酸の雨は星の落涙



第五話 因業は隠匿されて





 実験は成功しつつある。


 アリシア・スプリングフィールドの日記より




 頭痛で目が覚めた。
 それは精神的疲労が原因の疾患であり、腹部の傷とは無関係だった。ゲオルグは重みと熱を孕んだ脳を押さえるように 人工頭蓋骨に手を添えながら、身を起こした。いつものようにアリスのベッドで目を覚まし、アリスは悠長に夢の世界に浸っている。 アリスの顔は穏やかだったが、緩んだネグリジェの襟元から胸の傷跡が垣間見えている。ゲオルグも腹部の傷に触れ、 乾燥した血液が付着していることを確かめた。となれば、やはり、あの馬鹿馬鹿しい戦いはこの身に起きたことなのだ。

「アリス」

 ゲオルグがアリスに声を掛けるが、アリスは目を覚まさなかった。

「アリス」

 念のため、もう一度呼ぶ。だが、アリスは身動き一つせずに眠り続けている。

「ならば」

 ゲオルグは腹部の傷が引きつることを気にしながら、ベッドから降りた。傷が痛み、失血によるふらつきがあり、頭痛が 止まないが、それ以外は何の問題もなかった。ベッドの脇に転がされたセラミックアーマーは盛大に破損していて、袖を破った アンダースーツも気密性が失われたが、何も着ないよりは余程良いと判断し、着込んだ。ベルトを付けてホルスターを下げ、 ハンドガンを脇に差してから、窓から外を窺った。昨夜、エーディが死んだヒルダを利用して大規模な爆破作戦を行った痕跡が そこかしこに残っていて、都市は建物が崩れた量と比例した瓦礫が溢れ返り、城の前の庭園も城の外壁にも損傷が出来ていた。 アリスが関心を持てばすぐに治るのだろうが、今はまだアリスが眠っているので治らないのだろう。だが、これで、物理攻撃を行えば 損害を与えられることが実証された。となれば、アイデクセ帝国軍と連絡を取り、集中砲火を行ってもらえればこの城ごとアリスを 滅ぼせるはずだ。だが、肝心の連絡手段がないのではどうしようもない。ゲオルグは今日も開かないだろうと思いながらも寝室の扉に 手を掛けると、呆気なく開いた。正直拍子抜けしたが、あっさりと寝室から解放された事実を受け止めたゲオルグは、寝室から出て 階段を下りた。頭痛と貧血と腹部の痛みを抱えながらも大広間に辿り着いたゲオルグを、ヒルダが出迎えた。

「あら、今日は早いのね、王子様」

「アリスによる拘束が弱まったと考えるべきだ」

 ゲオルグは説明を続けようとしたが、体力が続かず、手近な椅子に座り込んだ。

「本当に大丈夫? 私はあんたの種族についての情報は取得していないから、明確な治療法を提示出来ないけど、 誰がどう見たって具合悪そうよ? 顔色は元々悪いけど」

 ウロコが赤黒いから、とヒルダがゲオルグの顔を指すと、ゲオルグは頭痛の響く頭を押さえた。

「血液の欠乏による血圧低下、精神的疲労による軽い発熱と鈍痛、腹部と背部の裂傷による患部の発熱と痛み、それだけだ。 なんら問題はない」

「それで問題がない生命体がいたら、その方が問題よ」

 ヒルダはゲオルグの前に立ち、その人工頭蓋骨に覆われた頭を小突いた。

「とりあえず、食べられるものを食べるだけ食べて、大人しくしておきなさいよ。人間用の解熱剤と抗生物質が効くかどうかは 解らないけど、食べたら飲みなさい。ついでに前と後ろの刺し傷も縫合してあげるわ。都合の良いことに私は育児と介護用 ロボットだから、一通りのことは機体のOSにインストールしてあるのよ」

「感謝する」

「本心で言っているんだったら嬉しいけど、あんたの場合は言葉の上だけだからね」

「その通りだ」

「それを言わなきゃいいんだけど」

 ヒルダは苦笑を漏らすようにゴーグルを点滅させてから、ゲオルグの腹部の傷の具合を確かめた。

「うわ、ざっくり。とりあえず、傷口の縫合が先ね。何か食べた後に施術なんてしたら、吐き戻して窒息しちゃうわ」

「承知している」

「じゃ、いい子にしてるのよ。でも、金属じゃない針なんてあったかしらねぇ…」

 ヒルダはゲオルグに背を向け、縫合に必要な道具を取りに行くために大広間から立ち去った。彼女と入れ替わりに 入ってきたエーディは、ゲオルグの異変に気付いて耳を曲げながら近付いてきた。

