豪烈甲者カンタロス




死した未来



 それから半年後、モモコはさなぎになった。
 人間の血肉を存分に与えてやったおかげか、一回りも二回りも成長して体長は五メートル以上にもなっていた。
それまでは一日二三十人で足りていた死体も、さなぎになる前は五十人近く喰うようになっていたので苦労した。
だから、黒田は新たに大型トレーラーを奪ってコンテナにモモコを運び入れ、手当たり次第に山奥を渡り歩いた。
真の女王が生み出して人の世に放った人型昆虫は関東一円に分布していたが、地方には到達していなかった。
それは黒田を始めとした自衛軍の防衛ラインがあったおかげだが、地方は人型昆虫に対する警戒心が薄かった。
同じ国土の中に住んでいても、他県となれば現実味が薄れる。増して、地方にとっては都心はある種の異世界だ。
テレビ越しに報じられたニュースを見ても、現実に六本木の惨状を目にしなければリアリティを感じることはない。
 それを見越した黒田は、虫の姿を隠して国道沿いに北上していた。高速道路ではすぐ足が着いてしまうからだ。
料金所やオービス、サービスエリアにも監視カメラは設置されている。下の道にもあるにはあるが、数が少ない。
それに、裏道や山道を辿っていけば人目にも曝されない。現地住民に怪しまれたら、殺してしまえばいいだけだ。
車がなければ移動も出来ない山奥の集落など格好の餌場で、住人を皆殺しにした集落は片手では足りなかった。
 そうやって移動し続けた黒田は、今日もまた、山中で夜を明かした。ヘルメットを外し、作業服を脱ぐと楽になる。
ツナギは密閉性の高いライダースーツよりも呼吸は容易だが、腹部に並ぶ吸気口を塞いでしまうのは変わらない。
顔を隠すために被っているフルフェイスのヘルメットの中に触角も押し込めているので、常時刺激が訪れていた。
腹部の吸気口を開き、湿り気を帯びた夜気を吸い込んで酸素を取り入れ、黒田は自分が虫だと嫌でも自覚した。

「人間じゃないから、苦しいんだな」

 人間であれば、こんな格好で苦しくなるわけがない。虫だから、息が詰まったり触角が擦れて傷んでしまうのだ。
外骨格から分泌された油っぽい体液が付着したヘルメットを下ろした黒田は、肩を震わせたが声は出なかった。

「モモコ」

 さなぎになってから、モモコは反応しなくなった。黒田は、路肩に止めた大型トレーラーに振り返った。

「夜だな」

 当たり前のことを呟いてから、黒田は苔生した倒木に腰を下ろした。

「父さんと母さんが死んだばかりの頃を思い出すよ。あの頃は、夜が来るのが怖くて怖くてたまらなかった」

 あの頃は、まだ幸せだった。少なくとも、人間だったのだから。

「俺は高三のガキで、百香は十歳の小学四年生で。でも、百香はほとんど学校になんか行っちゃいなかった」

 その頃の百香の姿といえば、家か病院のベッドで寝ている姿しか覚えていない。

「だから、百香は俺の学校の話ばかりを聞きたがった。院内学級も休みがちだったから勉強の内容なんかちっとも解らないくせに、俺が何を教わった、どんな授業をした、とか話してやると凄く感心してくれた。俺の成績なんて全然大したことなかったのに、天才だとか何だとか、手当たり次第に褒めてくれた。だから、俺もその気になって、勉強やら何やらを頑張ろうとしたんだ。父さんと母さんも俺も構ってくれたし、褒めてくれたし、百香に尊敬されるくらい立派なお兄ちゃんだ、とか言ってくれて、本当に嬉しかったんだ」

 その、矢先に。

「なのに、父さんも母さんも、死んじまった」

 上両足の爪で複眼を押さえた黒田は、琥珀色の羽が収納されている背を丸めた。

「母さんがパートの帰りに父さんを駅まで迎えに行って、二人で一緒に帰る途中で、飲酒運転に轢かれて…」

 それから、全てが狂ってしまった。

「俺も寂しかった。怖かった。辛かった。だけど、俺にはまだ百香がいるんだ。百香の前じゃ、お兄ちゃんじゃなきゃいけなかったんだ。だから、葬式も相続も全部俺がやって、裁判もやって、全部、全部、俺がやった。誰かに頼ると、百香が俺を褒めてくれないような気がしたんだ」

