純情戦士ミラキュルン




第十二話 禁断の誘惑! ヴェアヴォルフの魔力!



 どんな顔をしていればいいのだろうか。
 じりじりと照り付ける太陽の下、大神は直立しながら、携帯電話を開いて何度となくそのメールを読み返した。 美花からのメールで、絵文字も少なく内容は簡潔だ。明日会えませんか、とたったそれだけの短い文章だった。 それなのに、やたらに意識してしまう。メールが届いた昨日の夜など、着ていく服を選んでしまったほどだった。 大神が持ち合わせている服などタカが知れているのだが、それでもなるべく印象の良いものを、と選び抜いた。 夜もなかなか寝付けず、酒を喰らってしまおうかと思ってしまったが、酒が残っては困るので飲まずに寝入った。 だが、いつになく眠りが浅かったので眠れた気がせず、大神は霞が掛かったような頭で駅前広場に立っていた。

「大神君」

 見当違いの方向を向いていた大神に、あの控えめな声が掛けられた。

「野々宮さん」

 大神は途端に頭が冴え、振り向いた。そこには、白い日傘を差した美花が立っていた。

「えっと、その、すみません、急に呼び出してしまって。せっかくのお休みだったのに……」

「いや、いいよ。予定もなかったことだし」

 大神は、淡い花柄のシフォンワンピースにハーフ丈のスパッツとサンダルを履いた美花を見下ろした。 大神を見上げることに恥じらいがあるのか、美花は大神と目が合ってもすぐに視線を彷徨わせて眉を下げた。 珍しいことに、七瀬は同行していなかった。これは、美花と二人きりと言うことではないか。いや間違いなく そうだ。本当に本当に美花と二人きりなのだ。大神は狂喜したくなったが、大人の建前で我慢した。

「それで、あの」

 美花は日傘で顔を隠しそうになったが、柄を握り締めた。

「ここじゃ何なので、うちに来ませんか?」

「うちって、野々宮さんち?」

「あ、はい、そうです。電車には乗りますけど、ここから近いですし、その、迷惑でなければ」

 美花が語尾を弱めたが、大神は尻尾を派手に振りながら快諾した。

「もちろん! 俺の方こそ、迷惑でなかったら!」

「え、あ、いいんですか!」

「だが、俺なんかを連れ込んで平気か? お兄さんがいるんだろう?」

「お兄ちゃんはゼミの講習で朝から出掛けていますし、夕方までは帰ってきませんから、平気です」

「そうなんだ」

「はい」

 美花は小さく頷くと、大神を見上げた。

「えっと、それじゃ、行きましょうか」

「そうだな。早い方が良い」

 大神は美花と連れ立って歩き出しながら、にやけが収まらなかった。美花の家には前から興味があった。 きっと、中流家庭の一軒家だろう。野々宮家がいかなる家庭かは解らないが、至って普通の家族には違いない。 話だけ聞けば、美花の兄もごく普通の青年だ。ある意味では、対極の世界の住人達だ。
 美花は大神が区間料金の切符を買い終えるのを待ってから、IC定期券をタッチして改札を通り抜けた。 連れ立ってホームに上がり、電車を待った。並んで立ってみると、大神と美花の体格の差の大きさがよく解る。 美花の身長は大神の肩よりも低く、胸の中程だ。体型は標準よりも細めだが、上から見ると意外に胸はあった。 なんてところを見ているんだ、と大神は自戒したが、先日の決闘で見てしまったミラキュルンの水着姿が蘇った。 挙げ句の果てには、雪崩落ちるように美花の水着姿を想像してしまい、大神は自分の煩悩が心底嫌になった。 美花は鋭太と付き合っているのだから、そんなことを考えてはいけない。大神はあくまでも美花の友達なのだ。