「どうした、やっぱり具合悪いか」

「問題はない。血圧低下、頭痛及び発熱、患部の発熱及び痛みがあるだけだ」

「それを具合悪いって言うんだ。相変わらず面倒臭ぇな、お前」

 エーディはゲオルグの隣の椅子に飛び乗ると、長い尻尾を振った。

「だが、動けないんなら丁度良い。昨日、俺がヒルダの死体を使って城と庭園と都市を吹っ飛ばしたが、その成果は上々だ。 一晩明けても、どの破損箇所も修復される様子はない。てことで、ゲオルグ、またロボットになってくれ」

「不可能だ」

「ああ、そうか? 俺としちゃ至って本気なんだがな」

 エーディは不満げに耳を振り、椅子からテーブルに飛び移ってゲオルグを覗き込んできた。

「で、お姫様の御機嫌はどうだ?」

「覚醒していない。よって、不明だ」

 ゲオルグが返すと、エーディは尻尾の先でテーブルを叩いた。

「じゃ、お姫様が起きる前に本日の作戦を説明しておこう」

「それはなんだ」

「今日一日、お前はお姫様から離れるな。ていうか、お前から構ってやれ」

「なぜだ」

「そりゃ、その体じゃろくに動けねぇからに決まってんだろ。ついでに言えば、お姫様の機嫌による影響の具合も調べて おきたいんでな。物理攻撃が有効だとは解っても、肝心の御嬢様をどうにかしなきゃ効果が出ない。そこでだ。お前がとことん 甘やかして、お姫様をでろんでろんにしてみろ。その上でも都市やら何やらの修復が始まらなかったら、俺はこれからも 物理攻撃を継続することを決める。そのために必要な作戦だ。どうだ、効率的だろう?」

 エーディは得意げににやけ、口元から牙を覗かせた。

「ケガ人に何を無茶振りしてんのよ」

 薬品の入った箱と縫合に使う道具を抱えたヒルダは戻ってくると、エーディを押し退けた。

「ほら、どいたどいた。あんたは何も出来ないんだから、思う存分引き籠もってなさいよ」

「出来なくはねぇだろ。見たろ、あの花火の数々を」

 不満げなエーディに、ヒルダはゲオルグの腹部の傷を消毒しながら切り返した。

「でも、あれはゲオルグが結晶の植物を取ってきたおかげと、私の死体があったから出来たことでしょうが。あんた一人だけじゃ、 何も出来なかったくせに何を偉そうに」

「作戦も考えもしねぇ奴が良く言うぜ」

 エーディも背を向けて毒突くと、ヒルダは強化プラスチックを細く切って作った太い針とテグスを取り出した。

「私は人に使ってもらわなきゃ実力を発揮出来ないタイプなのよ」

「それを役立たずって言うんだ」

「上手く使いもしないで、よくっ…言うわっ!」

 ヒルダは体重を掛けてゲオルグの傷口に針を差し込むと、激痛が走り、ゲオルグは呻いた。

「ぐっ!」

「あら、ごめんなさい。でも、これからはもっと…痛い、わよっ!」

 ヒルダは裂けた皮膚を強引に合わせると、その合わさった部分に針を貫通させてテグスを引っ張った。

「大丈夫よ、すーぐ終わっちゃうから。本当よ、すぐよ、すぐ」

 ヒルダの軽い口調とは裏腹に、ゲオルグは痛みの奔流に襲われていた。強化プラスチックで作られた即席の針は表面がざらつき、 滑りが悪い上にゲオルグの皮膚が分厚いために通りづらい。そのため、ヒルダは自重を加えて押し切るような形で貫通させていくのだが、 それが痛くないわけがない。ただでさえ裂けた皮膚が刺され、引っ張られ、あまりの強引さに腸に針が至るのではないのかと懸念を 抱きながらも、ゲオルグは舌を噛まないように顎を開いて舌を突き出しながら苦行を耐え抜いた。

