純情戦士ミラキュルン




第九話 目覚めた力! 必殺・ミラキュアライズ!



 天童七瀬はごく普通の女子高生である。
 サラリーマンの父親と主婦の母親の間に生まれ、昭和後期に建てられた古めかしい公団住宅で育った。 家が狭い割に兄弟は多く、下に弟が二匹と妹が一匹いる。上から順番に、中二、小五、小三と歳は離れ気味だ。 生活費を補うために母親が勤めに出ているので、必然的に育ち盛りの兄弟達の世話は七瀬に任されてしまった。 おかげで思うように部活が出来なかったり、ケンカの仲裁にうんざりして家出したくなる瞬間もないわけではない。 だが、弟や妹が嫌いだというわけではない。三匹とも、羽化前の状態なのに元気が良すぎるせいで面倒なのだ。 中学に上がる頃には脱皮して成虫となり落ち着くはずなので、それまでの辛抱だと思いながら日々過ごしている。
 いい加減にしてくれよ、と胸中で零しながら、七瀬はブラウスの下から羽を出して夕暮れの空を飛んでいた。 初夏の生温い夜風が触角を揺らし、スカートが翻る。苛立ち紛れに顎を噛み合わせながら、公団住宅を目指した。
 今日も今日とて、美花の恋愛に付き合わされてしまった。しかも、大神鋭太までが巻き込まれ始めている。 美花の思い人である大神剣司の弟、大神鋭太を美花と引き合わせた時は、こんなことになるとは思わなかった。 七瀬としては、面白くなりそうだと思っただけだった。それだけなのに、鋭太は美花に淡い恋心を抱くようになった。 鋭太本人は隠しているつもりらしいのだが、傍目から見れば隠せていないどころかあからさますぎて鬱陶しい。 それだけでも充分面倒臭い状況なのに、大神は美花と鋭太が付き合っていると思い込んでしまったようだった。 更に、大神の傍には美人で有能なメイド、内藤芽依子がいる。彼女疑惑が濃厚だが七瀬はシロだと思っている。 大神の彼女としての態度が大袈裟すぎて胡散臭く、何か裏があるのではないか、と勘繰ってしまうほどだった。 芽依子が大神の彼女ではない根拠はない上に、その考えを美花に伝えたらややこしくなりそうなので黙っている。
 どこかで勘違いの連鎖を切らなければ、ドミノ倒しのようにどこまでもどこまでも勘違いが繋がってしまいそうだ。 なんとかしなければ、掛け替えのない友人として敬愛している美花に対して殺意に似た苛立ちが芽生えそうだ。
 高度を下げた七瀬は自宅のある公団住宅を目指して降下し、四階の階段の踊り場に入ってから羽を閉じた。 横着だが、階段を足で上るよりも楽だ。七瀬は階段を上って五階の廊下を歩き、通学カバンから鍵を取り出した。 自宅の鉄製の古びたドアに鍵を差し込み、引いて開けると、兄妹の靴が転がる三和土に見慣れぬ靴があった。

