翌日。大神は疲労を感じつつ、コンビニを退勤した。 大学在学中から店員として勤務しているので体が勝手に動くようになっているが、疲れるものは疲れる。 嫌な常連として認識している厄介な客が今日に限って何人も来て、よりによって大神の前に並んでくるのだ。 誰も彼も自分の我が通ることを当然だと思っていて、コンビニの業務を超えた無茶苦茶な言い分を捲し立てる。 そういった客は穏やかに言い含めても聞き入れないので、適当にあしらって帰ってもらう以外の方法がない。 無論、不毛な応対をしている間にも普通の客はレジに並ぶのだが、そういう時に限って他の店員は奥にいる。 俺が何か悪いことをしたのだろうか、いや、悪の総統なんだからしているか、と大神はぼんやりと考えた。 六畳一間のアパートの冷蔵庫の中身を思い返したが、食べられそうなものがなかったことだけが思い出せた。 ミラキュルンとの戦いを始めてからというもの日々が忙しくなり、買い物が疎かになって日用品にも事欠いた。 ティッシュペーパーは駅前で配っているものが溜まっていたので凌げていたが、石鹸やシャンプーは別だった。 風呂トイレ共同とはいえ、消耗品は自分で買わなければならない。思い出してみれば、他にも買うものは多い。 だが、最重要項目は夕食だ。ついでに、気を紛らわすための酒でも一つ二つ買って帰ろうか、とも思っていた。 やっぱり、自転車に乗ってくるべきだった。大神は朝方の自分の判断を大いに後悔しながら、足を進めていた。 朝、アパートを出る時は空が鉛色に曇っていて、今にも雨が降り出しそうだったので自転車には乗らなかった。 だが、日が昇るにつれてその雲は晴れていき、退勤時間を過ぎた今となってはすっきりと晴れ渡ってしまった。 別に誰が悪いわけでもなく、大神自身の判断ミスであることに違いないのだが、釈然としない気持ちになった。 駅前商店街を通り、私鉄の駅に向かった。大神は定期券を持たないので、切符を買うために財布を探った。 肩から提げたショルダーバッグに手を突っ込むが、コンビニの制服や他の雑品に紛れてなかなか出てこない。 お前まで俺に逆らうのか、と訳もなく苛立ちながら大神が財布を探り当てて顔を上げると、メイドが立っていた。 「お帰りなさいませ、若旦那様」 「は?」 大神は面食らったが、すぐに理解した。実家で使用人として働いている契約社員、内藤芽依子だ。 「芽依子さん、どうしてここに? この辺で何か用事でも?」 「はい。若旦那様に御用がございます」 「俺に?」 父親か、母親か、もしくは兄弟のことか。大神は思考を巡らせたが、周囲から注がれる視線に気付いた。 改札前を行き交う人々は、寸分の隙のないメイド服姿の芽依子を横目で窺い、口々に言葉を交わしている。 コスプレじゃないの、本物かもよ、などの下世話な言葉がそこかしこから聞こえ、大神の鋭敏な聴覚を乱した。 芽依子自身はそういった反応に慣れているのか眉一つ動かしていなかったが、大神は気が咎めてしまった。 「芽依子さん、ちょっと」 大神は芽依子の腕を引き、歩き出した。改札前に突っ立っているより、適当な店に入った方がいいだろう。 芽依子は少し目を見開いたが、大神に抗わずに引っ張られ、大神の歩調と合わせてくるが隣には来なかった。 使用人としての立場を忠実に守っているのだろう、大神の背後から付かず離れずの距離を保って歩いている。 途中で芽依子の腕を放してもそれは変わらず、大神は芽依子の心掛けに感心すると同時に自己嫌悪に陥った。 こんなにも素晴らしい心掛けの部下がいるというのに、色恋沙汰にばかりかまけている自分は一体何なのだ。 