酸の雨は星の落涙



最終話 酸の雨は燦々と




 先述しておこう。
 私は詩を綴れるほどの感性を持ち合わせていないため、簡潔な表現に終始せざるを得ない。
 退屈だと判断するならば、今すぐにこの情報を遮断すべし。時間を無駄にせずに済む。
 もし、退屈だとも思わず、時間の無駄だとも思わないのであれば、この文書を読んでくれないだろうか。

 経緯は不可解ではあったが、君と出会えたことは何よりの幸福だ。
 そして、君の目からすれば、おぞましい異形でしかない私の傍にいてくれることも同上だ。
 ただ、それだけでいい。君が生きてさえくれれば、他に欲するものは何もない。
 だから、アリシアよ。どうか、私の傍にいてくれないか。だから、私も君の傍にいよう。


 ゲオルグ・ラ・ケル・タの日記より




 不安と後悔に続いて、懸念が胸に去来した。
 アリシア・スプリングフィールドを救出したことは、果たして善行であったのか否か。人命救助という観点で 捉えれば紛れもない善行だろうが、アリシア・スプリングフィールドの真意も知らぬままに行動を起こしてしまった。 思えば、アリシア・スプリングフィールドは外に出たいとは言ってなかった。あの日記帳の紙面でも、アリスの姿を 取って接触してきた時も、彼女はあくまでもゲオルグらを手助けする立ち位置にいた。ということは、本当は、彼女は ゲオルグらを惑星ヴァルハラの仮想現実から追いやってしまいたかったのかもしれない。それもまた、充分有り得る話だ。 ゲオルグらがあの仮想現実に引き摺り込まれたのも、ある種の事故であった可能性も捨てきれなかった。そう考えると、 尚更アリシア・スプリングフィールドの救出は熟考すべき事柄だったのでは。
 アリシア・スプリングフィールドを連れて惑星クーに帰還してから数ヶ月が経過した今でも、ゲオルグは未だに 自信が持てずにいた。惑星クーの都市の郊外に構えた自宅から、八輪駆動車を駆って都市の病院に向かう最中は いつもそのことばかりを考えていた。ゲオルグが住む広大な草原と都市まではほとんど一本道で、通行量が全くないので 交通事故を起こす心配はなかったが、注意力が散漫になっているのは否めなかった。愚痴を零しながらも彼女の面会に 付き合ってくれるエーディは、時折、ハンドルを握るゲオルグに注意を促した。おかげで、野生動物との接触事故や 泥溜まりに填ることは何度となく避けられたが、いい加減にしろと何度も言われている。考え事をしたいのなら運転するな、 いっそ車に人工知能を乗せろ、などと言われたが、どちらも聞き入れなかった。惑星ヴァルハラでの一件以来、 ゲオルグは電脳世界に対して疑念を抱くようになった。信用していないわけではないし、自分も機械制御に頼って命を 長らえているので、全否定することは出来ないが、無遠慮に信用出来なくなった。昔から言われていることだが、 便利な道具である道具に使われてしまうことほど愚かしいものはない。それを、身に染みて味わってしまえば多少なりとも 拒否反応を覚えるのが正常だ。エーディはむしろ逆で、人工物を凌駕出来るほどの知能と才覚を備えようとやたらに 勉強熱心になった。同じ出来事を経験しても、捉え方や結論が異なるのは面白いものだ。
 八輪駆動車を小一時間走らせて市街地に入ったゲオルグは、この数ヶ月間で馴染み深くなった病院に到着した。 駐車場に他の多脚自動車に混じって八輪駆動車を止めると、レギア人の軍人上がりの警備員がゲオルグを出迎えてくれた。 歩くのが億劫だと言い張ったエーディを肩に載せたゲオルグが院内に入ると、地球人類に似たシルエットの獣人である クー人の看護士や事務員が挨拶してくれた。何度も通い詰めているので案内されるまでもないゲオルグは、迷いなく 病棟に向かった。自分自身のサイボーグの点検や部品交換の時に辿るルートよりも、余程使用頻度が高い道順だった。 階段を昇り、渡り廊下を通り、いくつかの自動ドアをくぐり抜けると、アリシア・スプリングフィールドが眠る病室に到着した。

