ドミニク・内藤はコウモリ怪人ナイトドレインである。 だが、悪の組織には所属していない。南米の日系三世であるドミニクは日本に帰化し、単独で活動していた。治安 も悪く、経済状態が安定しない祖国では安定した収入も望めず、また世界征服も難しいと思ったからである。それに 対して、日本は経済的に安定しているばかりか、景気が急上昇してバブル景気に突入していた。おかげで、ドミニク のような怪人にも仕事があるばかりか恐ろしく収入が良くなり、清々しいほど金が稼げていた。 そして、思った。今こそ世界征服を果たすべきだ、と。そのために悪事を働こう、とドミニクは夜な夜な出歩いた。 仕事先の作業服を脱いだドミニク、もとい、ナイトドレインは自宅アパートから飛んだ。だが、いざ悪事を働こうにも、 世間には金や物が溢れすぎているので、多少奪っても誰も何も困らない。かといって、ヒーローを見つけ出して戦い を挑むのは尻込みしてしまう。ナイトドレインはそれほど強力な怪人ではないからだ。怪人名の由来である自分の影 に異空間を作って人や物を吸収する特殊能力はあるが、使いこなせていない。体格も人間に比べれば大柄だが、 怪人としては平均的で、デリケートな羽や耳が傷むのが怖くて肉弾戦は苦手だ。 不夜城とも称される都会を飛び回ったナイトドレインは、ビルの屋上に舞い降り、給水塔に逆さにぶら下がった。 今夜もまた、これといって悪事になりそうなものを見つけられなかった。だが、下手に地上に降りると客引きに遭う。 給料が馬鹿みたいに良いので手持ちの金は多いが、ホステスから煽られるままに酒を飲むのは好きではないし、 そんなことをしていては世界征服が滞ってしまう。寄り道するのは、世界征服を果たしてからでなくては。 再び夜空に舞い戻ったナイトドレインは、光の洪水のような繁華街から脱し、住宅街へと向かって飛んでいった。 街中では、物や人が多すぎて却って悪事のアテが見つけづらいかもしれない。そう思って、夜目の利く目を凝らして 飛んだ。しばらく飛ぶと、住宅造成地に乱立する民家に挟まれている児童公園に気付き、そこに人影を見つけた。 児童公園を見下ろせる位置にある街灯に降り、闇をも見透かせる赤い瞳を見開くと、人影の輪郭が解った。夜中の 児童公園ではよく見かける、年頃の少女だった。退屈そうにタバコを蒸かしていて、薄く煙が漂っている。連れ合い でもいるのかと辺りを見回すが、それらしい姿はない。更に注視すると、少女の足元に荷物を見つけた。 どうやら、家出少女らしい。ナイトドレインは、とりあえず警察に通報しなきゃ、と飛び立とうとして我に返った。怪人 なのだから、普通に通報してどうする。しばらく考えて、誘拐したらいいんじゃないのか、とやっと思い付いた。ナイト ドレインはカギ爪の生えた足で掴んでいた街灯のポールから足を外し、生温い夜気を孕んだ翼を広げた。音もなく 家出少女の前に舞い降りると、家出少女は少し驚いたようだったが、タバコを口から外すことはなかった。 「……何?」 きついパーマを掛けた髪を掻き上げた家出少女に、ナイトドレインは立ち上がって翼を広げた。 「我が名はナイトドレイン!」 「んで?」 「だから、その、怪人だよ。見て解らないかな」 ナイトドレインは家出少女の反応の薄さにがっかりし、素に戻ってしまった。 「それは見れば解るけど。なんとなく」 家出少女はタバコを吸い続けながら、減り張りの付いた肢体を強調するボディコンから伸びた足を組んだ。 「だから……」 いざ誘拐しようとすると躊躇してしまったナイトドレインが言いあぐねると、家出少女は指を立てた。 「五」 「何、それ?」 意味も解らずにナイトドレインが聞き返すと、家出少女は面倒そうに舌打ちした。 「五万。