 百香。百香。百香。

「だけど、百香は」

 実質、櫻子に殺された。その櫻子を殺したのは、百香が入った人型ムカデだった。

「百香…」

 誰も彼もが死んだ。黒田に関わった者は死んだ。最後に残るのはいつも黒田一人だけで、他の誰も残らない。
黒田は塞がった上右足の外骨格の割れ目を爪でなぞるが、出るものが血ではなかったらと思うと抉れなかった。
人間だと思おうとしても、端々が虫だ。人の味を知ってしまわなければ、とは思ったが、時間の問題だっただろう。
殺処分命令は切っ掛けに過ぎない。この爪が、外骨格ではなく肉を裂く日が来ることを心の奥底では願っていた。
だから、人間を喰った。理性を失う瞬間の心地良さを忘れたいが、あれ以上の快楽は残されていないとも思った。
戦闘高揚剤を使用しすぎて耐性が付いてしまった黒田は、最早酒も麻酔も効かず、脳内麻薬以外の快楽はない。
人間を殺せば、それが安易に分泌される。そして、肉を喰らえば陶酔感は長引き、とろけそうなほど心地良くなる。
けれど、溺れてしまいたくない。踏み止まりたい。しがみつきたい。黒田は立ち上がると、運転席のドアを開けた。
ダッシュボードに載っていた本来の運転手の使いかけのノートを開き、三本爪で社名入りのボールペンを握った。
 規則正しく並ぶ罫線の上に、名前を書き連ねる。黒田輝之。黒田百香。水橋櫻子。小蝶紫織。自分と皆の名だ。
黒田輝之。黒田百香。水橋櫻子。小蝶紫織。黒田百香。黒田輝之。黒田百香。黒田櫻子。黒田紫織。黒田輝之。
 一行、二行、三行、一ページ、二ページ、三ページ。紙面を塗り潰すほど書き連ねながら、黒田は安堵していた。
字を覚えている。名を書ける。皆の記憶がある。それだけで、黒田は嬉しくなる。まだ知性は狂気を凌駕している。
単純作業が楽しくなってきた黒田は顎を開き、人間の顔であれば子供のような笑みと称される表情を浮かべた。
無心に爪を動かしていると、急に皆の名前とは異なる名が現れた。漢字ばかりのページに、カタカナが連なった。
 モモコ。それに気付いた途端、黒田はそのページを引き千切って放り投げ、また新しく名前を書き連ねていった。
モモコは家族ではない。黒田はページに複眼が擦れるほど顔を近寄せ、一心不乱にボールペンを動かし続けた。
黒田輝之。黒田百香。水橋櫻子。小蝶紫織。名前を並べていけば、皆が現実に生きていた人間だと実感出来た。
 そして、自分も人間だという手応えが返ってきた。




 黒田輝之。黒田百香。黒田櫻子。黒田紫織。
 表紙すらもボールペンの黒い文字で書き潰されたノートは、一冊では終わらずに、二冊、三冊と増えていった。
宝物を確かめるように、黒田は自分の字が罫線の間に連なったページをめくり、妹や女性達の名を眺めていた。
その時間が、一番心が落ち着いた。書きかけのページに、いつものように名を連ねながらラジオに耳を傾けた。
 モモコと黒田の住み処である大型トレーラーのカーラジオから、道路情報や音楽に混じってニュースが流れる。
一時期は黒田が致死率の高い伝染病に罹患して逃亡した患者だというニュースが流れたが、そのうち止まった。
自衛軍も警察も、黒田を発見出来なかったからだ。それもそのはず、見つかり次第殺しては偽の報告を流した。
おかげで、黒田もモモコも逃げ延びていた。今は東北ではなく中部地方に戻り、オフシーズンの山に身を潜めた。
舗装の悪い登山道から外れた植樹林の中にトレーラーを入れて姿を隠しているし、タイヤ跡も偽装しておいた。
これなら、当分は見つからない。黒田は手帳サイズのノートを作業服のポケットに入れ、助手席のドアを開けた。
 鮮やかなオレンジ色の車内灯に照らされた助手席には、小学生中学年程の背格好の少女が転がされていた。
赤いランドセルが足元に落ち、留め具が外れて教科書が散らばっており、少女は両手足をきつく縛られていた。
ふっくらと丸い頬には声を封じるための布が巻き付けられ、舌の動きを押さえ付けているが、目隠しはなかった。
だらだらと溢れる涙で助手席のシートを濡らす少女は、黒田の気配に、体を折り曲げて懸命に逃げ出そうとした。
助手席には涙とは異なる水溜まりが出来ていて、少女が動くたびに黄色掛かった水溜まりの範囲が拡大していく。