「大神君」

 美花に話しかけられ、大神は取り繕いながら返した。

「ん、ああ?」

「嫌いなものとか、ありますか?」

「特にないよ。それがどうかしたのか?」

「大したことないですけど、お昼ご飯、私が作りますよ」

「え、いいのか?」

「大神君こそ、いいんですか?」

 美花は折り畳んだ日傘を両手で抱え、少しだけ目を伏せた。

「芽依子さんのこと」

「ああ、いいんだ」

 なんでもないから、と大神は続けようとしたが、反対側の線路に入ってきた特急が轟音を撒き散らした。 機械熱の混じった暑い風が吹き付け、抜けた後に、大神はまた別の言葉を言いかけたが飲み込んでしまった。 美花の方こそ、いいのだろうか、と。美花には鋭太がいるのに、自分などを家に連れ込んで平気なのだろうか。
 間違いを起こさない相手だと美花には信用されているのだろうが、かといって大神は自分自身を信用出来ない。 先日、芽依子が大神のアパートに押しかけてきた時には、美花からのメールがなければあのまま流されていた。 芽依子には全くその気がないと思っていたのに、迫られればその気になりかけてしまうほど大神は意志が弱い。 これほど美花が好きなのに、余所見をしてしまいそうになった自分が情けなくて腹立たしくて、無性に苛立った。 だが、その美花は大神を見ていないと知っている。それなのに、そこまで考え込んでしまう自分もまた嫌になる。
 それもこれも、恋をしているせいだ。




 それは、見上げるほど高かった。
 顔を上げたまま数歩後退っても、頂上が見えなかった。ここに至るまでの電車から見えた、巨大な建造物だ。 普段はあまり電車に乗らないが、時折乗ると圧倒的な存在感のビルが見えたが、その正体はこのマンションなのだ。 大神は無意識に感嘆の吐息を漏らしつつ、顎を引いた。美花は自動ドアの脇にあるオートロックを操作している。 慣れた手付きでキーを叩き、暗証番号を入れている。それが終わると、自動ドアが開いて美花が手招きしてきた。 大神は美花を追って自動ドアを通ったが、足を止めた。マンションのロビーなのに、ホテルのような佇まいだった。
 受付もあり、日当たりの良い窓際には応接セットもあり、観葉植物も多く、端々の装飾も華やかだが上品だった。 マンションの見取り図を見ると、予約制の高級ホテル並みのラウンジと住民専用フィットネスルームがあった。 どれだけ金を積めば住めるんだよ、と大神は気後れしながら、美花に案内されてエレベーターを三基乗り継いで最上階の 三十階に到着した。野々宮家は、三十階の一角を占める角部屋だった。
 美花に促されてリビングに入った大神は、落ち着かなかった。窓から見下ろせる景色が高すぎるせいでもあった。 怪人ではあるが飛行能力を持たない大神にとって、超高層マンションの三十階から見える景色は未知の世界だ。 怖くはないが、尻尾の根本がふわふわする。大神が下界を眺めていると、キッチンから美花の声が聞こえた。

「あ!」

「どうかしたのか、野々宮さん」

 大神が振り向くと、エプロン姿の美花は困り顔で炊飯器を指した。

「ご飯、炊くのを忘れちゃったみたいで……」

「いいよ、気にしないで。それで、何を作るつもりだったんだ?」

「大したものじゃないんで、はい、本当に」

 美花は冷蔵庫を少し開けたが、閉じ、苦笑いした。

「でも、どうしよう。今から買い出しに出掛けると、出来上がるのが遅くなっちゃうし」

 困り顔の美花は、戸棚を開けて中を覗き込んだ。

「何かあったかなぁ、あったような気がするんだけど」

 しばらくの間、美花は戸棚を探っていたが、見つけ出せたのは兄が夜食に買い置きしていた味噌味の袋入り ラーメンが二袋残っていたが、それ以外には見当たらず、パスタの類は切れている。かといって、炊飯器のスイッチを 入れたところで炊き上がるのは随分先だ。