それならいいけど」 「だから、何が」 「あたしのこと、買うんじゃないの?」 当然のように言った家出少女に、ナイトドレインはぎょっとした。 「へ?」 「あたし、家出してきたばっかりで金なくってさ。だから、ヤラせてやるから金くれない?」 慣れた仕草でタバコの煙を吹いた家出少女に、ナイトドレインは半身を下げた。 「そういう問題か……?」 「そういう問題よ」 家出少女は地面にタバコの灰を落とし、口紅がべっとりと付いたフィルターを再び唇に挟んだ。 「ちょっ、と、待ってくれ」 ナイトドレインは家出少女に手を向け、顔を背けた。視界の隅で、家出少女が眉根を顰めたのが見えた。怪人の 名誉のために言っておくが、ナイトドレインは決してそういう目的のために誘拐しようと思ったのではない。こちらの 予想を超えたことを言われてしまって、ナイトドレインは思考が停止しかけたが、懸命に頭を働かせた。人間を誘拐 するのはあくまでもヒーローを誘い出すためで、ヒーローに不利な状況を作り出すためのアイテムだ。肝心のナイト ドレインに誘い出されるべきヒーローについてはこれから考えるとして、アイテムは欠かせない。むしろ、そういった ものがなければ、ナイトドレインは正義と悪の戦いの場にすら上がれない。実力がないと知っているからだ。 「んで、どうすんの?」 焦れた家出少女に急かされ、ナイトドレインは決断した。 「今から俺は、君を誘拐する!」 「で、いくら出すの?」 「だから、そういうのじゃなくって……」 ナイトドレインは困ったが、家出少女に手を差し伸べた。 「あ、でも、君の都合が悪かったら無理にとは言わないけど」 「悪いわけないじゃん。家出してんだから、暇なんだし」 家出少女は立ち上がると、ボストンバッグをナイトドレインに投げ付けた。 「持って」 「そりゃ持つよ。飛ばなきゃならないんだから」 ナイトドレインは家出少女の荷物を抱えると、今度は家出少女を反対側の腕に抱えた。 「わっ、ちょっと!」 いきなり胴体を持ち上げられて驚いた家出少女が声を上げるが、ナイトドレインは翼を広げて羽ばたいた。 「大人しくしてろよ、落ちたくなければね!」 ぎゃあああ、死ぬぅうううっ、と悲鳴を上げる家出少女に辟易しながら、ナイトドレインは児童公園の上空に出た。 ナイトドレインにとっては大したことのない高度も空を飛んだことのない彼女には恐ろしいらしく、悲鳴が高ぶった。 その裏返った声がきつすぎて、繊細な聴覚ばかりか頭まで痛くなってきたが、早々に終わらせるために滑空した。 繁華街から少し離れた場所にあるアパートに向かう最中、家出少女は恐怖のあまりに悲鳴を上げ続けた。耳鳴りと 頭痛だけでなく胸焼けまでしてきたが、それに勝る爽快感が沸き上がり、ナイトドレインはにやけた。人間の悲鳴に 怪人の血が騒ぎ、戦意が高揚してくる。まだ世界征服を始めてもいないのに、達成感を感じていた。 見ず知らずの少女を誘拐しただけで、満足しそうになった。 そして、ナイトドレインは家出少女をアパートに連れ込んだ。 ナイトドレインに抱えられて空を飛んだのが余程怖かったのか、マスカラが溶けるのも構わずに涙を零していた。 おかげで厚くファンデーションを塗られた頬には涙の筋がいくつも付き、原色のアイシャドウもぼやけていた。六畳間 の居間の隅に縮こまって号泣しながら震える家出少女に、ナイトドレインは一抹の罪悪感を感じたが、思い直した。 人間を怖がらせたりするのが怪人なんだから、と己を戒め、家出少女を慰めないことにした。けれど、何もしないで 放っておくのは気が咎めるので、湯を沸かしてコーヒーを入れてテーブルに置いた。泣きに泣いて濃すぎる化粧が 落ちると、少女の素顔は幼く、大人になりかけている高校生といったところだった。