六畳一間の空間は、薄暗かった。 仮眠室は使用頻度が低い割に掃除の行き届いていて灰皿もあり、型は古く小さいがまともに映るテレビもあった。 押し入れには仮眠用の布団が一組あり、塗装が剥げ気味の小さなテーブルと座布団が部屋の隅に置いてあった。 部屋が薄暗いとますます妙な気分になるので、カメリーはカーテンを開けて日差しを入れてから、七瀬を剥がした。 すかさず七瀬はカメリーのズボンの裾に爪を引っ掛けたので、カメリーは七瀬を離すことを諦めて腰を下ろした。 「全くもう、どうしちゃったのよ。らしくないじゃないの」 すっかり乱された服を直してから、カメリーはポケットから抜いたタバコを銜え、ライターで火を灯した。 「らしいだとか、らしくないとか、そんなのどうだっていいんだよ!」 七瀬はカメリーの足を掴み、威嚇するように顎を開いて触角を立てた。 「あんたが相手なんて嫌だけど、嫌で嫌でどうしようもないけど、どうにもならないんだよ!」 「嫌だなんて、そりゃ心外だねぇ」 煙をくゆらせながらカメリーが背を丸めると、七瀬はカメリーの足に爪を立てて握り締めた。 「本当にそうなんだから仕方ないじゃん!」 「んじゃ、何が良い?」 「何って?」 「言ってくれれば、何にだって化けてやるよん。骨格と体積の都合で出来ないやつもあるけどね」 「そんなの、意味ない」 「なくもないと思うけどねん」 「化けなくてもいい、あんたじゃなきゃ嫌だ!」 「そうなの? せっかく俺の非常識極まりない能力を見てもらえるチャンスだと思ったんだけどねん」 カメリーはタバコの灰を灰皿に落としてから、銜え直した。 「じゃあ、俺は何をすればいいのよ? 教えてくれたら、いくらでもしてやるよん?」 「そんなの言えるか、言いたくたって言えるかぁあああっ!」 七瀬はカメリーの足を投げ捨てるように離すと、ごろりと寝転がった。 「それだけじゃ嫌なんだよ、そんなんじゃ嫌なんだよ、私も嫌だけどそういうあんたも嫌なんだよ!」 七瀬は己を抱き締めるように、下両足を縮めて上両足で抱え込んだ。制服のスカートが乱れ、その中が覗いた。 人間のように柔らかな太股も尻もなく、素肌を覆う下着も付けているわけではないが、カメリーは目が動きかけた。 スカートの下にあるのは下両足の付け根と腹部の先端ぐらいなので、生殖器官が見えるわけでもないというのに。 カメリーはそんな自分がやましくなってきて、身をずらして七瀬に背を向けた。 人型昆虫は、異種族からは性愛を抱かれるような外見ではない。増して、人型爬虫類からすれば巨大な食料だ。 故に、人型テントウムシである七瀬に執心しているカメリーは、人型爬虫類の世界ではとんでもない変態だ。人間の 感覚で表現すれば食卓に並ぶパンに対して劣情を抱くようなもので、カメリーも自覚した当初は戸惑った。けれど、 今となっては、人型爬虫類の女性よりも七瀬が好きで好きで仕方ない。ただ、その好意の表現が地味だ。デートに 誘うことも滅多になければ、一緒に出掛けることも少なく、御機嫌取りにプレゼントを贈ることもないのだ。なので、 世間一般で言うところの恋人同士からは懸け離れているが、カメリーはそれで満足だった。七瀬も七瀬でカメリーに 過剰に求めることはなかったので、連絡さえ取り合えていれば充分という、ドライな関係だった。なのに、こうも激しく まとわりつかれては。カメリーは再び渦を巻いた尻尾を畳にぺたりと横たえて、口の隙間から煙を吹いた。 「どうすりゃいいか、解らなくなっちゃうじゃないのよ」 嬉しい。けれど、それ以上に困惑する。カメリーが複雑な胸中を滲ませると、七瀬は呻いた。 「そりゃ、私だって……」 好きだ好きだとやたらめったら言い合うだけが恋愛ではないが、一緒にいることすらないのは恋愛と言えるのか。 二人揃って、そんなことを考え込んでしまった。距離を置いた関係が楽だから、これまでなんとなく続いてきたのだ。 根底には恋だの愛だのという感情があるにはあるが、カメリーはそうしたものにすら執着がなく、七瀬はホルモンが 足りていないので感覚的に理解出来なかった。だから、これまでは膠着状態が続いていた。だが、七瀬が発情して しまってはその微妙な均衡が崩れてしまう。カメリーも男なので、七瀬には発情してほしくなかったわけではないが、 まだその時ではないと思っていた。