かったるくてどうしようもない、 鋭太は数学の参考書を押しやって、結露の浮いた窓と観葉植物のポット越しに外を見下ろした。中途半端な高さ のビルが連なる見慣れた街並みでは、三が日が明けたので人々は仕事に向かって歩いている。スーツにコートを 羽織り、マフラーに首を埋めて足早に駅やバス停に向かう様は、毎年のように見る光景だ。自分も社会人になれば ああなるのだろうか、と思ったが、ていうかそれ以前に就職出来んのかよ俺、とも。大学受験なんかせず、兄の経営 する悪の秘密結社に就職して、以前のように世界征服活動をしてさえいれば。 「つか、それじゃダメだから勉強してんだよな、俺」 身内に甘えきって生きていては、いずれ自滅する。だから、躍起になったのだ。 「でも、やっぱかったり」 鋭太は口の中で独り言を呟いてから、シャープペンシルを回転させた。手元に広げたノートは余白の方が多い。 大神邸の自室では気を逸らすものが多すぎて集中出来ないからと図書館に来てみたものの、成果は出なかった。 いつもは絶対手放さない携帯電話も電源を切ってショルダーバッグの奥に突っ込み、封印したが気になっている。 誰かからメールが来ていないか、電話が掛かってきていないか、と時折確かめたくなるが必死に気持ちを抑える。 自室ではなく、悪の秘密結社ジャールで勉強するようになっても、そんな感じだから成績が今一つ上がらないのだ。 もう一息踏ん張れるようになればまともになるはずだ、と言い聞かせてみるがやる気がないので効果はなかった。 比較的成績の良い野々宮美花と天童七瀬に付き合ってもらえれば捗るのだが、二人は自分の恋人で手一杯だ。 二人は紆余曲折を経てそれぞれの思い人と仲を深めつつあるのだから、それを邪魔するのは良くない。だが、本音 を言えば付き合ってほしかった。冬休みの宿題もまだ終わっていないし、このままでは埒が開かない。 「あれぇ?」 その声に鋭太が片耳を曲げると、図書スペースに入ってきた二人連れの片方の有翼人が駆け寄ってきた。 「わあ、大神君じゃない。珍しいね、図書館にいるなんて」 それはクラスメイトの五十嵐あきらだった。小柄だが翼が大きく、折り畳んでも肩の上から先端が飛び出ている。 翼以外はまるきり人間なのだが、優れた飛行能力と地上数千メートルからの急降下にも耐えうる体を持っている。 黒目がちな大きな瞳は愛嬌があり、無邪気な性格と可愛らしい顔立ちでクラスメイトの間でも評判の良い少女だ。 有翼人用のダウンジャケットの下からは天使顔負けの白い翼が出ていて、ミニスカートの素足が寒そうだ。 「あきら、友人か?」 あきらの背後に近付いてきたのは、青い翼を持つ機械系怪人だったがパンツァーのように無骨ではない。両手足 はすらりと長く、背部には戦闘機を思わせる翼が付き、女性的な雰囲気すら感じさせるほど華奢な体だ。全体的に 鮮やかなスカイブルーで、ヘルメット状の頭部からはアンテナが生え、側面には AIR FORCE との文字がある。顔は 外装よりも薄いブルーのマスクに覆われていて、外装のどの部分よりも濃い青い光が目元から滲んでいた。怪人では あるが、姿形にはロボットアニメの主役ロボのような華やかさがあり、少年なら必ず目を惹かれるだろう。流れる ようなボディラインと両翼は惚れ惚れするほど美しかったが、機械系怪人らしい力強さも併せ持っている。マスク の目元も凛々しく、その下は間違いなく美形の勇者顔だろう。ヒーローと戦ったら、きっと様になるはずだ。 「おー、五十嵐。そこの人って軍人なん?」 鋭太がいい加減な挨拶をしてから青い機械系怪人を指すと、機械系怪人はアンテナに触れた。 「これはただのステッカーだ。他意はない」 「人間で言うところのタトゥーシールみたいなもんだよ。シンナーで剥がれるし」 あきらが朗らかに笑ったので、鋭太も笑い返した。 「なんだ、そうなん」 「せっかくだから紹介しとくね。