もっと真面目に世界征服にしよう、と決意を新たにした大神は、芽依子を伴って駅ビル一階のカフェに入った。 カフェの店内でもメイド服姿の芽依子は浮いていたが、改札前ほど大人数に曝されないのでまだマシだった。 窓際の席に座った大神は、心身の疲れの慰めになればと注文したホットのキャラメルマキアートを啜っていた。 向かい側に座る芽依子はホットの抹茶ラテを飲んでいたが、熱々なのでカップの底に手を添えて飲んでいた。 「それで、俺に用ってなんだい」 大神は半分ほど飲んだキャラメルマキアートを置き、芽依子に尋ねた。 「はい」 芽依子は抹茶ラテのカップを下ろし、紙ナプキンで口元に付いた泡を拭い取った。 「若旦那様。私は大神家に仕え、今年で早三年でございます」 「ああ、そうだな。俺が大学一年の時に、十七で入社した君が俺んちに派遣されてきたんだよな」 「二年半前にお亡くなりになった大旦那様、旦那様や奥様、弓子お嬢様とその伴侶の刀一郎様、鋭太坊っちゃま、 そして若旦那様に可愛がって頂きました。人でもなく怪人でもない私めには身に余る光栄でございます」 「光栄だなんて、そんな。芽依子さんは俺達の家族じゃないか」 「いいえ、そのような御言葉は勿体のうございます。私めは使用人に過ぎませんので」 「相変わらずだなぁ、芽依子さんは」 大神は芽依子の相変わらずの真面目さに感心しながら、一緒に注文したシナモンロールを囓った。 「私はこれからも大神家に仕え、行く行くは世界征服のお手伝いをさせて頂きたいと思っております」 芽依子もまた、一緒に注文したチョコレートドーナツを頬張った。それを飲み下してから、続ける。 「ですが、私の鋼鉄の如き忠誠心を掻き乱す者が現れてしまいました」 「ミラキュルンか? それとも、他のヒーローか?」 「いいえ」 芽依子はチョコレートドーナツを食べ切ってから、抹茶ラテで口を潤した。 「若旦那様にございます」 「……へ?」 シナモンロールの最後の欠片を口に入れた大神は、それを嚥下してから芽依子を見下ろした。 「それ、どういう」 「若旦那様は、常日頃から私めを気に掛けて下さいました」 「そりゃまあ、芽依子さんは家族と同じだし」 「私めの不養生が祟って床に伏してしまった時も、御世話をして下さいました」 「あの時は俺も大学が休みだったし、随分ひどい風邪だったから、放っておけなくて当然だよ」 「私めが買い物に出た際も、荷物を持って頂きました」 「そりゃ、芽依子さんの力じゃ米五十キロは無理だったからだよ。怪人体の時ならともかく、人間体じゃ」 「使用人の分際でリビングでうたた寝をしてしまった時も、何も言わずに部屋まで運んで下さいました」 「ああ、あの時か。芽依子さん、爆睡してたからなぁ。いくらコウモリ怪人でも、一週間連続で徹夜は無理なんだよ」 「その他にも、数え切れぬほどの御寵愛を頂きました」 芽依子は少し温度の落ち着いた抹茶ラテを飲み干すと、大神に向き直った。 「ですので、若旦那様。私めは、若旦那様を愛してしまいました」 「んぐほぁっ!」 キャラメルマキアートを嚥下しようとしたタイミングで言われたために大神は飲み損ね、盛大に噎せ返った。 今、なんと言った。聞き間違いだろう。芽依子に限ってそんなことを言うわけがない。そうだ、そうに違いない。 咳が収まってから大神が芽依子に向くと、芽依子はほんの少しだけ頬を緩め、気恥ずかしげな表情を見せた。 「若旦那様。私めはいつでもよろしゅうございます」 「あ?」 「そして、行く行くは本妻としてお迎え下さい」 「あ、あぁ?」 「私めは夜に強い身ですので、夜伽は朝までお付き合い出来るのでございます」 「あっ、あぅっ!?」 