酸の雨は星の落涙



第四話 好機は塩基にありき






 実験は尚も続行する。


 アリス・スプリングフィールドの日記より




 いつのまにか、飴玉の雨は一粒残らず消えていた。
 それは、いつものことだそうだ。エーディもヒルダも、そしてアリスもそう証言した。だが、都市を埋め尽くすほどの 質量を持った飴玉の雨を撤去するのであれば、巨大な重機が必要だ。飴玉の雨を処分するためには、地中に埋めるか 海中に投棄するか宇宙に放棄するなどをしなければならない。だが、そのどれもを行った様子はなく、正に忽然と消えたと 表現するしかなかった。となれば、あの飴玉自体の存在を疑ってしまいたくなるが、ゲオルグの舌にも記憶にも飴玉の甘さや 香料や酸味料で整えられた味は残っていた。だから、あの飴玉は間違いなく現実に存在していたものだ。しかし、今は城の敷地や 庭園をどれほど探そうとも一粒も見当たらなかった。アリスが飴玉に飽きたから、消えてしまったのだと思うべきなのだろう。 だが、ゲオルグは解せない。筋が通っていないからだ。
 けれど、ゲオルグの思考が今一つ冴えない理由はそれだけではなかった。気分が乗らないからというだけで昼過ぎまで眠る アリスに付き合わされた挙げ句に体の自由を奪われ、眠りたくもないのに横にならされ、寝息を立てるアリスの傍で天蓋を睨み付けていた。 寝室から出ることも出来なければ、食事も取れないとは、最早拷問だ。

「う…」

 声にならない呻きを漏らしたゲオルグは身を起こそうとするが、首すらも持ち上がらなかった。

「アリス」

 他のことに関心を持ってくれ、と言いたいがためにゲオルグは名を呼ぶが、アリスは起きる気配はない。

「アリス」

 アリスが起きなければ、ゲオルグは動けない。動けなければ、事態を打開するための行動が取れない。

「アリス」

 ゲオルグはアリスの名を繰り返すが、やはり彼女は目覚めない。

「アリス!」

 ゲオルグが声を張ると、アリスはようやく身動きした。が、寝返りを打っただけだった。

「んー…」

「アリス」

 ゲオルグが再三名を呼ぶと、アリスは薄く瞼を開けた。

「あ…?」

「アリス」

 もう一息だ、とゲオルグが名を呼ぶと、アリスは目元を擦った。

「いやぁよ、まだ眠いわ」

「俺は」

 もう充分だ、とゲオルグは言いかけたが、アリスの腕が首に回された。

「ねぇ…」

 何がだ。ゲオルグは問おうとしたが、アリスの体重とあの支配力によって喉を動かせなくなった。もぞもぞと這い上がった アリスは平べったい胸の内にゲオルグの頭を抱え、長く波打った金髪を散らしながら顔を寄せてきた。

「私のゲオルグ」

 王子様ではないのか、とゲオルグは言いかけたが、やはり言えなかった。

「私のものよ、ふふふ」

 アリスはゲオルグの人工頭蓋骨に覆われた頭部に乾いた唇を寄せ、笑みを零した。白く滑らかなセラミック製の人工頭蓋骨と 生身の頭蓋骨の境目付近にある鼓膜が、図らずもアリスの幼い胸に触れていた。絹のネグリジェと薄い肌と細い肋骨を通り抜けた 小さな心臓の鼓動が、ゲオルグの生身と機械の脳に染み込んできた。体格の小ささが原因なのだろうか、その鼓動はゲオルグの 知覚している鼓動に比べていやに速かった。

「もっと、もっと、もっと、あなたが欲しいわ」

 アリスはゲオルグの人工頭蓋骨に手を這わせ、愛おしむ。

「そうすれば、私は」

 そこから先を言う前に、アリスはまたも眠りに落ちた。ゲオルグが記憶している限り、これで四度目になる。アリスは短い覚醒と 浅い眠りを繰り返しているが、覚醒はしない。そんな状態が続けば脳の活性が低下し、頭痛が起きるはずだ。それで不機嫌になられては 面倒だし、何よりも首が苦しい。アリスの腕は細く軽いが、喉を押さえ付けられたままではゲオルグの呼吸が危うくなる。ゲオルグは アリスが寝入る瞬間を見計らい、無意識下の抑圧が薄らいだほんの僅かな隙を捉えて跳ね起きた。抱き抱えていたものがいきなり 飛び上がったことでアリスも転げ落ち、やっと目を開いたが、途端に頬を膨らませた。