「あれ?」

 お客さんかな、と思いながら、七瀬は下両足から靴を外して上がった。

「ただいまー」

「お帰り、七ちゃん。夕ご飯、もう少しで出来るからね」

 暖簾を上げてキッチンから顔を出したのは、母親、紅子だった。

「お母さん、お客さんが来てんの?」

 子供部屋に向かいながら七瀬がリビングを覗くと、親戚の人型昆虫がソファーに座っていた。

「あらぁん、お帰りなさぁい、七瀬ちゃあん」

 上半身から生えた細長い足を折り曲げ、人型クモの女性、荒井久仁恵が挨拶してきた。

「こんばんはー」

 七瀬が頭を下げると、久仁恵は牙の生えた口元に足先を添えた。

「ごめんなさいねぇ、御夕飯時に御邪魔しちゃってぇ。姪っ子の結婚式の写真が出来たからぁ、持ってきたのよぉ」

「八重子さんのですか?」

「そうそう、綺麗に撮れてるのよぉん」

 久仁恵はリビングテーブルの上に並べていた薄いアルバムを取り、七瀬に差し出した。

「七瀬ちゃんもいつかは結婚するんだからぁ、ちゃあんと見ておいた方がいいわよぉ」

「いやあ、そんな」

 七瀬は久仁恵の言葉に少し困りながらアルバムを受け取って開くと、人型クモの女性の写真が貼られていた。 久仁恵の姪の八重子はジョロウグモ系統の人型クモなので、黄色と黒の派手な外骨格に白無垢を着ていた。 その傍らに立つ新郎は人間で、紋付き袴を着ていた。結婚式に出席した両親の話では、良い式だったそうだ。 八重子と新郎は恋愛結婚なのだそうで、両家の両親からも穏やかに祝福されていて終始和やかな空気だった。 写真に収まる二人は幸せそうで、七瀬も自然に顎が緩んでしまった。アルバムを閉じてから、久仁恵に返した。

「綺麗に撮れてますね」

「そうなのよぉ。新婚生活も順調みたいだし、私もなんだか嬉しいわぁ」

 アルバムをテーブルに置いた久仁恵が微笑むと、キッチンから母親の紅子が呼んだ。

「久仁恵さん、七ちゃん、御夕飯が出来ましたよ」

「あらぁ、悪いわねぇ」

 久仁恵が一礼すると、紅子は触角を片方曲げた。

「いえいえ。うちの人、今夜は飲み会で遅くなるって言っていましたから、その分が余っていたところなんです」

「それじゃ、御言葉に甘えてご馳走になろうかしらぁ」

 ソファーから腰を上げた久仁恵に、七瀬は複眼を向けた。

「あの」

「はぁい、なぁに?」

「久仁恵叔母さん、後でちょっと相談したいことがあるんですけど」

「あらぁん、私なんかでいいのぉ?」

「はい」

「それじゃ、御夕飯の後でねぇん」

 久仁恵は足先を振り、キッチンに向かった。足が多く生えた背を見送ってから、七瀬は子供部屋に入った。 公団住宅の狭い部屋に無理矢理押し込めた三段ベッドと机の間を通り抜けた七瀬は、自分の机に荷物を置いた。 制服を脱ぎ、普段着にしている中学生時代のジャージに着替えると、頭を振って触角を伸ばした。キッチンからは、 兄妹達と戯れる久仁恵の優しげな話し声が聞こえてきた。
 父方の親戚である荒井久仁恵はジョロウグモの人型昆虫だが、生まれつき毒液と糸の威力が恐ろしく強い。 それ故、彼女は人外ではなく怪人として暮らしているが、若い頃は怪人であるために色々と苦労があったそうだ。 人外と怪人は似て非なるものである、という風潮が人外達の間にあり、特殊能力を持つ怪人は敬遠されがちだ。 そのため、久仁恵も地元では周囲の人間から微妙に距離を置かれ、出ていかざるを得なくなってしまったそうだ。 けれど、上京したらしたで金銭面での苦労が絶えず、昼間の仕事では稼ぎが足りないので水商売へと転職した。 元々話し好きで世話焼きな性格の久仁恵には適した仕事だったようで、常連客も何人も付き、独立出来たそうだ。 だが、自分の店を持って数年後、常連客の一人から借金の連帯保証人になってくれないかと持ち掛けられ、 しばらくしてその常連客とは連絡が付かなくなり、借金は全て久仁恵に押し付けられて店までも担保に取られた。 久仁恵は泣く泣く店を手放したが、ホステス時代からの常連客が経営している会社に就職させてもらえたそうだ。 なので、今の久仁恵は穏やかに暮らしている。生活が落ち着いた頃から、親戚付き合いもするようになっていた。
 七瀬は久仁恵を好ましく思っている。物腰が柔らかく、接客業を生業にしていただけあって話を聞くのが上手い。 従兄弟である七瀬の父親とも仲が良いし、母親とも頻繁に電話で話しているし、兄妹達も久仁恵に懐いている。 七瀬は久仁恵との付き合いはそれほど長くないが、久仁恵であれば両親にも言えない相談を持ち掛けられる。 実際、中学生時代にも随分と久仁恵の世話になった。どんな悩みも、誰かに聞いてもらえるだけで違うからだ。
 だから、久仁恵に美花のことを話そう。このまま悩んでいては、七瀬までもが変なことになりかねない。事の行方を 見極めるためにも、情報と状況の整理が必要だ。夕食の匂いに、七瀬は思考を中断してキッチンに向かった。
 今日の夕食は、バッタの素揚げだった。




