この世の終わりだ。 まさか、大神に彼女がいたなんて。考えたこともなかった。いや、考えるのが嫌だったから考えなかったのだ。 しかも、それがメイドさんだとは。メイドという職業が現実にあることは知っていたが、本物を見たのは初めてだ。 品の良い紺色のワンピースに胸当ての付いたエプロン、フリルの付いたヘッドドレス。とても良く似合っていた。 美花には到底似合わないだろうが、あのナイトウメイコという名のメイドにはあつらえたように良く似合っていた。 膝を折り曲げて礼をする仕草も堂に入っていたし、少し時代掛かっている敬語も滑らかな口調で連ねられていた。 どこをどう見ても、勝てる気がしない。大神はひどく慌てていたようだが、それはきっと知られたくなかったからだ。 あんなに綺麗で胸もあって礼儀正しいメイドさんなのだから、知られたくなくて当然だ。大事な彼女なら尚更だ。 「……うぐ」 美花はきつく抱き締めた枕に顔を埋め、込み上がってくる嗚咽を殺した。 「そ、そうだよね、そうなんだよね」 でも、せめて、告白ぐらいはしたかった。けれど、大神には彼女がいるのだからするだけ迷惑を掛けてしまう。 だから、このまま引き下がって姿を消そう。それが一番穏便な解決方法だ。美花は涙を拭うが、また溢れてきた。 でも、諦めたくない。生まれて初めて好きになった人だ。やっと声を掛けて友達になれたのに、これで終わるのは。 「だ、だけど」 メイドのメイコさんに敵う気がしない。戦う前から負けている。 「ふぁあああん!」 美花は頭を抱え、ベッドに突っ伏した。体の下で柔らかなスプリングが軋み、淡いピンクのシーツが歪んだ。 心臓が針金で絞られたかのように痛く、息が詰まる。言いたいことがあるはずなのに、上手く言葉にならない。 大神のことを頭から振り払おうとしても、逆に思い出されてしまう。初めて一緒に遊びに出た時の光景が浮かぶ。 枕元に転がっている携帯電話を開くと、帰り際に四人で撮った記念写真代わりのプリクラが貼り付けてあった。 大神兄弟はどちらも気恥ずかしげで、美花はそれ以上に照れているが、七瀬のおかげでなんとか笑えていた。 あの時は、こんなことになるなんて予想だにしなかった。これからゆっくり仲良くなれるだろう、と思っていた。 それなのに、まさか大神に彼女がいたなんて。美花は携帯電話を閉じると枕の下に押し込め、肩を震わせた。 「入るぞ」 部屋のドアが開けられたので美花がそろりと振り向くと、鬱陶しげに口元を曲げた速人が立っていた。 「さっきから、何をぎゃんぎゃん騒いでんだよ」 「うぁ」 美花は言葉を返そうとしたが、嗚咽で濁ってしまった。速人は妹の泣き顔に気付くと、表情が真剣さを帯びた。 「嫌なことでもあったのか」 「嫌、っていうか、情けなくなっちゃって」 何も言えないくせに勝手に苦しんでいる自分が。美花が項垂れると、速人は美花の傍に座った。 「戦いのことか?」 「ううん、それじゃない。また別のこと」 「じゃあ、何なんだよ」 「言いたくない……」 大神のことを話せば、兄はどんな反応をするか。美花が口籠もると、速人は美花の頭を押さえてきた。 「俺に隠し事する気か? ん?」 「だってぇ……」 美花がまた泣きそうになると、速人は妹の乱れた髪を撫で付けた。 「そこまで言いたくないってんなら、無理に聞き出さねぇけどさ」 「うん。ごめんなさい」 美花が身を縮めると、速人は上体を反らして壁により掛かった。 「別に謝れとまでは言ってねぇんだが、まあいいか。けど、何も言わずに泣かれると俺の方も困るんだよ」 「お兄ちゃんには迷惑掛けないよ。私のことだから」 「いいや、大いに掛かるな。お前が泣きに泣いて部屋に引き籠もられると、夕飯の支度が出来ないんだよ」 「いいよ。お兄ちゃんが先に食べてて。私は後で適当に済ませるから」 「そうは行くか。今夜はラザニアなんだぞ」 「温め直してもおいしいよ。お兄ちゃんが作ったんだもん」 「お前が良くても、俺が納得出来ないんだよ。一度冷めたやつを温め直すと、風味も触感も変わっちまう」 「そこまで拘らなくても」 「俺は妥協しない主義だ」 速人は美花に顔を寄せると、ぴんと額を弾いた。 