来年の春か、高校を卒業した後か、という希望的観測を抱いていたが、所詮は カメリーの一方的な願望に過ぎなかったのだ。 「ああっもうっ、体液どころか内臓も脳も神経も全部煮えるじゃねぇかあああっ!」 七瀬は視界からカメリーを消すかのように、上両足で複眼を覆い隠した。 「なんで、どいつもこいつもこんなのに耐えられるんだよ! どうして普通に生きてられるんだよ!」 「全くだよねぇん」 「その対象者がへらへらすんじゃねぇよ、ムカつくな!」 「八つ当たりしないでよ」 「八つ当たりなわけないだろ、あんたは当事者だろうが!」 「そうだっけ?」 カメリーがしれっと返すと、七瀬はがばっと上体を起こしてカメリーを指した。 「そうだよ! バイトしてた時に、私に告ってきたのはあんたの方だろ!」 「嫌ならなんでOKしたのよ」 「なんとなくだよ、なんとなく! それ以上でもそれ以下でもあるか!」 「それじゃ何、俺はなんとなくOKしてもいいような存在だったってこと?」 「そうだよ! それ以外にあるか!」 「それ、喜ぶべきところかな」 「普通は凹むところじゃねーの?」 怒鳴るだけ怒鳴ったので僅かに平静を取り戻した七瀬が指摘すると、カメリーは喉の奥で笑った。 「ああ、そうかもねぇ、そうだよねぇ」 「てめぇのそういうところが苛々するんだっつってんだろぉがぁああああああっ!」 数秒と保たずに苛立ちが再燃した七瀬は、カメリーの襟首を掴んでがっくんがっくんと揺さぶった。 「ちょっ、あぶなっ、火、火ぃ!」 カメリーは慌てて灰皿を引き寄せてタバコの火を消してから、襟首を力一杯に握る七瀬を押しやった。 「どうしてそこで怒るのよ」 「怒るべきところだろうが、そこは!」 と、また七瀬に頭を揺さぶられそうになり、カメリーは七瀬の上両足を掴んで押さえ込んだ。 「じゃあ、何なのよ。何を言えば、怒らないの?」 「私だって、怒りたいわけじゃない。でも、どうしようもないんだ。抑えが効かないんだ」 七瀬は急に勢いを失い、座り込んだ。呼吸が荒いので興奮は収まっていないようだが疲弊したのだろう。発情した ために体内に散らばったホルモンに煽られるがまま、暴れて喚いて騒いだのだから、至極当然の結果だ。 「いいのいいの、たまには素直になっちゃいなよ」 カメリーは両手で七瀬の顔を挟むと、両の目を彼女の黒く艶やかな複眼に向けた。 「そういうあんたはどうなのさ?」 打って変わって大人しくなった七瀬が触角を伏せると、カメリーは先細りの口を開いて舌を出した。 「俺? 俺はね、仕事する時しか嘘は吐かないのよ」 「それ自体が嘘じゃねぇの?」 「やだなぁもう、疑わないでよ」 「あんたを信用出来る余地があるとでも思ってんの?」 「それがないなら、これから作ってやろうじゃないの」 カメリーは目を動かすのを止め、七瀬に定めた。七瀬は頭を支えているカメリーの手を掴んできたが、爪の力は 弱っていた。何をされるのかを知っているから、困っているのだろう。顎が強張り、きちりと鳴る。不安げに下がった 触角を可愛らしいと思ったカメリーは、丸まった背を縮めながら七瀬に顔を近寄せていった。 「お二方」 が、両者が接する寸前にドアが叩かれ、レピデュルスが入ってきた。 「な、何よ?」 素早く七瀬から離れたカメリーが聞き返すと、レピデュルスは二人分の緑茶と菓子を載せた盆を差し出した。 「見れば解るだろう、差し入れだ」 「ああ、うん、どうもね……」 カメリーははみ出したままになっていた舌を引っ込め、態度を取り繕った。 「カメリー、今日は午後半休を取りたまえ。事が済んだら、天童さんを御自宅にお連れするが良い」 レピデュルスはドアに手を掛けてから、横顔を向けてきた。 「双方、自重なされよ。扉一枚隔ててはいるが、若旦那の御前なのだから」 「うん、解った……」 レピデュルスに気圧され、七瀬は頷いた。カメリーは胡座を掻き、緊張を緩めるように肩から力を抜いた。 「そりゃまあ、言われなくても午後から休むつもりだったけどね、うん。仕事にならないし」 「じゃあ、あんたんちに行く」 「え? でも、それはちょっと拙いんでなくて?」 「今更、何が拙いってんだよ」 「そりゃそうかもしれないけど、ねえん」 「それっぽいこと、させろよ」 小声で言った七瀬はそっぽを向き、来客用の湯飲みを取った。