 夕食後、久仁恵は天童家を後にした。
 七瀬は久仁恵を駅まで送るという口実の元、久仁恵と共に連れ立ってすっかり暗くなった歩道を歩いていた。 公団住宅の脇を抜ける道路には、時折車が駆け抜けていく。そのたびに、二人の足の多い影が伸びていった。 等間隔で設置されている街灯の下には細々とした虫が集まり、街灯に当たってはかつんかつんと鳴っていた。 駅に向かう途中にある公園に入った七瀬は、夜気を吸って冷えたブランコに座ると、久仁恵もその隣に座った。
 きち、と七瀬の体重を受けたブランコの鎖が軋むが、右隣に座っている久仁恵のブランコの鎖は軋まなかった。 恐ろしく体重移動が滑らかなのだろう。羽を持たない代わりに音と気配を消す術に長けたクモらしい動作だった。

「それでぇ、七瀬ちゃあん。お話ってぇ、何かしらぁん?」

 久仁恵に切り出され、七瀬はブランコの鎖に上両足を絡めた。

「高校の友達のことなんですけど」

「あらぁん、そうなのぉ」

「人間の女子なんですけど、端から見てて危なっかしいぐらい臆病で気弱な子なんです」

「七瀬ちゃんはぁ、その子のことを放っておけないのねぇ。七瀬ちゃんらしいわぁ」

「まあ、それだけじゃないんですけどね」

 七瀬は少し恥じらってから、続けた。

「その子、ずっと前から気になっていた人がいて、最近になってようやく声を掛けて仲良くなることが出来たんです。 だから、これからも応援してやろうって思って見守っていたんですけど、変なことになってきたんです」

「変なことってぇ?」

「その子の好きな人の傍に女の人が現れたんです」

「あらぁん、それは大変ねぇ」

「でもって、うちのクラスにいる、その人の馬鹿な弟が友達を好きになったみたいなんです」

「あらぁん、三角関係ねぇ」

「でも、それだけじゃなくて、その人は馬鹿な弟と友達が付き合っているって勘違いしたんですよ」

「あらぁまぁ、それはとっても面倒ねぇ」

「ですよねー!」

 同意を得られただけで嬉しくなり、七瀬は大きく頷いた。

「このまま放っておくと、もっととんでもない方向になっちゃいそうなんですよ。端から見ていると面白いんですけど、 当事者達にとっては真剣なことだから、友達としては手を出さずにいるのは悪いかなぁって思うんです。でも、具体的に 何をどうすれば事態を打開出来るのか解らなくて」

