初戦を終えてから、三日が経過した。 大神は体に染み付いたコンビニの仕事を黙々とこなしていたが、あれからというもの仕事に身が入らない。 純情戦士ミラキュルンに完敗したことも頭を悩ます要因の一つだったが、もう一つの悩みが生まれていたからだ。 こんな状態が続いては、次の決闘でも負けてしまう。本気で立ち向かわなければ、世界征服など絶対に無理だ。 だから、もう彼女のことを考えるのは止めよう。そう心に決めた大神は、レジ台の下に隠した拳を強く握った。 すると、ドアが開いて来客が訪れたので、大神は目線を向けて決まり切った挨拶をしようとして言葉に詰まった。 コンビニに入ってきたのは、毎朝のように訪れてはピーチティーを一つだけ買っていくあの女子高生だったからだ。 「いらっしゃいませ」 なるべく動揺を隠しながら大神が挨拶すると、彼女は一礼した。 「こんにちは」 恥じらいを滲ませながら挨拶した彼女は、どことなく照れ臭そうな足取りで店内の奥に向かっていった。 その様を目で追わずにはいられず、大神は彼女の後ろ姿を眺めながら、なんともいえない気分に浸った。 こんなことではいけない、と思うのに、以前から気になっていた相手から声を掛けられることが嬉しくて仕方ない。 件の女子高生はスナック菓子の棚に近付き、商品を眺めていたが、屈んだ際に零れた髪を耳に掛けた。 他愛もない仕草なのに、やたらと目に付いた。ごく自然にスカートの裾を押さえる手付きも、意味もなく気になった。 化粧気のない横顔は少女と大人の中間で、目鼻立ちははっきりしていて落ち着きのある可愛らしさを持っていた。 身長はそれほど高くないが体型は程良い丸みを帯びていて、目を向けずにはいられない雰囲気がある。 彼女は多少迷っていたが、パンの棚からコロッケパンとツナマヨネーズパンを取り、最後にピーチティーを取った。 それらを抱えてレジにやってきた彼女は少しやりづらそうに視線を彷徨わせつつ、通学カバンから財布を出した。 「今日は帰りが早いんですね」 無意識に思ったことを口に出してしまい、大神は慌てた。名前も知らない相手に、一体何を言っているのだ。 彼女は財布を握ったまま硬直したが、ぎこちない動作で顔を上げて大神を見上げ、上擦り気味の声で返した。 「て、テスト期間ですからっ」 彼女は小銭を取り出そうとしたが、動揺しているのか、手が滑って財布ごと落としてしまった。 「うわわっ」 抑え気味の悲鳴を上げた彼女は、レジ台の下に屈み、散乱した小銭を拾い集めた。 「手伝いましょうか?」 「あ、い、いい、ですぅっ!」 失敗したことが恥ずかしくてたまらないのか、彼女は頬を赤らめながら小銭を集め続けた。 「お客さんも少ないですから、焦らなくても平気ですよ」 彼女の商品をレジに通しながら大神が声を掛けると、彼女はしゅんとした。 「すみません……」 小銭を全て集めた彼女は、スカートの裾を直しながら立ち上がり、大神を見上げた。 「あの、お会計を」 「三百三十八円になります」 ビニール袋にピーチティーを入れてからパンを入れた大神は、彼女に差し出した。 「あ、あの」 大神に四百円を手渡しながら、彼女は口籠もったが、徐々に頬が赤らんでいった。 「すみません、なんでもないですっ!」 引ったくるように商品の入った袋を取った彼女は、ドアにぶつかりかけながら、店内から逃げ出した。 「お釣り……」 四百円を手のひらに入れたまま大神は呆然としていたが、代金の四百円をレジに入れてからお釣りを出した。 それを脇に避けて彼女が戻ってくるのを待ったが、小一時間待ってみても彼女が戻ってくる気配はなかった。 その間にも客が来たので、会計を行いながらも、大神は彼女が戻ってくるかどうかがずっと気に掛かっていた。 