豪烈甲者カンタロス




汚れた初恋



 呆れ果てて、返す言葉がなかった。
 上司から突き付けられた書面に記された紫織への命令は、黒田輝之三等陸佐と関係を持て、とのことだった。
上司の顔と書面を見比べたが、上司も渋い顔をしていた。紫織は何度となく書面を見直すが、文面は変わらない。
交流を持て、ならまだ理解出来る。だが、関係を持て、となれば話は違う。遠回しに男女関係になれと言っている。
これが公僕に下される仕事か、との文句が出そうになったが、上司の強い眼差しに圧倒される形で飲み込んだ。
 忌まわしき書類を突き返せないまま自分のデスクに戻った紫織は、今一度書類を見直して顔を歪めてしまった。
黒田輝之三等陸佐。良くも悪くも、人型昆虫対策班の中でその名を知らない者はいない。彼は改造人間だからだ。
改造人間と言えば、真っ先に思い浮かべるのがバイクに跨った正義の味方だが、彼は任意で姿を変えられない。
だから、ヒーローではなく、どちらかと言えば悪の組織によって生み出された怪人と言った方が相応しい存在だ。
変身するヒーローなら、まだ良いが、黒田は正真正銘の怪人だ。書類を捲ると、その黒田本人の写真が現れた。
 成人男性よりも一回り大きい体躯。油を塗ったような光沢を帯びた、茶褐色の外骨格。黒い複眼。長い触角。
どこをどう見ても、害虫の中の害虫、ゴキブリだ。見ているだけで吐き気がしそうになり、紫織は書類を伏せた。
だが、見慣れなければ黒田と顔を合わせた際に戸惑ってしまうので、紫織は仕方なく伏せた書類を元に戻した。

「最悪…」

 紫織はパソコンの前からマグカップを取り、冷めたコーヒーを啜った。

「特別手当に負けるんじゃなかった」

 だが、金に負けた自分が悪いのだ。紫織は自責の念を込めながら、黒田輝之三等陸佐の写真を睨み付けた。
上司から任務の話を持ちかけられた時に、訝るべきだった。新卒採用が、簡単に実力を認められるわけがない。
それなのに、変に舞い上がった挙げ句にこの様だ。何が悲しくて、ゴキブリを彼氏にしなければならないのだろう。
 だが、引き受けた以上、全うしなければならない。紫織はマグカップを洗うためにデスクを立ち、研究室を出た。
給湯室に入ってマグカップを洗いながら、壁に造り付けられた鏡を見、そこに映る子供染みた顔の女を見つめた。
驚くほど白衣が似合わず、まるで子供のお医者さんごっこだ。大学時代の友人にも、そんなことをよく言われた。
背伸びをした化粧や服装をしてみたこともあるが、子供っぽさが抜け切れず、却ってちぐはぐになってしまった。
可愛いと言われることは多かったが、それは身長の低さや顔立ちの乳臭さを指すもので褒め言葉ではなかった。
だから、周囲の友人達が合コンやデートに勤しむ様を見ていても、羨みを通り越して妬みとなり、諦観になった。
周囲に引け目を感じるあまりに、特に好きでもない男と付き合ってみたが、心が埋まるどころか情けなくなった。
 恋愛なんかしなくてもいい。結婚なんか面倒なだけ。自分だけが出来る仕事をして、一人で生きていけばいい。
だから、自分には男は必要ない。そう思っていたのに、怪人ゴキブリ男と恋愛しろと政府から命令されてしまった。
そんなこと、上手く行くわけがない。まず紫織がその気ではないのだから、黒田はもっとその気ではないはずだ。
増して、紫織は男性経験が全くない。たらし込むんだったら、もっと男慣れした女を使った方が余程良いだろう。
 失敗が前提の作戦ほど、空しいものはない。




