豪烈甲者カンタロス




汚れた初恋



 人型昆虫との戦いが激化し、黒田の任務内容が変更された。
 人型昆虫対策班と国立生物研究所は、似て非なる組織だ。活動は酷似しているが、方向性が正反対なのだ。
どちらも内密に人型昆虫の研究を行っているが、研究所は資金力と組織力に物を言わせて過激な実験を行う。
都内から家出した少女達を誘拐しては女王の卵を強引に移植し、死なせ、実験台の人型昆虫に喰わせている。
研究所の総元締めである政治家によって、湯水の如く自衛軍の兵士達が投入され、死人ばかりを増やしている。
研究所が設立されて以降、弄ばれた死者の数は十や二十では足りず、把握している限りで百を悠に超えている。
犠牲者の数だけ研究成果を上げているかといえば、この十年で出来上がったのは不完全な戦術外骨格だけだ。
完成に漕ぎ着けた戦術外骨格は、現在に実戦投入されているものを含めても三体しか出来上がっていなかった。
どう見ても、効率が悪すぎる。そして、その三体を造り上げるために死んだ少女の中には黒田の幼い妹がいた。
このまま研究所の暴走を許せば、人型昆虫を滅ぼすよりも先に、研究所によって日本は傾いてしまいかねない。
 対策班の上層部から黒田に言い渡された命令は、国立生物研究所に潜入し、現状を調査せよとのことだった。
黒田は一旦本来の任を解かれ、諜報員として活動する許可が下され、対策班本部から支部へと異動になった。
といっても、真っ当に諜報を行うわけではなく、黒田の手足となる人間が投入された。それが城岡玲司なる男だ。
城岡は重大犯罪を犯していながらも罪に問われなかった男で、処罰を与える代わりに人としての尊厳を奪われた。
黒田は改造された際に得た特異な能力で、人型ではない普通のゴキブリに命令を下し、城岡の脳に潜入させた。
そして、黒田は思考能力の大半を失った城岡を研究員らしく振る舞わせるため、研究所に潜入することになった。
 紫織にも、黒田の異動が知らされた。最初に戸惑い、次にひどく寂しくなり、最後にどうしようもなく不安になった。
黒田が正式に異動するのは二日後だが、それまで紫織には何一つ知らされず、直前になって書類で伝えられた。
おかげで本来の仕事に気が入らず、上の空になった紫織は上司から何度も怒られながらその日の勤務を終えた。
白衣姿から私服に着替えたが、気が緩むどころか切なくなって、紫織は足元を見つめながら廊下を歩いていた。
正面玄関に向かっていると、地下駐車場に繋がる階段から足音が聞こえ、紫織は反射的にそちらに顔を向けた。
 生臭い異臭。泥臭い死臭。油を塗ったような光沢だけでない、虫の体液による光沢を帯びた茶褐色の外骨格。
長い触角を揺らしながら、黒田が昇ってきた。がしゅ、と汚れた爪先が床を噛んだが、黒田は膝を折って崩れた。

「…くそ」

 壁に上右足を付いて身を支えた黒田は、顎を開き、腹部を膨らませ、汚れたマフラーを解いて投げ捨てた。

「もう切れちまったのか。もう少し持つと思っていたんだが」

「黒田三佐、大丈夫ですか?」

 紫織が駆け寄ると、黒田は顎の中に溜まっていた体液混じりの唾液を吐き捨てた。

「俺に触るな。汚れるだけだ」

「でも、凄く辛そうですから」

「薬が切れただけだ。それに、君はもう仕事が終わったんだろう。だったら、さっさと家に帰れ」

「いえ、ここもまだ仕事場です! だから退勤したことにはなっていません!」

 紫織は服が汚れるのも構わず、黒田の体を支えた。黒田は紫織を振り払おうとするが、膝が落ちた。

「変な奴だ」

「手術室ですか、それとも医務室ですか?」

 紫織は黒田の体重を辛うじて支えながら問うと、黒田は顎を軋ませた。

「どっちもダメだな。今、俺が乗ってきた車両には、負傷した兵士が満載なんだ。俺は女王を仕留めたんだが、虫共の群れまでは仕留めきれなかったんだ。おかげで、五六人ほど手足が吹っ飛んじまった。だから、そいつらの治療が先だ。俺の薬なんか、後でもいい」