「痛っ」 美花が額を押さえると、速人は身を引いた。 「悩むのは大いに結構だが、飯時にはきちんと出てこいよ。でないと、いつまでも片付かないからな」 「ラザニアの他って何?」 「豆乳のクリームスープとアスパラとパプリカのソテーだ。デザートはグレープフルーツのゼリーだ」 「うわ、コース料理じゃない。また気合い入ってるぅ」 「ヒーローやってない分、エネルギーが余って仕方ねぇんだよ。だから、丁重に平らげろ」 「うん、解った」 「気が済むまで泣いたら、後で顔洗って髪も直しておけよ。ひっでぇ顔してるから」 「え、そう?」 美花が顔に手を当てると、速人はベッドから立ち上がった。 「戦いが辛くなったら、俺に言えよ。あんな弱小企業なんざ、五秒で潰してやる」 「それは大丈夫だよ。だから、あんまり心配しないで」 美花が兄の背を見上げると、速人は足早に部屋を出ていった。 「馬鹿、言ってみただけだ。お前の戦いなんだから、お前の手で全部片付けろよ」 「うん」 美花は頷くと、部屋のドアは穏やかに閉ざされた。兄の心遣いは嬉しいが、それでも気分は晴れてこなかった。 今日の夕食はどれもこれもおいしそうだし、グレープフルーツのゼリーは兄の手料理の中でも特においしかった。 それを食べられるとなると、気分も持ち直しそうなものだが、美花の心に刺さった棘は思いの外鋭いものだった。 兄の前では保てていた表情も崩れてしまい、美花は再び枕に突っ伏すと、喉から迫り上がる嗚咽を吐き出した。 兄に聞こえないように唇を締めるが、代わりに歯が打ち鳴らされてしまい、美花は力一杯瞼を閉じて腕を握った。 大神が好きだ。まともに接するようになったのは最近だが、以前にも増して心を占める領域が増大している。 思い浮かぶのは大神のことばかりで、考えるのも大神のことばかりで、振り払える時間はほんの僅かしかない。 次はどうやって彼を誘おうか、どこに行けば楽しんでくれるだろうか、どんな話題を話せば会話が弾むだろうか。 まだまだ知らないことが多いから、これから少しずつ大神を知っていくことが楽しみで胸がはち切れそうだった。 そして、いつかは好きだと言おうと決めていた。どんなに時間が掛かるか解らないが、必ず言おうと決めていた。 自分でも嫌になるほど気が弱い美花に一握りの勇気を与えてくれた恋に報いるためにも、必要なことだからだ。 けれど、大神の彼女がいるのなら言えるわけがない。大神とメイコの関係に変なちょっかいを出してはならない。 美花は強烈な敗北感に襲われてベッドに沈むと、スプリングが沈みすぎたのか壁際に並ぶぬいぐるみが倒れた。 それも、一つや二つではなかった。美花の陰気に引かれるかのように倒れたぬいぐるみは、美花を覆い尽くした。 柔らかくて暑苦しい物体とベッドの間に挟まった美花は、泣くのに疲れてきたがどうにも涙が収まらなかった。 いい加減に泣き止みたい、とは思うが、意志に反してぼろぼろと涙が出続けてしまい、シーツをひどく濡らした。 それだけならまだ良かったが、泣き疲れた挙げ句に寝入ってしまい、夕飯が出来たと呼ぶ兄の声を聞き逃した。 美花が起きた頃には兄の力作であるラザニアやソテーやスープがすっかり冷めていて、速人は心底拗ねていた。 速人は一度拗ねるとなかなか機嫌が戻らないので、美花は自分の悩みをそっちのけで速人の御機嫌を取った。 険悪な空気が晴れたのは、翌日の夜のことだった。 この世が終わった。 大神、もとい、暗黒総統ヴェアヴォルフは心が砕けすぎて粉と化していた。それというのも美花から返事が ないからだ。芽依子から衝撃的な告白を受けてから三日が過ぎ、週の恒例と化した決闘の日である土曜日になった。 芽依子と別れてから、ヴェアヴォルフはすぐに美花にメールを送ったのだが、美花が返事を返してくれなかった。 届いていないのかと思い何通か送っても結果は同じで、思い切って電話を掛けてみたがそれもまた同じだった。 これは本気で嫌われた。三日目にしてようやく現実を思い知ったヴェアヴォルフは、戦意なんて起きなかった。 