豪烈甲者カンタロス




第五話 破れた純情



 眠らない都市は、今夜も眩しかった。
 吹き付けるビル風は強いが、巨体は煽られることはない。街明かりがツノと複眼を照らし、輪郭を縁取っている。
頬を切る風は中途半端な季節なので生温く、排気ガスと人間の営みの匂いが入り混じった粘ついた空気だった。
目に映る夜景は、何度見ても美しい。地上からでは雑然としている街並みも、高みから見下ろせば煌びやかだ。
今夜、降り立ったのは一際高いビルなので、街全体が一目で見渡せる。中でも特に目立つのが、東京タワーだ。
季節に合わせた色合いの照明を施された赤い鉄骨の電波塔は、大都会に君臨する王者の如くそそり立っている。

「おい」

 背後から低い声を掛けられ、繭は振り向いた。

「なあに、カンタロス」

「いつまでこうしているつもりだ」

 上中両足を組んだカンタロスは、不満げに顎を擦り合わせている。

「敵が来るまでだよ。だって、ずっとカンタロスの中に入っていたら、どっちも疲れちゃうから」

 繭は裸の両足を抱え、膝の上に顎を載せた。全身にまとわりついた青い体液が雫となり、髪の先端から落ちた。

「この前、ずっと私を中に入れていた時、カンタロスだって凄く疲れたじゃない」

「あんなもん、一日休めば元に戻る」

「でも、一日休まなきゃいけなかったじゃない」

 繭が言い返すと、カンタロスは言葉を濁した。

「それは…そうかもしれねぇが」

 口籠もったカンタロスに、繭は少し頬を緩めてしまった。勢いに任せて言ってみたら、少しずつ勇気が出てきた。
迫力や語気ではカンタロスには負けるが、人生経験は繭の方が少し上なので、理屈を通せば言い負かせられる。
家にいる時はどちらも退屈なので、繭が話しかけるとカンタロスも嫌々ながら受け答えて、会話するようになった。
言葉を重ねていくと、次第に人格が解るようになる。カンタロスは粗暴で自己中心的な男だが、頭は悪くなかった。
だから、繭が何度も言い聞かせると、根負けして折れてくれるようになった。といっても、些細なことだけだったが。
 二人の主従関係は、相変わらず女王である繭が下でカンタロスが上だが、少しだけだが距離が狭まってきた。
まだ繭を名前で呼ぶことはないが、いつか呼んでくれるだろう。繭も、一歩ずつではあるが彼を好きになってきた。
カンタロスを好きにならなければならない、と強く念じていたが、好きになってみよう、と思い直して付き合ってみた。
そう考えると、前よりは大分気が楽になった。無理するよりも、出来るところから始めた方が近道になることもある。

「…ん」

 カンタロスは触角をぴんと立て、顔を上げた。

「虫、来た?」

 カンタロスは答えるよりも先に、胸部の外骨格を開いて神経糸を伸ばし、繭の体に絡めた。

「さっさと中に入りやがれ、女王」

「ふあっ」

 慣らしもせずに胎内に押し入ってきた神経糸に繭が声を上げると、カンタロスは一瞬固まった。

「…う」

「え、あ、何かしちゃった?」

 繭が怖々と振り返ると、カンタロスは顔を背けた。

「お前の体が慣れてきたのは良いんだが、余計なモンまで感じるんじゃねぇ。俺の方にも来るんだよ」

「あ…ごめん…」

 繭は頬を紅潮させ、俯いた。十六年間生きてきて、男女交際をしたことは一度もなく、もちろん性体験も皆無だ。
肌に触れられるのはカンタロスが初めてであり、体格に応じて小さな陰部に異物を挿入されるのも初めてだった。
だが、何度も合体するうちに体の方が慣らされてきたらしく、痛いばかりだった挿入に別の感覚が生まれていた。
その感覚が意味することすらも解らなかったので、カンタロスに身を委ねていたが、改めて考えると物凄いことだ。

「虫…。おまけに触手…」

 繭は日頃考えないようにしていたことを思い知り、落ち込んだ。

「何やってんだろう、私…」

「だから、余計なことをごちゃごちゃ考えるんじゃねぇ! 俺の方が集中出来なくなるだろうが!」

 神経糸を通じて脳内に流れ込んできた思考にカンタロスが辟易するが、繭はぐったりと沈んだ。

「やっぱり、好きになれないかも…」

「だからお前はうざってぇんだよ! いいから、さっさと俺の中に入れ! でもって何も考えるな!」

「なんか、急に悲しくなってきちゃった…」

「いい加減にしやがれ!」

 カンタロスはぎゅるりと神経糸を戻し、落胆する繭を体内に収め、ばくんと胸部の外骨格を閉じて羽を開いた。
頸椎に接続した神経糸を通じ、繭の陰鬱な心境がカンタロスの脳内を浸食して、こちらまで気が落ち込んできた。
繭がなぜ落ち込んだのかはカンタロスには解らないが、これ以上落ち込まれるのは面倒なので、刺激を送った。
体内で繭が痙攣したらしく、震動が起きたが、一切気を向けずにカンタロスは羽ばたいて今夜の戦場に向かった。
 異質な羽音が、六本木の喧噪に紛れた。




