酸の雨は星の落涙



第四話 好機は塩基にありき



 城に戻ると、ゲオルグの姿も元に戻った。
 但し、傷はそのままだった。アリス機によって背後から貫かれた傷は腹部に付いていて、派手な傷口からは酸性の血液が 止めどなく流れ続けていた。止血しようにも城にある布では溶けてしまうので、仕方なくアンダースーツの袖を切り裂いて腹部に巻き付け、 血管を圧迫させておくことにした。腹部以外の部分からも痛みが起き、吐き気も感じたが、吐き戻すほどのものは胃に入っていなかった。

「例の植物を山ほど持ってきてくれたのはありがたいが」

 鼻先と口元を隠す布を巻いて両前足に袋を填めたエーディは、負傷したゲオルグを見やった。

「王子様、お前、大丈夫か?」

「問題はない」

 ゲオルグは手近な階段に腰掛け、止血した部分を押さえていた。

「これであの子が死んだとは思えないけど、ま、時間稼ぎぐらいにはなるでしょうね」

 ヒルダはゲオルグ機によって派手に破壊された正面玄関をぐるりと見回してから、ゲオルグに向いた。

「にしたって、あんたも非常識ね。普通、あんなロボットになる? 効率的な形態でちょっと素敵だったけど」

「そうか? 俺からしてみりゃ不細工だったけどな、三本足なんてよ」

 エーディは片耳を曲げながら、土にまみれた結晶状の植物を選別していた。都市の外から帰還したゲオルグ機は着地も ままならず、墜落も同然に城の正面玄関に突っ込んだ。当然、両開きの扉も庭園もゲオルグ機によって破壊され、正面玄関には 大穴が開いていた。正面玄関先にあるホールとその奥の階段に突っ込んでようやく停止すると、ゲオルグ機は消失し、 破損したセラミックアーマーを纏ったゲオルグに戻っていた。なぜ戻ったのか、とゲオルグは考えてみたが、大方アリスが ゲオルグから興味を失ったからだろう。なぜ、アリスまでもがロボットと化したのかは解らなかったが、どうせ彼女の戯れだろう。
 ゲオルグ機が回収した結晶状の植物は、ホールの中央にうずたかく積み上げられていた。その高さはゲオルグの身長ほども あり、正に山程だった。エーディは多すぎると文句を言ったが、少ないよりはいいとゲオルグが反論すると納得した。エーディは 即席のマスクとグローブを付けて結晶状の植物を選別していたが、ヒルダは手伝う気はないらしく、物珍しげに眺めるだけだった。

「風呂に入る」

 セラミックアーマーを抱えて立ち上がったゲオルグに、エーディはきょとんとした。

「は? ていうか、腹に穴開いてんだぞ? お前、出血多量で死ぬぞ?」

「汚れたからだ」

 ゲオルグが二階に繋がる階段を上り始めると、ヒルダは事も無げに言った。

「あの子のバスルームは三階の南側よ。どうぞお好きに、王子様」

「止めろよ、ヒルダ。あいつ、お姫様の妄想に侵されてとうとうブッ飛んじまったんだぞ?」

 そうは言うものの、エーディは選別作業に没頭して顔も上げなかった。

「だって、王子様の世話は私の仕事じゃないもの」

 ヒルダは肩を竦め、エーディの元からも去っていた。おい手伝えよ、見ろよこの作業量、とエーディはヒルダに声を張るが、 ヒルダは戻ってこなかったらしく、ホールにはエーディの悪態だけが響き渡った。ゲオルグは二人のやり取りを鼓膜の端で 捉えていたが、気にしている余裕はなかった。アンダースーツの袖で縛り付けただけの傷口からは出血が続いていて、ゲオルグの 足跡のように血溜まりが連なっていた。それらが強酸の臭気を発し、ゲオルグの鼻腔を満たしていく。生理的にひどく懐かしい感覚に 駆られながら、ゲオルグはヒルダに教えられた通りにバスルームの扉を開けた。アリスの匂いが寝室以上に立ち込めていて、 アリスの長い金髪から立ち上る甘い匂いと同じ匂いが漂っていた。ゲオルグは下半身のセラミックアーマーを外してベルトも外し、 アンダースーツも脱いでから、脱衣所と浴室と隔てる扉を開けた。湯気でぼやけた空間に踏み入ったゲオルグは、並々と湯が満ちた 浴槽に入り、傷口が開くことも構わずに身を浸した。