 それから、紫織の仕事内容が変わった。
 それまで紫織は研究室に詰めていたのだが、現場の人間と関わらざるを得ない外に出る仕事が回されてきた。
人型昆虫の生態に関する研究を進めるためにも、現場に出ることは必要であるが、紫織の得意分野ではない。
どちらかと言えば、研究室に籠もって細胞を培養したり細々とした実験を繰り返したりする方が性に合っている。
 サンプル回収用のクーラーボックスを肩に担ぎ、紫織は立ちこめる異臭に辟易しながら、現場を見渡していた。
研究員よりも自衛軍の兵士の方が数が多く、完全武装して自動小銃を構え、人型昆虫の出現を警戒している。
 都心部からそれほど離れていない住宅街を見下ろせる高台に、女王が出現し、大量の卵を産み付けていった。
長い坂の中腹の斜面が深く抉られ、崖崩れを防ぐために斜面を補強していたコンクリートが派手に剥がれている。
露出した地中には、虫の卵が埋め込まれていた。楕円形で長さ二十センチほどの物体がみっしりと詰まっている。
ぬらぬらと光る表面や生臭い体液の匂いだけでもうんざりしていたが、サンプルの卵を回収しなければならない。
状態が良いものは培養して戦術外骨格の素材として使うので、出来る限り傷の少ないものを選ぶ必要があった。
もちろん、それは自分の手で行わなければならない。人型昆虫の卵は、成虫と違って非常に柔らかく潰れやすい。
下手な道具を使えば、すぐに潰してしまう。だが、その妙な柔らかさを想像するだけで、紫織は背筋が逆立った。

「うー…やんなっちゃう…」

 紫織は防護ゴーグルとマスクを付けてゴム手袋を填めてから、兵士達の間を擦り抜けて大量の卵に近付いた。
近付くに連れ、異臭が強くなってくる。マスクを付けていても、腐敗の始まった体液の匂いは難なく通り抜けてくる。
胃が収縮したが、気合いで押し殺した。まだ卵に触りもしないのに吐いてしまっては、研究員としての立場がない。

「小蝶、お前は左側から調べてくれ。女王の卵があれば、すぐに回収しろ」

 今回の現場主任である鎌谷研司に指示され、紫織は渋々左側に向かった。

「了解でーす」

「女王が卵を産み落として姿を消すのは珍しいことじゃないが、これだけ数が多いのは初めてだな」

 慣れた手付きで体液まみれの卵を抜き出しながら、鎌谷は独り言のように述べ、卵を光に透かした。

「卵の形状と幼生体の形からして、こいつはチョウかな?」

「えー…」

 紫織が渋い顔をすると、中程で卵を調べている同期の蛍原雄哉が笑った。

「丁度良かったじゃん、小蝶。お前がこいつらの培養をしてやれよ。得意分野なんだろ?」

「でも、私、子供の頃にカブトムシの幼虫を死なせちゃったんですよね。もちろん、普通のちっちゃいやつですよ」

 紫織は手近な卵に触れようとしたが、指先に体液が付着した途端に顔をしかめた。

「だから、虫なんて育てられませんってば」

「やってみなきゃ解らねぇよ、案外上手く行くかもしれないし?」

 蛍原はけたけたと笑いながら卵を選別していたが、鎌谷は笑いもせず、防護ゴーグルの下で眉根を歪めた。

「蛍原、あまり無理は言ってやるな。小蝶には他の仕事がある」

「あ、そうなんすか?」

 手が増えると思ったのに、とぼやきながら、蛍原はまた卵の選別に戻ったが、傷の付いたものは投げ捨てた。
蛍原の頭越しに注がれる鎌谷の視線に、紫織は目を逸らしてしまった。きっと、鎌谷は黒田の件を知っている。
その証拠に、鎌谷は同情と悲哀の混じった視線を注いでいる。それが無性に嫌で、紫織は卵を一つ掴み取った。
だが、力が入りすぎて握り潰してしまった。指の間から不定型な物体が流れ出し、びしゃびしゃと足元を汚した。
思い切り顔を歪めながら、紫織はもう一つの卵を取った。今度は上手く行ったが、汚れた指の間から滑り落ちた。
体液に汚れた足元に落下し、無惨に潰れた。これ以上失敗出来ない、と紫織は奮起してまた新しい卵を取った。
ようやく取れた卵を眺め回し、傷付いていないかを入念に確かめてから、その卵をクーラーボックスへと入れた。
再び目を上げると、鎌谷は自分の作業に戻っていた。蛍原は訝しげだったが、紫織を言及することはなかった。
 黒田を銜え込んでたらし込むのが、今の紫織に与えられた最重要任務だ。だが、思い出すだけで嫌になった。
時間が経つに連れ、とんでもないことを引き受けてしまった、との後悔ばかりが募り、胃がきりきりと痛んでくる。
研究作業も任務に入っているが、それはあくまでも黒田に政府側の動向を悟られないためのカモフラージュだ。
政府公認の娼婦だ、美人局じゃないか、と嫌な言葉ばかりが頭をぐるぐると巡り、紫織は泣きたくなってしまった。
 命令が下された直後、黒田と会った。もちろん任務のことは隠し、学術的に興味を抱いた研究員としてである。
出来る限りの作り笑顔を見せ、好意を感じさせるような声色を出したが、黒田は紫織をろくに見ようともしなかった。
結局黒田は紫織とは一度も目を合わせず、紫織に必要事項だけ伝えた後、すぐにその場を立ち去ってしまった。
彼が去った後に残ったのは、戦闘時に浴びた人型昆虫の体液溜まりと生臭い死臭、途方もない嫌悪感だった。
その後も、何度か黒田と接触する機会はあった。けれど、好意を寄せるどころか嫌悪感ばかりが増えていった。
紫織のわざとらしい態度が良くなかったのも事実だが黒田の態度も冷淡極まりなく、事務的に対応されただけだ。
これでは、関係を持つ以前の問題だ。上手く行っても同僚止まりで、間違っても恋愛関係になどなれないだろう。

