酸の雨は星の落涙



第七話 空想を隔てる構造




 私は彼らを責めることが出来ない。
 なぜなら、私もアリスに没した一人だからだ。だが、それ故にアリスの危険性も理解している。
 私は今こそ行動に出なければならないのだ。求められていないとしても、蔑まされるとしても、屈してはならない。 けれど、心が痛んで止まない。甘い空想に浸っていたいのは、私も同じだからだ。
 だからこそ、尚のこと、戦わなければならない。

 私のアリスと。


 アリシア・スプリングフィールドの日記より




 寝室は寂しげに主を待っていた。
 アリスは、もういない。なぜなら、ゲオルグがアリスが自分の延長線上の存在だと認識してしまったからだ。自分が そこにいるのに、もう一人の自分が少女の姿を取って振る舞う様を現実だと認識出来るほど想像力が柔軟ではないから、 心の隅で空想だと否定してしまった。そう思った途端、アリスは二度と戻らない。ゲオルグ自身が、アリスを受け入れきって いないからだ。それなのに、アリスを求めて止まなかった。

「アリス」

 ゲオルグは薄暗い寝室を見渡し、彼女の名を呼んだ。

「アリス」

 天蓋付きのベッドを覗き込み、名を呼ぶ。

「アリス」

 海遊びをするために散らかしたままの服が残る衣装部屋を見、名を呼ぶ。

「アリス」

 窓を開き、ベランダに出て名を呼ぶ。

「アリス」

 満遍なくアップルソーダに濡れた都市を見下ろし、名を呼ぶ。

「アリス」

 再び寝室に振り返り、名を呼ぶ。

「アリス」

 だが、甘えた声は返ってこない。ゲオルグは三本足から残らず力が抜け、ベランダにずるりと座り込んだ。

「アリス…」

 失った途端に、失ってはならないものだったという認識が発生する。惑星ヴァルハラでは、アリスが傍にいてこそ、 ゲオルグはゲオルグでいられたのだ。欲していても欲せないものを欲してくれるアリスが、ゲオルグの心中を解いてくれた。 感情として発露出来ないために鬱積したものを吐き出させてくれた。それなのに、ゲオルグ自身がアリスを否定してしまった。 だから、アリスはいなくなり、ゲオルグには冷たい武器と空虚な肉体しか残らなかった。

「ゲオルグ」

「アリス!」

 ゲオルグは反射的に顔を上げるが、目の前に立っていたのは、アリスであってアリスでない少女だった。

「違う。君は俺のアリスではない」

「いいえ、私は」

「違う!」

 ゲオルグはハンドガンを抜き、アリスの姿をした別人に銃口を据えた。

「君は俺が欲するアリスではない。よって、排除する」

「ゲオルグ」

 質素なワンピースを着た金髪碧眼の少女は、ゲオルグに手を伸ばしてきた。

「殺害する」

 ゲオルグは大股に歩み寄り、少女の頭部に銃口を押し当てた。

「ゲオルグ…」

 少女は悲しげに顔を歪め、ゲオルグを見つめた。

「これをあなたに渡したいだけなのよ。だから、お願い、銃を下げて」

 震える手が伸ばされて開くと、その手のひらには小さな鍵が収まっていた。

「不要だ」

 ゲオルグは銃口を揺らがさずに言い捨てるが、少女は懸命に手を伸ばしてくる。

「お願い、ゲオルグ」

「排除する」

 ゲオルグがぎちりと引き金を絞りかけると、涙を溜めた少女は突然駆け出してゲオルグの脇を抜けた。副眼には、 少女がワンピースを広げながらベランダから身を躍らせる様が映った。しかし、ゲオルグは振り返ることすらせず、アリスの 気配を追い求めるようにベッドに腰掛けた。ハンドガンを握る右手に違和感を感じてグリップを放すと、先程の少女が渡そうと してきた小さな鍵が収まっていた。ゲオルグはその鍵を投げ捨てると、寝乱れたままのベッドに寝転がろうとしたが、今度は 左手の内側に違和感を感じた。仕方なく身を起こして機械の左手を広げると、アリシア・スプリングフィールドの日記帳の 錠前が収まっていた。