「私めは心も体もいつでも若旦那様を迎える所存でございます」 芽依子は何を言っているのだ。というか、自分こそ何を言っているのだ。大神は混乱の極みだった。 「な、なな、なぁっ!?」 何がどうなってこうなった。大神は状況を整理しようとしたが、混乱しすぎて全く頭が働かなかった。芽依子は、 今まで見たこともない表情を浮かべ、かすかな照れと恥じらいの混じった微笑みを大神に向けていた。混乱の上に 驚きが重なり、ついでに少し見とれてしまった。芽依子は、身内のひいき目を差し引いても充分美人だからだ。 「若旦那様」 芽依子は深々と頭を下げてから、上目に大神を見つめた。 「不肖の使用人は、若旦那様を心からお慕いしております」 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ」 「はい」 大神が制すると、芽依子は姿勢を正した。 「……それは君の本心なのか?」 まさか、四天王に担がれたのではないのか。大神が問うと、芽依子は即答した。 「私めの本心にございます」 「本当にか?」 「本当でございます」 「レピデュルスが君を呼び出して、妙な作戦でも言いつけたんじゃないだろうな?」 「いいえ」 「パンツァーが君と俺がくっつけばいい、とか無責任なことを言ったんじゃないだろうな?」 「いいえ」 「アラーニャが成功したら特別手当を出すとか言ったから、俺を口説き落とすつもりじゃないだろうな?」 「いいえ」 「ファルコが俺の身辺を勘繰った挙げ句に、君をあてがっておけばいいとか適当に言ったんじゃないだろうな?」 「いいえ」 「本当に本当か?」 「本当に本当の本当でございます」 「そ、そうか……?」 そこまで否定されると信じてしまいそうになる。大神の心中には疑念が燻っていたが、揺らいでいた。 今までにも、四天王から回りくどいことをされたことはある。といっても、それはすべて大神を思ってのことだった。 小学校に入学したばかりの頃、大神を早くクラスに馴染ませるためにと言って怪人一同を引き連れて襲撃した。 当然、教室は阿鼻叫喚に陥り、教師は逃げ出すわ警報は鳴り響くわ防犯ブザーは乱れ飛ぶわの大騒ぎになった。 それはレピデュルスの独断だったのだが、二代目暗黒総統であった父親は彼らを咎めずに笑い話で済ませた。 おかげで怪人達と父親の結束は強まったのだが、大神は事態を納得出来るわけもなく、しばらくふて腐れていた。 それでも、時間が経つと怪人達の思いやりや優しさが解ってきたので、また以前と変わらず接するようになった。 そんなことを思い出していた大神は、視線を動かすに動かせず、不可抗力で芽依子と見つめ合ってしまった。 芽依子はうっとりと目を細め、大神を見つめ返してくる。次に言うべき言葉が出てこず、大神は半笑いになった。 だが、このままではいけない。なんとかしなければ。大神が次の言葉を選んでいると、カフェの自動ドアが開いた。 「ねぇ七瀬、何にする? 私、イチゴラテにしようかなって思ってるんだけど」 「冷たいのだと体温下がりすぎちゃうけど、熱すぎても体液が煮えちゃうしな。でも、温いとマジ不味いしなぁ」 「じゃ、また氷抜きにしてもらえば?」 「刺激に欠けるけど仕方ないか。人型昆虫はマジ辛いわ」 聞き慣れた声に、大神の耳は独りでに動いた。視線を向けるべきではないのに、大神はつい目を向けた。 カウンターに並んでいるのは、他でもない野々宮美花と天童七瀬だった。計ったような最悪のタイミングである。 今すぐ逃げ出したいが、動くに動けない。俺に気付きませんように、と大神はあらゆる神や仏に全力で祈った。 「あ」 だが、神も仏もいなかった。