豪烈甲者カンタロス




第五話 破れた純情



 桐子。桐子。桐子。
 抱き締めた桐子は、いつもよりずっと小さい。ずっと軽い。ずっと冷たい。ずっと大人しい。ずっとずっと血生臭い。
勝てるはずだったのに、勝たなければいけなかったのに、勝てないわけがなかったのに、二度も負けてしまった。
だが、桐子はセールヴォランを責めない。慰めない。叱咤しない。褒めない。愛さない。愛さない。愛してくれない。
それは、桐子が桐子であって桐子でなくなったからだ。桐子は桐子だったのに、桐子は桐子である桐子を失った。
 桐子の首を抱えながら、セールヴォランは座り込んでいた。炎に巻かれたビルが崩れ始めても、動かなかった。
カンタロスの爪による切断面は鮮やかで、柔らかな血管だけでなく硬い頸椎も真っ二つにされ、髄液が漏れていた。
筋も千切れ、垂れ落ちている。セールヴォランの胸部には、桐子が桐子であるための血液が流れ、広がっていた。
神経糸を伸ばして、桐子の神経や血管と繋ぎ合わせる。桐子が失った体液を補えれば、と青い体液を流し込んだ。

  セールヴォラン。

「桐子?」

 愛おしい、彼女の声がする。だが、悲しげに顔を歪めている桐子の唇は動いていなかった。

「どこにいるの、桐子」

 セールヴォランが喪失感で声を震わせると、再び声がした。

  私はあなたの傍にいるわ。ずっと、ずっと。

「桐子、桐子、桐子…」

  愛しているわ、セールヴォラン。

「僕も桐子を愛している。桐子が僕を愛してくれるから」

 桐子の首を優しく抱えて、セールヴォランは立ち上がった。神経糸を通じて、桐子の声が脳に流れ込んでくる。
心なしか、桐子の面差しが和らいだような気がした。セールヴォランは舌を伸ばし、桐子の濡れた唇を舐めた。
血液が大部分を占めている唾液は出撃前に感じた体液よりも少し苦かったが、愛おしい桐子の味に変わりない。
 気を戻すと、頭上からばらばらと機械の鳥の羽音が降ってきた。軍用ヘリコプターが、上空を飛び回っている。
大方、騒ぎに気付いた研究所が派遣した戦闘部隊だろう。パトライトを回転しながら、緊急車両も近付いてくる。
見慣れた装甲車に混じり、パトカー、救急車、消防車などが、死体と炎の散らばるオフィス街を目指してきていた。

「桐子は僕が守る。桐子は僕の女王だからだ」

 セールヴォランは胸部の外骨格を開き、桐子の首を中に収めると、到着と共に体制を整えた兵士と向き直った。
無数の銃口が、セールヴォランを射竦める。セールヴォランは胸に触れ、大分軽くなった桐子の存在を確かめた。
十五号には二度も負けた。だから、もう次はない。そのためにもこの場を凌ぎ、桐子を守り抜かなければならない。
 桐子は女王の卵を失った。だが、桐子は桐子だ。セールヴォランが愛した桐子は、卵ではなく桐子そのものだ。
女王の放つ甘い匂いに魂を揺さぶられ、本能を煽られた。だが、桐子を捕食対象として捉えたことは一度もない。
喰ってしまえば、それで最後になる。何よりも愛しい彼女の味を知ってしまえば、何よりも愛しい彼女がいなくなる。
桐子は女王だ。卵を持っていてもいなくても女王なのだ。だから、セールヴォランは桐子を選び、戦ってきたのだ。
だから、これからも戦うだけだ。桐子を助け、桐子を守り、桐子を愛し、桐子に愛され、桐子が女王であるために。
 セールヴォランは、戦士で在り続けなければならない。