私の幼馴染みの青木雷電、大学二年生なんだよ。御覧の通りの戦闘ロボ型怪人! ステッカーもそうだけど、外装だって随分改造してあるんだよ。バイクとか車だったらまだ解るけど、自分の体だよ? なんていうかもう、変態?」 あきらの言い草に、雷電はマスクフェイスの上で目元をしかめた。 「人聞きの悪いことを言うな。誰にも迷惑を掛けていないのだからいいではないか」 「それでね、こんな成りしてんだけど、もう一つヤバすぎる趣味があるの。何だと思う?」 あきらはにやけながら身を屈め、鋭太にだけ聞こえるように声を潜めた。 「アイドルの追っかけなの」 「うわマジ意外。てか」 マジウケるんだけど、と言いかけて、鋭太は飲み込んだ。あきらの肩越しに見える雷電の目は不愉快げだった。 あきらも雷電の様子に気付いて苦笑いしたので、雷電はあきらにデコピンをしてから、鋭太に迫ってきた。 「勘違いしないでもらいたいが、私の趣味はいずれも健全だ。法律の範囲内の自己改造もさることながら、全国から 選りすぐられた美少女が歌って躍って飛び跳ねるアイドルグループを追跡し全国ツアーを総なめにすることのどこが 不健全か。初回限定版、プレミア限定版、通常版のCDを全て買い、ツアーの先々ではグッズも買い漁り、彼女達の 出演番組を録画してDVDに焼き、雑誌の記事は一つ残らず切り抜いてラミネート加工して永久保存し、ネット配信 の動画やラジオも全てダウンロードしてCDROMに焼いている。ただ、それだけのことではないか」 「いやいやいやいやいや……」 それは充分ヤバい。鋭太が手を横に振ると、あきらはデコピンされた部分をさすりながら付け加えた。 「しかもね、その追っかけている対象がまたアレなんだよ。日英ハーフでふわふわの赤毛と緑の瞳なのに華のない 顔立ちだけど子供だてらに歌唱力抜群な本格派アイドルの三田キャシーちゃんと、二次元で訓練されたロリコンでも ドン引きするレベルのブリブリなロリ系ネコ耳獣人の山風ぷりんちゃんと、一番背が低くて一番可愛いけど大人を 舐め腐った態度と毒舌がいちいち鼻に突く竜人の竜崎芙美歌ちゃんの三人で構成された、ロリコン御用達の小児 性愛犯罪者育成要素しかないアイドルグループ、すいーと☆はにぃなんだよ?」 真顔で言い終えたあきらに、鋭太は口元を引きつらせた。 「あー、そうなん……」 だからどうしろと。鋭太が反応に困っていると、雷電はあきら以上の真顔と思しき声で言った。 「彼女達は美しい、故に素晴らしいではないか」 「だから、雷電とカラオケに行くと最悪なんだ。こんな成りなのに、少女漫画ワード連発の気の狂いそうな曲をそらで 歌えるだけじゃなくて完璧な振りで踊っちゃうんだから。オタ芸にしたって限度があるよ」 辟易して眉を下げたあきらに、雷電はアンテナを片方曲げた。 「事ある事にカラオケに誘い出すのはあきらの方ではないか。そんなに友人に飢えているのか?」 「そうじゃないけどさ。もうちょっとこう、真人間になろうよ。あ、人間じゃないか。真怪人?」 「余計な御世話だ。図書館にしても、あきらに連れられなくても行くつもりであった。大学の冬休みは短い上に、休み 明けには単位取得に不可欠な試験が待っているからな」 「そりゃそうだけど、でもさぁ」 不満げなあきらを雷電は何とも思っていないらしく、大学の勉強がいかに面倒でややこしいかを説き伏せていた。 そして、そんな自分に教授を頼むな、との嫌味も忘れなかったが、あきらは気まずげにするどころかむくれていた。 二人のやり取りを見た鋭太は、あきらは雷電が好きなのだろうが雷電はあきらを子供扱いしているのだと察した。 自己改造マニアで筋金入りのロリコンアイドルオタクのどこが良いのか解らないが、たぶん良いところがあるのだ。 しかし、人は見かけによらないとはよく言ったものだ。それが怪人なら尚更だ。 