「もう、ゲオルグ!」

 アリスはぷいっとそっぽを向き、拗ねてしまった。

「一緒にいたいだけなのに、なんて我が侭なのかしら!」

 君が言うな、と、ゲオルグは言いたかったが、喉が動かずに言えず終いだった。だが、これでようやく解放された。ゲオルグは ベッドから下りてアリスの体温と匂いが染み付いた体を払い、緩めていたアンダースーツを整えてベルトを締め直し、ホルスターを 身に付けてハンドガンを差してから寝室の扉を開けようとしたが、開かなかった。

「…一緒にいたいって言ったじゃない」

 枕を抱えて顔を埋めたアリスは、上目にゲオルグを窺ってきた。

「だが、エネルギーを摂取しなければ生命維持活動に関わる」

 ゲオルグが扉を開けることを諦めて振り返ると、アリスは枕を下げた。

「お腹が空いたのなら空いたって言えばよろしくてよ。ヒルダに運ばせるもの」

「だが」

「なあに、他に何か不満でも?」

 アリスは唇を尖らせ、身を乗り出してきた。ゲオルグはアリスを見下ろし、青い瞳と対峙する。

「過剰な睡眠は、新陳代謝が低下して生命活動に支障を来し、疾患を引き起こす可能性が高い」

「外に出て動かなきゃ病気になるっていうこと?」

「そうだ」

「平気よ。私は病気にならないもの」

「成長期の幼生体は、適度な活動を行わなければ心身の成長が妨げられる」

「それも平気よ」

 アリスはベッドから下りると室内履きを引っ掛け、寝乱れた髪に指を通してから、ゲオルグに歩み寄った。

「それは」

 どういう意味だ、とゲオルグは言いかけたが、アリスの人差し指が口先を塞いできた。

「だから、あなたが必要なのよ。私の王子様」

 アリスはかかとを上げて、ゲオルグに腕を伸ばした。ゲオルグは自分の意志に反して前両足を曲げて膝を付くと、 アリスに首を差し出した。腕を上げたことで袖がずり落ち、アリスの細すぎる腕が露わになった。薄すぎる皮膚の下に 脆弱な筋肉と僅かばかりの脂肪が貼り付いているだけで、骨の形状が丸出しだ。ゲオルグの同族、レギア人の子供でも ここまで貧弱な肉体の持ち主はそうはいないだろう。ゲオルグの口腔よりも頭は小さく、首は棒きれのようで、何度か服越しに 触れた背骨は脊椎動物の骨と言うよりも軟体動物の筋の如く柔らかい。よくぞ、これほど不安定な種族が宇宙に進出したものだと思った。 肉体的にも弱ければ、精神的にも幼稚すぎる。だが、今、ゲオルグはその脆弱で幼稚な幼生体に蹂躙されている。屈辱感は 欠片も感じなかったが、不条理感は拭えず、アリスの後頭部を支える手に力を込められればと思った。しかし、現実には、ゲオルグは アリスの後頭部を握り潰すことはなく、その小さく柔らかな唇に自身の口先を当てていた。
 数えることも煩わしいほど繰り返した意図不明の行為、キスだった。




 そして、ゲオルグがアリスから解放されたのは翌朝の明け方近くだった。
 それもこれも、アリスが長く眠りすぎて夜になっても寝付かなかったからだ。おかげで、眠くならないと騒ぐアリスにせがまれて 庭園を歩き回ったり、城の中で遊んだりしたが、アリスはなかなか眠気を催さず、疲れ果てて寝入ってくれたのはつい今し方のことだ。 ゲオルグの二つの脳は精神的な疲労と肉体的な疲労による眠気を帯びていたが、アリスの無意識下の制御を離れて自由に行動が 取れるのは今だけだ。それを逃せば惑星ヴァルハラ脱出の機会が遠のく、と判断したが、眠たいものは眠たかった。それでも、ゲオルグの 兵士としての意地が意識を辛うじて踏ん張らせていた。セラミックアーマーをがちゃがちゃと鳴らしながらゲオルグが回廊を歩いていると、 紙袋を抱えながら二足歩行しているエーディが通り掛かった。

