豪烈甲者カンタロス




捻れた幸福



 熾烈な戦いは続いた。
 二度目の渋谷駅前戦を終えてからは身を取り巻く状況が一変し、二人の所属も国立生物研究所ではなくなった。
黒田輝之二等陸佐に脅される形で従い、人型昆虫対策班に移動してからは戦う目的も引っ繰り返されてしまった。
それまでは、暴走した挙げ句逃亡したカンタロスとその女王の繭を殺害することが、ベスパとねねの任務だった。
だが、黒田の配下に入ってからはカンタロスと繭もほぼ同じ境遇になって、図らずも利害関係が一致してしまった。
ベスパも面白くなかったが、ねねは尚のこと面白くないようで、女王殲滅作戦で戦闘に赴く時以外は不機嫌だった。
だが、ねねから退屈凌ぎと苛立ち紛れの暴力を振るわれる機会が増えたのは、この上なく素晴らしいことだった。
 三度目の女王殲滅戦を終えて対策班分室に帰還したベスパは、玄関から入らずにベランダから室内に入った。
ロビーに入ると、空調から流れ出しているミントとラベンダーの香りが感覚を直撃し、気分が悪くなってしまうのだ。
女王と戦術外骨格に割り当てられた高級マンション顔負けの部屋にも満ちているが、ロビーほどは濃厚ではない。
爪を伸ばしてスイッチに触れ、真っ暗な室内を蛍光灯の白い光で満たした。こうしなければ、ねねは何も見えない。
体液にまみれた下両足でフローリングを噛んだベスパは、跪き、胸部の外骨格を開いて小柄な少女を取り出した。

「帰還いたしました、クイーン」

 ベスパが彼女の体から神経糸を全て外すと、ねねは激しく咳き込み、ベスパの体液を吐き出した。

「…つか、なんであたしの部屋なわけ?」

「何かご不満でしたか」

「まあ、そりゃこっちの方がいいけどさ。ゴキブリ男とか根暗女とかキチガイ女と関わるのマジウザいし」

 ねねは濡れた髪を掻き乱してから、ベスパを仰ぎ見た。

「でも、なんか、あんたらしくねーし」

「そうでしょうか? 私としましては、一刻も早くクイーンにお休み頂きたいと思ったまでして」

「ちょっと前だったら、あんた、ちゃんと下に戻ってたろ? 報告しなきゃなんねーわけだし」

 ねねは裸身に貼り付いた体液を拭いながら、ロビーを示すように床を指した。

「なんか、マジ変じゃね?」

「私としましては、至極自然な思考でクイーンをこちらにお連れしたのですが」

 ベスパが深々と頭を下げると、ねねは怪訝な顔をした。

「ふうん。つか、マジどうでもいいけど」

 ねねは立ち上がると、一度よろけたが、バスルームに向かっていった。ぺたぺたと濡れた足跡が連なっていく。
その頼りない背を見送りながら、ベスパは上体を起こした。確かに、少し前までのベスパなら報告を行っただろう。
それは、人間に忠実であることが生き延びるためには最も有効だと認識していたから従順だっただけに過ぎない。
だから、研究員達には逆らったことはなく、過酷な生体実験も、苛烈な戦闘訓練も、文句一つ言わずにこなした。
それは、他でもないねねを守るためだった。ベスパが従順だからこそ、彼女の横暴な振る舞いは許されていた。
けれど、その研究員達から解放されている今、ベスパが黒田や対策班の面々に従う必要も義理もなくなっていた。
 十数分のシャワーの後、ねねが戻ってきた。濡れた髪を乱暴に拭い、上気した肌にバスローブを羽織っている。
大型冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出したねねは、喉を鳴らしてジュースを一気に飲むと満足げに弛緩した。

「つか、今何時?」

 ねねは飲みかけのペットボトルをぶら下げ、リビングに戻って壁掛け時計を見やった。

「うわ、三時前かよ。マジ深夜だし」

「思いの外、女王との戦闘で苦戦してしまいましたからね。セールヴォランと鍬形一尉は早々に帰還しましたし、カンタロスと兜森一尉も戦闘中に離脱してしまいましたが、そろそろ帰還する頃でしょう。あの人達が簡単に死んでくれたら、私達は苦労しませんからね」