「小蝶」

 鎌谷から声を掛けられ、紫織は意識を戻した。

「はい、なんですか」

「どうしても嫌だったら、人事部に掛け合って他の部署に回してもらえ」

「いえ、大丈夫です。仕事を引き受けた以上、全うしなきゃいけませんから」

 紫織は防護ゴーグルとマスクの下でぎこちなく笑顔を作るが、声色は引きつっていた。

「だったら、一ついいことを教えておいてやる」

 鎌谷は卵を取り出す手を止め、紫織の姿を防護ゴーグルに映した。

「あの人が戦う理由は、死んだ女のためだ。それは、これからも変わらないだろう」

「…はい」

 紫織は小さく頷き、力なく答えた。蛍原は二人を見比べていたが、多少話の筋を掴み取ったらしく、押し黙った。
人型昆虫対策班の中で、名指しで呼ばれないような人間は限られている。それは、黒田が人間ではないからだ。
蛍原は紫織に対する目線を好奇から同情に変え、不満げに眉根を顰め、マスクの内側でぐちぐちと零していた。
その言葉は聞き取れなかったが、大方黒田に対する侮蔑だろう。実力はあっても、やはり黒田は虫に過ぎない。
 黒田は外骨格に覆われた体の内側は人間だが、両手足を失い、内臓の大半も人型ゴキブリに置き換えている。
つまり、黒田は半分以上が虫なのだ。知性と理性だけが彼の人間らしさであり、それがなければ継ぎ接ぎの虫だ。
他の誰からも好かれていないから、紫織一人からでも好かれれば、黒田の心は容易く政府側に繋ぎ止められる。
言ってしまえば、いじめられっ子と仲良くしろと教師に言われて無理矢理いじめられっ子を遊びに誘うようなものだ。
だが、紫織も黒田も成人済みで人型昆虫の事情が絡んでいるのだから、いじめられっ子とは程度が違いすぎる。

「ん?」

 不意に、蛍原が手を止めた。

「なんか、足元揺れてないですか?」

「ん、そうか?」

 鎌谷も手を止めて立ち上がり、紫織も顔を上げた。だが、蛍原の言うような震動は足の裏に感じ取れなかった。
蛍原が首を捻り、鎌谷が作業に戻り、紫織もまた卵の山に向き直った時、長い坂の頂上付近で轟音が起きた。
兵士達が揃って向き直り、素早く自動小銃を構える。黒光りする銃口に睨まれた粉塵の中から、巨体が現れた。
泥と体液にまみれた白い頭部を引き摺り出し、六本の足をぐねぐねと動かしながら、女王がぎいぎいと鳴き喚く。
ここに産み付けられた卵の主らしく、腹部は萎んでいて、穴という穴から青い体液が滝のように流れ出していた。

「あれが、女王?」

 紫織は後退り、蛍原は変な声を漏らし、鎌谷は硬直した。一列に並んだ兵士は、女王へ自動小銃を発砲した。
銃声と共に放たれた弾は、案の定跳弾した。引き続き連射されたが、一発も女王の外骨格に埋まらなかった。

「総員退避!」

 小隊長が叫ぶと、紫織は鎌谷に腕を引かれた。

「早く車に戻れ、でないと死ぬぞ!」

「ほら、早く早く!」

 蛍原に突き飛ばされた紫織は、鎌谷に引っ張られて駆け出したが、動揺していたために足がもつれてしまった。
鎌谷の手から腕が滑り落ち、強かにアスファルトに顔を打ち付けた。途端に溢れた鼻血を、白衣の袖で押さえた。
痛みと血生臭さで涙目になりながら紫織が顔を上げると、今し方まで存在していた鎌谷の上半身が消えていた。

