豪烈甲者カンタロス




捻れた幸福



 対人型昆虫用戦術外骨格、試作八号。
 それが一番最初に記憶した外部からの情報であり、自己を認識するために不可欠な識別名称、名前だった。
真っ新なノートのような生まれたての脳は与えられるがままに情報を取得し、脳に隙間なく詰め込まれていった。
ただのピースに過ぎなかった情報同士が結合し、関連性の見えなかった事柄が重なり、世界が解るようになった。
そして、心と共に疑似人格が構成され、完成すると、前触れもなく自分が自分で在るということを痛烈に自覚した。
それは疑似人格プログラムによるものであると理論付けられているが、自身ではとてもそうだとは思えなかった。
自分で自分を認識しているのだから、それは既に疑似ではない。けれど、周囲からは疑似なのだと言われ続けた。
 疑似。疑わしいほど似ているもの。それが自分自身なのだと決め付けられると、自分自身が信じられなくなった。
そうではないのだと思おうとしても、そうなのだと思ってしまう自分がいる。地に足が着かず、芯を見定められない。
だから、周囲に安直に従うことにした。自分とは似て非なる外見の生温く湿った生物から命じられるままに生きた。
それでは良くないと常々思っていたが、狭苦しい世界で生まれた自分にはそれ以外に生き延びる術がなかった。
本能がざわめく時もあるが、自分が見定められない不安には勝てず、最終的は流されるままに従い続けていた。
 女王と出会うまでは。




 鉄格子の先には、不機嫌極まりない少女が立っていた。
 私立中学のセーラー服に身を包んでいるが、だらしなく襟元を広げていて、スカート丈もやたらと短くなっている。
筋肉が全く付いていない両足には紺色のハイソックスと黒のローファーを履いているが、かかとを踏み潰している。
ショートカットの髪は脱色されていて、顔には年齢にそぐわない化粧が施され、人工的な異臭が触角をくすぐった。
少女の隣には水橋薫子が立っているが、こちらは表情を動かすことはなく、少女とは違った意味で不機嫌だった。
 二人の傍には、八号の世話役とも言うべき研究員が控えており、彼は淡々と八号に関する説明を行っていた。
いかに八号が人間に従順であるか、いかに安全であるか、を回りくどい表現で鬱陶しくなるほど繰り返し説明した。
十五号の暴走だけでなく、無敵を誇ったセールヴォランの敗北、脱走と、致命的な失態が続いてしまったせいだ。
彼なりに取り繕おうとしているらしいのだが、それは逆効果だったらしく、薫子は研究員を射抜くように睨み付けた。

「もういいわ、下がって」

「ですが、八号の単独訓練のデータ説明が」

「いいと言ったのよ、下がりなさい」

 薫子が語気を強めると、研究員は慌てて礼をし、立ち去った。

「それでは主任、失礼します!」

「つか何あれ、マジウザすぎだし。死ね」

 少女は制服のポケットからタバコを取り出すと、薄い唇に挟んで火を灯し、煙を吐いた。

「ねねちゃん。これがあなたが使用する戦術外骨格よ」

 薫子は檻の中を示して少女の視線を誘導しようとするが、少女は一瞥しただけだった。

「てかマジ最悪。何これ?」

「人型昆虫に改造を施して造り上げた、人型昆虫への対抗手段の一つよ。いわゆる生体兵器ね」

「てか、マジデカくね? これさ、ハチだろ?」

 視線を僅かに動かしたが、少女は檻を正視しようとしなかった。

「そうよ。人型スズメバチの卵を孵化させて、幼虫の頃から改造して造り上げたのよ」

 薫子は身を屈め、薄暗い檻の中を覗き込んできた。

「見た目は最悪だけど、性能はなかなかのものよ。パワーはカンタロスにもセールヴォランにも到底及ばないけど、スピードなら一番ね。ねねちゃんの体重を含めても、三体の中では最も軽量なのよ」

「もっと他にねーの? てか、マジキモいし」

「生憎、使用可能状態にある戦術外骨格は、この八号だけなのよ。カンタロスが暴走したおかげで、冷凍保存してあった孵化寸前の卵やさなぎも全て死んでしまったし、今から新しい卵を調達しても出来上がるのは数年先なのよ。他の研究所にも問い合わせてみたけど、最も出来が良かったのはこの個体だけなのよ。だから、妥協して」