「じゃ、私がもらってきます!」

「余計なことはするな。頼むから、早く帰ってくれ」

 黒田は首を横に振るが、紫織は譲らない。

「いいえ、帰りません! すぐにお薬を頂いてきますから、ここで大人しくしておいて下さいね!」

 紫織は黒田をロビーの椅子に座らせてから、荷物を放り出して駆け出し、ヒールだったので転びそうになった。
紫織は手術室と併設した医務室へと駆け込もうとしたが、背後から駆け抜けてきたストレッチャーに道を譲った。
黒田の言った通り、次々に負傷した兵士達が運ばれてくる。廊下には、血と硝煙が入り混じった異臭が満ちた。
手足を切断された兵士達は、切断された部分にきつく布を巻き付けられているが、出血までは止まっていない。
ストレッチャーから零れた血が廊下に散らばり、ベンチや床にも兵士が寝かせられ、呻き声が幾重にも響いた。

「あの役立たずが!」

 突然の怒号に紫織が驚くと、比較的負傷の少ない兵士が壁を殴り付けていた。

「改造人間だかなんだか知らないが、俺達をこんな目に遭わせやがって!」

「あの…何があったんですか?」

 紫織が怖々とその兵士に声を掛けると、兵士はヘルメットをかなぐり捨てて紫織の襟首を掴み、喚いた。

「お前らに、俺達の何が解るってんだよ! 安全な部屋に籠もって虫の死体をいじくり回してるだけのくせして、何があったもクソもねぇだろ! ゴキブリ野郎は役に立たねぇし、仲間はどんどんやられていくし、それなのに虫は馬鹿みたいに増えるし、俺達にどうしろってんだよ! 俺達に意見する暇があったら、さっさと生物兵器でも毒でも何でも作りやがれ! でないと、まずはお前から殺すぞ!」

 荒々しく壁に押し付けられた紫織は、喉の圧迫感と恐怖で声を詰まらせた。

「ご、ごめんなさい…」

「軽々しく声を掛けるんじゃねぇよ、何も解っちゃいないくせに!」

 紫織を投げ捨てた兵士は、倒れ込んだ紫織を蹴ろうと足を上げたが、数人の兵士によって取り押さえられた。
紫織はがくがくと震えながらその場から脱し、怒声が響き渡る医務室前の廊下から出たが、座り込んでしまった。
震えと涙が止まらず、動けなかった。あの兵士の言う通りだ、何も解らないくせに黒田に感情を押し付けている。
黒田は心を開かないのではない、開けないのだ。紫織が勝手に好きになり、勝手に馴れ馴れしくしているのだ。
今だって、黒田は紫織を必要としなかった。それなのに、一人で先走って余計なことをして、こんなことになった。
 袖に顔を埋めて泣きじゃくっていると、頭上に影が掛かった。生臭さを感じて顔を上げると、黒田が立っていた。
壁に縋り、膝も上手く伸びていなかったが、ここまで歩いてきたようだった。紫織は罪悪感に駆られ、顔を覆った。

「ごめんなさい、今までずっと迷惑でしたよね、それなのに、私!」

「いや」

 黒田は壁に背を当ててずるりと座り込み、下両足を投げ出した。

「今はそうでもない。だから、早いところ薬が欲しかったんだが、あれじゃ当分は無理だな」

 廊下の角から複眼の端を出した黒田は、哀れな負傷者達を見やった。

「だが、あいつらを責めてやるな。全て俺の責任だ」

「でも、黒田三佐は頑張ってます!」

「頑張ったからって、結果が伴わなきゃ何の意味もない。それが戦いなら尚更なんだよ」

「だけど…」

 紫織はぼろぼろと涙を落としながら、俯いた。

「気持ちだけで充分だ。だから、それ以外は何もいらない」

 黒田は紫織の横顔を一瞥し、呟いた。

「どうも俺は、何かを得ようとするとそれ以上に失う性分らしくてな。だから、俺の回りの人間は皆死んでいくし、俺は力を得た代償に人間としての存在価値を失った。俺に近付きすぎれば、いずれ、君も死ぬ」

「そんなこと、まだ解らないじゃないですか」

 紫織が首を横に振ると、黒田は顎を軋ませた。

「解るさ」

 二人の沈黙は、医務室と手術室からの声に掻き乱された。医師や看護師は、患者の容態を伝え合っている。
兵士は互いに励まし合いながら人型昆虫や黒田を呪う言葉を吐き出し、廊下では看護師達が駆け回っている。
紫織は袖で涙を拭い取っていたが、黒田の体液や兵士の血が染みたジャケットに目を落とし、それを脱ぎ捨てた。
そして、黒田の外骨格を拭い始めた。黒田はやや腰を引いたが、紫織は負けじと身を乗り出して黒田を拭いた。

「すみません、何も出来なくて! だから、これぐらいはさせて下さい!」

「おい、小蝶」

 黒田は紫織を押し返そうとするが、紫織は黒田を壁に押し付け、その複眼の汚れを拭き取った。

「別にいいじゃないですか、どうせ私は死ぬんですから! 黒田三佐に近付いても近付かなくても、いつか必ず死にますよ! でも、黒田三佐がいてくれなきゃ、もっと早く死んじゃいますよ!」