手足がすらりと伸び切っていて、 身長も高めだった上に暗がりだったので、最初に見た時には二十歳手前程度に見えたのだ。 「顔、拭く?」 ナイトドレインがティッシュペーパーを箱ごと差し出すと、家出少女は泣きながら頷き、その箱を引ったくった。 「砂糖とか、入れる?」 ナイトドレインが熱いコーヒーの入ったマグカップを指すと、家出少女は涙に詰まった声で呟いた。 「二杯」 「解った、二杯だね」 ナイトドレインは腰を上げ、キッチンの戸棚から砂糖の入ったホーローの器を取り出して居間に運んだ。コーヒーに 砂糖を入れて掻き混ぜて家出少女へと差し出すと、化粧も涙も全部拭い落としてから、彼女は受け取った。熱々の コーヒーを啜った途端、熱すぎたのか悲鳴を上げたが、堪えて啜った。泣いて叫んで喉が乾いたのだろう。ナイト ドレインもマグカップにインスタントコーヒーを入れ、ポットに入れたばかりの熱湯を注いでコーヒーを作った。祖国で 飲んでいたコーヒーに比べれば苦みも香りも薄かったので、味を足すために砂糖を山ほど入れて飲んだ。 「ひでぇ……」 家出少女はコーヒーの残るマグカップを握り締め、項垂れた。 「酸味も苦みも薄っぺらいけど、そんなに不味いもんじゃないと思うけどな」 ナイトドレインが牙の間からコーヒーを啜ると、家出少女は子供っぽく頬を膨らませた。 「そうじゃない。あたしがひどいんだよ」 「なんだったら、後で化粧落としでも買ってこようか? 石鹸だけで落ちるとは思えないし」 「そういうことじゃなくって……」 家出少女は言い返そうとしたが、外が暗いために鏡と化した窓に映った自分の顔を見た。 「うわ、なんだこれ」 ナイトドレインが吹き出さなかったのが不思議なほど、ひどい顔だった。化粧という化粧が乱れ、崩れている。口紅は 顔を拭いた時に頬に広がってさながら口裂け女のようになり、アイシャドウとマスカラの混じった筋が付いている。 ファンデーション混じりの涙が剥き出しの首筋に落ちているだけでなく、ボディコンがずりおちそうになっていた。それ に気付いて慌ててボディコンを引っ張り上げてから、家出少女は苦く甘いコーヒーを啜り、ため息を吐いた。 「何やってんだろ、あたし」 「それは俺が聞きたいことだよ」 ナイトドレインは家出少女を思うように扱うことを諦め、胡座を掻いた。 「君、なんで家出したんだ?」 「夢があるんだ」 家出少女は年相応の顔になり、少し照れ臭そうに目を伏せた。 「あたし、ダンサーになりたいんだ。でも、親に反対されて」 「だから、家出したのか」 「うん。でも、金なんかなかったし、行く当てもないし、バイトしたこともなかったから、姉ちゃんの部屋から盗んだ服を 着て、目一杯化粧して、夜行バスでこの街に来て、初めて会ったあんたにああいうことを言ってみたんだけど」 「逆に攫われたわけか」 「あ、でも、さっきのが初めてだから。本当だよ。だから、言うだけでもすっげぇ緊張したんだ」 「そりゃ良かった」 と、ナイトドレインが素直に喜ぶと、家出少女はにじんだアイラインに縁取られた目を丸めた。 「何それ」 「女の子は体を大事にしなきゃ。若いんだったら尚更だよ」 もっともらしくナイトドレインが頷くと、家出少女は肩を震わせて笑い出した。 「人を誘拐しといて、何言ってんだか」 「ああ、そうか。そうだった」 うっかり忘れかけていた。ナイトドレインが苦笑すると、家出少女は笑いを収めた。 「上田愛っていうんだ」 「何が?」 「何って、あたしの名前。他に何があるの。そういうあんたは、ナイト、なんだっけ?」 「ナイトドレイン。でも、本名は違う。ドミニク・内藤。本当はミドルネームもあるけど、長いから略しているんだ」 「ドミニク? ってことは、外人だったりすんの?」 「四分の三はね。四分の一は日本人だよ。