美花は大神に気付くと、はにかんだ笑みを浮かべて会釈した。 「こんにちは、大神君」 「おお、大神君だ。時間的に見て仕事上がりじゃね?」 七瀬も大神に向くと、触覚を片方曲げた。 「つか、あのメイドさんって誰? 大神君の彼女とか?」 「え……?」 美花はそろりと動き、大神の手前に座る人影を確認した。七瀬の言葉通り、大神と同じ席にメイド姿の女性が 座っている。美花よりも少し年上だろう、顔立ちは大人びて体型も良い。彼女は大神の前から立ち上がりかけたが、 それよりも先に大神が立ち上がり、転びそうになりながら駆けてきた。 「のっ野々宮さん!」 「あ、は、はい!」 反射的に美花が返事をすると、大神は美花の前に立った。 「あの、その、彼女は彼女じゃなくて、彼女って言ったけど彼女じゃないから、って俺は何を言いたいんだ!」 動揺と混乱に負けて頭を抱えた大神に、席から立ち上がったメイド姿の女性が近付いてきた。 「若旦那様。何を戸惑われているのですか」 「わか、だんな、さま?」 それはどこの誰だ。美花が目を丸めると、メイド姿の女性は紺色のスカートの両端を抓んで膝を曲げた。 「御二方は、鋭太坊っちゃまの御学友であらせられますね。御初に御目に掛かります、私めは大神家に仕えさせて 頂いております、内藤芽依子と申します一介の使用人にございます」 「あ、はい、どうも初めまして。野々宮美花です」 流される形で美花が名乗り返すと、芽依子はうっすらと頬を染めた。 「この度、私めは若旦那様よりお手つきを頂きました」 「えっ?」 大神がぎょっとすると、美花がきょとんとした。 「えっ?」 確かに同じ屋敷で一緒に暮らしてはいたが、妹のように思っていたので劣情を抱いたこともなければ 変なことをしたこともない。大神は数秒間考え込んだが、ようやく思い当たった。もしかして芽依子は、先程大神が 腕を引いたことを言っているのではないだろうか。戦前の女学生じゃあるまいし。 「てことは何、大神君ってそのメイドのメイコさんと一発ヤッ」 七瀬が胸郭から物騒な言葉を出しかけたので、大神は嫌な汗を掻きながら否定した。 「だから、彼女は彼女だけど彼女なんかじゃ!」 「私めは大神家の使用人でございますが、若旦那様の愛の下僕でもございます」 真顔でとんでもないことを言い放った芽依子に、大神は言い返せなかった。下僕、というのは間違いではない。 悪の秘密結社ジャールに所属している以上、芽依子もまた世界征服のために使役する怪人には違いないのだ。 けれど、愛は余計だ。大神がどう突っ込もうか悩んでいると、肩を震わせて俯いていた美花が店を飛び出した。 「おっ御邪魔しましたぁっ!」 「あっ、ちょっとどこ行くの!」 まだ何も飲んでないのに、と七瀬は慌てながら、店から飛び出してしまった美花を追いかけて店を出て行った。 その場に取り残された大神は諸悪の根源である芽依子を見やると、芽依子は両頬に手を添えて恥じらっている。 それがまた、思いの外可愛らしい。店の客はおろか店員の視線も集まっていて、大神はやりづらくなってしまった。 残りのキャラメルマキアートを飲み干し、自分と芽依子の荷物を持った大神は芽依子を引きずってカフェを出た。 これまで頻繁に利用していたが、当分は来られない。だが、今、考えるべきはそんなことではなく美花にどう説明するかだ。 だが、どう言えば納得してもらえるだろう。いや、それ以前に会ってもらえるだろうか。無理だ。常識的に考えて。 しかし、きちんと話さなければ始まるものも始まらない。後でメールを打とう、電話もしよう、心から謝ろう。 それ以外に、出来ることなどない。 09 7/8 |