 顎を拭い、首を拭い、胸元を拭い、紫織は汚れを吸ったジャケットを強く握り締めた。

「黒田三佐は、私を守れたじゃないですか!」

「だが、君以外の誰も救えなかった」

 紫織を見上げながら、黒田は顎を薄く開いた。紫織は黒田に迫り、叫ぶ。

「だけど、私はこうして生きています! だから、死にたくないんです、もっと守ってくれないと困るんです!」

「少し落ち着いたらどうだ、言葉の意味がよく解らん」

「私は充分落ち着いてますよ! 黒田三佐の方こそ、もう少し喜んだらどうですか!」

「この状況で何を喜べって言うんだ、それこそ意味が解らん」

「黒田三佐に助けられた人間が生きているんですよ、でもって御礼を言っているんですよ!」

「とてもそうは思えないんだが」

「じゃあ今からちゃんと言います、何度だって言ってやりますよ!」

「だから、それで何がどうなるんだ」

「どうもこうもないですよ! 言わなきゃ気が済まないんです!」

「少し黙れ。お前の声が頭に響いて、おかしくなっちまいそうだ」

 黒田がぎちぎちと顎を鳴らしたので、紫織は勢いを失い、座り込んだ。

「ごめんなさい…」

「お前の言わんとするところは解らないでもない。だが、俺はそこまで偉くはないし傲慢にもなれん」

 薬が切れているからな、と付け加えた黒田は、爪の背で触角をなぞって汚れを削ぎ落とした。

「研究所への潜入任務だってそうだ。俺は肝心の首都防衛を放り出して、私怨を晴らしに行くんだからな。その間に対策班が襲撃されたら、元も子もない。それが解っているくせに、ここから離れるんだ。自分でも充分愚かだと思うが、押さえ切れないんだ。あの女を殺さなきゃ、俺は死んでも死にきれない。改造人間になったのも、言っちまえばそのためだ。小蝶、お前は俺を買い被りすぎているんだよ」

「私のこと、そんなに嫌いなんですか?」

「俺に好かれたところで、良いことなんて一つもない。だから、これ以上俺に構うのはやめてくれ」

「でも、待っているのは構いませんよね?」

 紫織は真摯な眼差しで、黒田を見つめた。黒田は内心で眉を曲げたのか、触角が僅かに揺れた。

「…なんだと?」

「それぐらいなら、いいですよね?」

 紫織が懇願すると、黒田は辟易したように触角を下げた。

「俺を待ってどうなる」

「出迎えるんです。それ以外の何がありますか」

「変な奴だ」

 黒田は紫織の視線から逃れるように身を引き、深く息を吐きながら肩を落とした。

「だが、悪い気はしないな」

 好意的とは言い難いが、紫織の言葉が肯定されたのは初めてだ。紫織は陰鬱な気分が吹き飛び、嬉しくなった。
その気持ちを示そうと思ったが、口を噤んだ。彼は疲弊しているのだから、騒ぎすぎてまた疲れさせるのは酷だ。
けれど、何も言わないままでいたくない。紫織が言うべき言葉を考えていると、黒田は壁に上左足を付いて立った。

「さすがに限界だ。早く、薬を…」

 彼を支えようと紫織が立ち上がりかけると、黒田は紫織を制し、下両足を引き摺るように医務室へ歩き出した。

「あいつらの前で俺に構うな。今度こそ殺されるぞ、紫織」

 黒田が医務室に消えても、紫織はしばらく立ち尽くしていた。下の名前を呼んでくれたのは無意識か、或いは。
けれど、深読みしすぎて舞い上がっては黒田に迷惑を掛けてしまうので、紫織は高揚する気持ちを抑え込んだ。
泣いて叫んだせいで喉が痛く、色々な感情が詰まった胸が痛く、そして自分の姿のひどさに気付いてしまった。
先程までは夢中で気付かなかったが、お気に入りのジャケットは青い体液まみれでブラウスもスカートも同様だ。
涙で化粧も落ちていて、色が混じり合っている。とてもじゃないが、この格好では家に帰るどころではなかった。
ロビーに放り出してあったバッグと最早汚れた布でしかないジャケットを抱え、紫織は女子更衣室に飛び込んだ。
 今し方脱いだばかりの勤務服と徹夜明け用のブラウスや下着を抱え、シャワールームに入り、体を洗い流した。
涙も体液も化粧も温水に溶かしながら、紫織は黒田の声で呼ばれた自分の名を反芻し、胸が締め付けられた。
今までは名字だけだった。それは、黒田の中での紫織は研究員の一人に過ぎず、記号も同然であったからだ。
だが、黒田は紫織の名を呼んでくれた。黒田の心を占めることは出来ないだろうが、それだけでも充分過ぎた。
 ゴキブリなのに、好きになってしまう。