 帰宅しても、繭は未だに目を覚まさなかった。
 鍵を開けてある掃き出し窓を開けてリビングに入り、床に横たえても、繭はぐったりしていて目を開かなかった。
呼吸はあるが、反応がない。カンタロスは人型コオロギの体液とと桐子の血を落としながら、女王を見下ろした。
飛行している間に体液が剥げ落ちたため、繭の肌は無防備に曝され、首には絞められた後が赤く残っている。
繭が目覚めていれば照明を付けたのだろうが、カンタロスには必要ない。むしろ、眩しすぎて惑わされそうになる。
 他の家の窓明かりが僅かに差し、繭の半身を染めていた。苦痛に歪んだ顔には、桐子のような美しさはない。
人型昆虫にも、多少の美的感覚は備わっている。姿形で言えば、桐子の方が数段上なのは間違いないだろう。
戦闘能力に関しても、桐子には無駄がなかった。長い間戦ってきた、という言葉通り、慣れた動作で戦っていた。
攻める箇所も的確で、確実に弱点を突いてくる。桐子が繭に気を取られなければ、負けてしまう可能性もあった。
桐子を殺した時に付着した血液も舐めてみたが、桐子は女王の卵の器には相応しい、良い味のする少女だった。
どこを取っても、繭は桐子には劣る。セールヴォランから桐子を奪い、新たな女王として迎える道もあっただろう。
だが、カンタロスは繭に執着してしまった。これまで守り通してきたから、今更手放すのは勿体ないから、だろう。

「おい、女王」

 カンタロスは損傷した筋肉繊維の再生が始まりつつある膜を開き、神経糸を伸ばして繭の口元へ差し込んだ。
苦しげに歪んでいた唇をこじ開け、無理矢理歯を下げさせて喉の奥へ押し込み、圧迫されていた気道を開けた。
すると、繭の呼吸に力が戻った。神経糸を抜くと、繭は激しく咳き込んで体液や胃液を吐いてから、目を開いた。

「あ…?」

「やっと起きやがったか」

 カンタロスが繭に近付くと、繭は再度咳き込んでから、虚ろな目でカンタロスを見上げた。

「私、どうしたの? えっと、確か、あの子に首を絞められて、それで…」

「殺した」

「え…」

 繭は戦闘による疲労が残る頭を動かし、カンタロスの言葉の意味を悟った。

「ああ、そっか、そうなんだ…」

 繭は呼吸を繰り返し、脳に酸素と共に血流が戻ってくる感覚を味わいながら、美しい少女の姿を思い起こした。
同年代とは思えないほど出来過ぎた容貌を持ちながら、虫に魅入られ、取り憑かれていた、鍬形桐子なる少女。
それを、カンタロスが殺した。何か惜しい気持ちにもなったが、桐子であればきっと殺されても美しかったのだろう。
その桐子は、繭を殺そうとした。だから、繭らはセールヴォランと戦い、カンタロスは桐子を殺した。当然の結末だ。