 ベスパは爪で外骨格の汚れを落としていたが、ねねが使いかけのバスタオルを投げたので丁重に受け取った。

「お気遣いありがとうございます、クイーン」

「つか、汚いとマジキモすぎだし」

 ねねはリビングテーブルに散らばっていた食べかけのスナック菓子を掻き集め、頬張った。

「ええ、私もそう思います」

 ベスパは爪先を丁寧に拭いながら、複眼の端でねねの横顔を捉えた。不機嫌そうだが、いつもとは違っていた。
眉も吊り上げて頬も張り、唇も尖らせているが、ほんの少し眼差しが柔らかい。無理に表情を作ったかのようだ。
ベスパと目が合いそうになると、すぐに目を逸らしてしまう。動物のように菓子を貪っているが、時折手を止めた。
だが、やはり、すぐに食べる作業に戻ってしまう。ねねの真意が解らないのはいつものことだが、今回はひどい。
気を持たせるような態度を取るくせに、徹底的に無視してくる。けれど、ベスパはそれを不快には思わなかった。
むしろ、意識されているのが嬉しい。彼女の心中で何があったのかは知らないが、下僕から格上げされたようだ。

「…なぁ」

 ねねは油と塩に汚れた指を舐めてから、ベスパに振り返った。

「なんでしょうか、クイーン」

「体液ってさ、やっぱり、アレのこと?」

「と、仰いますと?」

「つかマジ鈍いし! 言えるわけねぇだろあんなもん!」

 いきなりねねがいきり立ったので、ベスパは少し考えてねねの言いたいことを酌み取った。

「女王の卵から分泌されるフェロモンが混入している、クイーンの体液のことですね。唾液にもフェロモンは混入しているのですが、膣の分泌液の方が格段に濃度が高いのです。それがどうかなさいましたか、クイーン?」

「うー、あーもう!」

 ねねは変な声を上げてソファーに突っ伏し、バスローブの裾を握った。

「つか、やっぱりそうなんじゃん! てか、そんなんしたら、あたしマジ変態だし! つかマジヤバいし!」

「ですから、それがどうかなさいましたか?」

「舐めるの好きじゃねーし、あーでもなー、生で入れられるよりはまだ気が楽だけどさぁー…」

 ねねは突っ伏したままぶつぶつと呟いていたが、ベスパを見、再び突っ伏した。

「あーでもやっぱマジダメだ! つか虫だし! つか無理、超無理だし!」

「ですから、何が無理なのですか?」

「つかマジ解れよ! あーもうっ、マジ最悪!」

 ぼすぼすとソファーを殴り付けていたねねは、息を荒げながら身を起こし、ベスパを睨んだ。

「あたしのは結構高く売れんだからな。マジ感謝しねーとマジ殺すし」

「はい?」

 ベスパが触角を下げると、ねねは立ち上がり、ベスパに大股に歩み寄ってきた。

「いいか、今日だけだかんな! 二度はねぇぞ!」

 ねねは思い切り顔を逸らして頬を紅潮させながら、バスローブの裾を広げてみせた。

「てか、あたしの舐めりゃ、あんたは強くなれるんだろ? だから、やる」

「よろしいのですか、クイーン!」

 ベスパが歓喜すると、ねねは力一杯ベスパを蹴り飛ばした。

「今だけだからな! 二度はねーっつったろ!」

「ですが、一度だけでは惜しすぎるような気もいたしますがっああっ!」

 ベスパが意見すると、もう一度ねねの足が飛んでベスパの顎が蹴り上げられ、視界が急に上向いてしまった。
戦闘時の負担よりは軽いが、首に軽い痛みが生じた。顎にも胸部にも痛みが残っていたが、どちらも心地良い。
足を下ろしたねねは最悪に不機嫌で、今にも罵倒を吐き出しそうだが、薄い唇は歪むほどきつく引き締めていた。
彼女なりに決意したのだろう、表情が強張っている。弛緩している姿はよく見るが、緊張しているのは初めてだ。
新鮮に感じると共に、なんだか可愛らしく思えた。ねねは顔を逸らしながらベスパの前に座り、裾と股を広げた。

「するならさっさとしろ、じゃないとマジ殺すし」

「それでは失礼いたします、クイーン」

 ベスパは深々と一礼してから、ねねの前に這い蹲った。ねねはきつく瞼を閉じ、バスローブの裾を握り締める。
日焼けしている太股は全体的に細く、シャワーの水分が混じったボディーソープの甘い匂いが立ち込めていた。
滑らかな脹ら脛には新たに汗が浮き出していて、産毛を光らせている。薄い陰りに隠れた陰部は、年相応に幼い。
ベスパの神経糸を飲み込んでいたのが信じがたいほど狭く、汗とは違う粘ついた潤いが奥から滲み出していた。