けれど、大神のシフトが終わる頃になっても彼女は戻ってこなかったので、手元にはお釣りだけが残っていた。 きっと、また次も来てくれるだろう。その時にお釣りを渡せばいい、と思うだけで、期待に胸が弾んだ。 これを機会に声を掛けられるようになれば、と喜んだ反面、口実がなきゃ声も掛けられないのか、とも思った。 それに、自分はあくまでも店員で彼女は客なのだ。分を越えた行動を取るべきではない、と理性が叫んでいた。 けれど、彼女のことは以前から気になっていて、最近では明らかに彼女に好意を抱いたことを自覚していた。 せめて名前だけでも、あわよくばメールアドレスと携帯電話の番号も、いやいやそれはやりすぎではないか。 そんなことを考え込みながら、大神は悪の秘密結社ジャールの本社が入居している雑居ビルへと向かった。 浮かれすぎて、道中の記憶がすっぽり抜けてしまった。 恥ずかしすぎて、溶けてしまいそうだった。 どこをどう歩いてきたのかはよく解らなかったが目の前には七瀬がいて、周囲の景色は市営図書館だった。 だから、なんとかテスト勉強をするための約束通りの場所へは辿り着けたのだが、間の記憶はぼやけていた。 一番消えて欲しい失敗の記憶は消えるどころか鮮明になり、おかげで脳が煮えそうなほど赤面してしまった。 椅子に座ったはいいが、硬直したまま動かない美花を眺め回していた七瀬は、きちきちと黒い顎を軋ませた。 触角を揺らしながら美花を覗き込んでいたが、美花が全く反応しないことに呆れてしまい、七瀬は身を引いた。 「何がどうしたっての、美花」 「私、もう、あのコンビニに行けない」 脱力した美花は、前のめりに突っ伏した。 「だから、具体的に何がどうなってんの」 七瀬は黒い爪先で美花を小突くが、美花は呻くだけだった。 「言えない。言ったら、恥ずかしくて死んじゃう……」 「ヒーローなんだから、羞恥心ぐらいで死ぬわけないでしょうが」 「精神的に死ねるぅ……」 「とにかく、お姉さんに相談してみろっての。ほれほれ」 七瀬が美花の肩を掴んで揺さぶると、美花は渋々顔を上げた。 「笑ったりしない?」 「図書館だからね、笑うに笑えないでしょ」 「じゃ、じゃあ、話すけど」 美花は乱れた髪を直してから、七瀬を見上げた。 「さっき行った時は、まだ大神さんがレジにいたんだ。だから、大神さんに挨拶して、お昼ご飯のパンを買ったまでは 良かったんだけど、小銭ぶちまけちゃったの」 「それだけ?」 「うん。大神さんね、小銭を拾うのを手伝おうかって言ってくれたんだけど、断っちゃったの。それを謝ろうと したんだけど、なんかもう恥ずかしすぎて頭がおかしくなっちゃいそうだったから、逃げちゃったんだよぉ」 美花が肩を縮めて俯くと、七瀬はぎぢっと顎を軋ませた。 「なんだ、そんなこと」 「ああ、やっぱり笑ったぁ」 美花が半泣きになると、七瀬は肩を震わせた。 「ごめんごめん。つか、大神さんってマジいい人だねぇ。ケモノだけど」 「うん。だから、余計に悪い気がして」 美花は膝の上で両の拳を固め、目を伏せた。 「気にするなって、その程度のこと。大神さんだって気にしないんじゃね?」 七瀬が励ましてくれたが、美花は再び机に突っ伏した。 「私は気にするんだよ……」 やっと勇気を持てるようになったと思ったのに、これでは逆戻りだ。むしろ、凄まじい勢いで後退した。 純情戦士ミラキュルンに変身した美花は、悪の秘密結社ジャールとの初めての決闘でおかしな戦い方で勝った。 だが、勝ちは勝ちだと開き直り、少しだけ自信が持てるようになったので勇気を出して彼に挨拶するようになった。 最初は大神も面食らったが、挨拶を始めた次の日からは彼も挨拶を返してくれるようになり、浮かれてしまった。 