酸の雨は星の落涙



第五話 因業は隠匿されて



 ゲオルグが己を取り戻したのは、アリスのベッドの上だった。
 傍らでは、アリスがいつものように眠っている。ゲオルグを飲み込んだ胸元の傷口は塞がっていて、流血した痕跡や 瘡蓋すらもなくなっていた。ならば、とゲオルグは自身の腹部に触れてみるが、ヒルダによって強引に縫合された傷口と テグスは生々しく残っていた。アリスから離れなければ体の自由を奪われる、と思考したゲオルグはベッドから出ようと 右手を付いた時、硬い異物が手のひらにめり込んできた。何事かと右手を引くと、アリスの胸の内らしき異空間から脱する 直前に掴み取った物体がそのまま手に残っていた。

「な…」

 あれはアリスの想像によって作られた映像では。だが、ゲオルグの手には、あの冊子がある。

「これは、一体」

 冊子を裏返して表紙を見ると、赤いベルベット地に Diary と印刷され、小さな錠前によって鍵が掛かっていた。

「私を知って」

 アリスが目を覚ましたのかとゲオルグは反射的に振り向くが、アリスは枕を抱えて眠りこけている。

「私を見て」

 再度、アリスの声に酷似した第三者の声が鼓膜を叩いた。

「私を」

 機械の脳によって増幅された聴覚で音源を探り当てたゲオルグは、躊躇いのない動作でハンドガンを抜き、寝室の ベランダに銃口を据えた。日差しを和らげるレースカーテンと透き通ったガラスの先に、やはりアリスがいた。

「アリス」

 ゲオルグは銃口が下がるのではないかと思い、腕に力を込めたが、己の意志は阻まれなかった。

「ゲオルグ」

 窓の外のアリスはゲオルグが向けた銃口に僅かに怯えを見せたが、窓に両手を付いた。

「君も、やはりアリスか」

 ならば、殺さなければならない。ゲオルグは銃口を据えたまま、窓の外のアリスと距離を詰めた。

「アリス。そうよ、私はアリス。アリス。アリス。アリス」

 アリスは窓に付いた手に力を込めたのか、細い指先が曲がった。

「ねえ、ゲオルグ」

 ベッドで眠るアリスとは正反対の声色で呟いたアリスは、ゲオルグの向けた銃口に眼差しを据えた。

「私を」

 彼女の言葉が終わりきる前に、ゲオルグは引き金を引いていた。間を置かずに放たれたプラズマ弾がレースカーテンを 貫き、窓を破って空中に飛び抜けた。しかし、もう一人のアリスの姿はなく、残されたのは焼け焦げた穴の空いた窓とレース カーテンだけだった。プラズマ弾の高熱によって溶けた窓の穴から滑り込む風音を聞きながら、ゲオルグは周囲を見回した。 だが、もう一人のアリスは見つからなかった。窓を開けて庭園を見下ろそうとも、城に生えた塔の屋根を見ようとも、もう一人の アリスは影も形もなかった。あれも幻か、とゲオルグはハンドガンをホルスターに収めてから、ベッドで眠るアリスの傍らに 置いたままになっていた日記帳を手に取った。
 だが、これは幻ではなさそうだ。




 Alicia・Springfield
 ゲオルグの右手に残っていた冊子の裏表紙には、滑らかな文字で名が書き記されていた。いわゆる、鍵付きの日記帳、 という代物だろうが、肝心の鍵はどこにも見当たらなかった。日記帳の隙間にも挟まっておらず、錠前は角砂糖ほどの大きさしか ないのに、力任せにこじ開けようとしても恐ろしく頑丈でびくともしなかった。そんなものが、なぜゲオルグの手に渡ってきたのか。 そして、なぜ、アリスの胸の内の異空間に没したゲオルグがそんな物体を持ち出せたのか。そもそも、なぜ、アリスは胸の内に ゲオルグを収めながらも自分も行き来出来る異空間に通じていたのか。どれほど考え込もうとも、疑問は尽きなかった。
 一人だけでは到底解決出来ない問題だと判断したゲオルグは、アリスが寝付くのを待ってから、一階の大広間に降りて 夜食を漁りに来たエーディと、口汚く愚痴を零しながら明日の朝食の下拵えをしているヒルダを捕まえて同席させ、鍵付きの 日記帳を提示してから事の次第を説明した。ゲオルグは事実だけを簡潔に報告したつもりだったが、エーディだけでなくヒルダも 納得出来ないらしく、何度も聞き返され、その都度一から説明する羽目になった。