「おう、王子様」

 大広間から件の研究室に向かう道中のエーディは、ゲオルグを呼び止めた。

「なんだ」

「お前こそなんだよ、フル装備で。ていうか、一度でもアンダースーツを脱いで風呂に入ったのか?」

「いや」

「脱げよ。洗えよ。これだから軍人はどうしようもねぇな」

「非常事態につき、武装を解除するべきではないと判断した」

「だからってなぁ、お前…」

 突っ込むのも面倒になってきた、とエーディは耳を伏せたが、ゲオルグを見上げた。

「まあいい、付いてこいよ。いい考えが浮かんだんだが、お前の手を借りる必要があってな」

「作戦か」

「そうだな、作戦だな」

 エーディが歩き出そうとすると、回廊の奥からヒルダの声が飛んできた。

「ちょっと!」

「なんだようるせぇな、人がこれから集中しようって時に」

 鬱陶しげにエーディが振り返ると、脚部のスラスターを開いて飛んできたヒルダがエーディの首根っこを掴んだ。

「銀食器、返しなさいよ! 食べる以外に能がないあんたが一体何に使うってのよ!」

「電極にするんだよ。で、アルカリ溶液に電流を流して、アルカリ金属を抽出するんだよ」

 首根っこを掴まれて持ち上げられたエーディは、金属音のする紙袋を抱え直した。

「なぜだ」

 ゲオルグが問うと、エーディは答えた。

「解り切ったことじゃねぇか、水と反応させて爆発させるんだよ」

「そりゃ、アルカリ金属はそういう性質の物質だけど、また突拍子もないことを考えたものね」

 スラスターを解除して着地したヒルダがエーディを放り投げると、エーディは一回転して着地した。

「物理的にボンボンぶっ飛ばせば、いくらお姫様の妄想が凄まじくても壊れるだろうと思ってな」

「即物的な作戦だ」

 ゲオルグが率直な感想を述べると、エーディは片耳を曲げた。

「回りくどいこと考えたって、結局はお姫様の妄想に負けちまうからな。そうならざるを得ないのが実情だ」

「でも、わざわざ抽出することなんてないんじゃないの?」

 だってほら、とヒルダが窓の外に広がる都市の先を指すと、結晶状の植物が生えた草原が輝いていた。

「そういえばそうだ」

 エーディが納得すると、ヒルダはその前足から銀食器入りの紙袋を奪い取った。

「だったら、これは返してもらうわよ。なくなると後が面倒なんだから」

「ならば、作戦はどうなる」

 ゲオルグが呟くと、ヒルダはゲオルグを指した。

「そりゃ、王子様の仕事じゃないの?」

「俺の仕事は名実共に頭脳労働だし、この手じゃ収集出来る量なんてタカが知れてる。だからな、王子様」

 エーディはにやにやしながら、にゅっと爪を伸ばした前足でゲオルグを指した。

「お前がアルカリ結晶体の植物を掻き集めろ」

「なぜだ」

「その格好でやることなんて他にあるか?」

 エーディはセラミックアーマーを着込んだゲオルグを見回し、尻尾をぱたぱたと振った。ゲオルグはエーディの視線を辿って 自分の格好を見直し、納得した。ヒルダは地球人類の育児と介護を目的に造られた機体なので、パワーも期待出来なければ外装の 耐久性も低いだろう。それに対し、ゲオルグのセラミックアーマーは耐酸性もさることながら耐アルカリ性も充分で、光学兵器をも 弾ける強度を持っている。だが、眠たい。ゲオルグは思考力と行動力を大いに鈍らせる睡魔について説明しようとしたが、その前に エーディは持論を展開し始め、ヒルダも都市のどこをどう行けば草原に出られるかを説明し始めたが、どちらも筋の通った正論だった。 その結果、二人に言いくるめられたゲオルグは完全に一眠りする機会を失い、結晶状の植物を採取するための装備を持たされて エーディとヒルダによって城から追い出された。王子様の仕事ではない、と判断したが、これこそ兵士の仕事だ、とも判断した。
 そう思った途端、不条理感は消失した。





 


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