「あの……大神君……」

 美花は情けなさで泣きたい気持ちになりながら、袋入りラーメンを差し出した。

「いいよ、なんだって」

 大神が笑みを返すと、美花はおずおずと目を向けてきた。

「本当にいいんですか? だって、こんなんですよ?」

「野々宮さんが作るものだったら、なんだっていいよ」

 大神は嬉しさに任せて言った後、自分の言葉の意味に気付いた。美花は頬を赤らめ、背を向けてしまった。

「えっ、あっ、え?」

「あ、ああ、ごめん! 深い意味はない! 本当に!」

 大神も居たたまれなくなって美花に背を向けると、美花は小声で答えた。 

「そ、そうですよね、そうですよね」

「うん、そうだよ、そうなんだよ」

 大神は背を丸め、両耳を伏せた。美花には鋭太がいるのだから、新婚夫婦紛いのセリフを言うべきではない。 美花もまた、大神には芽依子がいるのだから意識するべきではない、と袋入りラーメンを握り締めて硬直した。 そのまま二人は数分程度の膠着状態を続けたが、美花は昼食の準備を始めなければならないので動き出した。 冷蔵庫から在り合わせの野菜を取り出し、水洗いして食べやすい大きさに切り刻む傍らで美花は大神を窺った。

「……あの」

 美花が弱々しく声を掛けると、大神は両耳を伏せながら振り向いた。

「なんか、ごめん。あんなことを言うつもりじゃなかったんだが」

「いえ、気にしないで下さい。私も」

 気にしていませんから、と言おうとしたが言えず、美花は芯を切り落としたキャベツをざくざくと切り刻んだ。 大神から先程のような言葉を掛けられているであろう芽依子を想像してしまい、美花の胸中に鈍い痛みが生じた。 嫉妬なんてしたくないが、心が独りでに感じてしまう。そんなことのために、大神を呼び出したわけではないのに。

「忘れようか、お互いに」

 大神が提案すると、美花はぎこちなく笑みを作った。

「そうですね、それがいいですね」

 美花の他人行儀な作り笑顔に、大神は罪悪感を感じた。好きでもない男から言われれば、嫌に決まっている。 美花の料理を食べるべきは彼女の兄であり、友人の天童七瀬であり、そして恋人である鋭太に他ならない。所詮、 大神は友達でしかないのだ。だから美花はあんな顔をしたのだ、と大神は勝手に結論付けて落ち込んだ。
 野菜を切り終えた美花は、フライパンを振るって炒めた。内容は、キャベツ、モヤシ、長ネギ、豚肉の細切れだ。 手際が少々ぎこちないところもあるが、フライパンを動かす手付きは様になっていて味付けするタイミングも良い。 野菜炒めを続けながら水を張った鍋を火に掛けて、二人分の袋入りラーメンを茹でる準備も同時に始めていた。 袋から出した乾麺を湯に入れてから、麺が煮えるまでの間に二人分の丼と箸を出し、最後に粉末スープを入れた。