「いらっしゃい」

 病室の前で二人を待っていたのは、上半身は人型の多脚型ロボットに人工知能を移し替えたヒルダだった。

「彼女の容態は」

 ゲオルグが尋ねると、ヒルダは八本足を動かして歩行し、スライド式のドアを開けた。

「大人しいものよ。地球人類の医者によれば、もうしばらく昏睡は続きそうですって」

「まあ、あれだけ長いこと、仮想現実に接続してりゃあな。生命活動が維持出来るだけ、まだマシさ」

 ゲオルグの肩を踏み切って羽ばたいたエーディは、先に病室に入った。ヒルダが入るとゲオルグも二人に続き、 病室に入った。柔らかな色合いの壁に湿度が高めの空調の部屋に中心には大きいベッドが据えられ、その上では 小柄な女性が眠り続けていた。睫毛に縁取られた瞼は閉ざされ、浅い呼吸を繰り返すごとに胸はかすかに上下しているが、 身動きする気配はない。薄い掛布に覆われた体には両手足がなく、点滴の管は胸に繋がれていた。

「ニュースやら何やらで色々見てはいるけど、地球人類ってのも曲者ね」

 ヒルダはアリシアの掛布を整えてやってから、付けっぱなしにしていた立体映像装置を見上げた。

「アリシアの存在は認めたけど、アリスの存在はどうしてもなかったことにしたいみたいね。ゲオルグが元将軍じゃなくて、 エーディが惑星クーの外交上不可欠な言語学者じゃなかったら、暗殺するんじゃないかってぐらいに」

「そりゃ、誰だって自分のミスを認めるのは嫌なもんさ。そのレベルがでかけりゃでかいほどな」

 ベッドの太い柵に降りたエーディは、四つ足を揃えて座った。

「アリシアにしたって、自分の意志で単独行動を取ったわけじゃないみたいだしな。調査資料を見つけ出すのはまだまだ これからだろうが、アリシアがあのカプセルにくっつけてくれていた外部記録装置から再生した映像を見る限りはそうとしか 思えねぇ。ヴァルハラに近付いた時点で、アリシアと他の地球人類が乗った宇宙船はアリスに乗っ取られかけていたんだ。 で、あらゆる計器が狂いだして、船内コンピューターを経由して搭乗員の意識が意識を転送されかけた時に、搭乗員の一人が アリシアが作業をしていた中央制御室の隔壁を下ろし、ついでにブロックごと切り離して、ヴァルハラに投下した。傍目に見たって、 アリシアは同族から守られるべき立場なんだがな」

「その辺のこと、立証出来るかしらね」

 アリシアの寝顔を見、ヒルダは三つのレンズが付いた顔を傾げた。

「同志達の力は限られているが、出来る限りのことはしなければならない」

 ゲオルグは椅子を引いてアリシアのベッドの傍に座り、立体映像装置を仰ぎ見た。

「彼らが責任を取ろうとしないのであれば、取らせるまでだ」

 立体映像装置が流しているのは、惑星クーの連合国営放送だった。クー人の女性アナウンサーが話す内容は早口で 機械の脳で補正しても把握しきれなかったが、同時に流される映像である程度は掴めた。ゲオルグはそれ以上の情報を既に 得ているが、それがどういう形で報道されているのかは知らなければならない。地球人類、惑星レギア、惑星イリシュ、そして ヒルダの母星である惑星レーヴの間で発生した、アリスに関わる問題は容易には解決しそうになく、それらに巻き込まれてしまった 惑星クーも好意的ではなかったが、中立の態度を取ろうとしていた。
 アリシア・スプリングフィールドを救出し、惑星クーに連れ帰った後、ゲオルグは惑星クーと彼らとの交流を持っている 異星の種族に連絡を取ってもらい、地球人類の居所を捜し出した。クー人は地球人類に似た体格の獣人ではあるが、地球人類 とは肉体の構造も違えば構成している物質も違いがあるので、治療してもらおうにも出来るわけがないので、同種族と 接触して治療してもらうことにした。複数の惑星と国家を経由して見つけ出した、宇宙の流浪の民、地球人類は、当初は レギア人やクー人に好意的ではあったが、アリシアと出会った経緯と惑星ヴァルハラでの一件を話した途端に態度を変えて きた。アリシアの命を助けるための手助けはするが、二度とアリスには接触しない、レギア人ともクー人とも外交活動は行わない、 場合によっては戦闘も辞さない、などと血も涙もない返事ばかりが返ってきた。その後、都市型宇宙船で航行しているために 物資が不足しがちな地球人類に物資を分け与えることで譲歩は成されたが、それでもまだ、地球人類は辛辣な態度を続けている。 アリシアに同情的なのはゲオルグら三人だけで、彼女の治療のために惑星クーに訪れた地球人類の医師や看護士 でさえもアリシアに冷たかった。そうしておけば、アリシアに全ての責任が及ぶと思っているのだろう。