「はい、終わり」

 ヒルダはテグスの結び目を作り、ゲオルグの血塗れの針を外した。

「しっかし、あんたの皮膚って本当に厚いわね。剥がしたらいいバッグでも作れそうよ」

「う…」

 痛みのあまりに返答出来ずにいるゲオルグが呻くと、ヒルダの後頭部をエーディが引っぱたいた。

「お前の方がひどい」

「何すんのよ、この体にも結構デリケートな回路が詰まってんだから」

 ヒルダが言い返すと、エーディは羽ばたいて浮かび上がった。

「お前の頭脳回路なんて、どうせワゴンセールの代物だろ。俺は行くぜ、ゲオルグの行動がアリスにどう作用するのか 調べなきゃならねぇからな」

「失礼しちゃうわ!」

 大広間から去っていくエーディに向かってヒルダは叫ぶが、彼の長い尻尾は扉の隙間を擦り抜けていった。ヒルダは まだ言い足りなさそうだったが、ゲオルグの治療に戻った。針で貫通させたことで出来た傷口から滲んだ酸性の血液を ガーゼで拭き取るが、ガーゼがすぐに焼け焦げて穴が開いた。だが、拭かなければ出血が続くので、ヒルダはガーゼを大量に消費して 酸性の血液を拭き取ってから、ナイロン製の不織布を当てて細長く切ったゴムシートを巻き付けて包帯代わりにした。

「これは何を利用して作成したものだ」

 ゲオルグは腹部に巻かれたゴムシートの包帯を指すと、ヒルダは使い終えた道具を片付けながら答えた。

「勝手口の玄関マットよ」

「それは靴底の汚れを落とすために利用するものか」

「そうよ。でも、ちゃんと綺麗に洗ったから安心してね」

「それは…」

 何かが解せない、とゲオルグが口の中で呟くが、ヒルダはそれを無視して立ち上がった。

「じゃ、その体でも食べられそうな食事でも作ってあげるわ。御嬢様の手前、手加減していたけど、ワインビネガーでも バルサミコでもばっしゃばしゃ使ったのを作ってみるわね。きっと、その方があんたの口に合うでしょうから。体液が酸性なら、 きっと味覚も酸性だと思ってね」

「それは酸性食品か」

「御明察。楽しみにしててね、王子様」

 ヒルダは手を振りながら、大広間を出ていった。ゲオルグは彼女の背を見送りつつ、玄関マットを利用して作られた 包帯が巻かれた腹部に触れた。傷口を縫う前に塗布する麻酔薬を塗りたくられたが、人間のものでは効果は出なかったらしく、 痛みは弱まるどころかひどくなっていた。だが、あのまま傷口が開いたままでいるよりは余程いい。内臓に損傷が至ったら、 それこそ死活問題だ。ゲオルグは強引な縫合による痛みが突き抜けていった背を背もたれに預け、ヒルダの酸味が効いた 料理が出来上がるのを待った。三十分と経たないうちに厨房から戻ってきたヒルダは、ゲオルグの前に大皿の料理を並べた。 ドレッシングがたっぷり掛かったサラダ、根菜のマリネ、魚の煮付け、といずれも酸味の強い匂いを発していた。

「はい、どうぞ」

 ヒルダはゲオルグに食べるように促してから、隣の椅子に腰掛けた。

「にしても、御嬢様は起きてくるのが遅いわね。そりゃ、あの子はいつだってそんな具合だけど…」

「例外的行動なのか」

 魚の煮付けを食べ終えたゲオルグがソースを飲み干すと、ヒルダは彼のグラスにレモン水を注いだ。

「まぁね。様子を見に行こうかしら。でも、うっかり振り回されるのはごめんだし」

 レモンの輪切りが浮いたピッチャーを抱えたヒルダは、ゲオルグにゴーグルを向けた。

「だから、今日もあの子の相手をお願いするわ、王子様」

「しょ」

 承知している、と言いかけたが、ゲオルグはソースのビネガーのきつさに噎せた。込み上がってきた自分の体液の方が 酸味が強かったが、気管に入りかけた。焦らなくてもいいわよ、とヒルダに丸まった背中をさすられたゲオルグは、一通り噎せて から呼吸を取り戻し、レモン水で喉を潤した。嫌でも体力の消耗を感じたが、すぐに回復出来るものでもないので、ゲオルグは ヒルダの料理を胃に詰め込むことに専念した。アリスを相手に作る食事とは違って量も多ければ味も濃いので、ゲオルグの 心身にはありがたかった。大量の料理を短時間で食べ終えたゲオルグは、皿に残ったソースを千切ったパンで掬い取って食べながら、 ようやく思い出したことがあった。
 そういえば、アリスも負傷していた。






 


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