純情戦士ミラキュルン




第七話 驚異のスピード! 音速戦士マッハマン!



 手狭な空間を、芽依子の歌声が揺さぶっていた。
 全く期待していなかったが、予想外に上手かった。声の伸びも良く、音の幅も大きく、腹から声を出している。 メイド服姿であることが気にならないほどの歌唱力を披露しながらも、芽依子はほとんど表情を動かさなかった。 壁際に設置されたソファーに座った速人は、ドリンクバーから持ってきた苦いだけのアイスコーヒーを飲んでいた。 芽依子は最後まで歌いきるとマイクを下ろして一礼し、スカートの裾を押さえながら向かい側のソファーに座った。

「では、次は野々宮先輩がお歌い下さいませ。割り勘なのでございますから」

「その前に、本題を消化しようじゃないか」

 速人はアイスコーヒーのグラスを置き、分厚い歌本をテーブルの隅に押しやった。

「そういえばそうでございますね」

 芽依子はマイクのスイッチを切ってから、テーブルに横たえた。

「それでは、事前情報として若旦那様の人となりをお教えいたしましょう」

 グレープフルーツジュースで喉を潤してから、芽依子は速人を見据えた。

「若旦那様は今年で二十三歳になられる御方でございます。昨年度にはそこそこの大学をそこそこの 御成績で卒業された後、家業をお継ぎになられました。在学中から勤めておられた店員の御仕事と平行して お勤めしておりますので、御忙しい身の上でございます故、御実家である御屋敷になかなか帰られないので ございます。現在は御屋敷からお出になり、この町内にございますアパートで独り暮らしをなさっております」

「俺より少し上か」

「そうでございます。若旦那様は社会人ではございますが、まだまだ日の浅い御身、現役の大学生で あらせられる野々宮先輩は若旦那様と近しい感覚ではないかと思った次第でございます」

「まあ……遠くはないだろうな」

 だが、家業が気になる。同業者じゃなきゃいいけど、と懸念しながら速人は続けた。

「それで、その家業ってのは? 内藤が働いている御屋敷はそれで生計を立てているのか?」

「いいえ。家業は家業でございますが、先々代の当主であらせられた大旦那様の代からの道楽会社に ございます。実質的に利益を上げているのは、大旦那様が戦中戦後のゴタゴタに乗じて掻き集めた土地に ございます。ちなみに、このカラオケボックスが入っているビルの土地も御屋敷の所有物にございます」

「言い方は悪いけど、土地成金ってやつか?」

「具体的に申し上げればそうでございます」

「だったら、なんで若旦那さんは道楽会社を継いだんだ?」

「長男の宿命にございます」

「それで、その家業の中身はなんなんだ?」

「この御時世では従業員の扱いが非常に良い部類に入るであろう人材派遣会社でございます」

「てことは、内藤もそうなのか?」

「そうでございます。私めは若旦那様が代表取締役を勤められている人材派遣会社の契約社員であり、 御屋敷ではなく会社の方から御給金を頂いているのでございます」

「ああ、なるほど」

 速人はアイスコーヒーにガムシロップを注ぎ、ストローで混ぜた。

「それじゃ、内藤にも休みはあるんだな」

「当然でございます。朝早く夜遅い仕事ではございますが、御屋敷に住まわせて頂いているので通勤時間は ゼロ、生活費は御屋敷で賄って頂いておりますし、福利厚生は手厚く掛けられておりますし、週休一日では ございますが一日休みもございます。盆暮れ正月には長期休暇も頂いておりますし、契約社員の分際でボーナスも ございます。これで文句を言おうものなら世の労働者に袋叩きにされるであろう環境でございます」

「そりゃ凄い」

 速人が素直に感心すると、芽依子はグレープフルーツジュースをストローで一気に啜り、飲み干した。

「社員の身を第一に。それが大旦那様のモットーでございます故」

「んで、若旦那さんの経営は上手いのか? 下手なのか?」

「正直に申し上げますと、それほど上手いわけではございません。先代の代表取締役であらせられた旦那様から、 私を含めた社員をそっくり引き継いだため、業務形態もほぼそのままでございます。それ故、長年会社経営を支えて おられた正社員もそのまま引き継がれておりまして、実質正社員の方々が経営を回しているのでございます」

