酸の雨は星の落涙



第九話 落涙は累々と



 城に迫るに連れて、ゲオルグの姿は変わっていた。
 かつて、アリスに囚われていた時と同じ、サイボーグと化してから日の浅い、若い頃の姿になっていった。エーディは 大差がないが、ヒルダの姿もあの育児介護用ロボットに変化していた。アリスと惑星ヴァルハラが生み出す仮想現実に 突入した証拠に違いなかった。となれば、本来のゲオルグらはどうなっているのだろうか。アリシア・スプリングフィールドが 造り出した陸の亀裂の上を飛んでいる最中かもしれないが、進まなければ話にならない。
 航続距離にして二千キロを突破しても、城には届かなかった。現実と仮想現実では時間も違えば物理法則も異なる せいで、可変型戦闘機の速度もねじ曲げられているのだろう。ゲオルグは力一杯ペダルを踏み込んで加速するが、それでも 機体は前進しない。眼下には御菓子の草原が延々と続き、輝く虹が空に掛かっていた。

「くそっ!」

 苛立ちを露わにしたゲオルグが機銃掃射を行うが、虹は砕けるどころか輝きを増した。

「このままじゃ、どうにもならねぇな。せめて、時間経過はなんとかしねぇと…」

 エーディが考え始めると、ヒルダが足の一本を挙げた。

「私にいい考えがあるわ」

「不安しか過ぎらないんだが」

 エーディが耳を伏せると、ヒルダは可変型戦闘機の通信装置にケーブルを差し込んだ。

「まあ、見てなさいよ。要するに、童貞男の処理能力を下げてやればいいんでしょ? 時間経過が早いってことは、 それだけ情報処理が早いってことだから、私の船を経由して情報をてんこ盛りにした通信電波をアリシア・スプリングフィールド 側に転送してやれば…」

 ヒルダがケーブルを引っこ抜いてから数秒後、急に外の景色の流れが速まった。

「ほら、現実と仮想現実の時間差が減っていくわ」

「で、どこから通信電波を持ってきたんだよ?」

「星間通信ネットワークを行き来している電波を拾って、手当たり次第にウェブサイトから情報をダウンロードさせたのよ。 特にデータ量の多い動画サイトが多いわね」

「そりゃ重い」

 エーディは素直に納得し、ゲオルグの肩越しに進行方向を見据えた。

「どうだ、近付けたか?」

「まだだ」

 ゲオルグはペダルが曲がりそうなほど強く踏むが、翼の粘り気は払いきれない。まるで、指向性の重力波を受けて いるかのようだった。それじゃお次は、とヒルダはまたケーブルを接続させ、新たな通信電波を転送した。また別の惑星の 動画投稿サイトの動画を全件再生させ、また次の惑星の動画投稿サイトを、と繰り返していくうちに、ようやく翼の粘り気は 剥がれ始めた。最終的には数百億のウェブサイトから引っ張り出した情報や星間ネットワーク内を行き来する情報を転送し、 眼下の光景にノイズが走るようになると、可変型戦闘機に相応しい速度が戻った。
 だが、それも長くは持つまい。ゲオルグは加速出来るだけ加速し、白亜の城に向かった。接近するに連れて城の姿にも ノイズが走り、白い外観が崩れていった。原形を止めていない都市を超えて城の目前に到達した頃には、城は本来の姿を 取り戻していた。それは、都市型宇宙船の赤く錆び付いた艦橋だった。都市だと思われていたものは都市型宇宙船の甲板で、 ビルに似た形状の外装が突き出していた。ゲオルグは可変型戦闘機の三本足を出して艦橋に突っ込むと、メインブリッジと 思しき場所を破壊しながら着陸した。続いて機体を人型に可変させると、両腕に装備されたプラズマブラスターを錆びた床に 突っ込んで発砲した。長年風雨に曝されて傷んだ艦橋は情けないほど容易く砕け、熱した破片が飛び散り、メインブリッジから 船内に直通する巨大な穴が空いた。ゲオルグはその穴から迷わず降下したが、なかなか下層には到着出来なかった。 都市型宇宙船だと称されるだけのことはあり、巨大だったからだ。そのうちにプラズマブラスターでは貫通出来なかった床が 現れたので、更に破壊し、その次も破壊して降下し続けた。光源は何もなく、可変型戦闘機が移動する際に発生する乱気流に よって剥がれた内装が散らばった。そして、底面と思しき場所に降り立ったゲオルグは、可変型戦闘機の目を通じて内部の 様子を窺った。
 都市型宇宙船の内部は、暗い空洞だった。かつては地球人類の居住区だったらしい空間には、干涸らびた人工の海と 空を映していたであろうスクリーンパネルが広がり、足元には文明の証拠が大量に堆積していた。人工の海と空に挟まれている 人工の陸地の奥には、仮想現実での都市に似通った構成の居住区が設置されていた。プラズマブラスターを発射して居住区を 吹き飛ばしてみたが、特に反応はなかった。