「うーん…」

 二人の向かい側の椅子に座っているヒルダは鍵付きの日記帳を指先で小突き、難解そうに唸った。

「これで何をどうしろってのよ、その、アリスっぽい他の誰かさんは」

「ていうか、なんでアリスはお前を取り込んだんだ?」

 ブランデーを落とした紅茶をぺちゃぺちゃと舐めながら、エーディは尻尾を振った。

「その説明に必要な情報を取得していない」

 そう言ったゲオルグは、レモンの輪切りが入りすぎて紅茶の入る余地がなくなったレモンティーを啜った。

「そりゃそうよね」

 ヒルダは鍵付きの日記帳を手に取ると、裏返したり、ページの隙間を覗いたりと様々な角度から調べた。

「確かに現存している物体だけど、これもやっぱりアリスの妄想の産物じゃないかしらね。アリスっぽい誰かさんも、アリスが 妄想したもう一人の自分、とかね。そういうのってどこの世界にもありがちなのよね」

「ああ、いるいる。多重人格もどきの馬鹿なんて、珍しくもなんともねぇよな」

 中身の減ってきたティーカップを両前足で抱えたエーディは、可笑しげに笑った。

「コンピューターにもいたわよ、そういう奴。なまじっか人工知能が進化すると、知的生命体のダメな部分も模倣して進化しちゃうのよ。 それがまた痛々しくって痛々しくって…」

 ヒルダは肩を竦め、鍵付きの日記帳をテーブルに投げ出した。

「アリスと同様、これには出来るだけ関わらない方が良さそうね。だって、見るからに怪しいもの」

「私を知って、ってのもなぁ。それはアリスが前々からお前に言っていることだろ?」

 エーディは紅茶を飲み終えると、御茶請けのクッキーを一枚取って囓った。

「そうだ」

 ゲオルグはレモンティーの中に入っていたレモンの輪切りを取り出し、咀嚼した。

「生ゴミが出なくてありがたいわ」

 ヒルダは黙々とレモンの輪切りを消費するゲオルグを一瞥してから、淀みない動作で長い足を組んだ。

「ついでに言えば、惑星ヴァルハラがアリスを囲ってこんな世界を作った、ってのもねぇ…」

「ぞっとしない話だな」

 二枚、三枚とクッキーを食べたエーディは、前足を舐めて顔を拭った。

「惑星が生命体か否かは俺の星でも昔から議論されてきたことだし、目新しい発見でもなんでもない。むしろ、近頃じゃ生命体 であることを前提として扱っているぐらいだ。俺の惑星探査も、それを踏まえた上での計画だったんだ。それ以外の任務も腐るほど あったんだがな。しかし、だとしても、状況と情報が繋がらねぇ」

「その通りだ」

 ゲオルグはレモンの種までもを丸飲みすると、空になったティーカップを下ろした。

「アリスが開示した情報が全て正しいという前提の元で思考したが、解せない点は多い。中でも最も解せないのが、俺とエーディと ヒルダの存在意義だ」

「全くだ。アリスがお前に見せたホログラフィー、とでも言うのかな、とにかく何かしらの映像が正しい記録映像だったとしたら、 この星は自力で人間を処分してアリスを孤立させて囲っていることになるんだ。そこまでのことが出来るなら、なぜ俺達なんかを 引き摺り込んだんだよ? そこまで出来るんだったら、アリスに完全服従する生命体ぐらいはいくらでも作れそうなもんだが。おい、お代わり」

 エーディは口をもごもごと動かしながら、後ろ足で空のティーカップをヒルダへと押しやった。

「自分でやりなさいよ」

 文句を言いつつも、ヒルダはエーディのティーカップにお代わりの紅茶を注いだ。

「ロボットにしたって、私みたいに自意識が強いタイプを使う必要なんてないはずよ? 無駄が多すぎるわね」

「お前の場合はその自意識が過剰すぎるんだよ」

 お代わりの紅茶を啜ってから毒突いたエーディに、ヒルダは言い返そうとして腰を浮かせたが、座り直した。

「そういえば、忘れていたわ。今週の自殺」

 ヒルダは腹部の収納スペースからハンドガンを取り出すと、側頭部に当てて発砲した。途端に両側頭部が抉れて 破損した部品が吹き飛ばされ、バッテリー溶液と機械油の飛沫がテーブルにも散らばった。ハンドガンを持ったまま、ぐらりと 上体を揺らがせたヒルダはテーブルに倒れ込むと、動かなくなった。それから一分もせずに大広間の扉が開き、次のヒルダが 何事もなかったかのようにやってきた。