「マジ最悪なんだけど」

 少女は吸いかけのタバコを足元に吐き捨てると、ローファーのかかとで踏み躙った。

「つか死ね」

 ようやく少女の視線がこちらに向いたが、直後に唾が吐き捨てられ、鉄格子を擦り抜けて冷たい床に落下した。
少女はすぐさま背を向けて気力のない歩き方で出ていき、薫子も彼女に続いて鉄格子の前から去ってしまった。
残されたのは自分自身と、薄く煙の立ち上る潰されたタバコと、てらてらと光る少女の吐き捨てた唾液だけだった。
 恐らく、あれが自分に割り当てられた女王なのだろう。その証拠に、少女の唾液からは抗いがたい匂いがする。
タバコの渋い匂いだけではない、本能をざわめかせる匂いが触角に掠めていき、無意識に先細りの顎が開いた。

「あれが、私の」

 人間の声に似せた合成音声を発しながら、身を屈め、床に落ちた唾液に舌を伸ばした。

「クイーンなのですね」

 薄汚れた床を舐め上げた細長い舌は少女の体温が残る唾液を掬い取り、舌の上にとろりと広がっていった。
砂と鉄の味が混じっているが、それ以上に鮮烈な人の味。研究員から与えられる栄養剤とは桁違いの甘さだ。
舌の上を濡らす程度の量しかない少女の唾液を口中に引き入れたが、自身の唾液と混ぜるのが惜しいほどだ。
嚥下すると、胃の中にまで甘さが広がった。ぶるりと身震いしてから、床に僅かに残った唾液も丹念に舐め取る。
 生まれた時から、屈するべき相手を求めていた。絶対的な服従、圧倒的な上下関係、狂おしいほどの忠誠心。
だが、それを示すべき相手はどこにもおらず、心身の中核に据えなければならない芯が抜け落ちたままだった。
だから、自分自身も据えられなかった。だが、これからは違う。屈するべき相手である女王が現れたのだから。
 所詮、ハチの世界でのオスは遺伝子を運ぶ乗り物だ。メスのように働くこともなければ、戦うことすら出来ない。
出来るのは、女王が現れた時に強引に交わって遺伝子を残すことだけで、その時が来るまでは生きるだけだ。
だが、女王が現れても交われる保証はない。交わる前に死ぬかもしれないし、同族から殺されるかもしれない。
けれど、自分は違う。人間の手で生体兵器に改造されたおかげで、女王を独占出来る身分に上り詰めている。
 なんと素晴らしいことか。




 それから三日後。女王と一つになることが出来た。
 使用者であり女王である蜂須賀ねねから実に乱暴な理由でベスパと名付けられ、直後に戦闘訓練を行った。
もちろん、上手く行くわけがなかった。ベスパが戦い慣れていたおかげで勝利出来たが、それ以外はダメだった。
原因は、ねねに協調性が皆無だからだ。ベスパがどれほど指示を出そうと、彼女は全て無視して強引に攻める。
おかげで、ベスパは肉体にも精神にも過負荷が掛かっていた。一眠りしても尚、体内には異物感が残っていた。
ねねは栄養不足と運動不足と不摂生が相まって、育ち盛りなのに成長が一回り遅く、平均値よりも小柄だった。
体重も軽いが、抱えるのと腹の中に入れるのでは訳が違う。こればかりはベスパも慣れていくしかなさそうだった。
 生まれ育った檻よりも広いが、それでも檻は檻だ。ベスパは鉄格子に囲まれた空間の中に巨体を収めていた。
餌として与えられたどこの誰とも付かない人間の肉塊を噛み砕いて捕食していたが、触角が空気の揺れを感じた。
スリッパを履いた足を引き摺るように歩いてきた影が檻の前で止まったので、ベスパは複眼の視点を上向けた。
蜂須賀ねねだった。少しサイズが大きい原色のTシャツとハーフパンツを着ていて、明るい茶髪は寝乱れていた。
表情もぼんやりしていて、目も虚ろだった。寝て起きた、と言わんばかりの顔と態度で、ベスパを見下ろしていた。