「これは俺の推測に過ぎないが」

 エーディは、埃っぽい暗闇に沈んだ居住区を見渡した。

「ヴァルハラの童貞野郎は、アリスの機能を維持するだけで精一杯なんじゃないのか? だから、都市型宇宙船の機能を 維持出来ずにいるんだ。普通だったら都市防衛システムかなんかあるはずなんだが、それすら作動しないとなると、そうだとしか 思えないぜ」

「だとしても、油断は出来ないわ。アリシア・スプリングフィールドの居場所を探さなきゃ」

 ヒルダが触手状の目を動かすと、ゲオルグは居住区の一点を捉えた。

「いや。探すまでもない」

 ALICE。ゲオルグの視線の先には、地球人類に無限の快楽を与えんがために生み出されたソフトウェアの名が記された、 白亜の城に酷似した建物がそびえていた。ゲオルグは機体を浮かび上がらせて発進すると、一直線にその城に迫り、発砲した。 一撃で城の上半分が砕け散り、可変型戦闘機の突入口が出来上がった。ゲオルグは城の内部を照らしながら降下し、着地すると、 キャノピーを開いて飛び降りた。

「ヒルダ、ライトの操作を頼む。私は内部の探索を開始する」

 ゲオルグが二人に指示を出すと、エーディはブースターを使って後部座席から飛び出した。

「んじゃ、俺は適当に付き合うとするかね」

 よっと、と肩の上に飛び乗ってきたエーディに、ゲオルグは尋ねた。

「エーディ。この建築物の中央管理室はどこにあると思う」

「んー…」

 エーディが目を上げると、その視線に従って可変型戦闘機のライトが動いた。城の内装は、アリスの城とは違い、 完全な娯楽施設の内装だった。所々にモニターが設置され、アリスの使用者が横たわるための楕円形のカプセルが 大量に並び、三人が仮想現実で目にしたアリスの姿が印刷されたパネルも立っていた。エーディはしばらく唸っていたが、 ゲオルグの肩から身を乗り出して前足で床下を指した。

「これもまた推測に過ぎないが、配線からすると地下じゃないのか?」

「私もそう判断する」

 ゲオルグは頷いてから、ヒルダに指示を出した。

「ヒルダ。プラズマブラスターの出力を下げて発砲し、床を破壊しろ」

「間違ってアリシア・スプリングフィールドまでぶち抜いちゃったらどうするの?」

「表層だけに向けて放て。貫通させるのではなく、掠めればいい」

「解ったわ、やってみる」

 ヒルダはかさかさと這って操縦席に入ると、操縦桿にマニュピレーターを絡ませて操作した。モーターを唸らせながら 右腕のプラズマブラスターの砲口を上げた可変型戦闘機は、ヒルダの操作に従って出力を絞り、地下への直撃を避ける ために右腕の肘を曲げてから発砲した。炸裂音と共にイオン混じりの暴風が吹き荒れ、エーディが吹き飛ばされないように 左腕で押さえたゲオルグは、視界が戻るのを待った。舞い上がった粉塵が落ち着いてライトの光量が蘇ると、床の一部が 豪快に剥がされて地下階が現れた。

「突入する」

 ゲオルグは迷いなく駆け出し、エーディを掴んで落下した。おうっ、おいぃっ、とエーディが悲鳴混じりの叫びを上げたが、 それに構わずに地下階に突っ込んだ。落下自体は短く、ゲオルグの足は間もなく次の床を踏み締めた。ゲオルグがヒルダを呼ぶと、 ヒルダは可変型戦闘機を穴に近付かせ、ライトで地下階の内部を照らした。青白い光条が舐めるように動かされていたが、 何かが光を反射させた。ゲオルグはライトを止めさせて一点に定め、義眼の光量を絞って目を凝らすと、地上階にあった カプセルとは若干形状の違うカプセルが横たわっていた。不自然なほど配線が集中していて、無数のケーブルがツタのように カプセルに絡み付いていた。長年の管理不備のせいで風化した都市型宇宙船は雨漏りがしていたらしく、錆び混じりの 雨水が床に落ちて染みが付き、さながら花弁のような汚れを作っていた。エーディは顎でしゃくり、ゲオルグに先に行くように 示した。ゲオルグは彼に頷き返し、歩き出した。
 ゲオルグの体格よりも二回りほど小さなカプセルは、ケーブルに覆い隠されていた。ゲオルグは大量のケーブルを 毟り、千切り、引き剥がし、埃と粉塵に汚れたカプセルの表面を手袋で拭った。可変型戦闘機が注ぐライトの光を受けて 浮かび上がったのは、茶色の髪と白い肌を持った地球人類の成人女性だったが、地球人類にあるべきものが失われていた。 ゲオルグが硬直すると、遅れて近付いてきたエーディは彼女の姿を見て絶句した。

