酸の雨は星の落涙



第五話 因業は隠匿されて



 縫合された腹部を気にしながら、ゲオルグは寝室に戻った。
 とうとうアリスは起きてこなかったので、朝食と昼食を兼ねた軽食も運んでやった。朝食の後、ヒルダから飲まされた 人間用の鎮痛剤と抗生物質が回ってきたらしく、熱で膨張していた脳が心なしか軽くなっていた。母星の薬剤に比べれば効力は 十分の一程度しかないようだったが、何もないよりは余程良い。長い階段を昇り切って最上階に辿り着いたゲオルグは、 親しみは欠片も持てないが馴染んできてしまった寝室の扉を叩くと、アリスの気の抜けた返事が返ってきた。がしゃり、と 内側から鍵が開いたのでゲオルグが扉を開けると、アリスは寝乱れたベッドの上で放心したように天蓋を見つめていた。

「ねえ、ゲオルグ」

「なんだ」

 軽食を載せた盆をテーブルに置いたゲオルグが答えると、アリスはネグリジェの胸元を掻き合わせた。

「私、胸が痛いわ」

 それは当然だ。昨日の馬鹿げた戦闘で、ロボットと化したゲオルグがやはりロボットと化したアリスを両断したのだから。 アリスだけは何事もないかと思っていたが、そうではないとは意外だ。やはり、物理攻撃は有効なのだ。

「ねえ、ゲオルグ」

 襟元を広げたアリスは、横一線に傷口が走っている胸元を露わにした。

「それはあなたのせいね」

「なぜだ」

 保温容器に入った熱い紅茶をティーカップに注ぎながらゲオルグが返すと、アリスは微笑んだ。

「解り切ったことだわ」

「俺は何も理解していない」

「だったら、教えてあげるわ。あなたが求める、私のことを」

 アリスは身を起こすと、ゲオルグに手を差し伸べた。

「それは何の情報だ」

 ゲオルグがアリスに向き直ると、アリスは身を乗り出し、ゲオルグの顎に小さな手を添えた。

「それは見てのお楽しみよ」

 ぐ、とゲオルグの頭が引き寄せられると、アリスの胸元に押し当てられた。人工頭蓋骨に触れた薄い肌は乾いていて、 乾いた血の名残と瘡蓋が擦れ、細すぎる肋骨が主眼に当たり、抱き締められたかと思われたが、ゲオルグの頭部はそのまま アリスの胸の内に没していった。

「ねえ、ゲオルグ」

 ず、ず、ず、とアリスはゲオルグを内に押し込んでいく。頭、首、肩。

「あなたは私を知らなさすぎるわ」

 アリスは頬を染め、ゲオルグを更に埋没させていく。上腕、胸部、腰。

「だから、教えてあげる。私の何もかもを」

 前右足、前左足、そして、後ろ足。

「あ、はぁっ…んっ!」

 ゲオルグの巨体を胸の傷口から飲み込んだアリスは、息を荒げながら倒れ込み、弛緩した。

「ああ…ゲオルグぅ…私の、ゲオルグ…」

 薄く汗を浮かばせながら胸を押さえて身を捩るアリスを、ゲオルグはどこからか傍観していた。だが、実際のゲオルグは アリスの内に没し、肉体の所在すらも失っていた。だから、今、視認している光景は主眼を通さずに機械の脳に直接流し込まれた ものだと認識していた。乱れたシーツに縋って熱っぽい喘ぎを漏らすアリスを、やはり無感情に捉えながら、ゲオルグの意識は 肉体ごと足場もなければ重力もない場所に引き摺り込まれていった。
 それが、アリスの内なのだろうか。




 落ちた先は、見知らぬ場所だった。
 惑星ヴァルハラでもなければ、母星でもなく、かといって出撃前に資料として映像を見せられた惑星クーでもなかったが、 生命体の進化と成長には不可欠なものが揃った惑星の地表だった。青い空、酸素と二酸化炭素と窒素が程良くブレンドされた 空気、重すぎず軽すぎない重力、穏やかな日差し。ゲオルグの主眼の先では、今、正に都市型宇宙船が発進しようとしていた。 アイデクセ帝国軍将軍艦隊旗艦であるシュトローム号が小さく見えるほどの質量の固まりで、一目見ただけでは全長が把握出来ない ほどの圧倒的な巨大さを誇っていた。都市型宇宙船の周囲には発進を祝う人々が歓声を上げ、祝福の音楽を鳴らしている。

「ここが地球よ、ゲオルグ」

 いつのまにか、ゲオルグの背後にアリスが寄り添っていた。

「ねえ、綺麗なところでしょう? 青くて、緑で、水がたっぷりあって…」

 ゲオルグの機械の左腕に腕を絡ませ、アリスは長い睫毛に縁取られた瞼を上げる。

「けれど、狭すぎたのよ」

 都市型宇宙船を上昇させるためにエンジンから放たれた熱い暴風が、広大な草原を渡ってゲオルグとアリスの元に至り、 アリスのネグリジェと長い髪を翻して通り抜けていった。