 一年以上の潜入任務を終え、黒田が帰ってきた。
 対策班分室の屋上に設置されたヘリポートを目指して昇っていくエレベーターが、いつになくもどかしかった。
輸送ヘリからの報告に寄れば、黒田は三体の戦術外骨格と女王の卵を孕んだ少女達を引き入れたのだそうだ。
黒田の任務内容には含まれていたが、あまり期待されていなかったことなので、対策班全体が浮き立っていた。
連日の戦いで継ぎ接ぎの体が傷んできた黒田だけでは、人型昆虫や女王との戦いは乗り切れないからだった。
紫織と共にエレベーターに乗っている研究員達は、戦術外骨格の生体構造や女王の卵について話し合っていた。
だが、黒田の帰還については誰も触れていなかった。けれど、それが全く気にならないほど紫織は歓喜していた。
 エレベーターのドアが開くのももどかしく、こじ開けるように飛び出した紫織はヘリポートに真っ直ぐ駆け込んだ。
輸送ヘリからは、少女を抱えた人型カブトムシ、同じく少女を抱えた人型スズメバチ、人型クワガタムシが現れた。
カンタロス、ベスパ、セールヴォランだった。兜森繭と思しき少女は気を失っていて、カンタロスに抱かれていた。
蜂須賀ねねと思しき少女は疲弊しており、目は開けているがベスパにもたれかかって一言も口を利かなかった。
セールヴォランは己を抱き締めて、桐子、桐子と繰り返している。彼らは兵士に促され、エレベーターに向かった。
意外にも、誰も抵抗しなかった。紫織は巨体の虫と少女達を見送ってから、最後に下りてきた黒田へ駆け寄った。

「黒田二佐ぁっ!」

 黒田は赤いマフラーを靡かせながら紫織に向き、呆れたと言わんばかりに顎を開いた。

「お前、来るのが早すぎないか」

「だって、待っているって言ったじゃないですか」

 紫織が笑みを向けると、黒田は顔を背けた。長い触角が荒い風に弄ばれ、マフラーと共に揺れている。

「相変わらず、変だな」

「それと、昇格おめでとうございます! 凄いですよね、二十代で二佐なんて!」

 紫織が満面の笑みで褒めると、黒田はぎちっと顎を鳴らした。

「大したことじゃない。部下が出来るわけでもないからな」

「あの子達、戦力になりそうですか?」

 紫織が戦術外骨格と少女達が乗った業務用の大型エレベーターを指すと、黒田は返した。

「解らん。だが、もう俺の力だけではどうにもならないんだ。使えようが使えまいが、あの連中を使うしかない」

 黒田は紫織の隣を通り過ぎ、汚れたマフラーを解いて、紫織に渡した。

「小蝶、悪いがこいつを洗っておいてくれ。俺はこれから体を治しに行く」

「はい、了解です!」

 紫織は大きく頷いてから、黒田の横顔を見つめた。

「下の名前でいいですよ、黒田二佐」

「しかし、あれは」

 物の弾みだったんだが、と黒田がやりづらそうに漏らすと、紫織は敬礼した。

「理由なんて、どうだっていいじゃないですか! お帰りなさい、黒田二佐!」

「ただいま、紫織」

 黒田は少々間を置いた後、言った。紫織は精一杯の笑顔を保ちながら、黒田に抱き付きたい衝動を堪えた。
今すぐにでも近付き、好きだと言いたい。思いの丈を、全身で現したい。けれど、黒田は戦い終えたばかりだ。
紫織は黒田に一礼し、エレベーターに戻った。高鳴る心臓を押さえながら、紫織は滲んできた涙を拭い取った。
黒田、もとい、ブラックシャインのマフラーを手にするのは初めてだ。新品と見違えるほど綺麗に洗ってやろう。
 いつか必ず、好きだと言おう。任務のことなど関係なく、心から好意を伝えよう。間違いなく、黒田はヒーローだ。
誰のヒーローでなくても、紫織の中のヒーローだ。言葉に出来る気持ちは全て言葉にして、行動にして示したい。
たとえ好きだと言われなくても、心を開いてもらえなくても、紫織が黒田にとって何の役に立たなくても構わない。
紫織はヒーローに守られるヒロインにもなれなければ、ヒーローを助けるヒロインにもなれない、汚らしい道化だ。
黒田を救いたくても救えず、愛しても愛されないと解っている。それなのに、黒田を想わずにはいられなかった。
 それが、恋だ。







09 4/21