女王の匂いが、心を呼び覚ます。 セールヴォランは顔を下げ、無数の複眼に彼女を捉えた。軍服姿の桐子が、柔らかな微笑みを向けている。 そして、白く華奢な手を向けてくる。セールヴォランは触角を動かしていたが、桐子の手に上右足を差し伸べた。 爪先に訪れた頼りない手応えと温度の後、桐子の温かく柔らかな体はセールヴォランの胸へ飛び込んできた。 桐子はセールヴォランの分厚い外骨格に頬を寄せ、赤らめている。セールヴォランは、その背に上両足を回す。 「桐子」 「喜んで、セールヴォラン。今日は素敵なことがあるのよ」 桐子はセールヴォランを見上げ、目を細めた。 「私とあなたで、学校を襲撃するのよ」 「ガッコウ」 「そうよ。若くて元気で美味しい子が一杯いる、学校よ」 「桐子は楽しい?」 「ええ、とっても」 桐子はセールヴォランの顔に手を伸ばし、愛おしげに撫でた。 「だって、あなたを満足させてあげることが出来るんだもの。嬉しくないわけがないわ」 桐子の手のひらから伝わる体温が、冷たい体に染み渡っていく。複眼に映る無数の少女は、笑顔を向けている。 昆虫の色彩の乏しい世界の中に、桐子だけが見える。無数の桐子はセールヴォランを引き寄せて、唇を重ねた。 セールヴォランも口を開き、味覚を持つ舌を伸ばした。薄い唇を割って舌を滑り込ませ、彼女の唾液に絡めていく。 桐子は息を荒げ、身を乗り出してくる。セールヴォランはその体を支えてやりながら、にゅるにゅると舌を動かした。 桐子。桐子。桐子。セールヴォランの世界には、最初から桐子がいた。桐子が世界であり、世界が桐子なのだ。 桐子の背後には白衣姿の研究員や自動小銃を担いだ兵士が並び、鋼鉄の鳥、軍用ヘリコプターが待機している。 人型昆虫のそれよりも遙かに重たく分厚い羽がひゅんひゅんと回転し、激しい風を巻き起こし、桐子の髪を乱す。 桐子の長い黒髪が舞い上がり、セールヴォランの触角に桐子の毛先が数本触れて、甘い匂いが掠めていった。 「桐子」 セールヴォランは彼女の口中から舌を引き抜いて、女王の味を嚥下した。 「桐子は何を望んでいる」 「いつも通りにすればいいのよ、セールヴォラン」 「解った」 セールヴォランは桐子を抱いていた足を解くと、桐子の前に跪いた。 「さあ、行きましょう。私達の戦場へ」 桐子はセールヴォランの肩に腰掛け、彼の頭上に伸びる強靱なあぎとに腕を回した。 「桐子となら、どこへでも」 桐子を肩に載せたまま、セールヴォランは歩き出した。軍用ヘリコプターの後部は、既に搬入口を開いていた。 その周囲を固めていた兵士達も続いて中に入った。機内に入ると、二人を待ちかねていた薫子が小言を言った。 だが、桐子もセールヴォランもそれは聞こえていなかった。興味があるのは、これから始まる戦いだけだからだ。 軍用ヘリコプターの中はさすがに狭いので、桐子はセールヴォランの肩から降りたが、離れることはなかった。 その体格故に椅子には座れないセールヴォランは、分厚い金属の床に胡座を掻いて、その上に桐子が座った。 国立生物研究所のヘリポートから、桐子とセールヴォランを乗せた軍用ヘリコプターが飛び立ち、空へ昇った。 関東地方とはいえ、都心から離れた場所に設置された研究所の周囲は山ばかりで、しばらくは森ばかりだった。 だが、十数分も飛べば平地になり、民家や市街地が現れた。ばらばらと騒音を撒き散らしながら、怪鳥は飛ぶ。 目指すは、六本木の都立高校だった。 もう一つの脳に、違和感が生じた。 カンタロスは反射的に顔を上げ、周囲を見回した。リビングには朝日が差し込んで、埃の粒子を輝かせていた。 キッチンでは、繭が朝食の準備をしている。女王の卵が欲する養分を摂取するために、今日も大量に作っている。 昨夜も買い込んだ材料を使って鍋一杯にカレーを作ったのだが、それを夕食だけでそっくり平らげてしまったのだ。 