五億年以上前。レピデュルスは、自我を持った。 地球に生命が生まれて間もない古生代と呼ばれる時代、爆発的に増殖し、繁栄した生物の突然変異体だった。 今でこそレピデュルスと呼ばれているが、その頃は名などなく、自分が自分であること以外には何も解らなかった。 他の同族は砂浜や海底を短い足で這いずっているのに、レピデュルスは二本の足で立ち、広い世界を見ていた。 水の中に生まれたにも関わらず、陸地で生きることも出来て、触れたものを石に変える奇妙な能力も持っていた。 同族にも、同族よりも大きな種族にも馴染めず、レピデュルスは海と陸地を行き来しながらただ生き長らえていた。 カンブリア紀、オルドビス紀、シルル紀、デボン紀、石炭紀、ペルム紀、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀、第三紀、古第 三紀、新第三紀、第四紀。地球の変化と共に変化していく生命の姿を、傍観者として眺めながら生き続けてきた。 多種多様な生物が栄え、滅ぶ様も、人間が進化していく様も、後に怪人と呼ばれる異形達が生まれる様も。 だが、見てきたのは歴史の切れ端だけで全体像は捉えなかった。いつの時代も自分だけが取り残されたからだ。 三葉虫やアンモナイトが絶えても、あれほどの勢力を誇った恐竜が滅亡しても、レピデュルスだけは生き続けた。 死を望んでも、訪れたのは石化だけだった。そして、偽りの死と怠惰な生を繰り返した末、遂に死ぬことを諦めた。 第三紀が始まった頃から、レピデュルスは星の生き様を見つめることを楽しみとし、文明の繁栄と滅亡を眺めた。 生物達と同じく、あらゆる文明が栄え、滅び、また栄えた。しかし、レピデュルスは傍観者から抜け出さなかった。 いついかなる時代でも、レピデュルスは孤独を望んだ。誰とも関わらないことが、自己を守る術だと信じていた。 彼と出会うまでは。 現代から約五百年前。 その頃、レピデュルスは名を持たなかった。名乗るような相手も、呼んでくれる相手もいなかったからだ。 文明を形作った人間が戦争を繰り返し、流行病で死に絶える様を見るのが辛く、石化して地中深く没していた。 ざっと三百年ほど眠り込んでいたのだが、何の前触れもなく掘り出されて外気に晒され、眠りから目を覚ました。 全身に貼り付いた土を剥がされて水を浴びせられ、外骨格は潤いを取り戻し、複眼の中にも体液が戻ってきた。 久々に働く視神経を通過して脳に及んだ外界を見渡すと、仕立ての良い服に身を包んだ獣人の男が立っていた。 どこかの屋敷の中庭らしく、四方はレンガ造りの背の高い建物に囲まれていた。 「なるほど、良い掘り出し物だ」 オオカミ獣人の男は水の残る桶を置き、顔を寄せてきた。 「お前、名は?」 「……ここは、どこだ?」 通じるかどうかは解らなかったが言葉を発してみると、意外にもすんなり通じたのか、獣人の男は答えた。 「ドイツの片田舎さ」 「ドイツ?」 「ヴォルケンシュタイン領、と言っても解らんか。狭いし、力もないしな」 獣人の男は灰色の毛並みよりも濃い灰色の瞳で睨め回してから、人間のそれに似た五本指の手を打った。 「よし、お前の名はラングステだ」 「ラングステ?」 「ラングステはラングステじゃないか。茹でて喰うと旨いアレに似ているんだよ、お前は」 新入りが目覚めたぞ、と獣人の男が声を張ると、中庭を取り囲む建物から異形の生物達が顔を覗かせた。 岩石で出来た男、粘液の固まりのような女、獣を継ぎ接ぎしたような動物、植物を人型にしたような者、などなど。 彼らはオオカミ獣人の男の周りにやってきては口々に話すが、どれもこれも言葉が違うので聞き取りづらかった。 けれど、異形には異形同士で通じるものがあるので、言葉の全てが解らなくともそれなりに意味が通じてしまう。 だから、ラングステと名付けられたばかりのラングステも、聴覚に伝わった振動で彼らの会話を聞き取っていた。 大旦那様も酔狂な、それは毎度のことでしょうが、また騒がしくなるねぇ、あいつにはどんな仕事をさせようかしら。 その会話で、ラングステは己の立場を悟った。