 柔らかな微睡みが途切れ、意識が晴れた。
 薄暗い天井と埃っぽい空気に、ここが研究所でないと悟った。桐子は身を起こし、タオルケットを体に巻いた。
背中と肩に刻まれた傷は鋭く痛んで、少しばかり熱を持っている。だが、その痛みすら愛おしくて、頬を緩めた。
開け放したままの窓からは、濁った風が流れ込んでくる。日に焼けたカーテンが揺れ、夜景の光を途切れさせた。
街から放たれる人工的な光に輪郭を縁取られ、右側のあぎとを失った人型クワガタムシは、大人しく座っていた。
桐子はセールヴォランが組んでいる下両足の上に腰掛けると、折られたあぎとに顔を寄せ、恍惚に目を細めた。
 研究所を脱した二人は都内に向かい、便宜上、桐子に与えられている住所であるマンションの一室を訪れた。
桐子の戸籍上の父親である政治家が所有する物件の一つで、高層マンションの上層階に位置する部屋だった。
空を飛んでベランダから侵入したが、人が住んでいる形跡はなかった。いたらいたで、殺せば済むだけなのだが。
下層階に複合商業施設を備えているので、深夜になっても人の気配は途切れず、ざわめきが階下から聞こえた。
一際高いビルなので、他の建物に阻まれずに東京タワーを望むことが出来るが、二人は目もくれていなかった。

「桐子」

 セールヴォランは半裸の桐子に足を絡め、抱き寄せた。

「僕の桐子…」

「好きよ、セールヴォラン」

 桐子は肌を引っ掻くセールヴォランの爪の感触に微笑みながら、セールヴォランの顔を撫でた。

「感じる? 十五号の気配」

「まだ、感じない。でも、近いことだけは解る」

 セールヴォランは触角を動かしながら、夜景を見下ろした。

「もう少し近付いてきてくれたら、もっと良く解る。けれど、まだ距離が開きすぎている」

「焦らなくてもいいわ、セールヴォラン。私達には、時間があるんだから」

 桐子はタオルケットを緩めて床に落とすと、セールヴォランの冷たい外骨格に体を寄せた。

「桐子、桐子、桐子」

 セールヴォランは喘ぐように桐子の名を呼び、舌を出して桐子の肌を舐めた。

「僕は桐子のものだ。桐子は僕のものだ」

「そうよ、セールヴォラン。私はあなたのもの、あなたは私のものなの」

 桐子は首筋を舐めていたセールヴォランの舌を指先で持ち上げ、口に含んだ。

「だから、今夜は思う存分私を味わって」

「桐子…」

 セールヴォランの舌が、ひくっと引きつった。

「でも、交尾するのは、十五号を倒した後にしましょう? だって、その方がずっと気持ちいいじゃない」

 桐子がセールヴォランの顎を指先で持ち上げると、セールヴォランは舌を収め、頷いた。

「…うん」

 さあ、と桐子に促され、セールヴォランは桐子の華奢な体をフローリングに横たえ、観察するように睨め回した。
丸く膨らんだ二つの乳房、真新しい傷跡が付いた肩、捻れば容易く折れそうな腕、柔らかく脂肪の付いた太股。
薄く肋骨の浮いた胸の下でくびれた腰を爪の背でなぞって、人型昆虫の未来を変える卵を宿した腹部に触れた。
彼女の内で胎動する女王の卵にセールヴォランの精子を受胎させれば、生まれる女王は人型クワガタムシだ。
セールヴォランは体の下で微笑む少女への感情と、己の内に滾る繁殖の衝動が鬩ぎ合ったが、本能を押さえた。

「桐子」

 セールヴォランは中両足で桐子を持ち上げ、抱き締めた。今、女王の卵に受胎させれば桐子を失ってしまう。
女王が生まれればセールヴォランの遺伝子は大繁殖し、人型昆虫という種族の一角を占めることになるだろう。
だが、女王は桐子の腹を破って生まれ出る。当然、桐子は死んでしまう。それが、どうしようもなく怖いと思った。