五合炊いた白飯も同様で、華奢で小柄な体のどこに入っていったのかと、カンタロスも若干訝ってしまったほどだ。 繭は料理を作ることは苦にならないらしく、朝早くから起きて制服姿にエプロンを付け、黙々と手を動かしている。 だが、その背後の扉から垣間見える廊下には、塚本真衣がこの世に存在していた証拠である血痕が付いていた。 カンタロスが狩りを終えて帰宅した後に掃除したのだが、壁紙と床に染み込んだ血は取れず、赤黒く残っている。 「どうしたの、カンタロス?」 繭は指に付いたケチャップを舐めながら、リビングを陣取るカンタロスに向いた。 「なんだ、この感じ」 カンタロスは触角を上下左右に動かし、違和感の正体を探った。だが、それは人型昆虫の気配とは違っていた。 何かがいる、とは解るが、それがどこにいるのかは解らない。近いのは間違いないのだが、上手く掴み取れない。 もう一つの脳を操ることが出来れば解るのだろうが、生憎、カンタロスはもう一つの脳を操るつもりは欠片もない。 自分自身の脳と違って、人間が埋め込んだ機械仕掛けの脳は動くたびに痺れを放ち、いちいちやかましいのだ。 やれるものなら引き摺り出してしまいたいが、そんなことをすれば、カンタロス自身の命に関わるので不可能だ。 それ以前に、誰よりも強い人型昆虫である自分がたかが人工物に対して折り合いを付けることが馬鹿げている。 だから、カンタロスはそれきり違和感を無視し、大量の朝食を作っている繭の様子だけに気を向けることにした。 トースト、ナポリタンスパゲティー、オムレツ、コールスローサラダ、コーンスープ、と次々に料理が並んでいく。 繭はそれらをテーブルに並べ、あまりの量に少しばかり臆したものの、底なしの食欲に任せて朝食を食べ始めた。 柔らかなオムレツとキツネ色のトーストを食べ終え、コーンスープを飲み、ナポリタンスパゲティーの皿を取った。 フォークを回してスパゲティーを巻き取った繭は、口に入れようとして、カンタロスから注がれる視線に気付いた。 「えっと」 繭は食事を中断し、恐る恐るカンタロスにスパゲティーの絡んだフォークを差し出した。 「ちょっと、食べてみる?」 「いらん。そんな軟弱な食い物で、俺が戦えると思うか」 「でも、私ばっかり食べてちゃ、なんだか気が引けるし」 「なんでだ」 「なんとなく…」 繭はフォークを下げ、スパゲティーを口に入れた。頬を膨らませて咀嚼している繭と、カンタロスは目が合った。 なぜ、そんなことをするのだろうか。人型昆虫は基本的に肉食なので、炭水化物など簡単に消化出来るだろう。 だが、人間の血肉や同族の体液と違ってエネルギー変換効率が悪すぎて、食べたところで何の意味もないのだ。 繭の行動の意図が解らずにカンタロスが触角を振ると、再び繭と目が合ってしまい、カンタロスは苛立ちを覚えた。 「だから、なんなんだよ」 「ちょっとでもいいから、食べてみない?」 繭が皿ごと差し出してきたので、カンタロスはツノが唸るほどの勢いで顔を背けた。 「だから、いらん!」 「お料理は、ちょっと自信があるんだけど」 「俺が喰うのは人間か虫だけだ!」 「でも…」 「くどいぞ、女王。これ以上下らないこと言いやがったら、その喉を突き破る」 「ごめんなさい」 繭はしゅんとして皿を下げ、スパゲティーを食べた。 「お前は訳が解らない」 カンタロスは三本の爪が生えた右上足を曲げ、頬杖を付くような格好をした。 「なぜ、俺に名前を付ける。なぜ、その名で俺を呼ぶ。なぜ、俺にそんなものを喰わせようとする」 「だって」 繭はあっという間に空になったスパゲティーの皿を押しやり、ケチャップに汚れた口元を拭った。 「一緒にいるのに、一人で食べても…」 「意味が解らん」 「だって、ずっと一人だったから、誰かが一緒にいてくれるだけで嬉しくて」 虫だけど、と繭は小声で付け加え、サラダボウルを引き寄せた。 