「…あ?」

 アリシア・スプリングフィールドであろう女性は、両手足がなかった。正確に言えば、切断されていた。頸椎にケーブルを 接続された彼女は眠り込んでいたが、眉間には苦悶が刻まれていた。カプセルの内側には外科手術に用いられたであろう レーザーメスが付いたケーブルが入っていて、術後からかなりの時間が経過しているらしく、彼女の周囲に転がっている両手足は 干涸らびていた。

「なぜ、彼女がここまでしなければならない」

 ゲオルグは、カプセルに添えた手をきつく握り締めた。

「物理的に惑星ヴァルハラを損傷させるっつーことは、そういうことだったんだな」

 エーディは目を背けかけたが、痛ましい姿のアリシア・スプリングフィールドに戻した。

「きっと、アリシアはアリスを通じてヴァルハラに接続している時間が長すぎたから、ヴァルハラと生身の感覚を共有する ようになっちまっているんだ。だから、自分の手足を落とせば、惑星ごと珪素鉱脈が壊れると踏んだんだ。全く、いい判断する女だよ。 その度胸と根性だけは買ってやる」

「彼女が作ったって言った亀裂の数も、丁度合うわ。手足を合わせれば四本だもの。だから、最後の一辺は」

 ヒルダがライトをやや持ち上げ、アリシア・スプリングフィールドの顔を映した。

「…首か」

 ゲオルグは重たく呟き、握り締めた手が震えるほど力を込めた。

「間に合った、って思うべきだと思うぜ。ゲオルグ」

 エーディがゲオルグを見上げると、ヒルダは可変型戦闘機の首を上下させて頷いてみせた。

「正に首の皮一枚、ってところね」

「だが、これは」

 ゲオルグは肩を怒らせ、喉の奥に迫り上がる感情の固まりを押さえきれずに鈍く呻いた。やはり、所詮は王子様ごっこ だったのだ。アリシア・スプリングフィールドを助け出すといっても、両手足を失った状態では助けられたことを悔いるかもしれない。 やはり、何もかもが遅すぎた。もう一年、一ヶ月、一日でも早く行動していれば、アリシアは。

「生きているんだ、遅いことはねぇよ」

 ゲオルグの心情を察し、エーディが前足で叩いてきた。ヒルダは可変型戦闘機の頭部を上下させ、頷いた。

「そうよそうよ。生体反応だってちゃんとあるんだし、この御時世、手足なんてどうにでもなるわよ」

「…ああ、そうだな」

 ゲオルグは己の左腕を見やり、平静を取り戻した。ヒルダの言うように、手も足も機械の義肢にすげ替えてしまえばいい。 ゲオルグはそうして生き長らえてきたのだから、アリシア・スプリングフィールドも出来ないわけがない。出来なかったとしたら、 その時はゲオルグが彼女の手足となればいい。どうせ、退役した身なのだから、誰のために生きようともゲオルグの自由だ。 握り締めすぎていた手を緩め、ヘルメットの内側が曇ってしまうほど深く呼吸した。
 改めて見ると、アリシア・スプリングフィールドは美しかった。レギア人にはない繊細な曲線で出来上がっていて、丸い 乳房となだらかな腹部は透明感のある白い肌に包まれ、太股の上半分だけが残った二本の足はかつてはすらりと長く伸びていた ことを思わせる形で、二つの目は瞼に閉ざされていても、面差しの整い具合は解った。レギア人の純然たる美的感覚では、 彼女は美に相当するものを持ち合わせていなかったが、仮想現実での経験で地球人類に対する美的感覚を得ているゲオルグは、 彼女が相当な美人だと理解出来た。この時ばかりは、仮想現実と惑星ヴァルハラに感謝せずにはいられなかった。

「君は己の望みで我らを再会させたと思っているのかもしれない。だが、それは誤認だ」

 ゲオルグはカプセルに近付き、アリシア・スプリングフィールドの顔を見下ろした。

「私は君に会いたいと願い、ここまで来たのだ。そう、認識し直してくれ」

「事実を確認しとかないと、気持ち悪かったっつーだけなんだけどな」

 エーディがゆらりと尻尾を振ると、可変型戦闘機の拡声器を使ってヒルダも言った。

「だから、外に行きましょう、アリシア。あなたの王子様が迎えに来てくれたんだから、行かなきゃ嘘ってもんでしょ」

「アリシア」

 ゲオルグが右手を差し伸べると、前触れもなく水滴が落ちてきた。一滴、二滴、三滴、と次第に数が増していき、 ゲオルグだけでなく、可変型戦闘機も濡らし始めた。ゲオルグが顔を上げると、可変型戦闘機のプラズマブラスターで 貫いた都市型宇宙船の穴を通り抜けた雨粒が、分厚い雲が広がった空から降り注いでいた。ヒルダは素早くキャノピーを 閉めると、二人に注意を促した。