「社長一年目なら仕方ないかもしれないな」

「ですが、そのままではよろしゅうございません。いずれ、経営が立ち行かなくなるかもしれないのでございます」

「その正社員さん達が辞めたりしたら事だもんな」

「事でございます」

「でも、その会社を放り出さなかったってことは、若旦那さんは責任感が強いんだろうな」

「押しに弱いのかもしれないのでございます」

「かもな」

 本人がいないことをいいことに、速人は少し笑った。だが、同じ立場だったら速人も引き受けてしまうだろう。 親に押し付けられた仕事を蹴って自分のやりたいように生きたとしても、家業の会社の社員達には暮らしがある。 御飾りに近い社長とはいえ、自分のつまらないプライドを守るために社長業を放り投げれば支障が出るかもしれない。 そうなれば、社員達が路頭に迷う。不況続きの世の中なのだ、新たな仕事先を見つけるだけでも一苦労だろう。 それを思えば、多少嫌でも社長の椅子に収まるしかない。たとえ道楽会社であろうと、社員達には食い扶持なのだから。

「それで、若旦那さんはどういう性格なんだ?」

 甘くなったアイスコーヒーを飲んでから速人が問うと、芽依子は淡々と答えた。

「誠実で真面目な御方でございますが、それ故に身持ちが堅く、今時珍しいほどの純情な方でございます」

「純情?」

「純情にございます。彼女いない歴と年齢がイコールであらせられ、当然ながらチェリーボーイにございます」

「生々しいことを言うなよ。ついでにさらっと俺に公表するなよ」

「事実にございます」

「でも、だからってなぁ」

 速人は他人事ながら恥ずかしくなり、誤魔化すためにアイスコーヒーを啜り上げた。

「だったら、正攻法が一番じゃないか? 回りくどいことをしないで、普通に距離を縮めたらいいんじゃないのか?」

「と、仰いますと」

「電話で話すとか、顔を合わせて話すとか、一緒に出掛けるとか、そういうことだよ」

「私めは使用人にございますので、差し出がましいことを出来る身分ではございません」

「でも、休みの日があるじゃないか」

「私めのお休みと若旦那様のお休みはなかなか合わないのでございます」

「それじゃ仕方ないか」

「仕方のうございます」

「だったら、なんだろうなぁ……」

 考えあぐね、速人は腕を組んだ。相談されたはいいが、速人もその手に事には疎いので答えようがない。 速人自身も女性経験がないので、何をどうやれば異性に近付けて恋愛関係に進めるのかが全く解らなかった。 若旦那の立場に立って考えてみれば、気が引けるだろう。芽依子は使用人なのだから、家族の一員も同然だ。 男女関係になってしまえば、家人と使用人という垣根は取っ払われるかもしれないがそこに至るまでが問題だ。 何はともあれ、互いが意識しなければ始まらないのでは。芽依子はともかく、若旦那にはその意識はなさそうだ。

「うん、そうだな」

 考えをまとめるために独り言を漏らしてから、速人は腕を解いた。

「とりあえず、若旦那さんに意識してもらえるようにしなきゃな」

「意識と仰いますと」

「つまり、内藤がその気でもあっちがその気じゃないのなら、始まるものも始まらないじゃないか」

「道理でございます」

「だから……。ああ、でも、どうやって攻めればいいんだ?」

 差し当たって良策が思い付かなかった速人が口籠もると、芽依子は僅かに目を見開いた。

「攻めるのでございますね」

「攻める、っていうか、そもそも特定の相手を意識する瞬間ってのは人それぞれだからなぁ」

「野々宮先輩にはそういった御経験がお有りなのでございましょうか」

「あるって言えれば良かったんだろうけど、俺はそんなに女子に興味はなかったから」

「それでは、何に御興味がお有りなのでございますか。同性でございますか、或いは二次元にございますか」

「そんなわけないだろ」

 速人が顔をしかめると、芽依子はやはり表情を変えずに平謝りした。

「言葉が過ぎました。申し訳ございません」

「冗談にしたって、今のはちょっときつかったぞ」

 速人はアイスコーヒーを飲もうとしたが、空になっていたので氷を噛み砕いた。

「男女交際経験がないのは私めも同じでございますが、若旦那様からの御寵愛を受ける心構えは当の昔に 出来ております。ですが、経験がないままでは作法を誤る可能性が大いにございます。度々差し出がましい申し出 ですが、野々宮先輩の御身で練習させて頂きたく思います」