「ねえ、ゲオルグ」

 すると、あの声が聞こえ、裸の腕がするりと首に絡み付いた。

「アリス」

 抵抗する気力もないゲオルグは、振り返りもせずに答えた。

「そうよ、私はあなたのアリス」

 ゲオルグの肩の上に顔を出したアリスは、薄い胸に開いた穴から赤い血を流しながらも笑みを保っていた。

「俺は」

 何を言うべきなのか、言いたいのか、判断を付けかねたゲオルグが言い淀むと、アリスはゲオルグに縋る。

「傍にいるわ」

「だが、それは」

 君の願望だ、と言いたかったがなぜか言えず、ゲオルグは腰を下げて上半身も湯に没した。

「ずうっと、ずうっと」

 アリスはゲオルグの頭を後ろから抱き締め、人工頭蓋骨に頬を押し当てた。

「あなたがあなたでいられるように、私はあなたを必要とするわ」

「その理由を明言しろ」

「その通りの意味よ」

「アリス」

 ゲオルグが名を呼ぶと、アリスは幼い裸身をゲオルグの背に押し付けてきた。

「ええ、ゲオルグ」

 細すぎる腕がゲオルグの腰を抱き、硬い肌に柔らかな髪が擦れると、ゲオルグは浮かされるように呟いた。

「俺の、アリス」

「ええ、そうよ。私は、あなたのアリスよ」

 酸性の赤黒い血が、アリスの鮮烈な赤い血が、湯に混じって溶けていく。ゲオルグはアリスを振り解く意志も持てず、 抵抗する意志も生じず、精神と肉体の疲労感に負けて俯いた。立ち上る湯気はアリスの影を溶かし、ゲオルグの姿も溶かし、 窓の先に見える外界の景色をも溶かしていた。

「ゲオルグ」

 アリスの震えた声がゲオルグの鼓膜を叩き、浴室に反響し、解けていく。アリスは汚れた湯にしなやかな足を浸し、 ゲオルグの前にやってくると、その腕の中に身を沈めた。抗うことすらないゲオルグはアリスを受け入れ、求められるがままに キスをした。尖り気味の硬い口先と軽く閉じられた薄い唇が接した時、アリスは泣いていた。
 弱く、細く、泣いていた。




 爆音が、幾度となく轟いた。
 その度に城全体が揺れ、寝室も揺れる。エーディが死んだヒルダを遠隔操作して都市の各地に仕掛けたアルカリ結晶体が、 やはり死んだヒルダによって水を掛けられて爆発しているからだ。その度に、過去のヒルダは何人も死んでいく。だが、ヒルダ本人は 決して死ぬことはない。ヒルダの機体が製造、保管されていた倉庫を破壊した後も、ヒルダは自殺するたびに新たな機体に意識を 転送して蘇る。ならば、アリスもそうなのだろうか。疑念を抱きながら、ゲオルグは手元に戻ってきたプラズマライフルを抱いていた。
 銃身に付着した水分の残滓を、生身の右手で撫でる。中性の体液、アリスの涙だった。なぜ、アリスが泣いたのか、なぜ、 アリスがゲオルグのプラズマライフルを手にして戻ってきたのか、その理由はやはり解らず終いだった。傷は癒されずとも疲れを癒した ゲオルグはアリスを抱いて風呂から上がると、崖に突き刺して置いてきたはずのプラズマライフルが、アリスの血染めのドレスに包まれて 脱衣所に置かれていた。プラズマライフルを回収したゲオルグはアリスを連れ、またも寝室に戻ってきた。
 やはり、アリスからは逃れられないのか。だが、以前とは少しばかり感覚が異なり、アリスが横たわるベッドに腰掛けていることで 体の芯が据えられたような気がした。しかし、だからといって、アリスに忠誠を誓ったわけではない。ただ、僅かばかり戦い合っただけだ。 ただそれだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。

「ねえ、ゲオルグ」

 日没後の暗がりの中、轟音に紛れかねないほど細い声で、ベッドの上のアリスが囁いた。

「なんだ」

 プラズマライフルを離すまいと握るゲオルグが返すと、アリスは衣擦れの音をさせながら寝返りを打った。

「あなたは、なぜ私と戦ってくれたの?」

「君が俺に求めたからだ」

「けれど、戦いを求めていたのはゲオルグの方よ?」

「だが、その戦いは君との戦いではない」

「いいえ、そんなことはないわ」

 アリスは身を起こすと、ゲオルグの背に寄り掛かった。

「これまであなたは、ずっと私と戦ってきたのよ」

「意味が解らない」

「すぐに解るわ」

 アリスはゲオルグの左腕に自分の腕を絡ませ、頭をもたせかけてきた。

「綺麗ね」

 窓の外では、爆破が続いている。大量の水と化学反応を起こしたアルカリ結晶体が炸裂する度に真っ白な噴煙が立ち上り、 城が、都市が、庭園が壊されていく。

「破壊行為に対し、君は何も思わないのか」

 ゲオルグが問うと、アリスは首を横に振った。

「ええ、何も。だって、あなたが何も思っていないから」

「俺と君は同一の個体ではない」

「ねえ、ゲオルグ」

「なんだ」

「また、外に行きましょう」

「…ああ」

 他に言うべき言葉も、進言するべき意見も、反論すべき事柄もあったはずだ。だが、ゲオルグはそれしか言葉に出来なかった。 アリスは愛おしげにゲオルグに身を寄せ、目を閉じていた。ゲオルグは穏やかな面差しの少女と自機を貫いてきたロボットの印象が 重ならなかったが、同一個体だと認識していた。だが、自分とアリスが同一個体だとは到底思えなかった。第一、種族も違えば 性別も違い、何もかもが違っている。生物学上の共通項もないだろう。それなのに、同一視されたことに対して違和感は感じなかった。 それどころか、何かが填った。それが何なのかを突き止めようと思考したが、生身の脳も機械の脳も答えを導き出せず、疑問は 二つの脳の間で燻っていた。
 爆発に彩られた都市は、死にながら生きていた。





 


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