「なぜだ」

 ベルトに付けた物入れを開いて探ってみると、日記帳の錠前は消えていた。あの小さな鍵と日記帳の錠前は大きさが 合っていたので、恐らくこの錠前を開く鍵なのだろう。だが、肝心の日記帳は燃えているし、内容が解ったとしてもそれがアリスを 取り戻すための手段になるとは思いがたい。だから、これは不要な物体だ。ゲオルグは日記帳の錠前をベッドに放り投げると、 確実に溶かすために銃口を押し当てて引き金を引こうとした。が、逆にハンドガンが飲み込まれ、錠前ががちゃりと開いた。 すると、ゲオルグがプラズマ弾で焼き尽くしたページが、表紙が蘇り、ハンドガンは日記帳の錠前に飲み込まれてしまった。 赤いベルベットの表紙の日記帳はシワの寄ったシーツの上に静かに横たわり、ゲオルグに読まれることを待っているかのようだった。 アリス以外には求めるものはなかったが、心身の空虚さを紛らわすものにはなるだろうと判断し、ゲオルグは日記帳を開いた。

  初めまして、ゲオルグ・ラ・ケル・タ一等宙尉。
  私はアリシア・スプリングフィールドという名の地球人類です。

 ゲオルグが開いたページの上に、独りでに文字が連なっていく。

「君がこの日記帳の所有者か」

 ゲオルグが問うと、返事が返ってきた。

  はい。一尉がアリスの内で発見して下さった情報を通じて接触しています。

「君はアリスなのか」

  いいえ、違います。

「では、一体何なのだ」

  アリスとは、一種の娯楽物です。

「娯楽?」

  はい。私は宇宙に旅立った地球人類の第十五世代ですが、人類は都市型宇宙船内の閉塞された世界に限界を感じて いました。当然、ストレスも蓄積しますが、発散する手段が少なすぎました。抑圧された感情を晴らすために無益な繁殖を繰り返したため、 血が濃くなりすぎて遺伝子に異常が発生し、殺人、略奪、暴行が横行し、夢と希望を詰め込んだはずの都市型宇宙船には死の匂いが 充満してしまいました。そこで、提案されたのが、人間に無限の快楽を与えるソフトウェアの作成でした。

「それがアリスか」

  はい。

「だが、それだけでは情報が不足している。惑星ヴァルハラが量子コンピューターに匹敵するほどの情報処理能力を持った コンピューターに進化した要因が判明しない」

  それについては、これから説明します。アリスが開発されて間もなく、人類はアリスにどっぷりと浸ってしまいました。 アリスは個人の意識をきめ細かく読み取り、一人一人に思い描いた通りの仮想現実を与えました。そのおかげで鬱屈したストレスは 解消されるようになりましたが、皆、仮想現実に浸りすぎて現実に嫌気が差してしまい、アリスに意識を接続したまま自殺する 人間が頻繁に現れるようになりました。そこで、人類はアリスを廃棄処分することを決定し、一隻の都市型宇宙船にそれまで 使用された全てのアリスと、アリスが読み取ったデータを詰め込み、過去にテラフォーミングに着手して失敗した惑星ヴァルハラに 投棄しました。恐らく、着陸の際に地表が割れて機体と地上が接した時に、惑星ヴァルハラはアリスと人間の妄想を満載した 都市型宇宙船に接続してしまったのでしょう。

