酸の雨は星の落涙



第四話 好機は塩基にありき



 数日前にヒルダから得た地図は、既に役に立たなくなっていた。
 都市の地形が変わっていたからだ。ゲオルグは結晶状の植物を採取するためにヒルダから借りたバケツを下げながら 地図を頼りに道を辿っていたが、途中から断念した。ビルはシャーレに閉じ込められた微生物のように動いているらしく、 舗装にはビルが這いずった痕跡があり、密集して溶け合っているビルもあった。アリスの想像力の産物だとしたら、今度は 一体何を想像しようというのだろうか。ゲオルグには想像も付かず、またアリスの想像を想像してみるつもりもなかったので、 互いを吸収しながら成長していくビルを横目に歩き続けた。
 主眼で途切れた道路を見据えながら、副眼で城を窺った。今頃アリスはどうしているのだろうか。ゲオルグがいなくなったことに 気付いて騒ぎ立てているのか、機嫌を損ねて不貞寝しているのか、或いは一人遊びに興じているのか。いずれにせよ、ゲオルグから 関心が逸れていることを祈らざるを得なかった。アリスがこちらに来てしまっては、城に帰るしかなくなる。そうなれば、エーディから 押し付けられた作戦が実行出来なくなってしまう。
 エーディの作戦はこうだ。高純度のアルカリ結晶体であるこの星の植物を採取し、中性水と反応させて爆発を起こそうと いうものだった。酸性の星に生まれたゲオルグにとってはアルカリ性物質は希少物質だったが、金属と同様に脆すぎるために貴重品扱い されているだけの物質だった。だから、その性質など知る由もなく、エーディが能弁に説明してくれたアルカリ金属の爆発力に関しても 充分理解出来なかった。だが、理解出来なくても爆薬の代用品に相応しいことだけは十二分に理解出来たので、ゲオルグは 結晶状の植物採取に向かっていた。
 都市の端まで至ったゲオルグは、三本足を止めた。アリスの城を中心にして直径十数キロの都市は、円形に断ち切られた ケーキのような構造だと判明した。城の最上階の寝室からでは把握出来なかった都市の側面は、青白い結晶体の鉱脈が露出していた。 無論、道路も線路も寸断されていて、都市の外周と陸地の間には隙間が空いていた。その幅は目視でも数百メートルはあり、深さは 計り知れなかった。飛び移るのは不可能だが、全く移動出来ないわけではない。ゲオルグは周囲を見渡し、都市の端から垂れ下がって いる線路に目を付けた。伸びるべき大地から引き剥がされた線路は空中にだらりと頭をもたげていて、間に渡された枕木が寂しげに 風化しつつあった。ゲオルグは都市の縁に添って円形にカーブしている道路を辿ってその線路にまで辿り着くと、線路の脇に立ち、 都市と陸地の隙間を見下ろした。都市と陸地を繋ぐ、下水管らしき太いパイプが一本だけ伸びていた。線路はパイプの左端に掛かる 位置にまで下がっていて、線路をハシゴのように降りていけば飛び移れるだろう。そう判断したゲオルグは、肩に担いでいた プラズマライフルを背嚢のフックに下げてから、銃身にバケツの持ち手を引っ掛けると、緩やかに頭を垂れている線路に前両足を 掛けた。セラミックアーマーを着込んでいることで百キロ以上になったゲオルグの体重を受けた枕木はぎいぎいと切なげに軋んでいたが、 一つも抜け落ちることはなかった。下水管に降りたゲオルグは進行方向を見やり、下水管からどうやって陸地に上がるかを思案した。 対岸まで真っ直ぐ伸びている下水管は埋まりきっていて、下水管の中を通り抜けるのは至難の業だ。かといって、崖を登るのは 余計に難しい。カーブの付いた崖は切り口が滑らかで、足を掛けられるような抉れもなければ岩もなく、ワイヤーフックを飛ばした ところでワイヤーの長さが足りない。ならば、下水管を破壊し、通り抜けるしかない。ゲオルグは下水管の上を通って対岸に埋まった 部分を少し掘り、手榴弾を取り出して埋め込んだ。脇のホルスターからハンドガンを抜き、その手榴弾を狙い撃って炸裂させると、 コンクリート製の下水管には易々と穴が開いた。煙と粉塵が収まってから中を覗くと、身を屈めて入れば歩けないことはない広さだった。 だが、プラズマライフルを背負っては通り抜けられない。ゲオルグは背嚢からプラズマライフルを外してストックを伸ばし、ストックを 崖に突き刺しておいてから、湿り気を帯びた饐えた空気が流れ出してくる下水管の中へと飛び込んだ。
 セラミックアーマーの肩に装備されたランプを灯して進行方向を照らしながら、ゲオルグは歩いた。主眼と副眼の義眼の 採光を調節し、ランプの光量も調節し、具合の良いところを見つけながら進んだ。下水管はひたすらに長く、しばらく歩いてもまるで 先が見えなかった。終わりがないのではないか、とゲオルグは疑念を抱きもしたが、下水管なら整備用の穴が地上に通じている はずだと確信して進み続けた。体感時間にして一時間程度が過ぎた頃、ゲオルグの足音の反響が変化した。それまでは前後に 広がるだけだった音が、頭上にも広がったのだ。ゲオルグは腰を引いてランプを上向け、照らしてみると、ゲオルグの体には 狭いが外へと通じる穴が地上に続いていた。円形の蓋が填っているらしく、細い円形の光が僅かばかりに見えていた。これもやはり 小さいが、足掛かりも付いていた。これ幸いとゲオルグが足掛かりを踏み締めて昇り、分厚い金属製の蓋を押し上げた。