「助けて、くれたんだよね?」

 繭は身を起こし、カンタロスを見上げた。

「俺は女王を守る。なぜならお前は」

「女王の卵の宿主だから」

 カンタロスの言葉に続けた繭は、体液の滴る髪を掻き上げた。

「うん。解ってる」

「お前が死ねば、俺は虫の王になれない。それだけのことだ」

 カンタロスが言い捨てると、繭は目元の体液と息苦しさで滲んだ涙を拭い去った。

「うん」

 お風呂に入らなきゃ、と繭は立ち上がったが、その足取りは不安定だった。意識が戻ったばかりだからだろう。
よろけながらも照明を付け、浴室に向かう繭を見送ってから、カンタロスはいつもの定位置に座って足を組んだ。
繭がシャワーを使い始めたのか、空気に混じる湿度が生温くなり、水飛沫がタイルを叩く音が漏れ聞こえてきた。
それを聞き流しながら、カンタロスは体内に神経糸を戻した。そして、珍しく生身の脳を使って思考に耽っていた。
 セールヴォランは、数少ない同胞だ。改造を受けた戦術外骨格が無事に羽化したのは、自分が二番目なのだ。
さなぎだった頃にもう一つの脳を移植されて知能を与えられていたので、外の様子は常に敏感に感じ取っていた。
もう一つの脳に接続されたカメラなどを通じて感じ取っていた外界では、改造された同胞が次々に死んでいった。
十五匹いた人型昆虫の幼虫もさなぎになる段階で半数が死亡し、さなぎから成虫に羽化出来た者は少なかった。
出来たとしても、実戦投入される前に死亡する。移植されたもう一つの脳に耐えきれず、暴走して自害するからだ。
 だが、境遇が近いからと言ってセールヴォランを理解するつもりは毛頭なく、女王に執着する彼を異常だと思う。
カンタロスも繭に対しては執着はあるが、それはあくまでも己の遺伝子の繁栄のためであり、他意は欠片もない。
しかし、セールヴォランはそうではない。繁栄をもたらす卵が宿る胴体ではなく、桐子の頭部を抱き締めていた。
桐子を喰うでもなく、壊すでもなく、抱き締めた。それは人間の行う仕草であって、人型昆虫の行う仕草ではない。
思い出せば思い出すほど、いびつな違和感に襲われる。カンタロスは苛立ちを感じながら、繭が戻るのを待った。
 だが、繭が戻ったのは二十分以上経過した後だった。カンタロスの苛立ちは溜まりに溜まり、顎を鳴らしていた。
全身の汚れを落とした繭は、湯の熱で頬を上気させていた。髪も乾かし終えていて、体液の粘り気は消えている。

「カンタロスも、後で綺麗にしてあげるね」

 繭はキッチンに入り、オレンジジュースをコップに注いで飲みながら言った。

「…ふん」

 カンタロスは苛立ちを吐き出す術がなく、顔を背けた。

「あ、それと」

 繭は二杯目のオレンジジュースを飲み終えると、怖々とカンタロスに向いた。

「胸の傷、大丈夫? 結構、深く切られちゃったから…」

「俺の体組織は再生が速い。明日になっちまえば、ほとんど塞がる」

「そっか」

 繭は空になったコップをシンクに置き、水を注いだ。

「ごめんね、カンタロス。また、痛い目に遭わせちゃって」

「痛くない戦いがあるか」

「うん、そうだけど、でも」

 繭は女王の卵が収まっている腹部に触れ、撫でた。

「せっかく守ってくれているのに、あんなんじゃ、私のことを好きにならなくて当然だよね」

「お前のことなんか、好きになる奴はいねぇよ」

「…うん」

 繭は俯き、小さく頷いた。

「でも、私は頑張るから。カンタロスのこと、好きになってみせるから」

「好きになられたところで、俺にはどうでもいい」

「カンタロスにはそうかもしれないけど、私にとっては大事なことだから」

 繭はぎこちない笑顔を作ると、再び浴室に戻った。いつものように、カンタロスを清める湯を持ってくるためだ。
カンタロスは繭の言葉の意味が解らず、触角を揺らした。好意など持ったところで、所詮、相手は人間なのだ。
喰うためだけに存在し、喰われるためだけに生きている。そんなモノに感情を割いたところで、何の意味もない。
相手が女王の卵の宿主であっても、同じことだ。カンタロスがそう思っていると、バケツを抱えた繭が戻ってきた。
 繭はカンタロスの傍にバケツを運んでくると、湯の中に入れていたタオルを絞り、カンタロスの外骨格を拭いた。
汚れていた体毛が温かな水を含んだ布にくすぐられ、体液が落ちていく。鈍っていた触角が、次第に戻ってきた。
特に汚れる顔やツノ、上両足、中両足、繭が入るために開く胸部と腹部の外骨格、下両足、背面部、爪、複眼。
バケツの中の湯が冷め切り、青く染まる頃になると、カンタロスの外骨格は重厚感溢れる漆黒を取り戻していた。