「んで?」

 エーディに話を振られ、ゲオルグは聞き返した。

「何がだ」

「アリシアが目ぇ覚まして、義肢をくっつけて、リハビリして、まともな生活出来るようになったら、やっぱりお前の家に 引き取るのか?」

「それ以外にあるまい」

 ゲオルグが即答すると、ヒルダは四本指の手を広げて肩を竦めた。

「その時は私も付き合うわ、ゲオルグ。レーヴ政府の観測庁に星間航路についてのデータを引っこ抜かれちゃった おかげで、名実共に型落ちの役立たずコンピューターに成り下がった私を買い取ってくれた上に、アリシアの御世話なんていう 立派な仕事を与えてくれたんだもの」

「あっちの世界じゃ散々嫌がっていたくせに、現金なもんだな」

 エーディが変な顔をすると、ヒルダは澄ました。

「あれはアリスであって、こっちはアリシア。別物じゃない」

「俺も忙しいっちゃ忙しいが、お前らとの関わりを切った後の方が面倒なことになりそうだから、付き合ってやるよ」

 エーディは掛布の端に降りると、くるりと丸まった。

「それがいい」

 ゲオルグは頷いてから、アリシアを見やった。現実世界に生きている本物のアリシアは、アリスとは異なり、くせのない 長い髪は栗色で、閉ざされた瞳は琥珀色だそうだ。だが、彼女の瞳の色を見たのは、瞳孔の開き具合を確認した地球人類の医師と その診察に付き添っていたヒルダぐらいなものだった。それを見る日が早く訪れて欲しい、と思う傍らで、存分に眠って身も心も 休めて欲しい、とも思っていた。ゲオルグは白く薄い肌を持つアリシアを見据えていたが、右手の硬い指でそっと触れ、肌の下の 頬骨をなぞるように手を動かした。
 暖かく、柔らかい、生の感触だった。




 それから更に数ヶ月後、アリシアは意識を取り戻した。
 言葉も通じず、見知った人間もおらず、両手足を失っているアリシアにとっては、何もかもが辛く厳しいことばかりだった。 レギア語、多少のイリシュ語は話せても、仮想現実から脱したことで地球人類の言語を失ってしまったゲオルグには、アリシアに 声を掛けても意味が通じないことが胸苦しかった。アリシアもゲオルグの話す言葉を理解しようとするのだが、今一つ反応が 噛み合わず、彼女も必死にレギア語らしきものを使おうとするのだが、ゲオルグには聞き取れない発音が多かった。何度か 行き違いも起きたが、リハビリを続けながらゲオルグらの言葉を理解しようとしたアリシアの努力は報いられたらしく、近頃では アリシアの話すレギア語が聞き取れるようになっていた。
 時間が経過しても、地球人類側の態度は変わらなかった。時間が経つに連れてアリシアを救出したゲオルグらに賛同する 意見は上がりつつあったが、地球人類側を揺さぶることは出来なかった。アリシアが乗っていた宇宙船の乗組員からも多少の 証言は得られたが、真実からは程遠いものばかりだった。外部記録装置に残されていた情報も捏造だと言い張られたが、ここが 踏ん張りどころだと見極め、ゲオルグはより強硬な態度に取って出た。惑星クーを経由して地球人類側に分け与えていた中性水や 純正酸素といった物資を制限し、レギア人の珪素回路精製技術の開示も中止させた。革命後に政治家に転身した元士官や 元将官もゲオルグらに協力的なので、それなりの成果は期待出来そうだった。
 その日もまた、ゲオルグはエーディを連れて病院に向かった。いつものようにヒルダが出迎えてくれ、ベッドから身を起こした アリシアも出迎えてくれるようになった。伸び放題だった栗色の髪はヒルダの手で整えられ、横たわっても邪魔にならないような 結び方で肩から胸に垂らされていた。