「百香」

 ぶるぶると震える少女は運転席のドアまで後退るが、黒田は少女の前に身を乗り出した。

「百香」

 柔らかく呼び掛けるが、少女は一層震えた。涎の染みた猿ぐつわを噛み締め、引きつった嗚咽が漏れている。
黒田の爪先が少女の頬に触れた途端、少女はびくんと仰け反った。その拍子に皮が薄く切れ、血が一筋落ちた。

「櫻子」

 黒田は少女をそのままにして、運転席に近いコンテナのドアを開けると、縛られた若い女性が倒れていた。

「櫻子」

 黒田がコンテナに入って近付くと、手足と口を拘束された女性はもがき、黒田から逃れようとする。

「紫織」

 その女性に逃げられたので、黒田がコンテナの奥に向くと、ロープで床に固定したモモコの傍にも女性がいた。
さなぎの影に身を隠していた女性もまた手足を縛られて口を塞がれていて、黒田が近付くと苦しげに泣き出した。

「紫織」

 黒田が触れようとすると、その女性も身を捩って逃げようとしたので、黒田はその頬に爪を食い込ませた。

「なぜ、俺から逃げる?」

 薄い皮膚と浅い肉を裂いた爪を音もなく引くと、熱い血が溢れ出し、女性の肩と首筋を濡らした。

「ぁ…あぁ…」

 頬を裂いた際に口を塞いでいた布が切れたことで、紫織に似た面影の女性は掠れた声を発した。

「俺は君のヒーローだろう? そう言ってくれたよな、紫織。なあ、紫織」

 女性の肩を押して仰向けに倒した黒田は、覆い被さって体重を掛け、その体温と柔らかさに感じ入った。

「紫織」

 ひぐ、と悲鳴になりきれなかった声の切れ端が零れた直後、黒田の下半身を伝って生温い液体が流れ出した。
精一杯体を強張らせている女性は恐怖と羞恥で目を潤ませると、太股に貼り付いたストッキングを擦り合わせた。
涙と涎で化粧が取れてしまうと、尚のこと紫織に似ている。目元の柔らかさも顔立ちの子供っぽさも体の感触も。
黒田は塩辛い小水で濡れた下半身の外骨格をそのままに、女性のストッキングに爪を掛けてびっと引き裂いた。

「ぃやああああああああっ!」

 素肌を曝された途端に恐怖が振り切れたのか、女性は渾身の力で悲鳴を上げた。

「来るなぁ、化け物っ、ゴキブリ、死ね、死ね、死ねぇえええええっ!」

 ハイヒールが脱げるのも構わずに黒田を蹴り付けた女性は、ずりずりと後退って距離を開けた。

「こんなところで死ねない、死にたくない!」

「馬鹿なことを言うな、紫織」

 黒田は笑みを噛み殺しながら、緩やかな歩調で女性に近付き、立ちはだかった。

「お前は、俺を愛してくれているじゃないか」

「…っや」

 悲鳴を上げかけた唇に喰らい付き、黒田は顎を突き立てた。薄い肌と唇を千切り、その下の歯を噛み砕いた。
大きな目が零れ落ちそうなほど見開いた女性は顔の下半分を失い、それでも逃げようと懸命に床を蹴っている。
黒田はその膝から下に爪を立てて骨ごと切断してから、無造作に放り投げ、中両足を使って女性の足を広げた。
汗と小水で透けた薄い下着の奥に隠れたものを露わにすると、黒田は人間らしさが残る生殖器を突き立てた。