「で、さ」 声量は抑え気味だがエンドレスな二人の言い合いに終止符を打つため、鋭太は声を掛けた。 「五十嵐も青木さんも、勉強しねーの?」 「あ、うん、そうだね。また学校でね、大神君」 あきらは鋭太に手を振り、雷電は決まりすぎていて迫力さえある敬礼をした。 「では、また会おう」 「おー、またな」 二人を見送ってから鋭太はノートに向き直り、さて続きだ、とシャープペンシルを取ると、また声を掛けられた。 「あの」 「んだよ」 集中力を大いに削がれてしまった鋭太がむっとしながら振り返ると、ダッフルコートを着込んだ少女が立っていた。 大人しげな丸顔で長い黒髪をポニーテールにしていて、昭和の香りが漂う大きめのメガネを掛け、地味という言葉 を体現している。彼女は頬を熟したリンゴのように紅潮させていて、体を折り曲げて頭を下げてきた。 「この間は、本当にありがとうございました!」 「いや、俺、あんたのことは知らねーし。てか、邪魔しないでくんね?」 何が何だか解らないので鋭太が無下にしようとすると、メガネの少女は唇を歪めて俯いた。 「えっ、あっ、すみません……」 「あー……」 兄貴と戦う前の野々宮みたいだ、と鋭太は思ったが、異変を察した周囲の利用者達が鋭太に視線を向けていた。 メガネの少女は今にも泣き出しそうで、肩は小刻みに震えている。これでは、まるで鋭太が彼女をいじめたようでは ないか。このままでは良くないことになりそうなので、鋭太は自分の荷物をまとめてショルダーバッグに入れ、レザー ジャケットとショルダーバッグを抱えた鋭太はメガネの少女の腕を引っ張り、図書スペースから移動した。 変な誤解されたら、たまったものではないからだ。 一階ロビーの休憩所に連れ出すと、メガネの少女は泣き止んだ。 荷物を置いて手近なソファーに腰掛けた鋭太は、小銭を手中でじゃらじゃら言わせながらメガネの少女に向いた。 メガネを外してハンカチで目元を拭い、呼吸を整えている。さすがに暑いのか、ダッフルコートを開いていた。ぱっと 見の印象では丸顔のせいでぽっちゃりしていたように見えたが、セーターに包まれている上半身は程良く華奢だ。 それなのに、出るところはきちんと出ている。だが、顔立ちは幼く身長も低いので、せいぜい中三かな、と思った。 「なんかいる?」 鋭太が紙コップ式の自動販売機を指すと、メガネの少女はコートを脱いでから腰を上げた。 「いいです、自分で買いますから」 「あ、そう」 鋭太は小銭を投入口に入れ、コーヒーの濃さも甘さもミルクの量も最大にしてからホットコーヒーのボタンを押す。 カップが落ちて熱湯と共にコーヒーが注がれ、終了ランプが付いてアラームが鳴った後、鋭太はカップを出した。 「えっと、それじゃ……」 メガネの少女はしばらく迷ってから、小銭を入れ、ホットのいちごミルクのボタンを押した。 「それ、甘ったるくね?」 先に座った鋭太が飲んでいると、メガネの少女は控えめながら言い返した。 「砂糖もミルクもフルカウントにしたコーヒーとは、どっこいどっこいだと思いますけど」 「んで、俺、あんたのこと知らねーんだけど。てか、それ、俺の兄貴じゃね?」 隣に座ったメガネの少女に鋭太が尋ねると、メガネの少女は驚いた。 「え? お兄さん、いらっしゃるんですか?」 「面倒くせーから、兄貴に話してみらぁ」 鋭太はテーブルにコーヒーのカップを置いてから、ショルダーバッグの底から携帯電話を出した。 「野々宮といちゃついてなきゃいいんだけどな、そういうのマジウゼェし」 銀粘土細工のストラップがじゃらじゃら付いた携帯電話の電源を入れた後、鋭太は兄の剣司に電話を掛けた。 「あー、兄貴? 俺」 『なんだ、急に。車なら出せないぞ、これから美花の御両親を空港まで送ることになったから。