「何見てんだ、つか見んじゃねぇよマジハズいし!」

 羞恥に駆られたねねは絶叫するが、ベスパは清めたばかりの爪でねねの薄い内股をなぞった。

「見なければ得られません。それに、クイーンの全てを記憶に収めておきたいのです」

「つか何それ! てか死ね、マジ死ねぇっ!」

「お許し頂いたのはクイーンではありませんか」

「そうだけど、なんかもう、なんだこれぇ!」

 フローリングに突っ伏したねねは、苛立ちと羞恥を紛らわすためにフローリングを殴り付けた。

「ああ…私のクイーン…」

 ベスパは上両足でねねの華奢な腰を引き寄せて距離を狭めると、閉じられそうな細い太股の間に顎を入れた。
うっ、とねねが息を呑んだが、足が閉ざされる前に顎を開いて細長い舌を伸ばし、幼い陰部を下から舐め上げた。
ベスパの唾液以外の粘液が舌に付着し、ねねはベスパの頭部に爪を立てるほど強く掴み、喉の奥で声を殺した。

「や…もぉ、なんで、こんな…」

「御安心下さい、クイーン。痛みを与えぬように配慮しますので」

「違う、違うぅっ!」

 ねねはベスパの頭部を殴り付けながら、首を横に振った。

「愛しております、私のクイーン」

 女王の匂いが満ちる体液を味わいながらベスパが呟くと、ねねは身震いした。

「つか、何、それ。マジ最悪だし」

 言葉は荒いが語気は弱っていて、頭部を挟んでいる太股には新たな汗の粒が浮き、戸惑いで拳の力が緩んだ。
気を許してくれたのだ、とベスパは感じた。舌先でなぞっていた陰部が綻んだので、出来る限り慎重に差し込んだ。
ねねは掠れた吐息を零し、背を丸めた。ついに否定の言葉が吐き出されることもなくなり、抵抗も次第に緩んだ。
細長い舌を蠢かせているとねねの明らかに反応が変わる部分を見つけたので、その部分を重点的に擦り上げた。
ベスパは舌に力を込め、ねねの内側で最も弱い部分を強く擦ると、ねねは顎を上げて声にならない声を放った。
 ひとしきり体液を味わったベスパは双方の体液が絡み付く舌を顎の中に収めると、ねねはぐったりと脱力した。
ベスパの上両足に体を預け、天井を見つめているが視線に力はなく、緩んだ唇の端からは涎が一筋零れ落ちた。
ねねの上体を起こさせたベスパは、その半開きの唇の間に細長い舌を差し込んで、生暖かい唾液を掬い取った。
舌を噛まれても良い、むしろ噛んで欲しかったのだが、ねねはベスパの舌を噛まずに素直に受け入れてくれた。

「…今日だけだかんな」

 ベスパの舌を吐き出したねねは、口元を拭い、顔を伏せた。

「承知しております」

 ねねの唾液が絡んだ舌を口中に戻したベスパはねねを起こしてやろうとしたが、ねねは外骨格を掴んできた。
このままでいろ、とでも言いたいのだろう。その意図を察したベスパはねねを抱え上げ、その場に胡座を掻いた。
胡座の上に座らされたねねは、ベスパに寄り掛かることはなかったが、いつになく安心した表情を浮かべていた。
責め抜かれたせいもあるのだろうが、妙に大人しかった。罵倒もなく、文句もなく、だが、甘えてくることもなかった。
 上左足でねねの背中を支えてやりながら、ベスパはあらぬ方向を見ているふりをしてねねの表情を窺っていた。
ねねは、ベスパを見ることもなく、ベスパに縋ることもなかったが、十四歳の少女に相応しい面差しになっていた。
気を緩め切っているようだが、どこか寂しげで、けれど嬉しそうでもあり、複雑な心中がそのまま顔に現れていた。
 神経糸を繋げて意識と思考を共有しても、ねねを理解出来ることはなく、傍にいても到底理解出来なさそうだ。
けれど、それがねねだ。素直な感情表現が不得手で、捻くれていて、そのくせ人一倍寂しがりで、意地っ張りだ。
ベスパは眠りに落ちてしまったねねを抱き寄せると、生乾きの髪から立ち上る少女の匂いを触角に触れさせた。
 もっと、もっと虐げてほしい。それでねねが笑うのなら、それがベスパの快感となり、女王に従える幸福となる。
気を許してくれることもまた、とてつもなく嬉しい。付き従うだけの身の上の自分が求められたら、素晴らしすぎる。
 愛されなくても良い。彼女を、愛したい。




 轟音。爆音。そして、炎。炎。炎。
 朧な意識を現実に引き戻すと、外骨格を舐める熱を感じた。空中から落下してきた鉄の筒が落ち、炸裂する。
新たな爆音が起き、熱風が吹き付けた。真の女王の大量の卵で膨れ上がった白い腹部が破裂し、飛び散った。
体液の雨が舞うが、瞬時に蒸発する。上空を鋼鉄の鳥が飛び抜けると、生臭い煙が流されて触角を舐めていく。
 瓦礫に埋もれた体が重たく、羽は四枚とも焼き切れている。複眼も片方が煮えてしまい、視界が白濁している。
下両足を曲げようとしたが全く動かず、どちらも瓦礫によって潰されていて、どくどくと青い体液が流れ出していた。
衝撃と過負荷で破裂してしまいそうな脳を動かし、ベスパは今し方まで見ていた記憶の羅列を走馬燈だと思った。
人間は死の間際に過去を見ることがあるらしいが、虫にもあったとは。それが可笑しいようでいて無性に悲しい。