「紫織…」

 硬く充血したものが、ずぶずぶと肉に埋まる感触。虫よりも遙かに温かく、懐かしい、体液に包まれていった。
何度となく紫織の名を繰り返しながら、黒田は女性を蹂躙した。突き上げて揺さぶると、それだけで幸福になる。
体温が失われて久しい体に温度が戻り、女の匂いが触角にまとわりつく。化粧の味がする肉は、ひたすら甘い。
責めるだけ責め立てると、女性は抵抗する意志すら失って、滝のように涙を垂らしながら虚ろな目を上げていた。
そうなると、最早紫織とは懸け離れた形相だった。黒田はその両目をずぷりと貫き、潰してから、自身も抜いた。

「櫻子…」

 紫織に似た女性の両目に入っていた体液の筋を爪に滴らせながら、黒田は櫻子に似た女性に向き直った。

「今度は君を愛してやろう」

 重心が抜けた歩き方で近付いた黒田は、櫻子に似た女性の猿ぐつわを切り捨てると、彼女は泣き叫んだ。

「お願いぃっ! 私はどうなっても良いから、あの子だけは殺さないでぇ! あの子だけは帰してあげてぇ!」

「なぜだ?」

「あの子は私の妹なの! お願いだから逃がしてあげて、なんだってするからぁ!」

「違う。百香は俺の妹だ」

 櫻子に似た女性の前に膝を付いた黒田は、涙が伝い落ちる顎を爪先で持ち上げた。

「君が殺した、俺の妹だ」

「ちが…」

 否定しようとした女性の舌を、黒田の太い爪が下から貫いた。そのまま、下顎と歯を真っ二つに切断してやる。
舌を裂かれ、顎を動かせなくなっても何かを言おうと喉を動かしたので、黒田はその喉を上右足で押さえ付けた。

「俺の、妹だ」

 彼女を押し倒し、汗が染みたジーンズを引き摺り下ろし、膝の辺りで止めて動きを封じてから足を上げさせる。
そのまま下着を破り捨て、先程と同じように貫いてやる。櫻子に似た女性は、櫻子と同じように深く、きつかった。
声にならない声を漏らしながら、割れた顎の隙間から血に混じって吐瀉物を零した女性に、黒田は悦に浸った。
百香が受けた苦しみを返してやれている。黒田は彼女を貫く力を増して激しく揺さぶり、満たされた後に抜いた。

「そうだろう、百香」

 死にきれずに苦しむ女性に背を向け、黒田はコンテナを出た。助手席に戻ると、少女が青ざめて震えていた。

「さあ、百香」

 黒田は二人の女性の体液がまとわりついたものを外骨格の内に戻してから、少女に迫った。

「俺を、褒めろ」

 黒田が爪を差し伸べると、少女は首を横に振り、勢い余ってハンドルに当たって甲高いクラクションが響いた。
その音に触角を立てた黒田は反射的に少女の首を切り裂くと、直後、小さな体に詰まっていた血液が噴出した。
フロントガラス、天井、シートまでもを派手に汚しながら倒れ込んだ少女は失血によって痙攣しながら息絶えた。

「ああ、しまった」

 黒田は百香に似た少女を抱き上げると、血を拭った。

「ごめんな、百香。痛かったか?」

 だが、少女は答えない。それを不満に思った黒田は喉笛も切り裂いて更に出血を増させ、足元に血を流した。
生温い飛沫を下半身に浴びながら、黒田は感嘆した。百香に似た少女を抱き締め、思う存分、頭を擦り寄せた。
 こんなことを、何度繰り返してきただろう。山に身を隠すたびに、麓や道中の街から思い人に似た女を攫った。
最初は一人だけだった。その時は己の過ちを後悔し、今限りの快楽にしよう、と胸に誓って女性を嬲り者にした。
けれど、一度でも快楽を覚えてしまうと抑えが効かなくなり、身を隠すたびに女達を攫っては犯し、喰らっていた。
一言で言えば、寂しかったのかもしれない。彼女達は紛い物だと頭で理解していても、体が温もりを求めていた。