「煮卵もあれば、もっとよかったんですけど」

 美花は少し残念がりながら、丼に麺とスープを分けて入れていった。

「これだけでも、俺が作るのよりは数倍は豪勢だよ」

 大神が野菜炒めを指すと、美花は眉を下げた。

「でも、在り合わせですから、本当にいい加減で」

「変に力の入った料理よりも、俺は好きだな」

「ほ、本当ですか?」

 美花は声色を弾ませ、ラーメンの丼と麦茶のコップを盆に載せると、キッチンに併設したダイニングに運んだ。

「本当だ」

 大神はリビングのソファーから立ち上がると、美花の待つダイニングテーブルに向かった。

「あ、こっちが大神君の分です。量が多い方です」

 美花は普段は兄の座る席に大神の丼を置き、箸を並べた。

「なんか悪いな」

 大神がその席に着くと、美花は向かい側に座った。

「い、いえ、私、そんなに一杯食べられませんから」

「頂きます」

「いっ、頂きます!」

 大神が手を合わせると美花も手を合わせ、箸を取った。大神は熱い麺を啜りながら、上目に美花を窺った。 出来たての熱さに苦労しているのか、何度も息を吹きかけて冷ましてから頬張り、弱い勢いで麺を啜っている。 オオカミ怪人の大神と違って口中の容量が狭いのか、一度に含む量が少なく、少し入れただけで頬が膨らむ。 その様が小動物を思わせ、大神はにやけそうになったが、今はラーメンに集中するべきだと丼に意識を向けた。 野菜炒めは少々火が通りすぎていたのかモヤシの歯応えが柔らかめだったが、嬉しすぎて気にならなかった。
 大神が野菜味噌ラーメンを食べ終えても、美花の丼にはまだ三分の一ほど残っていて一生懸命食べていた。 大神は丼の手前に箸を置き、胃の重みをいつになく愛おしく思いながら、必死に口を動かす美花の様を眺めた。

「ん……」

 美花は口の中のものを飲み込んでから、大神を見やった。

「な、なんですか?」

「いや、別に」

 大神が少し笑い、訝しげな美花と目を合わせた。

「野々宮さん」

「あ、はい」

「どうして俺を呼び出したんだ? 何か用事でも?」

「えっと、あの、あう……」

 ラーメンの熱とは違った熱で頬を赤らめた美花は、麺をずるずると啜り上げ、咀嚼してから飲み下した。

「食べ終わってからでいいよ」

「はい、すみません」

 大神の言葉に美花は平謝りしてから残りを食べ、細かい麺まで箸で取り、スープを飲み干し、丼を置いた。 ため息を吐いてから口元を拭った美花は、麦茶で口中に残る味を流し、力一杯深呼吸した後に大神を見上げた。

「えっと、その、うんと……」

 美花は空の丼と自分の手元と大神の間で視線を前後させていたが、大神に定めた。

「こっ、こんなこと、頼むのは、すっごく失礼だし、えっと、悪いとは思ったんですけど」

 エプロンが千切れそうなほど強く握り、美花は華奢な肩を怒らせた。

「で、でも、一度考え出すと、どうにもならなくなっちゃって、えっと、あの、でも、その、えぇっと、鋭太君に頼むのは、 ちょっと良くないかなって思ったし。ああ、でも、嫌いとかそういうんじゃなくて、鋭太君にそんなことを頼んだら怒らせちゃう かなって……」

 そう言ってから、美花は慌てた。

「あ、ああ、でででも、大神君が怒らなさそうだとか、そういうんじゃないんです! ただ、なんていうか、そう、アレだアレ!  親しみ! そういうことなんです! だから、大神君!」

 美花は一際深く息を吸ってから、若干身を乗り出した。

「尻尾! 触らせてもらえませんか!」

「……尻尾?」

「そうです、尻尾です! モフモフでフワフワでフサフサの!」

 首筋まで赤らめた美花は大きく頷き、小さな拳を固めた。大神は拍子抜けしたが、安堵した。

「そうか、尻尾か」

 大神の呟きに、美花は何度も頷いていた。試しに尻尾を少し揺らしてみると、美花は尻尾に釘付けになった。 その無防備な顔に大神は吹き出しそうになったが、笑ってしまっては美花に悪いので、なんとか笑いを抑えた。
 色気のあることでなくて良かった、と安堵した反面、色気のあることでないのか、とも残念がった自分が現金だ。 だが、それでいいのだろう。美花は大神にそんなことは頼まないだろうし、何より美花と恋仲にある鋭太に悪い。 尻尾は敏感な部位だが、下手なことを意識しなければ大丈夫だろう。大神は顔を緩ませながら、尻尾を振った。
 オオカミ怪人に生まれて、本当に良かった。





 


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