酸の雨は星の落涙



第七話 空想を隔てる構造



 城の中は、いやに静かだった。
 夜空はいつになく暗く、分厚い雲が垂れ込めていた。飴玉の雨が降りしきる時でも途絶えなかった日差しは一筋も 差さず、空気が全体的に冷たくなっていた。それは、皆が己のアリスを失ったことで精神の安定を欠いてしまったからだ。 それはゲオルグも同じだったが、寝室に止まっていられなかった。あのままアリスの気配が染み付いた空間にいては 狂おしいほど求めてしまうからだ。アリシア・スプリングフィールドの日記を携えたゲオルグは寝室から出たが、向かう 当てがあったわけではなかった。ただ、何もせずにいることが耐えられなくなったからだ。
 一階まで降りて玄関前のホールに到着したゲオルグは、三本足を止めた。乱雑だった都市は尚更複雑になっていて、 線路や道路は糸のように捻れて絡み合っていた。高さに統一性のないビルはいくつかが横倒しになっていて、硬く舗装された 地面に飲み込まれつつあるビルもあった。これもアリスを通して具現化した心理状態なら、誰の心理状態が反映されたものなのか。 ゲオルグはそれを考えようとしたが、止めた。下手に勘繰らずに、直に顔を合わせて聞き出した方が余程効率的で手っ取り早い。
 まず、最初に向かったのはエーディの研究室だった。ゲオルグは長い回廊を真っ直ぐに歩き、彼の城とも言うべき コンピューターの詰まった部屋の前に立った。ゲオルグは扉を開けようとしたが、背中から声を掛けられた。

「おい」

 振り返ると、エーディが直立していた。

「俺の部屋に入るな」

「なぜだ」

 ゲオルグが聞き返すと、エーディは尻尾を不愉快そうに振った。

「そんなことも言われなきゃ解らねぇのか、セラミック頭め」

「違う。俺の名はゲオルグだ」

「ああそうかい、じゃあゲオルグ、もう俺に関わるな!」

「それは不可能だ」

「同じ仮想現実を共有しているからだとか、一緒に脱出するためだとか、そういう綺麗事は聞きたかねぇ。そんなのはな、 気色悪くて腹が立つんだよ。俺がお前を利用していたのであって、お前に俺を利用される筋合いはない」

「それは俺も同じだ」

「そうかよ。じゃあ尚更だ、俺に近付くな」

「なぜだ」

「だっから、そういうのが嫌いだっつってんだろ! いい加減にしろよ、トカゲ野郎!」

 エーディは大股に歩いてゲオルグに詰め寄ると、前足から爪を伸ばしてゲオルグを指した。

「ならば、問おう。エーディは何が好きなのだ」

 ゲオルグの言葉に、エーディは面食らった。

「…はあ?」

「お前は、二言目には嫌いだ、嫌だ、としか発言しない。よって、逆を問うただけのことだ」

「そんなん言えるか。言ったところで、何がどうにかなるってもんでもねぇだろ」

「なぜ、そう判断する」

「考えてもみろよ。これまで、アリスが表に引き摺り出してきたのは俺達の深層心理じゃねぇか。でもって、アリスが叶え続けて きたのは俺達の願望や欲求だ。だから、好きなものなんて言ってみろ、アリスに付け入られるだけだ」

「ならば、なぜアリスを利用している」

「利用…って、そりゃ…」

 エーディは途端に口籠もり、ちらちらと目線を彷徨わせた。

「お前だって、腹が減ってどうしようもない時に目の前に食い物を出されたら喰っちまうだろ?」

「それは生物の生存本能だ。アリスに依存することとはなんら関係ない」

「たとえ話ぐらい理解しろよ」

「そうか」

「まあ、そういうことなんだよ」

 エーディはやりづらくなったのか、ゲオルグに背を向けた。

「だから、俺自身の力だけでどうにかしなきゃ、根本からの解決なんて不可能なんだ。そのためにも、これ以上俺に関わるな。 お前も、俺に頼ろうとするな」

「なぜだ」

「それも理由を言わなきゃ解らねぇのか?」

「当たり前だ。明言されなければ事実として認識することは不可能だ」

「けどよ」

 エーディは探りを入れるように、ゲオルグを窺ってきた。

「お前は、俺を」

 だが、エーディは言いかけた言葉を飲み込んだ。尻尾の先が不安げに動き、翼の生えた背が丸められ、いつもは勝ち気に 立っている耳も伏せられてしまった。ゲオルグはどうするべきか考えてから、アリシア・スプリングフィールドの日記帳をエーディの 前に差し出した。