「……何を?」

 三度速人が聞き返すと、芽依子は氷しか残っていないグラスを押しやった。

「野々宮先輩の許せる範囲で結構でございます」

「いや、だから何を?」

「御想像なされている通りにございます」

「お、俺は別に何も!」

 速人は動揺を隠せず、腰を浮かせた。あんなことを言われれば、男なら誰でも考えてしまう。下世話な想像が 瞬時に頭を駆け巡り、何から何までなんだよ、と速人の脳内に期待と畏怖の半々が渦巻いた。

「御安心下さいませ。ここは密室ではございますが至って普通の娯楽施設、野々宮先輩の御剣を頂くのは 公序良俗に反する行為でございます。ですので、その範囲内でございます」

 真顔でとんでもないことを言い放つ芽依子に、速人は身を下げようとしたが、出入り口は芽依子側にある。 マッハマンに変身しない状態でも使える加速能力を用いれば逃げられるが、それでは芽依子に勘繰られてしまう。 逃げるに逃げられなくなった速人に、芽依子は二人を隔てるテーブルを押しのけてから速人の前でかしずいた。

「け、けどさ、内藤、だからって俺を相手にすることないじゃないか。だって、俺と内藤はほんの数十分前に 再会したばかりだぞ? でもって、俺と内藤は同じ部活だったってだけで大して喋ったこともなかったじゃないか!」

 速人は芽依子を諫めようとするが、芽依子は躊躇いもなく速人を見上げた。

「野々宮先輩。御許しを頂きとうございます」

「許せるかあっ!」

 渾身の力で否定するが、芽依子は先程と同じ抑揚で繰り返した。

「御許しを頂きとうございます」

「う……」

 変身さえ出来れば。と、速人が葛藤していると、芽依子は立ち上がった。

「頂けなければ、頂くだけでございます」

「な」

 何を、と聞き返す余裕すらなかった。芽依子はかかとを上げて速人に顔を近寄せると、両手で挟んできた。 メイドらしく水仕事をしているからか、冷ややかな手の肌触りは硬く、速人の頭を慎重な手付きで抱えてきた。 これで相手が怪人や普通の男だったら腹でも殴って逃げたのだろうが、相手は芽依子では出来るわけがない。 その上、やけに胸が痛くて息苦しかった。慣れないことに緊張しているからか、拳を固めても力が入らなかった。 依子のエプロンと速人の服が擦れる衣擦れの音が、モニターから流れるアーティストのPVに掻き消された。 芽依子の閉ざした唇が速人の唇に接し、芽依子は僅かに顔を傾けて深めたが舌までは入れてこなかった。

「ごちそうさまでした」

 素早く身を下げた芽依子は膝を曲げて礼をすると、買い物バッグから財布を出して代金を置いた。

「それでは、御屋敷の夕食の御時間が近いので失礼いたします。私めの相談に乗って頂き、誠にありがとう ございました、野々宮先輩。貴重な御意見は、今後の参考にさせて頂きます」

 硬直している速人を残して芽依子はカラオケボックスを去ったが、速人は詰めてしまった息が戻ってこなかった。 ずるずるとへたり込んで床に座った速人は、今し方起きたことを思い起こしたが現実味がなさすぎて目眩がした。
 三年半振りに再会した後輩。しかもメイド。恋愛相談をされていたと思ったら、いつのまにか迫られて、そして。 速人は唇を押さえたが、芽依子の感触は消えなかった。柔らかく、冷たく、グレープフルーツジュースの味がした。 実際には舌を入れるほどのものではなかったので、味覚が認識しているわけではないのだが、そう感じてしまう。 朝は美花の挙動についてあれほど悩んでいたのに、速人の脳内は妹の入り込む余地がすっかりなくなっていた。 ノート類を詰めた平たいショルダーバッグを肩に掛けた速人は、呆気に取られたままカラオケボックスを後にした。
 密室なんかに来るんじゃなかった。





 


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