「百香…」

 大事な大事な、可愛い妹。だが、心から大事だからこそ、叩き潰してしまいたい衝動に駆られる瞬間もあった。
黒田は生気を失った少女の顔を上げさせるとぐばりと顎を開き、ショートカットの細い髪を掻き分けて齧り付いた。
 百香に頼られて嬉しかった。甘えられて心地良かった。慕われて誇らしかった。だが、別の思いも抱いていた。
百香がいたから、櫻子は狂ってしまった。それさえなければ、今頃黒田は櫻子と結婚していたかもしれないのだ。
百香に女王の卵が受胎してしまったから、戦術外骨格が実用化された。そして、黒田は生まれ持った体を失った。
百香の生体実験の結果が良かったから、黒田は改造人間となって戦ったが、紫織を戦いに巻き込んで死なせた。

「愛しているよ」

 だから、憎らしい。

「大好きだよ」

 だから、煩わしい。

「可愛いよ」

 だから、苛立たしい。

「俺の、たった一人の家族」

 だから、それらを皆、心の底に沈めた。

「俺は、人間だよな?」

 人間だから、ここまで人間を憎める。黒田は少女のぷりぷりした脳を貪り喰いながら、溢れ出る憎悪に浸った。
櫻子に対する嫌悪、紫織に対する苛立ち、そして百香に対する憎悪。愛しすぎたから、皆、殺したいほど憎くなる。
顎の内側に貼り付いた少女の脳を舐め取って飲み下してから、上両足を抱えて背を丸め、くつくつと笑いを零す。
自分が巨大な虫ではないことを再確認出来ただけなのに、世界が祝福してくれているような高揚感に包まれる。
 思う存分腹を満たした後、冷たい土に横たわって星空を見上げる。黒田は恍惚として、無数の星々を眺めた。
自分は一人ではない。なぜなら、自分は人間だからだ。人間なら、この世に山ほどいる。だから、一人ではない。
だから、モモコも殺せるはずだ。黒田は湿った枯れ葉が付いた頭部を上げ、爪を握り締めて確信し、哄笑した。

「俺は正義の味方だ! ヒーローだ!」

 人間だから、ヒーローになれて当然だ。黒田は肩を震わせながら身を起こし、振り向くと、コンテナが揺れていた。
中にいる二人の女性は、片方は殺し、もう片方は死にかけている。コンテナを揺らすようなことは出来ないはずだ。
コンテナの下のサスペンションが重たげにぎしぎしと上下し、タイヤも潰れ、牽引部分が揺れて車体も揺れている。
黒田が呆気に取られているとコンテナが内側から突き破られ、運送会社の社名が入った鉄板が投げ落とされた。
 ぎちぎちぎちぎちぎち。きちきちきちきちきちきち。戦闘中に嫌になるほど聞いた、あの音がコンテナから響いた。
二メートル近くはあろうかという穴が、内側から突かれ、広がっていく。何度目かの衝突の後、ツノが飛び出した。
その様に、黒田は思い出した。次世代の女王を孕んだ少女のことを、その女王の卵に精を注いだ戦士のことを。

「まさか…」

 分厚い夜の静けさを破壊する騒音が轟き、コンテナの側面が破壊され、そこから純白の巨体が転がり落ちた。
金色の瞳。銀色の羽。白い腹部。外骨格。かつてはアリの女王に似ていた女王は進化し、人間に近付いていた。
全長五メートル以上もの体格を持つ次世代の女王は、虫らしい六本足を持っていたが、下両足で直立していた。
羽化したばかりでシワの寄った羽の間から腹部が出ていたが、肥大化はしておらず、体格に合った大きさだった。
顔は虫そのものだったが、頭部は人間のように丸くなり、触角も短く、シルエットだけを見れば人間と見紛う姿だ。
そして、その頭部には、メスでありながら雄々しいツノが屹立していた。彼女の父の遺伝子が現れた結果だった。
人を喰らうことで知恵を付け、虫でありながら虫を超えた存在の女王に相応しい風格を携えた美しき異形だった。