「もう、いいね」

 繭は自身が汚した床も拭き終えてから、絞ったタオルをバケツの縁に掛け、額に滲んだ汗を拭った。

「これ、結構疲れるんだよね。カンタロスって、大きいから」

「俺は別に頼んでねぇよ」

「でも、私には、これぐらいしか出来ないから」

「俺が女王に求めるのは繁栄だけだ。他には何も求めちゃいねぇんだよ」

「…うん」

 繭は弱々しく答え、立ち上がってバケツを持ち上げた。

「解ってる。解ってるよ、そんなこと」

 自分に言い聞かせるように繰り返しながら、繭はリビングを後にした。呼吸が震えていて、泣いているようだった。
それがまた鬱陶しく思えて、カンタロスは顎を鳴らした。どうでもいいことでいちいち泣くのだから、面倒で仕方ない。
泣くぐらい嫌だったら、好きになろうとしなければいい。そんなこと、知能がそれほど高くない昆虫ですら解ることだ。
それなのに、繭はカンタロスを好きになろうと足掻いている。世話を焼いて、感情を注ぎ、好意を得ようとしている。
薄っぺらい感情を注がれても、返したいとは思わない。それ相応のものがなければ、カンタロスの心は動かない。

「あの、ね」

 再度リビングに顔を出した繭は、気恥ずかしげに言葉を濁した。

「今度から、ここで寝てもいいかな」

「なぜだ」

「だって、その方がいいんじゃないかなって思って」

 繭はスリッパを履いたつま先を見つめ、パジャマの裾を握り締めている。

「どうでもいい」

 何もかも面倒になったカンタロスが言い捨てると、繭はおずおずと目を上げた。

「じゃあ、いいの?」

「俺はお前に興味がない」

「うん、そうだね」

 繭はリビングから廊下に出たが、カンタロスへと振り返り、照れの混じった笑顔を見せた。

「さっきは言いそびれちゃったけど、助けてくれてありがとう、カンタロス」

 じゃあ準備しないと、と繭は廊下を駆け、階段を上っていった。繭がどこで眠ろうが、カンタロスには無関係だ。
近くで寝られた方が不安要素は減るが、ただそれだけだ。カンタロスは胡座を掻いたまま、壁に寄り掛かった。
しばらくして、枕とタオルケットを抱えた繭が戻ってきた。それをソファーの上に置いた後、夜食の準備を始めた。
夕食よりも簡単だがやはり量の多い夜食を食べた繭は、後片付けをした後、先述通りにソファーに横になった。
食べた直後は気が落ち着かないのか、明かりを付けたまま深夜番組を見ていたが、次第に瞼が下がってきた。
テレビを消して照明を落として数分後には、繭は寝息を立てていた。だが、カンタロスには眠気は訪れなかった。
元来、カブトムシは夜行性だ。人型昆虫の出現に合わせて昼間も活動しているだけであって、夜の方が得意だ。
体温も上がりすぎず、感覚も鋭敏になる。だから、繭が眠ったとしても、カンタロスも寝入ってしまうことは希だ。
 闇の中で眠る少女の横顔は、先程に比べて安らかだ。タオルケットから垣間見える首には、赤い痣があった。
あれと同程度の太さの首を切断する感触は、呆気なかった。人型昆虫の方が、いくらか手応えがあって面白い。
繭の首も、きっと同じ感触がするのだろう。カンタロスは繭の手で清められた爪を上げて、先端を擦り合わせた。

「女王」

 女王なんて呼ばないで。勇気を出して叫んだ繭の声が蘇り、カンタロスは言い直した。

「繭」

 どちらも同じ相手を差す言葉であり、意味としては大差はない。だが、口に出してみると確かに何かが違った。

「カンタロス」

 そして、女王に名付けられた名を呟いた。それは、藍色の闇に浸ったリビングに広がり、吸い込まれて消えた。
何が違うのか、解らないでもなくなった。十五号と呼ばれるよりも、カンタロスと呼ばれている方が好ましかった。
腹の内で煮え滾る戦闘衝動と捕食衝動とは違う、手応えのない感情が起きる。もう一つの脳が作る疑似感情だ。
使用者である少女と円滑に交流するために作られたプログラムであり、脳を刺激して感情に似た感覚を作り出す。
人と虫が馴れ合うために仕込まれた、小賢しい細工だ。振り払うのは容易いが、なぜかその気が起きなかった。
恐らく、それも疑似感情だろう。繭とその胎内の女王の卵に対する執着を変換させて作り出した、偽物の思いだ。
 だが、それほど悪い気分ではなかった。





 


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