「だから、皆、宇宙を目指したわ」

 アリスが瞬きすると、足元の草原が消え失せて暗黒の宇宙に変わった。今し方地球から発進した都市型宇宙船が、銀河系を 背負って航行していた。それは一つや二つではなく、数え切れないほどの人間を詰め込んだ船が果てのない世界に向かっていった。 それは、地球を中心に放たれた流星雨のようにも見える光景だった。

「けれど」

 また、アリスが瞬きした。人類の夢と希望と未来を搭載した都市型宇宙船は、未知なる外宇宙で待ち受けていた未知なる危機に 直面し、破壊され、無数の人間が宇宙空間に吐き出されて呆気なく死んでいった。

「皆、弱すぎたのよ」

 次の都市型宇宙船も、その次の都市型宇宙船も。中には、人類同士の内紛で滅びた宇宙船もあった。

「外の世界が広すぎて、怖すぎて、ただでさえ脆弱な気持ちが保てなくなったのよ」

 だから、とアリスは瞬きした。

「また、人類は星を求めたのよ」

 そして、二人の眼下に惑星ヴァルハラが現れた。ゲオルグが墜落する際に目にした忌まわしき惑星の姿であり、今、逃れることすら 出来ずにいる牢獄の姿でもあった。

「ヴァルハラもその中の一つだったわ」

 アリスが両手を差し伸べると、広大な宇宙空間に浮かぶ青き星がその手中に収まった。

「けれど、人類はヴァルハラを選ばなかった。いいえ、ヴァルハラが人類を選ばなかったのよ」

 ゲオルグの頭を抱き締めた時のように、アリスは惑星ヴァルハラを胸に収めた。

「だから、私だけのものにしたのよ」

「それが、君の全てか」

 ゲオルグが短く言葉を発すると、アリスは青き星に頬を寄せる。

「ええ…。私はこの星が好きで好きでたまらないの。だから、彼が気に入ってくれたあなた達のことも好き」

「彼とは、惑星ヴァルハラのことか」

「ええ、そうよ。彼よ」

「だが、惑星は生命体ではない」

「ふふふ、それはひどい偏見ね。星が生きていないなんて、誰が決めたことかしら」

「惑星は生命体に酷似した活動を行うが、生命体とは根本的な部分での相違がある」

「それは意志の有無?」

「そうだ」

「それも偏見。あなたって、見た目通りに頭が固いのね。でも、そんなところも素敵よ、私のゲオルグ」

 アリスは惑星ヴァルハラを放すと、ゲオルグの下顎についっと指を伝わせた。

「彼は生きているわ。だから、私は彼を選んだのよ」

 宇宙が消え、青い海に二人は没した。その海には命の気配はなく、微生物ですらも蠢いていない。無数のアルカリ結晶体の植物が 生え、穏やかな海流が漂っているだけの死の世界だった。恐らく、これはありとあらゆる蛋白質を溶解する惑星ヴァルハラの海なのだろう。 頭上の波間から差し込む日差しは慈母の手のように暖かく、生命が育まれない海には不釣り合いだった。

「彼はね、私だけの世界を作ってくれたのよ」

 アリスは無垢に笑う。

「それはなぜだ」

 ゲオルグが更に聞き返すと、アリスは笑みを崩さずに言った。

「それはもちろん、私を喜ばせるためよ」

「なぜだ」

「なぜって、言うまでもなくってよ」

 アリスは身を乗り出し、ゲオルグの首に腕を回した。

「彼は私を愛しているからよ」

「それはなぜだ」

「うふふ、困った方ね」

 アリスはかかとを上げ、引き寄せたゲオルグの顔に艶やかな唇を寄せる。

「私が彼を愛したからよ」

「ならば、俺の存在は何なのだ」

「それは解り切っているわ。あなたは私の王子様なのよ」

「筋が通っていない」

「もう…」

 アリスは困った顔になったが、笑みを保っていた。

「どう、ゲオルグ? これが私よ。あなたが知りたがっていたことよ。ねえ、ゲオルグ。満足してくれた?」

「情報としての価値を立証出来ない」

「あら、そう?」

 アリスは不満げに唇を尖らせ、ゲオルグを放して背を向けた。

「我が侭な王子様ね。もう、知らない」

 アリスのネグリジェが翻り、その裾が舞い降りる前にゲオルグの視界は途切れた。アリスの姿は主眼から消失し、 同時にゲオルグの肉体の重みも消失した。今し方までアリスに見せられた星が、宇宙が、海が、次々にゲオルグの周囲を 過ぎっては遠のいていく。最後に現れた地球の光景が衝突するように目の前に広がった直後、ゲオルグは無重力空間に 投げ出されたかのような状態に陥ったが、動揺せずに流れに身を任せた。無重力空間では上も下もない、よって平静を失う ことが死への近道だと訓練で叩き込まれていたからだ。ゲオルグは上と下を見定めてから、進行方向も定めるために主眼と 副眼で前後を凝視した。すると、副眼の端に物体が掠めたので、ゲオルグは素早く身を捩って正体不明の物体を掴み取った。
 ゲオルグの右手に収まったものは、小振りながら厚みのある冊子だった。





 


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