「あんな短期間の世代交代の中で、ここまで進化していたのか?」

 我に返った黒田が女王を見上げると、メスでありながらツノを持った次世代の女王は濡れた複眼を下げた。

「モモコ…。俺を覚えているか?」

 黒田が上左足を差し伸べると、次世代の女王は辿々しい動きではあったが、着実に黒田に歩み寄ってきた。
産まれて間もない赤子を見守っているような心境になった黒田は、笑みを浮かべるように顎を開いて近付いた。
次世代の女王は金色の複眼に黒田を映し、きちきちと顎を軽く鳴らしながら見ていたが、厚い胸郭を震わせた。

「オニイチャン」

「お前、喋れるのか? 俺が解るのか、モモコ!」

 人間よりも平たく抑揚が妙だったが、確かな言葉だった。驚いた黒田に、モモコは迫ってきた。

「キライ」

「モモコ…」

 人間の世界を侵す虫を殺すのが、人間の役割なのだ。黒田は戦闘態勢に入るべく、腰を落として身構えた。
下両足で土を噛み、蹴り上げて飛び出したが、モモコの間合いに入る前に視界の端から白いものに襲われた。

「ぐうっ!?」

 どこか悠長な動きとは裏腹に猛烈な打撃が訪れ、下半身が痺れた。黒田は何度も横転したが、姿勢を戻した。
だが、下両足は土を踏み締めなかった。ならば、と上両足を突っ張って起き上がるが、何かが土に引っ掛かった。
それは、背骨だった。凄まじい痛みで衝撃の余韻が抜けた黒田は、外骨格を舐める己の体液の感触に戦慄した。

「ああ嫌だ、嫌だ嫌だ死にたくない、俺はまだ死にたくないぃっ! 俺は戦士でヒーローで、あああぁぁあぁあっ!」

 黒田は、腰から下を失っていた。捻れた下両足と頸椎の出た下腹部が転げ、赤と青の体液を垂れ流していた。
体液に浸った触角を上げたが、頭上には唸りを上げる足が迫った。黒田が身を下げる暇もなく、振り下ろされた。
首に衝撃が至り、外骨格が容易く割れて骨が折れる。視界が僅かに浮いたが、すぐに転げ落ちて土が付着した。
すぐに、黒田は悟った。傍らには首を失った上半身が転げていて、首だけとなった黒田は体液の海に溺れていた。
 羽化したばかりで上手く立てないのか、モモコはよろけ、運転席に突っ込んでフロントガラスとフレームが砕けた。
粉々の破片に混じり、自分と皆の名を書いたノートがばらけ、文字に覆われて黒くなったページが何枚も舞った。
それを拾わなければ、集めなければ、黒田は人ではなくなる。黒田は焦るが、首から下を失っては何も出来ない。
木々の間を抜けてきた弱い風に煽られたページの一枚が黒田の頭上に舞い降り、頭部にべったりと貼り付いた。
黒田輝之。黒田百香。黒田櫻子。黒田紫織。夜の暗さとは別の暗さの中でも文字だけは見え、黒田は弛緩した。
 モモコはぎちぎちと顎を鳴らしながら、黒田の首から下を掴むと顎を大きく広げて口腔に放り込むと飲み下した。
次世代の女王が発する歓喜の声を頭部の外骨格で感じ取りながら、首だけの黒田は緩やかに意識を落とした。
 不思議と、寂しくなかった。




 倒壊した東京タワーに、モモコは立っていた。
 太平洋を煌めかせた西日が差し込み、モモコと東京タワーの長い長い影を作り、灰色の六本木に伸びていた。
触角も折れて複眼も割れた干涸らびた頭部を抱き締め、銀色の羽を風に震わせながら金色の複眼を陰らせた。
赤い血液と青い体液をまだらに吸い込んだノートの切れ端が貼り付いているが、今にも剥がれ落ちそうだった。
黒田輝之。黒田百香。黒田櫻子。黒田紫織。何度探してもその中に自分の名がないことが、ちくりと胸を刺した。
それは、黒田の頭部だった。次世代の女王としての自我に目覚めて間もない頃から、彼はモモコを構ってくれた。
名を付けて餌を与え、育ててくれた。それなのに、黒田を殺してしまった。黒田が餌を奪ったと思ってしまったから。
羽化したばかりの夜のことを思い出すたびに、モモコは苦しくなる。寂しくて、切なくて、胸郭が内から焦げ付いた。
その気持ちを紛らわそうと、モモコは繁殖した。生き残った人型昆虫から精を受け、卵を産み、産み、産み、産み。
けれど、産んでも産んでも苦しさは晴れなかった。そればかりか、黒田に似た虫が産まれないかといつも願った。