「続けて問う。なぜ、惑星ヴァルハラはアリスの機能を継続使用している」

  それは完全に私の落ち度です。申し訳ありません。

「その理由を乞う」

  私はアリスの廃棄処分を任された作業班の一員で、本来はプログラマーでした。都市型宇宙船が惑星ヴァルハラに 投棄されてから二百年が経過していたので、機体の経年劣化によってアリスの機能が低下していると予想して調査に訪れたのです。 その際、私は作業効率を重視して単独で降下し、アリスを満載した都市型宇宙船に浸入したのですが、人間の妄想とアリスに 侵されて進化し続けていた惑星ヴァルハラによって肉体ごと仮想現実に取り込まれ、脱出することも破壊することも敵わず、 現在に至るというわけです。アリスに意識を移したユーザーがいる限り、アリスは機能を停止しないように設定されていることを 忘れていたわけではありませんが、気が急いたのです。

「では、なぜ俺達を招き寄せた」

  アリスを使用する意識を増やしてアリスの機能を分散させれば、アリスにも隙が出るのではと予想したからです。アリスに 囚われた私は、プログラマーでもなければ成人でもない子供になっていましたが、時折本来の年齢の自我が表面化していました。 その僅かな時間を使って思考を重ね、本や日記の端々に理論を書き連ね、計算に計算を重ね、ようやく見つけ出したプログラムの 綻びにあなた方三名の意識を接続させ、操作領域を拡大させ、新規ユーザー登録した際に出来るサーバーの空白に私の意識を 浸入させ、あなた方のアリスを通してあなた方の意識をアリスから乖離させる実験を繰り返していました。けれど、私の意識程度では アリスの機能を制御しきれず、思った通りには出来ませんでしたが、今、ようやく私は私としてあなた方に接触出来ました。

「君は俺達を利用したのか」

 長い空白の後、ページがめくれ上がり、インクが滲み出して答えが返ってきた。

  はい。

「ならば、俺も君を利用する」

  それが道理です。私には、それに反論するだけの理由がありません。

 感情として形作らないが胸中に淀むものを定めるため、ゲオルグは言った。

「俺の報告を受けてくれ」

  はい。

「俺はアリスを喪失したことで、欠落した感情を取り戻す手段までもを喪失したと判断していた。感覚としての感情を 知覚出来ないため、視覚的に感情を知覚することで、俺は精神の安定を保っていた。だが、アリスを喪失したことにより、俺は 視覚化された感情を知覚出来なくなった。それによって、俺は精神の安定を失いつつある」

  はい。

「現に、冷静な行動を取れなくなった。よって、助言を乞う」

  何をですか?

「アリスを喪失し、感情を発露する術がなくなった今でも、俺は知的生命体と呼べる存在なのか」

  感情の有無が、知的生命体であるか否かを左右するわけではありません。

「承知している。だが、判断を付けかねている」

  それを言うのなら、私の方が余程それらしくありません。

「そうなのか」

  はい。それに、一尉はこんなにも感情豊かではありませんか。

「そうなのか」

  そうですよ。

「その根拠は」

  直接お会いした時に、是非お話ししたいです。一尉は、本物の私と向き合ってくれますか。

「本物とは」

  言葉通りです。生身の私です。その時には、本物の一尉にお会い出来ることでしょう。  

「ならば、今の俺は本当の姿ではないということか」

  はい。仮想現実に意識を転送された際に、一尉の外見の情報が修正されていることを確認しています。

「ならば、その時に報告してくれ」

  承知しました。

「だが、その前に」

  はい?

「ヒルダとエーディとの関係を修復する方法を教えてくれ」

  解りました。そんなに難しいことではありませんし、お二人だって本気で怒っているわけではありませんから。

「そうなのか」

  そうなんですよ。

 アリシア・スプリングフィールドの文字を眺め、ゲオルグは日記を掴む手からやや力を抜いた。その後もアリシア・ スプリングフィールドの文字は続き、ゲオルグに対する助言が書き連ねられた。彼女が書き記す文章は、軍で日々目にしてきた 報告書や指令書とは異なり、語気が穏やかで言葉遣いも柔らかかった。ゲオルグは衛星からの反射光を光源にして日記を 読みながら、彼女の姿を思い描いた。だが、想像するだけ無駄だとすぐに思い直した。
 仮想現実から脱し、直接会えばいいだけのことなのだから。





 


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