「…あれ?」

 目の錯覚だろうか、と瞬きして見直すが、鎌谷の上半身は真っ二つに切断されて血と内臓が吹き出していた。
折れた背骨には白衣の切れ端が絡み付き、血飛沫が頭上から降り注ぎ、坂の下方へ上半身が転げていった。
どうしてこんなことに、と紫織が見開いた目を左右に動かすと、見えていたはずの空が何かに覆い隠されていた。
 女王だった。坂の傾斜に従って滑り落ちてきた女王は、巨体で蛍原や兵士達を押し潰し、肉塊に変えていた。
鎌谷の上半身を切り飛ばしたのも、女王の上右足だった。彼の名残である、赤黒い布の切れ端が付着している。

「ぅあ、ああ…」

 がちがちと顎を鳴らしながら、紫織は後退ろうとしたが腰に力が入らず、足が立たなかった。

「や、やだぁ、死にたくないぃいいいっ!」

 頭を抱えて縮こまった紫織に、女王の血塗れの上右足が振り上げられ、重たい唸りを放ちながら迫ってきた。
ああ、死んだ。そう思った紫織は体に及ぶであろう痛みを待ち受けていたが、何も起きず、恐る恐る目を上げた。
 紫織の視界に、茶褐色の背が広がっていた。琥珀色よりも若干鈍い色合いの羽が開き、触角が揺れている。
傷だらけの上右足は女王の上右足を受け止めていて、アスファルトを噛んでいるつま先は鋭く分厚い爪だった。
首に巻き付けられた赤いマフラーは、人型昆虫のものと思しき体液をたっぷり吸っていて青紫に変色していた。

「逃げろ、小蝶君!」

 女王の上右足を押さえながら、人型ゴキブリ、黒田は叫んだ。

「は、はい!」

 紫織は震えながら頷いたが、這いずるように動くことしか出来ず、黒田の背後から数メートル程度遠ざかった。
紫織の姿を濡れた複眼の端で確認してから、黒田は女王の上右足を離し、すぐさま足元を蹴って飛び上がった。

「とおっ!」

 上昇しながら掛け声を上げた黒田は、女王の頭部に向かって下右足を突き出した。

「シャイニングキィーックッ!」

 その単語を聞いた途端、紫織は目を丸くした。紫織の知る黒田なら、絶対言わないであろう言葉だったからだ。
それに、赤いマフラーを付けている意味が解らない。前に顔を合わせた時には、そんな装備は付けていなかった。
もしかしてあのヒーローを目指したのか、いやそんなことは、ああでもこの感じは、と紫織は黒田を凝視していた。
 黒田の蹴りを受けた女王は仰け反って後退ったが、姿勢を戻して黒田を見据えると、乱暴に上両足を振った。
黒田は俊敏に跳ねて攻撃を回避し、女王が力任せに放った上右足をアスファルトに埋めた瞬間、駆け出した。

「この隙を待っていたのだ、女王よ!」

 とおっ、と再び掛け声を上げて跳躍した黒田は、下右足を伸ばして女王へと落下した。

「正義の裁きを受けるが良い!」

 体液と砂に汚れた茶褐色の爪が女王の白い頭部に当たり、先程の打撃で歪んでいた部分が割れ、砕けた。
青い体液が噴き出す中に下右足を深くめり込ませた黒田は、ぐりっと足を捻って女王の脳と神経を掻き乱した。
女王は凄絶な絶叫を撒き散らして六本足をわしゃわしゃと動かしていたが、程なくして止まり、倒れ込んできた。
巨体が転倒する寸前に脱した黒田は、体液と脳漿にまみれた足で着地し、女王が息絶えるまで注視していた。

「ケガはないか、小蝶君」

 黒田は紫織に振り向き、比較的汚れの少ない上左足を伸ばしてきた。

「あ、まぁ…」

 君付けで呼ぶ人だっけ、と混乱しながら、紫織は黒田の爪先を取らずに立ち上がろうとしたが、膝が折れた。
またもや転びそうになったが、黒田はすかさず上左足で紫織の左腕を掴んで支え、紫織に座るように促してきた。

「無理はするな、休んでいた方が良い」

「はい、そうします」

 紫織は素直に従い、座った。黒田は頷いてから、女王の死体を見やった。

「女王が産卵した卵が発見されたとの報告は受けていたのだが、全く別の地点に人型昆虫の群れが出現していたんだ。そちらの方が居住区域に近いこともあって優先したのだが、まさか産卵後の女王が生きていたとはな。俺の読みが甘かったようだ」