だが、日程を決めているのだから決闘に向かわなければならないので、怪人を引き連れて駅前広場に向かった。 今回の怪人は、ムカデ怪人のムカデッドである。黒光りする外骨格と無数の足、長い触角が不気味な怪人だ。 外見もさることながら性格も妙な男で、他人に気持ち悪がられることを何よりの快楽だと言う筋金入りの怪人だ。 けれど、職業は至って普通な運送業である。性格の割に接客態度は良いらしく、派遣先の評判も良かった。そして、 補佐として同行するのはアラーニャだ。何のことはない、経理の仕事が終わって足が空いたためである。 怪人二人を引き連れて駅前広場に到着したヴェアヴォルフは、ベンチに座っているミラキュルンを見つけた。 ヴェアヴォルフが近付くと、ミラキュルンは顔を上げたが、マスクの上からでも解るほど陰鬱な空気を纏っていた。 「貴様、どうしたんだ?」 ピンクでハートのヒーローにヴェアヴォルフが声を掛けると、彼女は首を横に振った。 「ごめんなさい。せっかく来て頂いたのに、戦えません」 「あらぁん、それは困っちゃうわぁ。だってぇ、これが私達の仕事なんだものぉ」 アラーニャがミラキュルンに近寄ると、ミラキュルンは膝の上で両手を握り締めた。 「こんな気持ちじゃ、戦う前から負けていますから」 「え? それじゃ何すか、不戦勝ってことっすか?」 ムカデッドが不満を表したので、ヴェアヴォルフは彼に向いた。 「いや、待て。まだ解らんぞ」 「それじゃ納得いかないっすよ! 俺、女の子に殴られるのが超楽しみで仕方なかったんすから!」 触角を上げて反論してきたムカデッドに、ヴェアヴォルフはげんなりした。 「お前って奴は……」 「総統から命令された時から楽しみすぎて、天井裏から落ちてきたい気分だったんすから! せめて一発ぐらいは 殴ってもらわなきゃ、俺の気が済まないっつーか! リアルに変態行為に走りかねないっつーか!」 「案ずるな、お前は現時点で充分変態だ」 ヴェアヴォルフは冷ややかに切り返すが、ムカデッドはミラキュルンに迫った。 「ほれほれ、俺って超キモいだろ! きゃーって言って、もしくはいやーって! でなきゃ殴って殴って!」 「あの、私、虫って結構平気なんです。だから、怖くも気持ち悪くもないんです。ごめんなさい」 声のトーンは落ちているものの普通に受け答えたミラキュルンに、ムカデッドは触角をひくりと曲げた。 「なんで?」 「友達に人型昆虫だからかもしれません」 「でも、とりあえず殴るだけ殴ってよ。俺、怪人なんだしさ」 「ですけど、今、殴ったら、ストレスが溜まりすぎているんでえげつないことになるんじゃないかと……」 「いいっていいって! 俺、怪人だから! 痛め付けられるのが仕事だし! そのために就職したんだし!」 「えっと、それじゃあ……」 ミラキュルンはゆらりと立ち上がると、マスクを上げてムカデッドを見据えた。次の瞬間、鋭く拳が突き出され、 ムカデッドの黒光りする外骨格に白い手袋の拳が埋まり、思いがけない衝撃にムカデッドは体を折り曲げた。 ミラキュルンはすかさず飛び出してムカデッドの顔に膝を入れると、そのまま彼の頭を掴んで背負い投げた。 鈍い衝撃と共にレンガ状の舗装に倒れ込んだムカデッドを、ミラキュルンは力強く踏みつけてヒールでにじった。 「ふう」 ちょっとスッキリした、とミラキュルンがヒールを外すと、ムカデッドは変な声を出して呻いた。 「ふへへへ」 「これはまあ放っておいて、一体何があったんだ、ミラキュルン?」 ヴェアヴォルフが尋ねると、ミラキュルンは一度は顔を上げたがすぐに背けた。 「悪の秘密結社に話すことなんてありません」 「でもぉ、ミラキュルンちゃんは私達の大事な宿敵よぉ。心配だわぁ」 アラーニャが細長い足でミラキュルンの肩を抱くと、ミラキュルンは俯いた。 「いいんです、自分の問題ですから」 「誰かに話すと楽になるかもしれないぞ。案ずるな、俺達は口外しない。悪にも悪の信条があるからな」 出来れば俺の悩みも誰かに聞いてほしいが、とヴェアヴォルフは内心で付け加えたが、顔には出さなかった。 