どうやら、大旦那様と呼ばれている獣人に買い取られたようだった。 大旦那様ことヴォルフガング・ヴォルケンシュタインは、市場で珍品として売られる石化したラングステを見つけた。 一目見て生き物と見抜いたヴォルフガングはその場でラングステを買い上げ、自邸に持ち帰り、水を掛けてみた。 そして、ラングステは三百年振りに石化を解いて目覚めた。恐らく、ヴォルフガングは異形を好んでいるのだろう。 ラングステも、彼に気に入られた調度品であり使用人なのだろう。自尊心など朽ちた今では、嫌気も差さなかった。 だから、使用人として生きてみるのも悪くないと思った。 それから、四百十数年が経過した。 ラングステは、こちらの方が格好良いだろう、とのヴォルフガングの一存でレピデュルスと名を変えられた。 レピデュルスとは三葉虫の学名であり、自身はカブトエビの突然変異体なのだが、語感が良いと押し切られた。 だが、カブトエビの学名もあった方が良いだろう、とのことで、ミドルネームとしてトリオプスと加えることになった。 その頃になると、レピデュルス以外の人ならざる使用人達は、寿命を終えたり、巣立ったり、と残っていなかった。 ヴォルケンシュタイン家も時代と共に衰退したので、ヴォルフガングも使用人はレピデュルスだけで充分だと言った。 レピデュルスがヴォルケンシュタインの名を与えられたのもその頃で、戸籍では使用人ではなく義兄弟になった。 そんな折、第二次世界大戦が始まり、貧乏貴族の末裔であるヴォルフガングもドイツ軍から出兵を求められた。 第一次大戦での功績が認められ、ヴォルフガングは大佐としての地位を与えられ、レピデュルスも大尉となった。 兵隊を与えられ、兵器を与えられ、ドイツ軍として世界各国の連合軍と敵対しては激戦に激戦を繰り広げていた。 ある時、ヴォルフガングに上層部から命令が下された。友好国である日本に赴いて資金と兵器を調達しろ、と。 側近であり部隊の副官でもあったレピデュルスも最前線での任を解かれ、主に同行して極東の島国に向かった。 長い旅を終えて到着した島国は異質な世界だった。書物や伝聞では聞いていたが、目にしたのは初めてだ。 木と紙で出来た家、布を巻き付けた奇妙な服装の女達、小柄ながら凛々しい顔付きの男達、繊細で緻密な品々。 それらが皆、物珍しくて、ヴォルフガングとレピデュルスは任務を終えた後も軍部に頼み込んで日本に駐留した。 日本の軍部からも住むための家も与えられたので、その家に向かうと、和服姿の年若い女性が待ち構えていた。 藤色の着物に臙脂色の帯を締めていて、髪は結い上げずに後頭部の高い位置で一纏めに結って垂らしていた。 「ドイツ軍の御方ですわね」 透き通るほど白い肌を持った女性は、繊細な笑みを浮かべた。 「お待ちしておりましたわ。私、大神貿易の社長令嬢にございます、大神冴と申します」 「初めまして、フロイライン・大神。私の名はヴォルフガング・ヴォルケンシュタイン大佐、彼の名はレピデュルス・ トリオプス・ヴォルケンシュタイン大尉、側近であり兄弟です」 ヴォルフガングが軍帽を外して一礼すると、冴は黒く澄んだ瞳を細めた。 「日本語がお上手ですこと。お二人は御兄弟なのに、似ておられませんわね」 「私めは大旦那様の名を頂きましたが、血の繋がりはございませんので」 レピデュルスが説明すると、冴は細い指先で口元を覆った。 「ふふふ、そうでなければ困りますわ。カニのお化けみたいな御方と、御立派なオオカミの御方が血縁だなんてことが あったら、天地がひっくり返ってしまいますわ」 「いやはや。私としては良い考えだと思ったのだがね、ラングステ」 ヴォルフガングがわざわざ古い名を出して笑ったので、レピデュルスは笑い返した。 「大旦那様が酔狂であらせられるのは、今に始まったことではございません」 「では、御案内いたしますわ」 冴は門を開いて二人を促したので、続いて入った。狭いが小綺麗な庭があり、庭木も手入れが行き届いている。 引き戸の玄関から三和土に入り、ヴォルフガングは靴を脱ぎ忘れて慌てて脱ぎ、冴から控えめに笑われた。 