「お兄ちゃん」

 そう呼べば、黒田は喜んでくれる。モモコは、黒田とのやり取りで学習した人間の言葉に似せた言葉を発した。
だが、その黒田はいない。黒田がいなければ、世界には何の価値もない。だから、世界を喰い尽くしてしまおう。

「大好きだよ」

 ぎちぎちぎち。きちきちきち。モモコを中心にして、無数の人型昆虫が六本木といわず都心を覆い尽くしていた。
それはまるで黒い霧だった。黒田の面影を探して交わってばかりいたから、産まれた子達は黒や茶の虫が多い。
人型ゴキブリ、人型カブトムシ、人型クワガタムシ、人型スズメバチ、そして、ありとあらゆる人型昆虫の新世代。
進化に進化を重ねた人型昆虫の突然変異体のモモコは、受精して卵を産んでも死なず、また新たに産み出せる。
だから、この一年、モモコは数万の子を産み出した。人間は抵抗したが、数で勝る人型昆虫には勝てなかった。
 びいいいいん。びいいいん。びいいいん。絶え間ない羽音が繰り返され、虫が飛び回り、母の巣の上を巡った。
東京タワーの地下に空いていた巨大な地下空洞、真の女王の巣だった場所にモモコは辿り着き、己の巣にした。
奥深い穴は居心地が良く、餌が豊富で子を産むのが楽だった。真の女王が東京に居着いた理由もそれだろう。

「お父さん、お母さん」

 モモコはカブトムシのそれに酷似したツノに触れてから、人のような体を上両足で抱き締めた。

「私をこの世界に生み出してくれて、ありがとう」

 赤錆の浮いた鉄骨を蹴り付けたモモコは、羽衣を思わせる銀色の羽を震わせて上昇した。

「私、幸せだよ。だって、一人じゃないから」

 モモコがぎちりと顎を鳴らすと無数の虫達は一斉に飛び出し、都心を取り囲む最後の防衛ラインに向かった。
六本木付近に配備された自衛軍の戦闘車両が次々に砲を放つが、数匹を殺しただけで虫達に襲われて潰れた。
空中からも爆撃が始まったが、戦闘機が爆弾を投下する前にエアインテークに飛び込んで、墜落させていった。
一機、二機、三機、と墜落していき、爆発が何度も起きる。人間の怒号と悲鳴が混じるが、羽音に掻き消される。
今や、東京は虫の世界だ。この戦いを凌いでしまえば、明日からは今まで以上に広範囲で繁殖を行えるだろう。
人間達は知らないが、真の女王の地下空洞の下にも更に地下空洞があり、そこに無数の餌を温存しておいた。
だから、どれほど東京の住民を避難させようとも無駄だ。モモコとその子達が集めた餌が、数万もあるのだから。
餌さえあれば、人型昆虫は際限なく繁殖する。たとえモモコが死んでも、その子供達が世代を重ねていくだろう。
戦火の広がる東京を見下ろしたモモコは、黒田の頭部に顎を擦り寄せて腹の内で疼く新たな卵の重みを感じた。
 今度こそ、黒田に似た子ならいいのだか。




 ぎちぎちぎち。
 人の腹で育ち、虫の精を受け、どちらでもない男に拾われ、次なる女王は目覚めた。
 きちきちきち。
 己が喰らった男を思いながら、次なる女王は子を孕み、産み、育てていく。
 げちげちげち。
 届きもしなければ、交わりもしない、不毛な愛を抱いたまま。

 次なる女王は、繁栄の時を過ごしている。







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