「ごきげんよう、ゲオルグ」

 久方ぶりに外界の光を目にしたゲオルグの前には、ドレス姿のアリスが待っていた。

「アリス」

 有り得ない、と内心で思ったゲオルグが蓋を投げ捨てて這い出すと、アリスは日傘をくるくると回した。

「あなたが来ることを、ずうっと待っていたわ」

「なぜだ」

 ゲオルグはハンドガンを抜き、構えると、照準にアリスが入った。

「だって、私はあなたを待っていたからよ。待っているから、会えるのよ」

 アリスは日傘を閉じると、革靴で結晶状の植物を踏み締めながら歩み寄ってきた。

「あなたも、そうじゃなくて?」

「俺は」

 違う、と言いかけたが、ゲオルグはハンドガンの引き金を絞る指に力を込めた。この距離、方向なら命中する。

「ねえ、ゲオルグ」

 アリスは顔を上げ、ゲオルグの銃口の前に額を据えた。

「あなたは、なぜ戦いたいの?」

「俺は兵士だ」

「兵士だから、戦わなければいけないの?」

「それが兵士だ」

「けれど、あなた自身は兵士ではなくってよ」

「俺は兵士だ」

「いいえ、違うわ。あなたはゲオルグ。私の王子様」

「違う。俺は兵士だ」

 ゲオルグは指を押し下げようとするが、間近に見えるアリスの微笑みを見ると指を動かせなくなった。

「あなたは私を望んでいるわ、ゲオルグ」

 アリスはゲオルグ自身を慈しむように、ハンドガンの銃身に頬を寄せる。

「だから、私もあなたを望むのよ、ゲオルグ」

「俺は」

 ゲオルグはハンドガンを握る手から、僅かに力を抜いた。そんなもの、望んでいるはずもない。

「そこまであなたが戦いを望むのなら、存分に戦わせてあげるわ」

 アリスはゲオルグの硬い手袋に唇を寄せてから、目を細めた。

「ねえ、王子様?」

 前触れもなく、轟音が響いた。暴風が吹き荒れてアリスのドレスが舞い上がり、長い金髪が乱れ、結晶状の植物が吹き飛ばされて 散っていく。ゲオルグはハンドガンを引いて見上げると、アリスの背後には、地球人類の文明の産物らしき戦闘機が三機浮いていた。 いずれもアリスのドレスに似た純白の外装を持ち、右から順番に、ALICET、ALICEU、ALICEV、と番号が振られていた。

「さあ」

 アリスが一歩身を引くと、ゲオルグの視点は変わっていた。アリスの生み出した戦闘機のキャノピーには、ゲオルグが搭乗した 戦闘機が三足歩行型人型兵器に変形したかのようなセラミック製の機体が映っていたが、ゲオルグはそれが自分なのだといやに強く 確信していた。

「戦って、ゲオルグ」

 アリスは微笑む。

「私の王子様」

「ラーゲン・フィア、現時刻にて戦闘状況に復帰! 戦闘開始!」

 喉を解放されたゲオルグ、もとい、ゲオルグ機は三本足を踏み込んで駆け出した。疑問は持たなかった。それ以上に躊躇いも 持たず、戦える相手が現れたことに途方もない解放感を味わっていた。ゲオルグ機は背部の両翼を展開して水素エンジンを回転させ、 自機を浮上させた。ゲオルグ機が発進すると同時にアリス小隊も展開し、掃射を始めた。ゲオルグ機は素早く回避して両腕に装備された プラズマバルカンを作動させ、雲を引きながら飛ぶ三機に向けて応戦した。プラズマ弾が発射されるたびに反動が全身に訪れ、 セラミックの強化装甲が鋭く軋んだ。

