豪烈甲者カンタロス




死した未来



 鉄の味がする。
 噛み締めた肉から滲み出す血は生温く、かつて自分も有していた体温を思い出させる、心安らぐ温度だった。
顎で挟んだ筋肉を引き千切って骨から剥がし、咀嚼する。無闇に胃を重たくさせる脂肪よりもこちらの方が良い。
一通り肉を喰い終えたら、今度は山積みになった骨を折って髄液を垂らし、開いた顎の中にだらだらと落とした。
顎に貼り付いた皮膚を刮げ落としてから、それも飲み下した後、黒田輝之は腹部の吸気口から息を吸い込んだ。

「ああ…」

 旨い。実に旨い。神経がぞわぞわと逆立ち、脳が掻き乱され、訳の解らない高揚に踊り出しそうになる。

「どうして、俺は」

 顎に入りきらなかった髄液を爪の腹で拭ってから、それも啜り、黒田は感嘆した。

「これまで、人間を喰ってこなかったんだろうな」

 黒田の周囲に、大量の人間が死んでいた。それはいずれも、この国の防衛を支える上層部の人間達だった。
陸上幕僚長、海上幕僚長、航空幕僚長、各方面隊の幹部達、防衛省の官僚達、与党、野党の政治家、だった。
彼らを守るために配備された自衛軍の軍人や警官隊、かつて黒田が指揮を執っていた特装部隊の隊員達もだ。
皆、黒田の爪によって喉や腹を切り裂かれて己の血の海に没し、吹き上がった血は天井から雨のように滴った。

「俺を処分するだと?」

 政治家の腹を裂いた時に付いた脂肪を暗幕を兼ねたカーテンで爪を拭ってから、黒田は会議机に腰掛けた。

「この俺を、虫として処分するだと?」

 今日、黒田が防衛省に呼び出されたのは辞令を受け取るためだった。先日、特装部隊の指揮官を外された。
その内容は、極めて穏便な言い回しを使った死刑宣告だった。血を吸った書類には、薬殺処分、と書いてある。
虫の外骨格を纏って人間の尊厳を失っても人型昆虫と戦い続け、最前線で命を張った黒田を殺そうとしていた。
それについては、黒田は特装部隊の指揮官を外された時から薄々感じ取っていたが、敢えて反抗せずにいた。
どうせなら、手近な人型昆虫を捕まえてきて上層部のお偉方の前で殺してやって、実力を見せつける気でいた。
だが、関東地方で大繁殖した人型昆虫の大半は黒田が殺していたので、都合良く捕まえることが出来なかった。
だから、どうせなら手っ取り早く用事を済ませてしまおうと思い、会議室に入った瞬間から黒田は爪を振るった。

「俺は人間だ。俺は黒田輝之だ」

 胸部の外骨格に付いた弾痕にも至らない傷を拭い、潰れた弾丸の残骸を払う。

「そうだろう、百香」

 会議室を出た黒田は、敷き詰められた絨毯を汚しながら長い廊下を歩き出した。

「櫻子」

 廊下に転がっていた女性職員の死体を掴み、黒田は薄く顎を開いた。

「いや…紫織かな?」

 頸動脈を裂かれて失血死している女性職員は答えることもなく、瞳孔が拡張した目を見開いていた。

「まあ、どっちでもいいか」

 再び食欲に襲われた黒田は女性職員の制服に爪を掛けて引き裂き、血染めのベストとブラウスを両断した。
ブラジャーが外れるとその中に収まっていた豊かな乳房が零れ落ち、青ざめた肌を濡らす血が鮮やかだった。
女性職員の死体を床に転がした黒田は、その下半身を覆うストッキングに爪を引っ掛け、一息に切り裂いた。
欲動に煽られた黒田は女性職員の足を持ち上げ、ストッキングの破れ目から顎を突き立てて、太股を噛んだ。
途端に動脈に残っていた血が溢れ、黒田の顎と首と胸を濡らし、たっぷりと厚い脂肪の甘さが舌に絡んでくる。

「喰うだけ喰ったら、逃げないとな」

 ごぎり、と大腿骨を噛み切った黒田は、女性職員の足を捻り、股関節から外して喰らい付いた。

「どこに行くかは、これから決めればいい」

 太股を外した骨盤を折り、小腸と大腸が絡んだ性器を引き摺り出した黒田は、それらもぐじゃぐじゃと噛んだ。
月経が訪れる直前だったのか、子宮を噛んだ途端に赤黒い血の塊が落ちた。それも拾い、一緒に喰ってしまう。
小腸と大腸を千切って内容物を捨ててから、咀嚼し、嚥下する。胃が膨張すると、少しばかり気分が落ち着いた。