「なんだよ。これはお前が燃やしたはずだろうが」

 エーディが振り返ると、ゲオルグは彼の前に日記帳の新しいページを広げた。

「再生した」

 ゲオルグが答えると、エーディは訝った。

「どうやって?」

「この錠前の鍵穴に俺のハンドガンを挿入した」

 と、ゲオルグが日記帳の小さな錠前を指すと、エーディはぐんにゃりとヒゲを垂らした。

「なんかそれ、普通にやらしいな…」

「どういう意味だ」

「説明するだけアホくさい」

「そうか」

 ゲオルグは特に何も思わずに返してから、日記帳をエーディの前に差し出した。

「明言出来ないのであれば、筆記すればいい。それだけのことだ」

「ペンは?」

「ない」

「話にならねぇ…」

 エーディが日記帳を後ろ足で押し退けようとすると、日記帳の開いたページからにゅるりとペンが現れ、エーディの 足元に転がり落ちたので、ゲオルグはそれを拾ってエーディに渡した。

「出現した」

「これはお前のアリスの仕業か? それとも、俺のアリスの仕業か?」

「アリシア・スプリングフィールドによるものだ」

「訳解らねぇ」

 そう言いつつも、エーディはゲオルグからペンを受け取った。ゲオルグは紙面から目を外し、背を向けた。エーディが 一度振り返った気配があったが、間もなくペンを走らせる摩擦音が始まった。
 真っ新な日記帳に母国語の文字を連ねながら、エーディはゲオルグの様子を窺った。背を向けているといっても、 彼の後頭部には副眼が付いている。やろうと思えば、覗けてしまう。それが気になって仕方なかったが、躊躇いを振り払って ペンを動かし続けた。口では上手く表現出来ないことばかりなので、文章として書き出せるとは思えなかったが、書かないよりは 余程マシだと思った。また、アップルソーダの海のような乱暴な手段で精神を共有させられてゲオルグやヒルダの心情を ストレートに感じ取ってしまうよりも、自分から表現した方がまだ気が楽だからだ。

  俺のアリスを返してくれ。俺を一人にしないでくれ。

 文字を書くに連れてエーディの筆圧は強くなり、紙面が歪んだ。

  俺は帰りたくない。帰りたくない。帰りたくない。帰ったら、俺はまた誰にも好かれなくなる。アリスは俺を好いてくれる。 それは俺が俺を好きだからだ。だが、他の連中は違う。俺が他の連中を嫌いだから、好いてもらえない。それなのに、俺は 寂しいとばかり思ってしまう。他人を嫌えば嫌うほど、反比例して恋しくなる。そんな矛盾が嫌だ。どうしようもなく馬鹿馬鹿しい。 それなのに、俺は

 がり、とペン先がページを破いてインクが滲むと、その下の行にエーディとは違う字が浮かび上がった。

  あなたが外を向けば、外もあなたを見てくれます。そして、私もあなたを見ます。

 エーディはその文字と自分の文字を見比べたが、前のページを捲って同じ文字で文章が書き連ねられていることを知り、 アリシア・スプリングフィールドの文字だと察した。どこから書いているのかは解らないが、一連の文章をアリシア・スプリング フィールドに見られていたのだと思うと凄まじい羞恥に襲われた。だが、エーディは開き直り、一層筆圧を強めて書いた。

  そんな上っ面だけの言葉、誰が信じるか。

  あなたが信じなければ、私もあなたを信じられません。

  お前がどこの誰かは知らないが、信用するだけ無駄だ。大体、この日記帳は燃やしたはずなんだぞ。

  ファイルを開くためのアイコンが破損しただけであり、ファイル自体は損傷していません。

  やっぱりここは仮想現実なのか! だったら、解決策を今すぐ教えろ!