そして、浮かれすぎた挙げ句にあの様だ。これでは、彼に話し掛けるどころか変な女だと嫌われてしまうだろう。 「あ」 心底落ち込みかけて、美花は思い出した。 「さっき、お釣り、受け取るの忘れちゃった」 「いくら?」 「六十円ぐらいかな」 「だったら、後でそれを受け取りに行けばいいじゃんよ。謝るついでにさ」 七瀬が提案するも、美花は躊躇った。 「でも、たったの六十円だよ?」 「されど六十円だ。それだけのお金だって稼ぐのは大変なんだから、大事にしろよ」 「うん、そうだけど」 美花は上体を起こすと、七瀬は身を乗り出してきた。 「大神さんと仲良くなりたいんでしょ? だったら、ガンガン攻めなきゃ嘘ってもんだ」 「う、うん」 少し間を置いてから、美花は頷いた。お金を無下にするのも両親に悪いし、謝らないままでは大神に悪い。 こんな情けない出来事を切っ掛けにするつもりはないが、大神に話し掛けることに慣れるには良い機会だろう。 大神は挨拶を返してくれるようになったのだから、もう少しでも愛想良く笑顔を向けられるようになりたかった。 毎朝のように緊張してしまうせいで、挨拶しても表情が強張ってしまっては、印象が良くなるどころか悪くなる。 だから、一歩ずつ慣れていかなければ。ようやく気分が戻った美花は、向かい側の席に座る七瀬に苦笑した。 「ごめんね。私、いつもこんなんで」 「いいってことよ。その代わり、後でノート写させてな」 七瀬がきちきちと笑ったので、美花は曖昧に答えた。 「あー、うん」 「そういえばさ」 七瀬は参考書を開いてから、美花に問うた。 「例の決闘って、次はいつやるの?」 「毎週土曜日の午後五時半に、駅前広場でやることに決まったの」 美花は通学カバンからノートと参考書を取り出し、広げた。 「深夜アニメの再放送枠みたいな時間帯だなぁ」 七瀬は三本の爪が生えた足先で器用にシャープペンシルをノックしていたが、顎を広げた。 「なんだったら、見に行ってやろうか?」 「いい、いいよ! 大したことないし!」 美花が身を引くと、七瀬は触角を片方曲げた。 「私、ヒーローってのがどんなのかよく解ってないからさ」 「知らないままでいいよ、あんなの。恥ずかしすぎるもん」 「衆人環視の中で戦えるのに? 駅前なんて、人に見られまくりじゃん」 「駅前広場で戦うって決めたのは、私じゃなくてジャールの人達だよ。出来れば別の場所がいいんだけど」 「んじゃ、意見してみたら? 聞いてくれない相手じゃなさそうだし」 「でも、ジャールの人達にも都合があると思うし、簡単に変えてもらうわけにはいかないと思うんだ」 「どっちなんだよ」 「ごめん」 精一杯身を縮めた美花は、そろりと七瀬を見やった。 「まともに戦えるようになったら、ちょっとだけなら見てほしいかも。じゃないと、その、恥ずかしすぎるから」 「解った解った。とりあえず、勉強しちゃわね? そのために図書館に来たんだし」 七瀬は爪で美花をあしらい、参考書に向かった。美花は居たたまれなくなり、自分のノートを見下ろした。 悪の秘密結社ジャールは、学生に過ぎない美花と違ってれっきとした社会人なのであり、彼らにこそ都合がある。 副業で人材派遣業をしているらしいので、その合間を縫って美花と戦ってくれているのだから我が侭は言えない。 純情戦士ミラキュルンはひよっこのヒーローだ。悪の組織に相手をしてもらうだけでも、良いと思わなければ。 戦うべき相手がいなければ世間から持て余されてしまうヒーローと敵対してくれるだけでも、感謝すべきなのだ。 だから、恥ずかしさぐらいは我慢しなければ。それに、戦ってくれるのだから、全力を尽くさなければ申し訳ない。 次からは、もっと頑張ろう。 09 5/25 |