なんでも、異次元空間に 追放したはずのミュータントがアメリカ本土に再上陸したから、芽依子さんの御両親や他のヒーローからも応援を 頼まれたらしいんだ』 電話越しに返ってきた兄の言葉に、鋭太はげんなりした。 「てか、パワーイーグルとピジョンレディを空港まで送る意味なんてなくね? あの二人、マッハで飛べるしさ」 『それはそれだ。荷物もあるし。それに、ほら、今後のこととかあるから、出来る限り顔を合わせておかないと……』 「あーはいはい。解った。つかウッゼ! そんなこと言うなら、とっとと野々宮と結婚しろよ」 『言われるまでもない。それで、何の用事だ? 車を暖機したいから、早くしてくれよ』 「兄貴さ、黒髪ポニテでメガネでちっこい女子でも助けたりしたか?」 『悪の秘密結社の総統である俺が人助けなど……。ああ、したな。お前の言う通りの見た目の女の子を』 「いつの話? てか、何したん?」 『先週末……だったか。うん、そうだ。母さんに頼まれた年末の買い出しに行く途中で、自転車のチェーンが外れて 立ち往生している子がいたんだ。だから、そいつを直してあげたんだが』 「あー、んじゃそれだ」 『それがどうかしたのか?』 「ここにその当人がいるんだけどさ、俺と兄貴を間違えたみたいで。だから、電話代わるわ」 ほれ、と鋭太がメガネの少女に携帯電話を渡すと、メガネの少女はカップを置き、慌てながら礼を述べた。 「こっ、この前はどうもありがとうございました! おかげで塾にも間に合いました!」 『いえいえ。俺の方こそ、ちゃんと名乗らなかったせいで勘違いさせたみたいですみません』 あまりの声の上擦りぶりに大神が微笑ましげに返すと、メガネの少女は詰まりながら名乗った。 「あっ、あたし、市立南中学三年C組の桜木ちえりと申します!」 『大神剣司です。で、その柄の悪いのが弟の鋭太です。わざわざ御礼して頂いて、ありがとうございました』 「は、はいっ!」 ちえりと名乗った少女は頷いてから、携帯電話を鋭太に返した。 「どうもありがとうございました」 「んじゃ、電話切るし。兄貴の方は特に用事ねーよな?」 受け取った携帯電話を耳に押し当てた鋭太が尋ねると、大神は答えた。 『あー、そうだな。元旦からどんどんお客さんが来たから、そろそろビールが切れるって芽依子さんが……』 「未成年に不可能なお遣い頼むんじゃねーし!」 マジざけんな、と鋭太は通話を切ってから、ちえりに向き直った。 「っつーわけだし。誤解も解けたわけだし、俺は勉強の続きしなきゃなんねーから」 「あ、あの」 「んだよ、まだ何かあんのかよ」 「使っていた参考書が高校のものでしたから、高校生なんですよね? 良かったら、勉強教えてもらえませんか?」 「……はぁ?」 むしろ俺に教えてくれ、と言いかけ、鋭太はぐっと飲み込んだ。瞬時に、ここで見栄を張るべきではないと思った。 だが、女子中学生に慕われるのも悪くない。見た目は凄く地味だが、女の子には違いなのだから。 「ま、まぁ、してやってもいいんでねーの?」 「本当ですか、ありがとうございます! あたし、将来は絶対東大に入ろうって決めているんですけど、塾に行っても 成績が全然上がらなくて、だから嬉しいです! 頑張りますね!」 素直に喜ぶちえりに、鋭太は体毛の下でべっとりと嫌な汗を掻いた。 「じゃ、じゃあまた今度会った時な! 俺、用事あるし! んじゃな!」 「はい、待ってます」 さようなら、と一礼したちえりに、鋭太は顔を引きつらせながら背を向けた途端に駆け出して図書館から逃げた。 自分でも悪いクセだと思うが、口が豪快にだだ滑りしてしまった。あんなことを言ったら、引っ込みが付かなくなる。 二度と図書館に来るもんか、つか来られねぇし、と固く誓ったが、そんなことをしてはちえりに対して悪くないか。怪人 だから悪事をするべきだ、とも思うが、気が咎める。鋭太は途中で足を緩め、レザージャケットを羽織った。 腹を括って、本気で勉強しよう。 09 12/31 |