「愛しているわ」

 桐子の腕が回され、セールヴォランを抱き締め返してくる。その腕の力と温もりに、セールヴォランは頷いた。

「僕も桐子を愛している」

 最初は、意味も解らずに言っていた。桐子から言われたことを愚直に繰り返し、桐子が求めるものを答えた。
その度に、桐子は喜んだ。人型昆虫を支配下に置けた喜びか、他人から感情を注がれる喜びかは解らなかった。
だが、セールヴォランはそれが嬉しいと思った。桐子が喜んでくれるのなら、と、桐子の望むままに殺戮を行った。
桐子が褒められればセールヴォランも褒められたような気持ちになって、桐子が笑うとセールヴォランも笑えた。
 脳に埋め込まれた、もう一つの脳が叫ぶ。電子頭脳の処理能力を超えた感情の奔流で、負荷が掛かっている。
本来持っている脳も、違和感を叫んでいる。人を喰え。女王を犯せ。子孫を作れ。目の前の女に精子を注げ、と。
だが、どちらの声も、セールヴォランの心には届かない。そのどちらの中にも、セールヴォランの心はないからだ。
セールヴォランの心は、桐子の中にある。桐子と繋がった時、触れ合った時、セールヴォランは自我を手にする。
だから、桐子はセールヴォランの全てだ。セールヴォランがセールヴォラン足るために、桐子は不可欠な存在だ。

「桐子。僕はどうすればいい」

 セールヴォランは胸部の外骨格を僅かに開き、数本の神経糸を出すと、抱き締めた桐子の体に滑らせた。

「あなたの好きにして」

 桐子はセールヴォランを抱き締めていた腕を緩め、体を離した。

「解った」

 セールヴォランは桐子の肌を舐めていた神経糸を、桐子が最も良く反応する局部へと向かわせた。

「あはぁっ」

 陰部だけでなく、胸や太股にも神経糸が絡み付き、桐子は甘い声を上げた。締める力は強いが、弱すぎない。
胸の形が変わるほど絞ることはなく、にゅるにゅると蠢かせて突端を擦り上げ、疼きを生む刺激を呼び起こした。
陰部へも、合体時のように早急に押し込まれた。だが、セールヴォランの体液で潤っているので痛みはなかった。
女王の卵を探るように動く神経糸は、桐子を高ぶらせた。桐子は息を荒げながら、夢中で彼と口付けを交わした。
セールヴォランの内で繋がるのも良いが、外で繋がると自分自身の姿が解ってしまうので、妙に扇情的だった。
奥へと侵入してきた神経糸の優しい仕草に、桐子は体全体を上気させていたが、もう少しと言うところで止まった。

「…どうしたの、セールヴォラン」

 火照った体を持て余しながら桐子が問うと、セールヴォランは桐子の内から神経糸を抜き、顔を上げた。

「感じる」

「十五号のこと?」

「それもある。けれど、他にもいる」

 セールヴォランは桐子の体液が絡んだ神経糸を体内に戻してから、ぎちぎちぎちと顎を鳴らした。

「桐子は僕のものだ。誰にも触れさせない。渡さない」

「嬉しいわ」

 桐子はセールヴォランの下から脱すると、汗の浮かんだ肌をそのままに、セールヴォランに手を伸ばした。

「行きましょう、セールヴォラン」

「僕は戦う。桐子のために」

 セールヴォランは胸部の外骨格を開き、神経糸を伸ばして桐子の体に絡ませると、持ち上げて体内に収めた。
頸椎に神経糸を接続し、至るところに神経糸を繋げると、今し方まで桐子が感じていた感覚が流れ込んできた。
甘ったるく、脳がとろけそうな快感だった。同時に桐子の感情や思考も伝わってきて、セールヴォランは陶酔した。
 合体するたびに、戦うたびに、こんなにも愛されているのだと実感出来る。だから、桐子に応えなくてはならない。
桐子もそれを望んでいる。二人きりの世界を作って、二人が幸せになるために、人型昆虫を滅ぼしたがっている。
セールヴォランはそれに疑問を持たない。愛する桐子が喜んでくれるのだから、何を疑問に持てと言うのだろうか。
だから、十五号だけは許せない。桐子を悲しませてしまったばかりか、桐子を守るためのあぎとを折ったのだから。

『十五号。僕が殺してやる』

 窓を破ってベランダに立ったセールヴォランは、星空に似た街明かりを見下ろした。

「そうよ。誰が一番強くて素敵なのか、教えてあげなきゃいけないわ」

 ベランダを蹴って、セールヴォランは夜景の中に身を躍らせた。落下と共に訪れる強風に、触角が揺らされる。
硬い羽を上げて琥珀色の羽を広げ、羽ばたかせる。びいいいいん、と羽音が鳴り響くと、落下の勢いが緩んだ。
漆黒の巨体はマンションの外壁を蹴り付けて砕き、破片を散らしながら勢いを付けて前進し、目標へと向かった。
 体内の桐子は、いつもより暖かい。外骨格に包まれた冷たい体に温もりを与えてくれる、愛おしく狂おしい女王。
セールヴォランの脳に流れ込んでくる愛情は次第に戦闘衝動に塗り潰され、十五号への熱い殺意が漲っていた。
問題なのは桁外れの腕力を持つ十五号だけで、他の人型昆虫など敵ではない。前回は、少し油断してしまった。
だが、今度は気を緩めずに、的確に、確実にダメージを与えていけば、十五号は倒せない相手ではないはずだ。
 だから、勝てる。





 


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