「ヘリが三機、下には装甲車、消防車、その他諸々の救急車両だな」

 ビルの四方から響き渡るサイレンとパトランプの点滅を感じ取った黒田は、彼女の髪を分けて頭部を割った。
頭蓋骨の割れ目から爪を差し込み、その下にある脳膜に爪先をつぷりと刺すと、どろどろと脳漿が流れ出した。
脳漿を垂れ流してから、目当ての脳を引き摺り出す。脳幹と神経の束が繋がった部分を千切り、本体を喰らった。
うっすらと赤味が掛かった肌色の蛋白質は濃厚で、舌触りはとろりとしていて、噛み切った傍からつるりと落ちる。
歳を取りすぎた人間の脳は萎縮しているし、子供の脳では小さすぎるが、成人の脳は適度な食べ応えがあった。
中でも、若い女性の脳は素晴らしい。男の脳のような臭みもなく、苦みもなく、消化も良い、高蛋白質の固まりだ。
 女性職員の脳を喰らい終えた黒田は顎を拭いながら、ゆらりと体を起こし、油のような艶を帯びた羽を広げた。
長い廊下の角に設置された消火器を無造作に掴み、窓に叩き付けたが、砕けるどころか消化器が跳ね返った。

「さすがに防衛省だ。防弾ガラスか」

 黒田は跳ね返った消化器が壁に当たって破損し、粉塵を撒き散らす様を複眼の端で捉えながら考えた。

「となると、出口は一つだけだな」

 ヒビすら入らない窓に背を向けた黒田は、悠長に非常階段に向かった。その最中にも、サイレンは数を増した。
自衛軍の戦闘部隊の隊長と思しき号令の声が上がり、武装ヘリの羽音が近付き、太陽光が小刻みに途切れる。
緊迫感が足の裏から伝わり、背筋をぞくぞくさせる。ついこの先日まで、黒田はあちら側で戦い続けてきたのだ。
政府の不手際を隠すための偶像として祭り上げられ、特撮番組のヒーローの真似事をして偽りの正義を振るった。
だが、それがいつまでも続くわけがない。所詮、黒田は死にかけた男にゴキブリの外骨格を被せた化け物なのだ。
名前を捩ってブラックシャインなどと名乗り、戦闘高揚剤に煽られるがままに戦ったが、薬が抜けると我に返った。
その度に、黒田は心身に襲い掛かる苦痛を耐え、化け物になった自分への嫌悪感に潰されかけながらも戦った。
しかし、人型昆虫の数が目に見えて減ってくると、国は、軍は、政府は、黒田を虫の一匹として処分しようとした。

「笑えてくるじゃないか」

 非常ドアを開け放ち、血濡れた足跡を付けながら、黒田は非常灯に照らされた階段を一歩一歩昇る。

「確かに俺はゴキブリだ。誰もが忌み嫌い、恐れ、憎みすらする害虫の中の害虫」

 複眼に飛び散った血飛沫の一滴が膨らみ、涙のように落ちていく。

「だが、俺はそれを解った上で改造を受けたわけじゃない」

 歩くたびに細く長い触角が揺れ、自身にまとわりつく死臭を絡め取った。

「俺は、百香を死なせておきながらも死ねなかった。ただ、それだけなんだ」

 最早滑稽でしかない赤いマフラーを千切り、捨てる。

「そうだ、俺はあの時に既に死んでいたんだ。手も足も吹っ飛んで、内臓だって引き摺り出されて」

 屋上に出るための非常扉に爪を掛けた黒田は、ノブを回した。

「その時に、俺は死んでおくべきだった。カンタロスにも、兜森繭にも、セールヴォランにも、鍬形桐子にも、ベスパにも、蜂須賀ねねにも、櫻子にも、紫織にも会わなければ、俺は」