「どうかなさいましたか、クイーン」

 ぐじゅる、と骨に絡み付いている皮膚を啜り上げたベスパがねねに問うと、ねねは檻の前に座った。

「別に」

「では、なぜ、私などの元へ」

「マジどうでもいいだろ、んなこと」

 ねねは足を投げ出し、白い壁に背を預けた。

「クイーンは、退屈を凌がれたいのですか?」

 倦怠感を丸出しにしているねねの表情で、ベスパは察した。

「気付くの遅いし。マジウザいし」

 ねねはぐしゃぐしゃと髪を乱し、天井近くに設置された横長の窓を仰ぎ見た。

「あたしさ、人、殺してきたんだよね」

「存じております」

「てか、あれってマジ簡単なのな。ナイフでぶっ刺せば、すぐに死んでやんの。マジ弱すぎだし」

 声を上擦らせながら、ねねは肩を震わせた。

「目玉なんかマジ柔らかいし、脳みそがきったねぇし、血がドバドバ出てきてマジ面白かったし。てかヤバすぎだし」

 ねねは一旦言葉を切り、与えられた肉塊を喰い続けているベスパを睨んだ。

「つか、あたしの話聞いてんの?」

「もちろん聞いておりますとも、クイーン」

 ベスパが血塗れの顎を上げると、ねねはスリッパを脱いで投げ付けた。

「だったらなんか言えっての!」

 だが、ねねが投げたスリッパは鉄格子に当たって跳ね返り、ベスパに当たらずに床に転げ落ちてしまった。

「でしたら、最初からそう仰って頂ければ良いのです」

 ベスパが血塗れの顎を拭ってから佇まいを直すと、ねねはがしゃんと檻を蹴り飛ばした。

「言わなくても解るだろ、あたしのシモベなんだし!」

「私とクイーンが思考を共有出来るのは、合体して神経糸を接続している状態のみですので、今は無理かと」

「訳解んねーこと言ってんじゃねーよ!」

 もう一度檻を蹴り飛ばしたねねは、がなり立てた。

「つか、なんか言えよ! あたしは人殺してきたんだぞ、なんか言うことあんじゃねーのかよ!」

「と、仰いますと?」

「誰もビビりもしねーしキョドりもしねーし、マジつまんねーんだよ! てか、あたし、人殺したんだからな!」

 ねねは腰を上げ、鉄格子を掴んで揺さぶった。

「なんか言えよ、あたしのこと、なんか言えよぉおおおっ!」

 ベスパが映るねねの瞳は大きく見開かれ、潤んでいた。不安と恐怖が漲っていて、今にも涙が零れそうだった。
家族を殺すことは、ねね自身が強く望んでいたから行ったことなのだと、研究員達が口々に言葉を交わしていた。
だから、ねねが何に憤っているのか解らなかった。思い通りのことを成したのに、なぜこんなに苦しげなのだろう。
ねねが家族を殺したいと薫子に申し出たから、ねねは城岡と共に帰宅し、思うがままに家族を殺して戻ってきた。
状況だけ見れば、不満に思うことなどないはずだ。それなのに、ねねは大きな目を潤ませて感情を迸らせている。

「なあ、ベスパぁっ!」

 両手で鉄格子を揺らしたねねは、俯き、ぼたぼたと生温い雫を床に散らした。

「なぁ…」

「何がお望みなのですか、クイーン」

「なんでもねぇよ!」

 ねねは鉄格子を離し、また床に座り込んだ。

「ですが、クイーン」

 ベスパが近付こうとすると、ねねはベスパを睨み付けた。

「うっぜぇな、死ね、今すぐ死ね!」

 だが、すぐに力を失ってねねは俯いた。喉を引きつらせて声を詰まらせ、床に落とす水滴の量が格段に増えた。
怯えているのだ、とベスパは悟った。望んで人を殺したが、後になって自分の所業が怖くてたまらなくなったのだ。
他者から人を殺したことを否定されたり、肯定されたりすれば、少しはそれが紛れると思ったから出てきたのだ。
しかし、研究所内にはねねの思う通りの言葉を返してくれる者はおらず、行き着いた先がベスパだったのだろう。
 女王に求められている。そう思った途端、ベスパは食欲に勝る欲動が駆け巡り、がちがちと顎を噛み鳴らした。
鉄格子が煩わしい。やろうと思えば破壊出来るが、余計な騒ぎを起こして他の者をこの場に呼び寄せたくない。