二階には二部屋あり、八畳の居間、台所、厠、それなりに広い風呂もあり、一般市民の家屋に比べれば立派だ。 最後に居間に続いた仏間に二人を案内した冴は、二人を座らせると、上座に座って向かい合うと柔らかく笑んだ。 「私、あなた方とこの家に住むことにいたしましたの」 「ですが、私達は異国の者ですし、あなたはうら若き女性です」 ヴォルフガングが戸惑うが、冴は笑みを崩さなかった。 「構いませんわ。異国の方がどんな御方なのか、知らずに死ぬのは勿体ないですもの」 「そのようなお歳で死ぬなど申されるのは……」 レピデュルスもやや戸惑うと、冴は襟元が合わさった胸元を押さえた。 「私、どこもかしこも脆弱なんですの。お医者様によれば、後二三年持てば良い方なのですって。ですから、お嫁の 貰い手もおりませんし、言い寄ってくる殿方もおりませんの。だから、間違いが起きたって構いませんわ」 「いや……私はそういうつもりでは……」 なあ、と耳を伏せたヴォルフガングに目を向けられ、レピデュルスは同意せざるを得なかった。 「大旦那様はそれはそれは奥手にございますので、本国でも生身の御夫人に触れられたことは数えるほどしか」 「でしたら、尚更よろしいじゃありませんの。お父様は商品の買い付けで外国に行ってしまわれたし、お母様は仏様の お膝元におられますし、御兄様方は皆戦地ですし、誰も私を咎めることなんて出来ませんわ」 鈴を転がすように笑う冴に、ヴォルフガングはすっかり困り果ててしまい、言い返すことすら出来なかった。 レピデュルスも、どうしたものかと思ったが何も言えなかった。この家がなければ、二人は路頭に迷ってしまうのだ。 思えば、この時に力関係が決まってしまった。ヴォルフガングは有能な指揮官であり軍人だが女性には弱い。 それが人外でも怪人でもない人間なら尚更で、壊れ物を扱うかのように接しては逆にいいように扱われてしまう。 レピデュルスは主従関係を頑なに守っているので、主が逆らわない相手には逆らうことがどうしても出来なかった。 おかげで、この一軒家での暮らしは、冴にほとんどの主導権を握られて、時には我が侭に振り回されてしまった。 日本での日々は軍隊生活に比べれば緊張感がなく、浮ついた出来事ばかりだったがそれはそれで楽しかった。 激化する戦争を、忘れられたからだ。 それから、一年が過ぎた頃。 レピデュルスは、買い出しに出ていた。買い物カゴには季節の野菜を詰め込み、豆腐を入れた器を持っていた。 本来は大神家が雇った下働きの女性の仕事だが、里帰りしている彼女の代わりに家事の一切を請け負っていた。 ヴォルケンシュタイン家時代に散々やってきたことなので、多少勝手は違うが慣れたものなので苦にはならない。 いつも見かける近所の人間に挨拶してから家の門をくぐると、庭に面した縁側で冴がぼんやりと座っていた。 レピデュルスは台所に入って食材を置いてから縁側に向かい、冴の背後に回ると、膝を付いてから声を掛けた。 「冴様、いかがなさいましたか」 「どうしましょう、私、死んでしまうのかしら」 冴はレピデュルスを見ることもなく、西日に焼かれた庭に目線を落とした。 「朝からずうっと胸が苦しいんですの。肺も辛くって、頭もくらくらして、心臓も痛みますの」 「それでは、お医者様を招きましょう」 「私もそう思いましたわ。でも、昨日まではなんともなかったんですの。お薬だってちゃんと飲みましたし、一人で遊びにも 出ませんでしたし、冷たいものも食べませんでしたし、夜更かしだってしませんでしたわ。それなのに……」 冴はレピデュルスに振り向き、着物の胸元を握り締めた。 「でも、私、あなた方の傍で死ねたら本望ですわ。だって、あなた方ほど、私に尽くしてくれた方はおりませんもの」 「そのようなことを申さないで下さい。冴様は十九になられたばかりです、まだお命の灯火は……」 レピデュルスが冴を励まそうと言葉を連ねようとすると、門がまた開き、主の声がした。 「レピデュルス、帰ったぞ! 本国からの指令が届いた!」 