「嬉しい?」 カンタロスが訝ると、繭はぎこちなく頬を歪めた。 「自分でも、変だって思うけどね。カンタロスは喋るけど虫だし、ひ、人を一杯殺してるし、虫だって一杯殺してるし、カンタロスのことなんて全然解らないし、でも、私の傍にいてくれるから」 本当なら、怯えるべき相手だと思う。カンタロスが人を殺す様は、カンタロスと最初に出会った時に目撃している。 大量の人型バッタを短時間で殲滅させてしまうほどの戦闘力も目にしているが、恐怖を抱いたのは最初だけだ。 彼の体内に入る際に触手のような神経で心身を繋ぎ合わせたからだろうか、いつのまにか恐怖心は解けていた。 むしろ、少し信頼しているほどだ。彼に出会うまでは、何にも縋ることすら出来なかったから、なのかもしれないが。 「…ふん」 カンタロスは繭の吐露した心情に興味がないので、気のない返事をした。 「それはお前の手前勝手な感情だろうが。それをいちいち俺に押し付けるな、鬱陶しい」 「ごめん、なさい」 「女王。お前は俺を何だと思っているんだ」 カンタロスは繭から顔を背け、乱暴に言い捨てた。 「俺は地上最強の人型昆虫であり、人型昆虫の王になるべくして生まれた男だ。それをなんだ、愛玩動物みたいに細々と構いやがって。俺はお前を守っているが、それは俺の本意でないことを忘れるな。お前が次なる女王の苗床だから、守ってやっているだけだ。お前自身には何の興味もない」 「でも…」 繭は空になったサラダボウルを下げ、恐る恐るカンタロスを窺った。 「私はカンタロスに興味がある、かな」 「なぜだ」 「だって…」 繭は口籠もっていたが、あ、と呟き、壁掛け時計を見上げた。 「そろそろ片付けないと、学校に遅れちゃう」 「ガッコウ? ああ、また餌でも運んできてくれるのか?」 「そうじゃないよ。あんなことしちゃったから、もう学校には行けないし…」 繭は廊下を窺うが、すぐに視線を逸らした。 「だから、退学しようと思って。私物も持って帰って来なきゃいけないから」 「お前の言うことはころころ変わるな。昨日は、どうしても行かなきゃならないとか言っていなかったか?」 「あの時は、まだ迷っていたから」 繭は全て平らげた皿を重ね、シンクに運んだ。 「でも、もう未練はないよ。これから、私はカンタロスのためだけに生きるから」 「だったら、さっさとタイガクでもなんでもしてきやがれ」 「うん。解った」 繭はカンタロスに頷き、手早く食器や調理器具を洗って片付け、手を拭いてから廊下に出たが立ち止まった。 薄暗い廊下に、生々しい血痕があった。カンタロスの鋭い三本の爪が貫いた穴にも、血が深く染み込んでいる。 鉄錆の匂いに蛋白質の痛んだ匂いが混じり、鼻を突く。塚本真衣の断末魔が鮮明に蘇り、繭は胃が引きつった。 堪えきれなくなってトイレに駆け込み、便器に顔を突っ込んで今し方食べたばかりの朝食を吐き出してしまった。 舌に付いた胃液の味が気色悪く、また少し吐いてから、繭は力のない足取りで洗面台に辿り着くと口を濯いだ。 何度も何度も濯いで、胃液や朝食の味を洗い流してから、鏡を見た。吐き戻したせいか、顔色は青ざめていた。 「また、食べなきゃ、かな」 繭は腹部を押さえ、頬を歪めた。正直言って一から食べ直すのは嫌だったが、食べなければ空腹で倒れる。 万が一行き倒れでもしたら、他の人型昆虫に見つかって喰われるか、交尾されて精子を放たれるかもしれない。 そうなれば、カンタロスの役に立てなくなる。それが心底怖くて、繭は別の意味で青ざめながらキッチンに戻った。 訝しげな視線を向けてくるカンタロスに曖昧に返しながら、繭は冷蔵庫を開けると、二度目の朝食を作り始めた。 先程は洋食だったから、今度は和食にしよう。 09 2/8 |