「いらっしゃーい」

 上半身ごと回転させたヒルダが振り向くと、アリシアは本から顔を上げ、笑顔を見せた。

「こんにちは」

「やあ、アリシア」

 ゲオルグが挨拶すると、エーディが羽ばたいて彼女の頭上に移動した。

「今日は何を読んでんだ? ていうか、読めるのか?」

「少しずつですけど、なんとか」

 アリシアはちょっと自慢げな顔で、レギア語の簡単な単語が書かれた本を掲げた。

「義肢の具合はどうだ」

 ゲオルグが近付くと、アリシアは本を下ろして両手を動かしてみせたが、五本の細い指は不揃いに曲がった。

「それが、まだ上手く動かせなくて…」

「焦る必要はない」

 ゲオルグはセラミック装甲に覆われた左腕を挙げ、アリシアの小さな手を掴んだ。

「…はい」

 アリシアは人工外皮に包まれた指でゲオルグの義手を握り、小さく頷いた。

「で?」

 いきなりヒルダがエーディに振り向いたので、エーディは耳を曲げた。

「なんだよ」

「今日に限ってお花の一本も持ってきてないわけ?」

 不満げなヒルダに、エーディは言い返した。

「そうそう毎日持ってこれるか、あんなもん。第一、最初に持ってきた時に意味が解らないっつって捨てかけたのは どこの誰だ。記憶容量から削除したとは言わせねぇぞ、この型落ちワゴンセール品が」

「あれは情緒的な感覚を養っている途中で、機械的な反応が抜けきっていなかったからよ。で、何もないの?」

「この俺に花を買ってこいってのか? それともその辺から引っこ抜いてこいってか?」

「そのどちらでもないわね。年がら年中お花だと飽き飽きしちゃうから、たまには別のモノを持ってきなさいよね。あ、でも、 クー人の摂取する食料品は地球人類には有毒物質ばかりだし、かといってレギア人のは酸性がきつすぎて体に障るし、一番 まともそうなイリシュ人のも生臭くて…」

「注文ばっかり付けてないで自分で行動を起こせよ!」

「的確な指示がなければ動けないのよ、私って優秀な道具だから」

「じゃあ外に来い、でもって俺の命令を聞け」

「あら残念、私のマスターはゲオルグでサブマスターはアリシアなのよね」

「黙れ」

 エーディは苛立ちを隠しもせずに吐き捨て、ヒルダを連れて病室を後にした。八本足の先端に付いた車輪を軽やかに 動かしながら廊下を進んだヒルダは、途中で止まり、振り返った。エーディもヒルダの後頭部にしがみつくと、同じように病室に 振り返った。日当たりが良く掃除が行き届いた廊下を行き交う看護士や、他の病室の患者の家族の話し声に混じって二人の 声が聞こえてきやしないかと思ったが、そのどちらも二人の聴覚には至らなかった。

「進展しないわねー、あの二人」

 ぎっちょんがっちょんと足音を響かせながら階段を下りたヒルダは、中庭を目指した。

「そうだなぁ」

 残念がりながら、エーディはぱたぱたと尻尾の先を振った。

「かといって、外からせっついてどうこうするのも、ねぇ?」

 ヒルダが逆三角形に設置されたレンズの一つを上向けると、エーディは同意した。

「ゲオルグもだが、アリシアもいい歳した大人なんだ。自分らでどうにかするさ」

 階段を下り終えたヒルダは、また車輪を使って中庭に出た。雨期の終わり頃に相応しい光量の日差しで、温められた 水分が草間から立ち上っていた。エーディは翼を広げて羽ばたき、ヒルダの後頭部から浮かび上がると、手近なベンチに 着地した。ヒルダは八本足の後ろ半分を折り畳んで座ると、四本指で三段関節の両腕を揃えた。

「ねえ」

 ヒルダは目の一つを動かし、エーディを見下ろした。

「この世界まで仮想現実だったら、どうする?」

「どうもこうもしねぇよ。逃げ出したところで、どこに行けるわけでもねぇし」

 エーディはヒルダの膝の上によじ登ると、内側から機械熱が滲み出る外装に寄り掛かった。

「そういえば、あんた」

 指先でエーディの後頭部を小突いたヒルダは、背を曲げて覗き込んできた。

「なんだよ」

 鬱陶しげにエーディが目を上げると、ヒルダは三つの目を下げてきた。

「少しは自分のこと、好きになれた?」

「どうだかな」

 エーディはヒルダの硬い太股に寝そべり、ぼんやりと中庭を眺めた。

「昔に比べりゃマシって程度だ。あの仮想現実の中じゃ俺の本心がだだ漏れだったが、だだ漏れすぎたせいで 嫌な部分も丸出しだったから、好きになる以前の問題だった。お前らと付き合うことで、ちったぁ他人と接触する利点を 見出せたつもりではいるが、まだまだだ」