 開け放った瞬間、暴風が吹き込んだ。それは、ヘリポートに着陸した武装ヘリコプターが撒き散らすものだった。
武装ヘリの前にはずらりと兵士達が並んでいて、自動小銃を構えている。中身は、対人型昆虫用特殊徹甲弾だ。
当然、黒田もその特殊徹甲弾の開発に参加した。フルメタルジャケットの強度も弾薬の量も桁違いに多い弾丸だ。
従来の弾丸は人型昆虫の外骨格に命中しても跳弾するだけだった。だが、この弾丸は違い、外骨格を貫通する。
弾薬を増量したせいで反動が増え、兵士の負傷と銃の破損も頻繁に起きるが、人型昆虫への有効な手段だった。
黒田も、開発現場や実戦で嫌になるほど新兵器の威力を見てきた。だから、一発でも当たれば面倒なことになる。
 二十近い数の銃口が黒田を睨み、その奥で照準を見つめている兵士達は防護マスクを被って顔を隠していた。
武装ヘリの操縦士も同様で、機銃の銃口を黒田に据えている。抵抗してもしなくても掃射してくるのは明白だった。
そして、機銃兵の背後に火炎放射器を背負った兵士が控えていて、倒れた後に燃やし尽くす手筈は整っている。
上空には同じく武装ヘリコプターが旋回し、地上には重武装の装甲車が待機し、戦闘機のエンジン音も聞こえる。
防衛省を失う覚悟をしても、黒田を殺す気でいるようだ。その熱意を他に回してくれ、と黒田は内心で毒突いた。

「奴らと出会わなければ、俺は!」

 両足の爪でコンクリートを踏み切った黒田は琥珀色の羽を広げ、滑空しながら真正面から突っ込んだ。

「俺が人に戻れないことも!」

 手近な機銃兵の腕を落とし、自動小銃を奪って乱射した黒田は、新たに倒れた兵士からも自動小銃を奪った。

「俺が虫になりきれないことも!」

 火炎放射器を背負った兵士と操縦士と副操縦士の頭を撃ち抜いた黒田は、火炎放射器を奪い、担いだ。

「知らずに済んだんだぁああああああっ!」

 黒田の爪がトリガーを引くと圧縮空気に押し出された混合燃料が吹き出し、着火し、兵士の頭上に降り注いだ。
舐めるようにノズルを振り回すと、機銃兵は満遍なく炎に包まれ、装備を脱ごうとするが武装ヘリの風に煽られる。
対人型昆虫用の重装備が仇となり、ほとんどの兵士は装備を脱ぎ捨てる前に倒れ、炎に巻かれて息絶えていく。
炎の量が少なく比較的動ける状態だった兵士も、黒田が放った特殊徹甲弾によってヘルメットごと頭を砕かれた。
生きた肉が焦げる異臭が漂い、溶けた脂肪や眼球が貼り付いたゴーグルが転げ、灰燼が暴風で巻き上がった。
まだ息のある兵士が呻いていたので、苛ついた黒田は兵士の頭を撃ち抜いてから、操縦士を引き摺り落とした。
血飛沫の散った操縦席に陣取った黒田は操縦桿を握ると、メインローターの回転数を上げて機体を浮上させた。
残り二機の武装ヘリコプターと同程度の高度に上昇させてから、威嚇と牽制を兼ねて機銃の弾丸を撒き散らした。
しばらくそれを続け、二機が距離を保ってこちらの動きを探り始めた頃、黒田は操縦桿をぐいっと乱暴に曲げた。
武装ヘリコプターは呆気なく姿勢を崩し、落下し始めたので、黒田は開け放したドアから空中へと身を躍らせた。
 羽を震わせ、都心の上空を吹き荒れるビル風を掴んだ時、武装ヘリコプターは装甲車部隊に突っ込んでいた。
黒煙が噴き上がり、爆音が轟き、炎が暴れた。二機の武装ヘリコプターが追ってきたので、黒田は高度を下げた。
羽を震わせた黒田は、小型ヘリでも通り抜けられないほど狭いビルとビルの隙間を縫うように飛び、逃げ回った。
武装ヘリコプターは黒田の追尾を続けていたが、そのうちに一機が雑居ビルに引っ掛かって墜落し、炎上した。
ガソリン臭い煙が立ち込める中、黒田は高度を下げ、今は廃止された六本木周辺の地下鉄の入り口に入った。
人型昆虫の体液と人間の体液の腐臭が重たく淀んだ暗闇を飛びながら、黒田は顎を軽く軋ませ、笑っていた。
 きちきちきちきちきち。




 収穫は上々だった。
 大型トレーラーのハンドルを回した黒田は、舗装されていない林道に入り、ハイビームで進行方向を照らした。
砂利を踏むたびにごとごとと車体が揺れ、コンテナも揺さぶられる。その度に、積み荷がずれてぶつかり合った。
このトレーラーの本来の持ち主が聞いていたCDがカーステレオで自動再生され、スピーカーから流れ出していた。
黒田の趣味とは懸け離れた洋楽で、ギターが激しいだけで音程が今一つなロックだが、悪いものではなかった。
バックミラーにぶら下がっているのは、交通安全のお守りと運転手の家族の写真が入った薄いパスケースだった。
それらの主は、助手席で車体の振動を受けるたびに痙攣し、頭部の外れた首をダッシュボードに押し付けていた。
頸椎と共に断面が露わになった頸動脈からは思い出したように血が溢れ、フロントガラスには赤い筋が出来た。
 林道を上り終えると、広場に出た。かつては伐採した杉を加工した場所だが、今は錆びたプレハブだけがある。
黒田はその広場に大型トレーラーを停車させると、エンジンを切ってヘッドライトも切り、周囲の木々を見回した。
触角に触れる空気と聴覚で誰もいないことを入念に確認してから、プレハブの裏手にある洞窟に入り、呼んだ。