「早く戻って、この雨、酸性雨なんだから。地球人類がヴァルハラのアルカリ性を中和するために作ったのよ」

「見ろよ、ゲオルグ」

 エーディがアリシア・スプリングフィールドを指したので、ゲオルグが再び向くと、彼女の目尻が潤んでいた。

「泣いているのは彼女かしら、それともヴァルハラかしら」

 ヒルダはキャノピーの内側から、北極らしからぬ雨空を見上げた。

「どちらでも構わん」

 ゲオルグはアリシア・スプリングフィールドが保存されているカプセルの固定脚をハンドガンで撃ち抜いて破壊すると、 ケーブルを全て引き抜き、担ぎ上げた。

「回収を完了。これより、ガイスト号に帰還する」

「とっととずらかろうぜ。長居したら、また妄想に巻き込まれる」

 エーディは一足先に可変型戦闘機に戻り、雨を払ってから後部座席に入った。ヒルダの操縦によって可変型戦闘機は 手を差し伸べてきたので、ゲオルグは彼女が入ったカプセルと共に乗った。カプセルは操縦席には入らないので、本来は ミサイルを格納するスペースに収めてから、ゲオルグは操縦席に戻った。セラミックアーマーに付着した雨粒を拭い去ろうと したが、グローブに付いた潤いを見つめた。言い表しづらい感情の波が胸に去来したが、それに感じ入る暇はないと思い直し、 可変型戦闘機を発進させて都市型宇宙船を脱し、ガイスト号を目指した。
 惑星ヴァルハラの地表は、降りしきる酸性雨に濡れていた。アリシア・スプリングフィールドの眠るカプセルを外して 彼女の意識をアリスに共有させていたケーブルを外したからだろう、ヒルダが無数のデータを転送して過負荷を与えた ためにノイズ混じりになっていた仮想現実が綺麗に拭い去られ、白く凍り付いた極冠に埋まる古びた都市型宇宙船が 露わになっていた。ゲオルグは半身をずらして副眼を上げ、都市型宇宙船の全貌を捉えた。可変型戦闘機で破壊した 艦橋からは薄く煙が立ち上り、割れた外装が剥がれ落ちていった。北極の極冠だというのに凍り付かない雨は、無遠慮に 心臓部を抉られた都市型宇宙船を癒すかのように、穏やかに落ちていた。

「なあ、ゲオルグ」

 複雑な表情を滲ませたエーディは、都市型宇宙船に振り返った。

「俺達は正しいことをしたんだよな?」

「どういう意味だ」

 元の年齢の姿に戻ったゲオルグが問い返すと、エーディは両耳を伏せた。

「その通りの意味さ」

「つまらないことを聞く男ね」

 やはり元の姿である多脚型ロボットに戻ったヒルダは、細長い目を曲げた。

「それを決めるのはアリシア自身であって、私達じゃないわ。私達は完全なる被害者であって、完全なる加害者よ。 理由はどうあれ、私達はヴァルハラからアリシアを奪取し、アリスを破壊し、彼らの美しい幻想を破壊したのよ。そして、 アリシアも、無慈悲で無礼で残酷で…とにかくどぎつい現実に引き戻しちゃったわけよ。目が覚めたら、彼女は本当の 私達を見てなんと言うのかしらね。恨み言かもしれないし、泣き言かもしれないし、嫌悪かもしれないわね。可哀想だと 思う状況の相手を助けたからと言って、無条件に感謝されると思い込むのは愚行よね。アリシアが正しいと思う世界は、 アリシアの内にしかないんだから」

 ヒルダが黙ると、皆、それきり黙り込んだ。アリシア・スプリングフィールドの入ったカプセルが機体の振動を受けて 揺れ動く音が反響し、翼が風を切る唸りが流れ込んできた。正しいのか否か、それについてはゲオルグも嫌になるほど 考えた。星間戦争が発生する直前に起こした行動は客観的に見れば正しかったが、その裏で犠牲になった兵士や民間人の 存在を忘れてはならない。主観的には正しくとも、見方を変えれば如何様にも変化するのだから。
 だから、アリシア・スプリングフィールドからの感謝の言葉など期待してはならない。笑顔を向けられることも、好意を 向けられることも、今のうちに何もかも諦めてしまうべきだろう。ゲオルグがアリシアに対して抱いた感情も、ゲオルグの一方的な ものでしかなく、アリシアが受け入れてくれるとは思いがたかった。
 それでも彼女を思おう、と、ゲオルグは誓った。





 


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