カメリーも自分の湯飲みを取ると、緑茶を啜った。 それっぽいことと言われても、これまでずっと、カメリーも七瀬もそれっぽいことを避けながら付き合ってきたのだ。 なのに、急に求められても困る。カメリーは返答に悩みながら、芽依子御手製のマドレーヌを皿から取って食べた。 七瀬もマドレーヌを食べ始めると、一段と大人しくなった。騒ぎ疲れて腹が減っていたのだろう。食べたらちょっとは 休んでくれればいいな、と思いつつ、カメリーが二つめのマドレーヌを囓っていると七瀬は肩を怒らせた。 「ダメだ」 「へ?」 「私は女としての価値がねぇええええっ!」 突然立ち上がった七瀬は、窓を全開にして身を乗り出した。 「ちょっ、待っ、どうしたのよおー!」 慌てたカメリーは七瀬の腰を抱えるが、七瀬は背中から羽を出して震わせていた。 「こんちくしょうっ、どいつもこいつも料理出来やがってぇっ! こちとら味覚なんて足にしかねぇぞオラァアアアッ! そんなんでまともな料理が出来るわけねぇだろうがぁあああっ!」 「事情は解っちゃいるが、いい加減にしてくれないか」 絶え間ない騒音と罵声に辟易した大神、もとい、ヴェアヴォルフが仮眠室に入ってきた。 「見ての通りよ、若旦那」 今にも飛び立ってしまいそうな七瀬の腰を押さえたカメリーは、助けを求めるようにヴェアヴォルフに向いた。 「妊娠初期の姉さんみたいだなぁ。ここまではひどくなかったが」 てめぇこんちくしょおっ、とあらぬ方向に喚く七瀬にヴェアヴォルフが耳を伏せると、カメリーは懇願した。 「若旦那ぁ、どうにかしてぇん」 「俺にどうにか出来たらとっくにしてるよ。出来ないから、仕事に身が入らないんじゃないか」 不愉快げに目元をしかめたヴェアヴォルフに、カメリーは平謝りした。 「ああ、そうね。無能な社員でごめんなさいね」 「あんまり騒ぐなよ。近所迷惑になったら、世界征服に関わってくる」 ヴェアヴォルフが背を向けて仮眠室から出ていこうとしたので、カメリーは彼を引き留めた。 「あ、ちょっと待って若旦那!」 「今度は何だ」 「美花ちゃんってさ、こういうことはないの? 人間だけど、ほら、ヒーローだしねぇ」 「はぁ?」 声を裏返したヴェアヴォルフに、カメリーは藁にも縋る思いで捲し立てた。 「そんなに具体的には言わなくていいからね、言える範囲でいいのよ! 物の参考にね!」 「あったとしても絶対言うかぁ! 浴びるほど酒を飲まされたって死んでも言うかぁああああっ!」 尻尾を膨らませて怒鳴ったヴェアヴォルフは、仮眠室から飛び出した。彼の言い分は尤もだが、こちらも真剣だ。 七瀬を押さえるには七瀬が滾らせる衝動を処理しなければならないが、カメリーはそれが不得手だ。物を知らない 中高生ではないので男女の付き合いがどういうものかは把握しているが、甘ったるい付き合いというものは経験が ないので要領が掴めないのだ。だから、いちゃいちゃでべたべたな甘ったるい恋愛真っ直中の総統に聞けば良い のではと思ったが、浅はかだった。突っぱねられて当然だ。 頭上で震えていた羽が止まり、七瀬は脱力して座り込んだ。落ち着いたんだ、とカメリーは安堵したが甘かった。 七瀬は触角を下げて背中を震わせて声にならない声を漏らし、涙の出ない複眼を押さえて泣き出した。 「もうやだ、全部やだぁ、どうにもならないぃ……」 「ああ、もう……」 始末に負えない、とカメリーが嘆息すると、七瀬はカメリーの腕を掴んできた。 「どうにかして」 「だから、何を」 「苦しいんだよぉ……」 七瀬はブラウスに覆われた腹部を浅く上下させながら、カメリーの胸に倒れ込むと、腕や背中に爪を立ててきた。 泣き声に似た軋みを外骨格から零しながら、不安を少しでも紛らわすかのように、七瀬はカメリーに縋り付いた。 散々暴れて乱れたブレザーを直してやってからカメリーは七瀬を抱き寄せると、その背中を丁寧に撫でてやった。 そして、ようやく理解した。七瀬が暴れたり、喚いたり、訳の解らないことを言ったのは、女になるのが怖いからだ。 理解するのが遅すぎるとは思ったが、理解しただけマシだ。カメリーは七瀬を抱き締め、体温を共有した。 冷血動物同士でしか味わえない、滑らかな心地良さだった。 09 12/1 |