「モモコ、良い子にしていたか?」

 僅かな月明かりさえ届かない濃密な闇が詰まった洞窟の奥から、ぬち、と重みを含んだ異音が生じた。

「俺だ」

 黒田の呼び掛けに応えたのは体長二メートル以上もある幼虫で、白い節が連なる腹を波打たせて這い出した。
外骨格を持たないために無防備な幼い体を守るために分泌される体液が、這いずった痕跡にてらてらと光った。
黒田が歩み寄ると、巨大な幼虫は黒い複眼と小さな単眼が付いた顔を上げて身を起こし、しゅうしゅうと鳴いた。
実際は白く膨らんだ腹部の側面に並ぶ吸気口の吸気と排気の音なのだが、黒田には鳴き声のように聞こえる。
巨大な幼虫は腹部の下に生え揃った小さな足を使って巨体を押し出すと、黒田の元に近付き、擦り寄ってきた。

「お腹空いたか?」

 ぎい、と巨大な幼虫が顎を軋ませると、黒田は顎を開いた。 

「だろうと思ったよ。だから、また山ほど殺してきた」

 黒田は巨大な幼虫に触れてから大型トレーラーに戻り、運転席で操作してコンテナを開くと血臭が流れ出した。
蛋白質が傷む腐臭も共に流れ出し、夜風を濁らせていった。黒田は巨大な幼虫を抱き、コンテナの中に置いた。
コンテナには、この大型トレーラーを強奪したドライブインで休憩していた人間の死体がみっちりと詰まっていた。
血を出しすぎないように、内臓を千切らないように、と気を付けながら殺したが、いくつかの死体は傷付けすぎた。
おかげで血溜まりが出来てしまい、移動手段が這いずることしかない巨大な幼虫は滑って移動しづらそうだった。
黒田もコンテナの中に入り、端に腰掛けた。巨大な幼虫は若い女性の死体に覆い被さり、顔を剥ぎ、喰い始めた。

「ゆっくり食べるんだぞ」

 黒田も手近な死体の頭蓋骨をコンテナの床に叩き付け、砕いてから、脳を取り出して囓った。

「モモコ、旨いか?」

 ずぎゅがぎゅと頭蓋骨ごと頭部に喰らい付く巨大な幼虫を眺めていると、黒田は胸郭の奥がざわめいてきた。
二人が死した現場で発見したモモコを連れ去り、森に逃がした時は、モモコをいかに劇的に殺すかを考えていた。
その時は、黒田はヒーローとしての自分に酔いしれていたからだ。だが、事態が変わるとモモコに執着を抱いた。
虫扱いになり、辞令という名の殺処分を言い渡される寸前に皆殺しにした後、バイクを走らせてここに辿り着いた。
モモコをこの森に離した時は人間の赤子程の大きさしかなかったが、思いの外、逞しく成長していたようだった。
森を彷徨い歩いた末、野生動物の死体を貪り喰う巨大な幼虫を見つけた瞬間の高揚感は未だに忘れられない。
 それから、黒田は次世代の女王の幼虫にモモコと名を付け、人間を殺しては餌として与えて育てることにした。
一時の気の迷いで終わるかと思ったが、モモコが日に日に大きくなる様を見ていくのは、ほんの少し楽しかった。
あれほどの事件を起こしても未だに軍の追っ手が来ていないことも、黒田の行動を助長させている一因でもある。
単純に見つかっていないのかもしれないし、泳がされているだけかもしれないが、どちらにせよ警戒は怠れない。

「俺は虫じゃない」

 黒田は空になった頭蓋骨を投げ捨て、呟いた。

「俺は虫じゃない」

 汚れた爪で、両の複眼を覆う。

「俺は虫じゃない」

 そう繰り返さなければ、気が狂いそうになる。いや、もう狂っているのだろう。だから、躊躇なく人間を喰らえる。
しかも、それを旨いと思ってしまう。普通なら、血液には催吐性があるので飲み下すことすらも出来ないはずだ。
ぬらぬらと光る内臓も気持ち悪いと思うはずだし、増して脳など見ただけで吐き気を催してしまう代物のはずだ。
昔の黒田なら、間違いなくそう思っていた。実際、従軍したばかりの頃の戦闘で、兵士が殺された直後に吐いた。
それなのに、今は人間の死体を見ると食欲が湧く。血の味が、肉の味が、脂肪の味が、心の乱れを落ち着ける。