日系三世ってやつ。最近帰化したばかり」 「へぇー。なんか格好良いな」 愛に感心され、ナイトドレインはちょっと照れた。 「いや、そんな、大したことないよ」 「んじゃ、どっちで呼べばいいのかな。ナイトドレインとドミニク」 「呼びやすい方だったらドミニクだけど、もっと呼びやすいのもあるよ」 「何何、どんなの?」 「祖国じゃ家族や友達からはドムって呼ばれていた。ドミニクの愛称だから」 「ドムって、どっかのロボットみたいじゃん。すっごい笑える!」 再び笑い出した愛に、ナイトドレインは辟易した。 「職場の連中にもそう言われたけど……」 部屋中に響き渡った愛の笑い声に、ナイトドレインは肩も翼も縮めた。ロボットと言われても、ぴんと来ないのだ。 ナイトドレインからすれば本名の愛称であるドムのどこが可笑しいのか解らず、笑われる理由も見当たらない。職場 の人間にも知り合った日本国籍の怪人にも似たようなリアクションをされていたので、自尊心が痛んだ。しょんぼりと 両翼を下げたナイトドレインに愛は笑うのを止め、マグカップをテーブルに置いてから彼に近付いた。 「ごめん」 「いいよ。慣れてるから」 そうは言うものの、ナイトドレインの声色は沈んでいた。 「あたしも散々笑われたんだ。ダンサーなんて無理だって、馬鹿なことを言うなって。だから、ごめん」 愛が頭を下げたので、ナイトドレインは振り向いた。 「案外優しいね」 「案外は余計だ」 愛は顔を上げてから、姿勢を正して座り直した。 「あのさ、ドミニク。あんたが良かったらで良いんだけど、ここに住ませてくれない?」 「なんで?」 「だって、行くところもないし。それに、ドミニクは、あたしに変なことをしなさそうだし」 「甘く見られたもんだなぁ」 れっきとした怪人なのだが。ナイトドレインが牙の生えた口元を曲げると、愛は懇願してきた。 「邪魔にならないようにするし、バイトも始めるから、お願い! オーディションに受かるまでやりたいんだ!」 「うーん……」 早急すぎる展開に、ナイトドレインは唸った。女の子が部屋に転がり込むにしても、手順というものがあるのでは。 化粧が崩れてはいるが、愛は可愛らしい顔の少女だ。東洋人にしては目鼻立ちがくっきりしており、正直好みだが、 どう見ても若すぎる。顔付きと体格からして未成年には違いないだろうし、高校を卒業しているかも怪しい。けれど、 生来の気の弱さもあり、生まれてこの方女っ気はなかった。この機を逃せば、二度と女性と接触する機会などない かもしれない。ナイトドレインは散々迷ってから、尋ねた。 「今、いくつ?」 「来月で十八になるけど。高校はこの前中退した」 「もうちょっと下かと思った」 「どうせガキだよ」 愛が拗ねてみせたので、ナイトドレインは取り繕った。 「ああ、そうじゃなくって、その歳だったらまだ大丈夫かなぁって。たぶん……」 「んじゃ、置いてくれるんだね! ありがとう、ドミニク!」 途端に機嫌を戻した愛に、ナイトドレインは気圧されて頷いてしまった。呼び名は結局ドミニクか、とも思った。 お腹が空いたからご飯、と愛に急かされたナイトドレインは、釈然としなかったが夕食を買うために部屋から出た。 今夜は愛に布団を貸して自分は天井にぶら下がって寝よう、と思いながら、ナイトドレインは夜の街を飛行した。 悪事を行うために愛を誘拐したはずが、逆に愛を助けることになっている。怪人としてそれでいいのだろうか。今夜 のところはそれでいいかもしれないが、次の夜こそ、人助けをせずに悪事を行って世界征服の礎を築こう。ナイト ドレインは決意を新たにしながら、近所のコンビニの前に舞い降り、愛が好みそうな食べ物を選んで買った。 今日のところは、愛の機嫌を取らなければ。 09 11/24 |