「だからぁ、私に相談したってわけねぇ?」

「はい。そうなんです」

 七瀬が返すと、久仁恵はしなやかな仕草で頬に当たる位置を押さえた。

「そうねぇん。七瀬ちゃんのお友達とぉ、その子が好きな人ってぇ、両思いなのかしらぁん?」

「だと思います。本人達は気付いていないみたいですけど、どう見たって両思いです」

「それじゃ、弟さんは横恋慕してるってことかしらぁん」

「そうなりますね」

「でもぉ、そうなるとぉ、お友達の好きな人の傍にいる女の人が厄介ねぇ」

「そうなんですよ。その女の人が現れなきゃ、もうちょっとすんなり事が運んでいたはずなんですけど」

「それでぇ、その女の人とお友達が好きな人ってぇ、どういう関係なのかしらぁ?」

「え、っと、上司と部下ですね」

 まさか、若旦那とメイドとは言えまい。七瀬が説明すると、久仁恵は首を捻った。

「それはますます厄介よねぇ。でもぉ、何も出来ないってことはないわぁ」

「本当ですか?」

 七瀬が若干身を乗り出すと、久仁恵は頷いた。

「ええ。七瀬ちゃんのお友達がぁ、強くアプローチすればいいのよぉ。そうすればぁ、その子が好きな人だって 気持ちに気付いてくれるはずだしぃ、弟さんと付き合っているだなんて勘違いも晴れるはずよぉ。女の人が身を引くか どうかは解らないけどねぇん」

「アプローチ……」

 それが出来たら美花ではない。七瀬は無理難題に激突した気分になったが、気を取り直した。

「参考になりました、ありがとうございます」

「そお? だったら良かったぁん」

「じゃ、私の仕事は、友達に発破を掛けることですね」

「そうねぇん。でもぉ、やりすぎないようにしてねぇん。恋愛ってぇ、いつの時代もデリケートだからぁ」

「解ってますって」

 活路を見いだせたことで、七瀬は少しばかり気分が晴れた。久仁恵のおかげで、やっとなんとかなりそうだ。 考えてみれば、事の中心にいるのは美花だ。美花の態度が曖昧だから、鋭太を付け上がらせてしまっている。 それをどうにかすれば、大神と美花の恋も好転するだろう。いや、好転してもらわなければ困る。面倒臭いからだ。

「そういえば」

 七瀬はブランコを軽く揺すりながら、顎を広げてにやけた。

「久仁恵叔母さんって、結婚しないんですか?」

「あらぁん、なんてことを聞くのぉ」

 久仁恵は上二本の足で顔を押さえ、気恥ずかしげに身をよじった。

「私はぁ、もうそんな歳じゃないわよぉ。いやぁねぇ、七瀬ちゃんったらぁ」

「えぇー、そんなことないですよー。まだまだ充分イケますって」

「そりゃあねぇ、ちょっとはいいかなぁって思う人はいるけどぉ、そこまでは考えたことがないのよぉ」

 久仁恵は毒液の滲む牙を押さえ、八つの目を伏せた。

「だってぇ、私は悪ぅい悪ぅい怪人だものぉ」

 エンジン音と排気を散らしながら走ってきた乗用車のハイビームを受け、久仁恵の影が一瞬だけ濃くなった。 逆光の中で輝いた八つの目は鈍い光沢を帯び、短い牙の先で小さく膨らんだ毒液の滴が異様なまでに輝いた。 八本の足を持つ長身の影が七瀬に被さり、通り過ぎる。ほんの僅かな時間だったが、七瀬は畏怖に襲われた。 ハイビームが消えるとそこにはいつも通りの久仁恵が戻ってきたが、今し方目にしたものは忘れられなかった。 公園の時計を見上げた久仁恵は、七瀬に別れの挨拶をしてからブランコから立ち上がり、音もなく歩いていった。 ブランコに座ったまま久仁恵の姿を見送った七瀬は、いつのまにか詰めていた呼吸を緩め、腹部を膨らませた。
 普通に生きていると、人外と怪人の違いを意識する機会はない。だが、彼らが怪人と称されるには理由がある。 久仁恵の牙から分泌される神経毒を体内に注入されれば、あらゆる生き物は数分で死に至らしめられてしまう。 そして、久仁恵の体内から放たれる糸は柔軟にして強靱であり、大型トレーラーでさえも吊し上げてしまうのだ。 七瀬が畏怖を感じたのは、捕食される側だからだろう。テントウムシも毒はあるが、クモに比べれば威力は低い。 だが、それはそれだ。久仁恵が実際に毒を使ったことなどないし、糸で巣を張るのも必要に駆られた時だけだ。 畏怖するべきではなく感謝するべきなのに、と七瀬は心中の淀みを振り払ってから、ブランコから立ち上がった。
 解決の糸口は見つかった。ならば、行動に移さねば。





 


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