「俺は一人じゃない」

 お兄ちゃん、と黒田を慕う百香の表情が蘇る。

「俺は一人じゃない」

 輝之君、と黒田に好意を向ける櫻子の笑顔が蘇る。

「俺は一人じゃない」

 黒田二佐、と黒田を追い掛ける紫織の仕草が蘇る。

「俺は一人じゃない」

 夜気とは異なる寒気が外骨格に広がり、黒田はがりがりと上両足の外骨格に爪を立てる。

「俺は一人じゃない!」

 震える触角を血溜まりに浸し、呼吸を荒げ、顎の端から脳の切れ端を落としながら呻く。

「俺は人間だ、俺は虫じゃない、俺は一人じゃない、俺は人間だ、人間だ、人間だ、人間だ、人間だ、人間だ…」

 虫になりたくない。だが、人ではいられない。正気を失った振りをしても、脳の底にこびり付いた理性が叫ぶ。

「俺は、人間だぁあああっ!」

 がりぃっ、と外骨格にひび割れが出来るほど強く爪を突き立てた黒田は、傷口から赤と青の体液を流した。

「俺は…」

 自分の内から流れた赤黒い血液と青ざめた体液を拭い、目の前に出した黒田は、それを触覚に擦り付けた。

「人間だ」

 血の匂い。体液の匂い。久しく忘れていた自分の匂い。水を浴びようと何をしようと拭い去れない害虫の匂い。
自殺衝動に駆られる瞬間もある。だが、そんな時に限って、妹や恋人だった女や好きになった女を思い出した。
彼女達は黒田が生きることを望んでいた。黒田に頼り、黒田を縋り、黒田を想い、黒田を支えようと懸命だった。
だから、自殺をすれば彼女達への裏切りとなる。そして、死していった彼女達の命を無駄にすることになるのだ。
薄っぺらくつまらない正義を見限っても、それだけは忘れられない。黒田の正義の根幹は、愛に他ならなかった。
しかし、今は黒田が愛する相手もいなければ、愛してくれる者もいない。だから、モモコに情を寄せて心を埋めた。
脳内出血で記憶と知性を失った蜂須賀ねねを寵愛した時と似ているが、訳が違う。相手は人型昆虫の女王だ。
人型昆虫の真の女王を殺すために命を張って戦った少女達を犠牲にしてまで勝ち取った、平和の結末がこれだ。
 黒田がモモコに注いでいるものは決して愛ではなく、呆れるほどつまらない執着だ。滑稽だ。愚劣だ。醜悪だ。
ここで自分を殺さなければ、また人間を殺してしまう。モモコも殺してしまわなければ、大量の人間を殺してしまう。
けれど、どちらも殺せずに過ごしてきた。いい加減で、どっちつかずで、曖昧な、不定型な気持ちばかりが渦巻く。

「モモコ…」

 下左足に重みを感じた黒田が顔を上げると、その上にモモコが顎を乗せ、ぐちゃぐちゃと筋を噛んでいた。

「ごめんな」

 今、ここで殺してしまえば苦しみは減るはずだ。黒田はモモコのぬめついた体表面に爪を添えて、力を込めた。
汚れた爪先が水風船のように体液で膨らんだ背に埋まり、つぷ、と浅く飲み込まれたが、力を入れきれなかった。
人間のそれとは懸け離れた冷たさとぬめりだったが、確かな弾力は一度だけ抱いた櫻子の乳房を思い出させた。

「俺は…」

 モモコの背から爪先を抜いた黒田は、真新しい傷を埋めるように爪の腹でなぞった。

「人間なんだ」

 噛み締めた筋をこくんと飲み下したモモコは、黒田に甘えるように顎を擦り寄せてきた。

「そうだろう、モモコ」

 ぎぃ、とモモコは顎を擦り合わせた、ような気がした。実際には、黒田の顎が出した音だったのかもしれない。
もしくは、この森の草むらで鳴くごく普通の虫の声かもしれない。だが、黒田にはそれが同意の返事だと思えた。
黒田はモモコの胴体と区別の付かない頭を膝に載せて、妹を寝付かせるかのようにその背中を撫でてやった。
 笑い出したくなるほど、おぞましい光景だった。







10 1/16