「あなたがそれを望むのなら」

 機銃掃射で穴の開いた草原に立つアリスは、事も無げに微笑んでいた。

「私もあなたを望むのよ」

 アリス小隊の一機がアリスの頭上を通り、空中に脱したゲオルグ機を追ってきた。下半身を可変させて半飛行形態に変形した ゲオルグ機は上半身を反転させて一機を狙い撃つとその翼に被弾し、数秒後には爆砕した。

「次!」

 ゲオルグ機が叫ぶと、今度は真上から別の一機が落下してきた。それはゲオルグの下方に入り、きりもみ飛行をしながら ゲオルグ機との間隔を狭めてくる。高速で飛行しながらも安定を失わないゲオルグ機は、敵機との速度を同調させて飛行すると、 両腕を敵機の白い翼に突き立て、翼を捻り取ると、その機体は墜落して爆砕した。

「何も恐れることはなくってよ」

 最後の一機とのドッグファイトを始めたゲオルグ機に、轟音にも紛れずにアリスの声が届いていた。

「あなたは強いわ」

 だが、ゲオルグ機はその声を聞くこともせず、戦闘に没頭していた。

「だって、私があなたを思っているからよ」

 ゲオルグ機は加速に加速を重ね、ALICEVを追う。ALICEVもまた、懸命にゲオルグ機から逃げる。

「ねえ、ゲオルグ」

 機銃掃射を行ったゲオルグ機は上半身も飛行形態に変形させ、更なる加速でALICEVの尾翼を目指す。

「だから、私の王子様なのよ」

 ゲオルグ機が放った無数のプラズマ弾がALICEVの尾翼を掠めるが、塗装を焦がしただけだった。 

「とても素敵な王子様なのよ」

 そして、ゲオルグ機はALICEVの胴体に着弾させ、爆砕させた。

「アリス!」

 今ならアリスを殺せる。たとえ、この姿がアリスの妄想の産物でも、ゲオルグには力がある。ゲオルグ機は変形し、三本足を 摩擦させながら着陸し、アリスの元に向かって駆け出した。アリスは微動だにしなかった。

「アリス!」

 殺戮対象。抹殺すべき個体。排除すべき障害。それが、アリスだ。

「アリス!」

 ゲオルグ機は猛る。そして、帯電したプラズマブレードを伸ばし、アリスの頭上に振り下ろした。

「アリス!」

 かすかな手応えの後、プラズマブレードは結晶状の植物を蒸発させながら地表に埋もれた。

「アリス…」

 これで、任務に戻れる。ゲオルグがかつてない解放感を味わっていると、背後から異物が貫通した。

「ぐっ!?」

 機械油の混じった酸性の血液が溢れ出し、どぼどぼと地表と機体を汚していく。

「そうよ、私はアリス」

 撃墜したはずのアリス機が、ゲオルグ機と同様に変形し、二本足で直立してゲオルグ機を剣で貫いていた。

「あなたの、アリス」

 三本足を全て折ったゲオルグ機が倒れ込むと、呆気なく剣が抜け、機械油と血液の流出量が増した。

「そしてあなたは、私の王子様」

 アリス機はゲオルグ機の前に膝を付くと、アリス本人と同じ仕草で顔を包んできた。

「戦うべきは、私じゃなくってよ」

「だが、今は君だぁああああっ!」

 渾身の力と意志を振り絞り、ゲオルグ機はプラズマブレードを横に振り抜いた。

「あ…」

 弱い声を漏らしながら、上半身と下半身を分断されたアリス機は倒れた。ゲオルグ機は彼女の機械油と血が混じった プラズマブレードを投げ落としたが、立ち上がれなかった。今までにない痛みが外から内から生じ、三本の足のいずれにも 出力が戻らなかった。

「俺は」

 兵士だ。ゲオルグ機は汚れた草原に沈んだアリス機を見下ろしながら、低く呟いた。とにかく今は、やるべきことをやらなければ。 アリスを倒したと言っても、これはアリス本人ではない。アリスの妄想が造り上げた分身だ。そして、あの言葉の数々もアリスの妄言に 過ぎない。ゲオルグは恐れるものなど何もなく、恐れる意味がない。理由は簡単だ、ゲオルグは感情の一切を失っているからだ。
 ゲオルグ機はアリス機に背を向け、エーディの要求した分量を遙かに上回る量の結晶状の植物を巨大な手で一掬いすると、 廃熱の終わりきっていない水素エンジンを回転させて浮上し、一直線に城へと向かった。途中、プラズマライフルを置いてきたことを 思い出したが、プラズマライフルを取りに戻る余裕はなかった。
 アリスが死んでいる間に、事を済ませなければ。






 


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