「クイーン。カードキーをお持ちですか」

「は? つか、持ってねーとかマジ有り得ねーし。これないと部屋に戻れねーんだもん」

 ねねはハーフパンツのポケットから、薄いカードを取り出した。

「では、それで私とクイーンを阻む鉄格子をお開け下さい。クイーンの所有しているカードキーは研究員用でもなければ軍人用でもなく、あらゆる制限が解除されております。ですから、私の檻の電子ロックにも適用されるかと」

「何、脱走でもする気?」

「いえ、そうではありません」

 ベスパは檻の出口の前に来ると、深々と礼をした。

「私はクイーンのお気持ちを汲み取れませんでした。ですから、是非ともその罰を受けさせてほしいのです」

「…は?」

 ねねは頬を引きつらせたが、ベスパは這い蹲った。

「さあ、存分にお踏み下さい! お気の済むまで詰って下さい、嬲って下さい、罵って下さい!」

「んじゃ、死ぬほど踏んでやる。てか、マジウザいし」

 少しばかり機嫌が戻ったねねは、カードキーをスロットに差し込んで檻のロックを開くと、中に踏み入ってきた。
ベスパはすかさず床に伏せ、触角も羽も下げた。ねねは巨大な人型昆虫を見下ろしていたが、足を振り上げた。
素足のかかとが頭部に衝突し、視界が揺れる。二度、三度、と蹴られているとねねの表情が次第に緩んできた。

「死ね、死ね、死ねぇええっ!」

 渾身の力でベスパの頭を蹴ったねねは、けたけたと笑った。

「つか、あたしに殺せねー奴なんていねーし!」

 ああ、喜んでくれている。

「もっと、もっとお願いします!」

「つか、まだ足りねーし! 命令すんじゃねぇよ!」

 ねねは息を荒げながら、ベスパの頭頂部に体重を掛けて踏み躙ってきた。

「お、おおおぅっ!」

 強固な外骨格がなければ脳を潰されかねない重みと角度だが、陶酔しきったベスパにはどうでもよくなっていた。
複眼の真上でにたにたと笑うねねは、この上なく楽しそうだ。その表情を見ているだけで、更に快感が増してくる。
神経という神経に過電流が走り、ぞくぞくする。顎に滴る血よりも淫靡なものが、踏まれた部分から広がっていく。
 ねねが笑う。ベスパを踏んで笑っている。それでも充分喜ばしいのに、強く踏まれると尚更喜びが膨れ上がった。
このままずっと踏まれていたい、と願うが、ベスパを一通り踏み躙って満足したねねは、早々に檻から出ていった。
体中に鬱屈していた感情をベスパに対する暴力で発散したおかげで気が晴れたらしく、上機嫌な足取りだった。
ねねが荒っぽく閉めた檻の扉はオートロックですぐさま施錠され、再び鉄格子が外界とベスパを隔ててしまった。
 ベスパはがちがちと顎を荒く叩き合わせ、ねねから与えられた暴力の快感の余韻に浸るため、巨体を縮めた。
ねねが笑ってくれた。喜びの笑顔とは言い難い、歪んだ笑顔だったが、それでもベスパにとっては笑顔だった。
人格が完全でないベスパは、ねねの気持ちを汲み取ってやることが出来ず、上手い言葉も思い付かなかった。
だから、迷わずに身を差し出した。ほんの一時だけでもねねの興味を支配出来ただけでも、ベスパには至福だ。

「ああ…クイーン…」

 ベスパは頭部の外骨格にこびり付いたねねの体温を味わいながら、弛緩した。

「麗しき、我が女王よ」

 関心を持たれなくても良い。ただの兵器として終わるだけでも良い。束の間だけでも、女王のものになりたい。
それこそが、オスの幸福だ。ハチの悦楽だ。女王に従い、女王に尽くし、女王のために死ぬことが生の意味だ。
尽くしたい。求められたい。差し出したい。そして、踏まれたい。女王への本能だけでない、別の何かがざわめく。
ねねに踏み躙られて罵倒されたことを思い出しただけで身震いが止まらず、ベスパはぎちぎちと顎を高く鳴らした。
 あんなに気持ち良いものはない。胃に血と肉を詰め込んだ時よりも満ち足り、戦い抜いた後よりも爽快だった。
まだ放ってはいけないと思っても、精子が込み上がった。それを理性で押し込めてから、ベスパは笑みを零した。
 支配されることが、これほどの快楽だったとは。







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