「あの、黒田三佐」

 紫織がおずおずと声を掛けると、黒田はマフラーを靡かせるように勢い良く振り返った。

「違うな、俺の名はブラックシャイン! 世界が滅びに向かう時、闇の底より現れる、光を放つ正義の戦士!」

「はぁ…」

「小蝶君。君だけでも助けることが出来て良かった」 

 黒田は紫織の前に片膝を付けて屈むと、ぎちりと顎を軋ませた。やはり妙な調子だったが、誠実な言葉だった。
紫織は生き延びられた嬉しさと安堵感で気が緩み、涙が滲んできた。安堵しすぎて、おかしな気分になりかけた。
他の皆が死んでしまったからだろうが、一瞬、目の前にいる黒田に縋りたいと思ってしまった。ゴキブリ男なのに。
 そして、異変を察知した対策班と自衛軍の車両が到着して、ただ一人生き残った紫織は黒田と共に帰還した。
移送される最中も黒田はブラックシャインと呼べと言い張り、テレビの中のヒーローのような立ち振る舞いだった。
だが、対策班分室に到着する寸前で黒田は急に押し黙り、紫織が話しかけても無機質な言葉で返すようになった。
その理由を手近な医師に尋ねると、黒田は戦闘高揚剤を使っていて、効いている間はヒーローなのだ、と言った。
テンションが高い理由も、戦闘高揚剤でハイになっていたからだろう。腑に落ちたが、別のものが引っ掛かった。
 急に、黒田が哀れに思えてしまった。今までは蔑むばかりだったが、黒田は一人きりで戦い続けているのだ。
彼を補助する者達はいるが、彼を慕う者はいない。それどころか、対策班全体が黒田の存在を忌み嫌っている。
つい先程まで黒田を心底疎んでいた紫織が言えた義理ではないが、それではあまりにも黒田が悲惨ではないか。
紫織に与えられた情報に寄れば、黒田は婚約者であった研究員、水橋櫻子と同時に実の妹まで失っているのだ。
挙げ句に黒田自身も瀕死の重傷を負って、人型ゴキブリを移植されて改造人間と化して人型昆虫と戦っている。
悲劇に次ぐ悲劇で、黒田は心が折れていないわけがない。実際、折れているから、戦闘高揚剤に頼るのだろう。
 対策班分室に到着すると、黒田は無言で自衛軍の輸送車両を降り、痛みを耐えるために顎を食い縛っていた。
黒田に紫織は声を掛けたが、黒田は振り向きもしなかった。無性に彼を放っておけなくなり、紫織は駆け出した。

「あの!」

 紫織は手術室へ向かう黒田に追い縋り、声を上げた。

「なんだ」

 かなり煩わしげに振り向いた黒田に、紫織は頭を下げた。

「助けて下さって、どうもありがとうございました!」

「俺は君一人しか救えなかった。礼を言われる資格はない」

「それでも、ありがとうございました!」

「小蝶。前から思っていたんだが、俺に執着を持つな。死ぬぞ」

 吐き捨てるように言い残した黒田は足早に手術室に向かい、茶褐色の外骨格に覆われた背中が遠ざかった。
紫織も女性看護師に治療室に行くように促され、歩き出したが、黒田が気になって何度となく振り返ってしまった。
もっと他に良い言葉があったかもしれない、どうして今まで気付かなかったんだろう、と紫織は自責を繰り返した。
 この出来事を境に、紫織は黒田を怪人ゴキブリ男ではなく黒田輝之という一人の男性として見るようになった。
黒田自身は何も変わっていないのに、紫織が少し認識を変えただけで、以前に比べて随分親しみやすくなった。
だが、それは紫織が一方的に思っているだけなので、黒田に近付こうが話しかけようが邪険にされるだけだった。
受け流されると腹が立ち、言葉を返されるとなんだか気分が浮き立ち、姿を目に留めると一日中考えてしまった。
黒田も当初は紫織を鬱陶しがって避けていたが、そのうちに紫織に慣れてきたらしく、態度が微妙に和らいだ。
といってもあしらう言葉が、邪魔だ、から、帰れ、に変わった程度のもので、黒田が心を開いたわけではなかった。
黒田との距離が少しずつ狭まるに連れ、黒田の心には櫻子と百香が息づいていることを知り、やるせなくなった。
 紫織は、いつのまにか任務であることを忘れていた。黒田を知りたくて、黒田を支えたくて、黒田を追い求めた。
そして、気付いた頃には、戦闘高揚剤で正義の味方になることで己を保つ哀れな戦士を想うようになっていた。
 初めて、恋と呼べる恋をした。







09 4/19