  あなたが使用していたアリスとあなたの意識の接続を解除するのは、こちら側の操作だけでは無理です。アリスは 我々地球人類が開発したコンピューターソフトウェアですが、個人情報保護の観点からパスワードはユーザー側からは確認 することすら出来ません。私もあなた方と同じくユーザーに過ぎませんので。

  じゃあ、どうして俺達に接触したんだ。管理者権限の操作が出来ないんだったら、何の役にも立たない。  

  操作は出来ませんが、時間を掛けてアリスのプログラムの欠損部分を探し出して書き直し続けました。そして、ようやく アリスの内部操作に成功し、こうしてあなた方に私から発信した情報を届けているのです。

  じゃあ、とっととここから脱出する方法を教えろ。

  御存知のように、アリスはユーザー自身の意識で操作するソフトウェアです。ですから、マクガイヴァー氏御自身が 脱出を望まなければ、アリスはいつまでもあなたの意識に寄生して動き続けます。

  だから、俺にどうしろと。

  外を望んで下さい。あなたが思う、外のものを。

  外?

  そうです、外です。

 アリシア・スプリングフィールドの文字が止まり、エーディもペンを止めた。

「俺の思う、外?」

 外に出たいなど、考えたこと自体が少なかった。エーディは頬を歪め、ペンを放り投げた。

「外なんか出たって、ろくなことがねぇだろうが」

「いや」

 ゲオルグが口を挟むと、エーディは日記帳を蹴り飛ばした。

「お前みたいな野郎には、俺の気持ちなんか解るわけねぇんだよ! 解ったような口を利くんじゃねぇよ!」

「否定はしない。だが、俺は在るべき世界に戻らなければならない」

「ああ、そりゃそうだろうな、御立派な兵士だからな!」

 エーディは威圧的に大股に詰め寄るが、ゲオルグの態度は変わらなかった。

「それは違う」

「お前こそ、二言目には兵士だなんだってそれしか言わなかったじゃねぇか!」

「俺は、アリシア・スプリングフィールドとの面会を願っている」

「…あ?」

 エーディは耳を曲げ、半笑いになった。

「馬鹿言うな、こんなのが信用出来るか。こいつもまたアリスかもしれねぇんだぞ。名前だって近い、その可能性の方が 高すぎるほど高いんだ。大体、音声じゃなくて筆談で接触を持とうとする時点で怪しい」

「その根拠はなんだ」

「そりゃ、自分の正体を知られたくないからだろ。いくら美少女の姿をしていても、所詮はコンピューターのプログラムなんだ、 俺達とまともに会えるわけがない。だから、こいつもやっぱりアリスなんだよ。だから、俺達に都合の良いことだけを言って」

 と、エーディが開いたままの日記帳を見下ろすと、ぺらりとページがめくれて新しい文字が浮かび上がった。

  そういう性格だから他人から嫌われるんです。都合が良いのはあなたです。もう知りません。

「えっ、おい!」

 エーディが慌てて日記帳を拾うが、ばたんと閉じた。

「悪かった悪かった、俺が悪かった! 信用するから、なあ、アリシア!」

 エーディが強引に表紙をこじ開けながら叫ぶと、また新しいページが開いて彼女の文字が現れた。

  だったら、私の言う通りにして下さい。でないと、あなたは

「わーかった、解った解った!」

 どことなく筆圧の強い彼女の文字に気圧され、エーディは頷いた。そして、数枚ページをめくり、アリシア・スプリングフィード からのアドバイスを読み直した。エーディは自分の考える外の世界、すなわち現実を思い返そうとしたが、上手く思い出せなかった。 記憶は再生されるものの、端々がぼやけている。故郷の記憶、在るべき自分、本当の性格、外見、地位、などと並べ立てていくが、 強く形作られるものは外界に対する憎しみに似た嫌悪感ばかりだった。それを捉えてしまうと、エーディは自分が自分ではなく、 エーディ・マクガイヴァーの感情だけを乖離させて作ったエーディ・マクガイヴァーの虚像だとしか思えなくなり、懸命に外界の情報を 記憶の奥底から手繰り寄せた。
 朧気ではあったが、何かが像を結んだ。





 


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