、カンタロスを操る勝手が掴めてきた。
真衣を食べ終えたカンタロスと合体した繭は、女王のフェロモンを感知して襲ってきた人型昆虫の群れと戦った。
だが、最初はぎこちなかった。カンタロスの指示と繭の意識が反発して、あらぬ方向に突っ込んでばかりだった。
カンタロスは本能的に戦おうとするのだが、繭は戦うことに躊躇いがあるため、互いの思考が噛み合わなかった。
それでも、カンタロスの持つ常識外れの腕力のおかげでなんとか勝ち抜くことが出来たが、疲労は凄まじかった。
戦闘の最中に砕けた電話ボックスに歩み寄ったカンタロスは、無数の破片に映る汚れ切った自分を見下ろした。

「これで、いいんだよね?」

 繭が頭の中で呟くと、やはり頭の中にカンタロスの声が返ってきた。

『見苦しい戦いだったがな。せっかくの俺のパワーを生かすどころか殺す立ち回りをしやがって、お前が女王じゃなかったら腹の中から引き摺り出して喰ってやるところだ』

「ごめんなさい」

『次にこんな戦いをしてみろ、本気で喰っちまうからな』

「うん。解った。頑張るよ」

『んなこと、当たり前だ』

 その言葉の後にカンタロスの胸部が開き、繭の頸椎に差し込まれていた神経糸が外れた。

「出ろ。お前が中にいたんじゃ、喰うのに邪魔なんだよ」

「うん」

 自分の口で答えた繭はカンタロスの冷たい体内から這い出し、虫の体液が広がるアスファルトに足を付けた。
一瞬、地面の冷たさに足を引っ込めそうになった。繭はガラスの破片を踏まないように気を付けながら、立った。
夜風が吹き付けると、青い体液で濡れた体から体温が奪われてしまい、繭は背中を丸めて両腕を抱き締めた。
髪からも粘ついた雫が滴り落ち、股間からは自分と彼の体液が混じり合った液体が流れ出し、繭は顔を伏せた。
背後では、カンタロスが食事に有り付いていた。肉食なので、人間だけでなくあらゆる動物を食べるのだそうだ。
硬い外骨格を物ともせずに貪り喰っているカンタロスは、街灯の下に立つ裸体の少女には見向きもしなかった。
繭は腕を組んで薄い胸元を隠し、今更ながら強い羞恥に襲われた。だが、服を着ていてはまたダメにしてしまう。

「あれで、良かったんだよね」

 繭はカンタロスの外骨格に残る血痕を見、呟いた。あの後、真衣は血溜まりだけを残してこの世から消えた。
もちろん、カンタロスの胃袋の中にだ。消化が恐ろしく早いらしく、繭が中に入った時には骨だけになっていた。
事が全て終わってから、繭は自分の行動が信じられなくなっていた。何も殺すことはなかったのでは、と思った。
だが、もう手遅れだ。真衣は繭の意志で体を真っ二つに裂かれ、カンタロスに喰われ、この世から消え去った。
悪いことだと解っているが、あれで良いのだともう一人の自分は囁き、それしかないのだと卵が語り掛けてくる。
 子宮の中に女王の卵がある限り、繭は人型昆虫から狙われ続け、死なないためには彼と共に戦うしかない。
あれほど死にたいと思っていたのに、いざ死が目の前に訪れると、逆に死にたくないと思う自分が不可解だった。
だが、それもまた本音だ。繭は段々開き直って状況に適応しつつある自分に戸惑っていたが、納得もしていた。
今までの人生は、暗く、淀んでいた。だから、何をしようと上手くいかず、繭という人間の存在すら消えかけていた。
けれど、これからは違う。カンタロスという強大な力を得た今、出来ないことはない。戦うことも、人殺しでさえも。

「カンタロス」

 繭は甲虫に歩み寄り、その背に触れた。

「今度からは、お腹一杯、人間を食べさせてあげる」

「解ってきたじゃねぇか」

 ぐじゅる、と人型カナブンの体液を啜り上げたカンタロスは、人型カナブンの体液に汚れた顔を向けてきた。

「俺は最強だ。だが、俺が強くあるためには喰わなきゃならねぇ。人間も、虫も、この世の全てが俺のものだ」

「だから、今日はこの子達だけで我慢出来る?」

「まあ、さっき人間のメスを一匹喰ったからな。それに免じて、今日のところはこいつらで勘弁しといてやらぁ」

「カンタロス」

 繭は手を伸ばし、彼の硬く冷たい顔に触れた。

「私の全部をあなたにあげる。卵も、体も、心も」

「当然だ。俺はお前の腹の中の卵を孕ませるためだけに、お前を守ってやっているんだ」

「うん」

 繭はかかとを上げて腕を伸ばし、カンタロスの屈強なツノを支えている太い首に絡ませ、引き寄せた。

「解ってる」

 カンタロスの強張った首に顔を押し当て、繭は目を伏せた。肌に触れる外骨格は、外気よりも少し温度が高い。
思い掛けないことにカンタロスは戸惑ってしまい、中両足を伸ばしたが引っ込めて、引き剥がすか否かを迷った。
 黄色っぽい街灯の下で巨体の昆虫に縋る少女は、泣いていた。声を殺して肩を震わせ、大粒の涙を落とした。
人型昆虫のそれとは違って粘り気の薄い体液が外骨格を濡らし、垂れ落ちていく様を、カンタロスは眺めていた。
なぜ彼女が泣くのか、なぜ泣かなければならないのか、なぜ縋られているのか、何一つとして解らないからだった。
複眼に映る無防備な背中は細かく震え、首に巻き付けられた腕には力が込められ、か細い声が聴覚を揺さぶる。
苦しげな反面、幸福そうでもあった。カンタロスは中両足を伸ばすと、繭の背中に回し、濡れた爪で抱き寄せた。
 女王を離さないために。





 


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