「クイーン」

 分厚い瓦礫の下から這い出したベスパは、胸部の外骨格を開いて少女を出した。

「御無事ですか」

「あ、う…」

 青い体液に包まれているねねは眉根を歪めていたが、ベスパを上目に見上げた。

「ベスパ、あたし、死ぬの…?」

「死なせません。クイーンは私が命に代えてでもお守りします」

 ベスパはねねを体内に戻そうとするが、ねねは首を振って抗った。

「やだ、あたし、ベスパと一緒にいるぅ!」

「私の羽は失われ、下両足も潰れてしまいました。ですから、逃げることは出来ません。ですが、私の外骨格と体液に包まれていれば、クイーンは生き延びることが出来るはずです。ですから、早く私の中へ」

「やだよ、そんなのやだよ」

 ねねは体内に押し戻そうとするベスパの上右足を掴み、苦しげに叫んだ。

「あたし、やっと、一人じゃなくなったって思ったのに!」

 ベスパの上右足を強く抱き締めたねねは、俯いて肩を震わせた。

「ベスパが一緒じゃなきゃ、やだ…」

「私もです。クイーンが私のクイーンでなければ、私はここまで戦い抜くことが出来ませんでした」

 ベスパは上左足でねねの肩を支え、舌先で体液混じりの涙を舐め取った。

「ですから、私は最後まであなたを守り通したいのです」

「やだ! あたしがあんたを守るっつったろ! シモベがあたしに命令すんじゃねぇ!」

 ねねは首を激しく横に振るが、途端に目を見開き、体を折ってげえげえと胃の内容物を吐き出した。

「ああ…クイーン…」

 ベスパは神経糸を通じて流れ込んでくる痛みでねねの脳内に内出血があることを感じ取り、やるせなくなった。
間違いなく、ねねが真の女王を強引に支配下に置いて操作したことが原因だ。過負荷に負けて、出血したのだ。
だが、ベスパにはねねを救う術はない。ねねの苦痛を自分に流し、その苦しみを少しでも和らげてやるしかない。

「ベスパ…ベスパぁ…」

 ねねは体液に濡れた手を伸ばし、ベスパの顎に触れた。

「あのな、あたし、さ、ベスパのこと」

 開きかけた唇が歪み、ずるりと手が落ちる。ベスパはねねの腕を爪で受け止めたが、だらりと垂れ下がった。
ねねの薄い瞼は下がり、目元からは滲み出た涙が溢れ、疲労で青ざめた顔色から更に血の気が失せていく。

「クイーン」

 ベスパはねねを体内に収めて外骨格を閉じ、穏やかに語り掛けた。

「私はあなたを愛しています。きっと、守り抜いてみせます」

 真の女王の座を巡る戦いに負けたばかりか、カンタロスもセールヴォランも黒田すら倒すことが出来なかった。
下両足が砕けて羽が焼け落ち、戦術外骨格としての力も失った。だから、出来ることはただ一つしかなかった。
 ねねの鼓動が聞こえる。ねねの体温が下がっていくのを感じる。ねねの脳に、血液が広がる感覚を受け取る。
束の間だったが、彼女は素晴らしい幸せを与えてくれた。女王に尽くす幸福、苦痛を伴う快楽、そして、愛情だ。
ねねが言いかけた言葉の先を知ることは出来ないだろうが、一時でもねねの心を支配出来ただけで充分だった。
 真の女王の壊れた足が目の前に落ち、瓦礫と体液を撒き散らし、ベスパの煮えた複眼に体液の飛沫が散った。
神経だけが残った下両足から流れる体液を気にしながら、ベスパは体内のねねを抱き締めるように体を曲げた。
 轟音は止まらず、震動は絶えず、熱風は温度を増した。体内に響く彼女の鼓動は、爆撃よりも余程力強かった。
燃え盛る炎の熱風に外骨格を煽られながら、ベスパは己の意識を甘く柔らかなねねの内に下げて、顔を伏せた。
ベスパにはねねの意識を掴み取る余力もなかったが、彼女の脳から零れ落ちていく記憶や感情が伝わってきた。
消えゆくねねは寂しげでもなければ悲しげでもなく、ベスパに心身を包まれている幸福感が優しく滲み出していた。
ねねが言葉に出来なかった感情の残滓がベスパの意識に染み込んでくるが、それを感じた瞬間に意識が落ちた。
 至福の死だった。







09 4/17