「私もねぇ…」

 ヒルダはサブアームの精密作業用の細い指を、エーディの毛並みに通した。

「ゲオルグから新しい仕事と居場所を与えられて、嬉しいには嬉しいし、しっくり来ているけど、まだまだ時間が 足りないわ。自分を好きになるのって、難しいわよね。好きになりすぎても面倒だし、かといって嫌いすぎるのも厄介 だし。丁度良いところを見つけるのが、当面の課題ね」

「全くだ」

 エーディがぎゅっと目を瞑ると、ヒルダは自在に伸びる首を曲げてエーディを覗き込んできた。

「誰かに好きになってもらえば、その人が好きな自分を好きになれるから、もうちょっと簡単なんでしょうけどね」

「何が言いたい」

 エーディが面倒そうに頭上を仰ぐと、ヒルダはレンズの目のシャッターをかしゃりと開閉させた。

「差し当たって都合の良い相手がいないのなら、暇潰しに相手をしてあげてもいいわよ?」

「…馬鹿言え」

 エーディは引きつり笑いを浮かべたが、ヒルダは澄ましていた。

「身持ちは堅いし、プログラムさえもらえれば大抵の仕事はこなせるし、何より優秀よ」

「お前を好きになるぐらいだったら、俺が俺を好きになる方が余程楽だ」

「あら、心外ね」

 ヒルダは不満げにレンズの目をぐるぐると回転させたが、それ以上は言わなかった。エーディも言い返すほどの 気力はなく、ヒルダの足にへばりつくように腹這いになった。中庭にはクー人ばかりが行き交っていて、彼らの交わす 言葉はどれも穏やかだった。当たり障りのない言い回しで平凡な話題を交換し、日常を謳歌している。異星の住人達 ではあるが、エーディもヒルダも母星での休日であるかのように感じ取っていた。どんな世界でも、平凡な日常という ものは代わり映えがしないからだろう。
 エーディはヒルダの頭越しに病室の窓を見上げ、ゲオルグを羨んでしまった。距離感を図りかねている二人は、 相変わらず会話らしい会話はしていないようだったが、充分に年齢を重ねている二人にはそれが丁度良いのだろう。 若さに任せた勢いだけの行動を取るよりも、余程良質だ。異星の種族であり、手も足も失ってはいるが、アリシアは 利発で魅力的な女性だ。そんな彼女はゲオルグの半身になろうと、日々レギア語を習得するために勉強しており、 ゲオルグもまた彼女の半身になろうとせんがために病院に通い詰めている。思っているから、相手に思われようと している。いつか、心が通じ合う日が来たとしたら、ゲオルグとアリシアはアリスなどでは到底作り出せない無限大の 幸福を得られる。それが羨ましくない者がいるとすれば、満ち足りすぎて退屈な人生を送っている者ぐらいだろう。
 恐らく、地球人類は通じ合わせるべきものを欠いたまま長らえているのだ。だから、アリスを造り出し、利用したは いいが、溺れすぎた末にアリスをヴァルハラに捨てた。生み出したものに対して責任を取ろうとしないばかりか、自らの 過ちの犠牲となったアリシアを見限っている。生きる上で多少の猜疑心は必要だが、これはさすがに度が過ぎている。 それらを踏まえれば、ヴァルハラがアリシアを囲っていた理由も朧気ながら掴めてくる。きっと、ヴァルハラはアリシアの 境遇に同情したのだろう。だから、アリスを使い、アリシアを満たしてやりながら、共に生きていたのだ。
 だから、今、ヴァルハラはこの上なく孤独だ。あれほど疎んで憎んだ惑星ではあったが、ほんの少しばかりの 同情心が生まれ、エーディは小さな顎を前足の間に埋めた。孤独にならないためには他者を頼るしかないが、その 他者が煩わしい者もいる。自分の幸福は未だ妄想の内だな、と自嘲しつつ、エーディは目を閉じた。
 それでも、現実で足掻けば活路は見出せるだろう。





 


10 3/1