「ああ残念、また死ねなかったわ」

 ヒルダは今し方までの自分だった機体を押し退けてから、バッテリー溶液と機械油が付着した椅子に座った。

「で、話の続きは?」

「調子狂うなぁ…」

 エーディは面倒そうに呟いてから、ゲオルグに向いた。

「おい、ゲオルグ。とりあえず、この日記帳を撃ってみろ」

「なぜだ」

「物理的に破壊してみるんだよ。で、壊れなかったらアリスと同じってことだ。やるだけやってみた方がいいぜ。その上で、 俺はこいつの研究に掛かる」

 ん、とエーディが小さな顎をしゃくると、ヒルダは頬杖を付いた。

「そうね、無駄じゃないと思うわよ」

「了解した」

 ゲオルグはハンドガンの銃口を鍵付きの日記帳に据え、引き金を引いた。軽い反動と共に射出された小型のプラズマ弾が 赤いビロードの表紙に命中して穴が空き、テーブルを焦がしながらめらめらと燃え広がった。

「あ」

 ゲオルグは思わず義眼のシャッターを開閉させたが、小振りな冊子は炎に舐め尽くされて一山の灰と化した。

「あ゛ぁ゛っ!?」

 エーディはぎょっとして変な叫びを上げ、その拍子にティーカップを尻尾に引っ掛けて零してしまった。

「普通に燃えたわね」

 ヒルダは鍵付きの日記帳の燃えかすを掻き集めると、エーディに差し出した。

「で、こいつで何をどう研究してみるわけ?」

「出来るわけがあるか」

 言い出したのが自分なので、怒るに怒れないエーディは口元を引きつらせた。

「判断を誤ったか」

 ゲオルグは若干熱を帯びたハンドガンを脇のホルスターに戻し、座り直した。

「燃えさしには読み取れるような部分はなさそうだし」

 ヒルダは少しだけ燃え残ったページをつまんで照明に翳すが、読み取れる文字は見当たらなかった。

「というより、元々白紙だったかもしれないわ。見えるのは罫線だけだもの」

「だとすりゃ、落胆する必要もなかったってことか」

「燃やす必要もね」

「うるせぇ」

 エーディはヒルダに言い返しつつ、唯一燃え残った小さな錠前を見やった。

「んで、これはどうする? やっぱり処分するか?」

「いや、回収する」

 ゲオルグは燃え残った赤いビロードが付いた錠前を取り、握った。

「あら、珍しい」

 ヒルダは意外そうにゴーグルを瞬かせてから、ゲオルグを見上げた。

「なんだよ、アリスっぽい誰かに思い入れでも生まれたのか?」

 エーディが茶化すと、ゲオルグは日記帳の錠前をベルトの後部ポケットに押し込んだ。

「金属は珪素に次いで通電率が高い。よって、機械部品に転用出来る可能性がある」

「ああ、そうかい…」

「何を期待した」

 エーディの力の抜け具合にゲオルグが訝ると、エーディは窓の外に目線を投げた。

「なんでもねぇよ。だが、お前を使った実験の効果は出たようだぜ」

 彼の視線は、大広間の窓も庭園も通り抜けてその先を捉えていた。ゲオルグとヒルダはそれに倣って見ると、陸地と都市を 隔てていた巨大な溝を埋めるかのように大量の水が迫っていた。ゲオルグがアリスと戦った際に出来た地面の抉れも、結晶の 植物を掴み取った時に出来た穴も水に埋められ、波打つこともせずに這い寄ってくる。意志を持った海が近付いてくるようでもあり、 陸地が沈んでいるかのようにも思える奇妙な光景だった。

「さて、次は何がお出ましかな」

 エーディの低い呟きは、恐れとも期待とも付かない感情を含んでいた。ヒルダは自分で殺した自分の機体を見たが、再び 水に飲み込まれつつある都市を見下ろした。ゲオルグはアリスの胸の内の異空間に引き摺り込まれた際に二つの脳に染み付いた 浮遊感と心身の喪失感を振り払いきれず、意味もなくハンドガンのグリップを握り締めていた。宇宙空間での戦闘訓練経験が 浅いからだろう、内臓が浮き上がり、鍛えた筋肉の重みが損なわれる感覚に心身が慣れていないだけだ。そうでもなければ、必要もなく 武器を掴むはずがないからだ。ゲオルグはハンドガンをホルスターに押し込むと、音もなく押し寄せてくる膨大な質量の水を見据えた。
 生身の脳と機械の脳を繋ぐ珪素回路に、かすかな電流の痒みが走った。





 


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