「お帰りなさいませ、大旦那様」 レピデュルスが立ち上がってヴォルフガングを出迎えると、冴はひゃっと小さく悲鳴を上げて後退った。 「お、おおお帰りなさいましぃっ」 「ただいま戻りました、冴さん。また無茶な注文ばかりが並んでいるぞ、軍部の連中は余程焦っているのだな」 軍服姿のヴォルフガングは冴の異変にも気付かず、ドイツ軍からの指令書をレピデュルスに渡してきた。 「お前も目を通しておけ、レピデュルス。善処する、とは返したが、どこまで出来るものか」 「ひゃ、う……」 冴は色白な頬を赤らめ、柱の影に隠れてしまった。 「どうかしたんですか、冴さん」 ヴォルフガングが近付こうとすると、冴はますます赤面して後退った。 「なんでもございませんわ!」 「大旦那様」 レピデュルスは縁側から外に出ると、主の腕を引いて庭木の影に連れ込んで声を落として尋ねた。 「近頃、冴様に何かなさいましたか?」 「いや、これといって心当たりはないが」 ヴォルフガングは庭木とレピデュルスの肩越しに冴の様子を窺うと、片耳を伏せながら尋ね返してきた。 「それよりも、本国から荷物は届いていないか?」 「いえ。軍部からも届いておりませんが」 「そうか……」 ヴォルフガングはあからさまに落胆し、両耳を伏せた。 「大旦那様こそ、いかがなさいましたか」 レピデュルスが更に声を潜めて尋ねると、ヴォルフガングは目線を彷徨わせつつ小声で答えた。 「いや、その、な、屋敷に残っていた宝石をいくつか送ってくれるように頼んだのだよ。それをこっちで仕立て直して、 かんざしにでもしてやろうかと思ってだな」 「はあ……」 レピデュルスは挙動不審のヴォルフガングと赤面した冴を交互に見てから、ヴォルフガングに返した。 「そのような小細工をなさらなくとも、大旦那様の願望は成就するかと存じますが」 「根拠もなしに何を言う。私は無謀な策は打たない主義だ」 「では、御自身でお確かめになって下さい」 レピデュルスがヴォルフガングを突き飛ばすと、ヴォルフガングはつんのめりながら庭木の影から出た。 倒れ込むように縁側に両手を付いたヴォルフガングに、柱の影で縮こまった冴は振り向きかけたが顔を背けた。 「何か御用ですの、ヴォルフガング様!」 「あ、ああいや、別に、大したことではないのだ!」 ヴォルフガングは取り繕おうとするが、明らかに声が上擦っていて尻尾も盛大に揺れていた。 「わっ、わたくしだって、大したことはございませんのよ!」 冴は耳元まで赤らめながらそっぽを向いているが、横目にヴォルフガングを窺っていた。 「御用がないのなら、早くお上がりになって! 夕餉が遅くなりますわ!」 「何もないわけでは……」 「じゃあ、早くお話しになって。私、夜風で体が冷えては困りますのよ」 ようやく振り向いた冴は、唇を尖らせて眉を吊り上げてはいたが照れていた。 「その……」 ヴェアヴォルフは縁側の床板に鼻先を押し付けそうなほど俯いていたが、尻尾をぴんと立てて顔を上げた。 「冴さん! 私でよろしければ、結婚して頂けないだろうか!」 遠吠えのような声量で言い放ったヴェアヴォルフは、照れが極まったのか縁側の傍らでうずくまってしまった。 冴はといえば、頬も首筋も手先までもを赤らめてしまい、ふらりと頭を揺らしたかと思うとそのまま倒れてしまった。 わあ冴さん、おいレピデュルス、どうにかしろぉっ、と主から半泣きで呼ばれ、レピデュルスは笑いを噛み殺した。 冴もまた照れが極まったらしく、目は開いていたが薄い唇を虚ろに開いて浅く速い呼吸を繰り返していた。 ヴォルフガングは冴を抱え上げようとするが、冴に触れるか触れまいかを迷った末、再度レピデュルスを呼んだ。 だが、ここで手を貸しては両者の進展が望めないので、レピデュルスは二人に近付かずに傍観することにした。 冴はヴォルフガングに触れられることに怯えて身を縮め、ヴォルフガングは冴に触れることを強く躊躇っていた。 日が傾いて光源が乏しくなった頃、ようやく二人は互いに手を伸ばし、大きさも温度も骨格も異なる手を重ねた。 ささやかだが、暖かな恋の始まりだった。 09 10/8 |