ミラキュルンはアラーニャに促されてベンチに腰掛け、アラーニャは右隣に座り、ヴェアヴォルフは左隣に座った。 女の子に殴られた快感に身悶えているムカデッドは放置されたままだったが、傷も浅いようなので平気だろう。 「えっと、その……」 ミラキュルンはバトルスーツのミニスカートを握り、ぶるぶると震えた。 「わ、私、えっと、あの、その、うんと、ああと、えぇ、そそその、す、き、気になってる人がいるんです」 言葉はひどく乱れていて上擦っていたが、ミラキュルンの声色は真剣だった。 「え、えぇっと、そ、その人は私よりもずっと年上で、お、大人の人なんですけど、わた、わ、私が一方的に 好きになっちゃったっていうかで、こ、声を掛けたんです。ででも、その人は凄くいい人で、私と仲良くしてくれたんです。 いぃっ、一度だけですけど、一緒に遊びに行ったこともあるし、でで、電話は緊張しすぎちゃうからしたことないけど、 めっ、メールは交換してくれるようになったんです」 「それはいいことじゃないのぉ。ねえ、若旦那ぁ?」 アラーニャがヴェアヴォルフに声を掛けると、ミラキュルンはびくんと仰け反った。 「え、あぁ、あうっ!?」 「いえ、そのなんでもないですっ!」 ミラキュルンはいきなり涙声になったが、彼女なりに意地があるらしく、話を続けた。 「そ、そそれで、この間、駅前でその人に会ったんですけど、お、お、女の人と一緒だったんです…」 「あらぁん、それはひどいわぁ」 アラーニャは細長い足先を上げ、ミラキュルンを慰めるように撫でてやった。 「そんなにひどい話なのか?」 共感出来るポイントがなかったヴェアヴォルフが首をかしげると、アラーニャは足先でヴェアヴォルフを指した。 「ひどいに決まってるじゃないのぉ。こんなにか弱い女の子が勇気を出して声を掛けてぇ、メールをやりとりするまでに こぎ着けたのにぃ、当の男は他に女がいたのよぉ。ミラキュルンちゃんを袖にしなかったのはぁ、キープしておきたかった からってところでしょうねぇ。いやぁねぇ、気があるように見せかけておいて弄ぶなんてぇ」 「そう言われると、そんな気がしてくるな」 アラーニャの解釈が正しければ、ひどい男もいたものだ。ヴェアヴォルフは、ついミラキュルンに同情した。 「だったら、そんな奴とはもう付き合うな。その方が君のためだ」 「で、でも……」 ミラキュルンが肩を縮めると、アラーニャはよしよしと優しく撫でた。 「女心は複雑なのよねぇ。嫌な奴だって解ってもぉ、すぐには嫌いになれないわよねぇ」 「は、はひ」 ミラキュルンは小さく頷き、目元を拭うようにハート型のゴーグルを擦った。 「だけど、やっぱり、本当のことを知るのが怖いから、その人からのメールも電話も無視っちゃって……」 「だったらぁ、もうちょっと焦らしておくべきかもしれないわねぇ。本心を炙り出すためにもぉ」 うふふふふふぅ、と含み笑うアラーニャに、ミラキュルンは呟いた。 「そう、かもしれませんね」 それから、ミラキュルンは気分が落ち着くまでぽつりぽつりと心中を零し、アラーニャは丁寧に聞き入った。 元ホステスだけあって聞き上手なのか、ミラキュルンが言い淀むようなことも柔らかく引き出して聞いてくれた。 そのおかげか、時間が経つに連れてミラキュルンの声色も少し明るくなり、別れ際には大分落ち着いていた。 夕暮れの町並みを飛んでいくミラキュルンを見送ってから、ヴェアヴォルフはムカデッドを背負って本社に戻った。 アラーニャは買い出しがあるといって途中で別れたので、ヴェアヴォルフは本社への道を辿りながら考え込んだ。 あの出来事から、まだ日が浅い。ヴェアヴォルフが思い悩んでいるように、美花もまた悩んでいるのだろうか。 だとしたら、やたらにメールを送ったり電話するのは逆効果だ。ともすれば、言い訳がましく思えてしまうだろう。 だが、今まで送ったメールは取り消せない。ヴェアヴォルフは深い後悔に沈みながら、薄暗い道を歩いていった。 好きだと言いたい。だが、言えない。 09 7/9 |