頭の中は、どこまでも自由だ。 但し、首から下はどこまでも不自由だ。瞼を開いて大きな窓に目を向けると、モーターが唸ってスクリーンカーテンが 巻き上げられて、鮮やかな朝日が侵入してきた。少しも寝乱れていないタオルケットをベッド自体に備わっている ロボットアームで剥がし、ベッドにリクライニングで上半身を起こした。それなりに筋肉が動く首を回して血流を促し、 脳細胞の隅々まで酸素を行き渡らせる。盛大に欠伸をしてから、伊号は瞬きして大型液晶テレビの電源を入れた。 朝のニュース番組が気になるわけではないが、部屋がしんとしているのは好きではないからだ。 「風呂入ろ」 独り言を漏らしてから伊号は万能車椅子をベッドサイドに呼び寄せ、ベッドと万能車椅子のロボットアームを操って 自分の体を移動させた。自分の本当の手足よりも余程使い慣れている万能車椅子を前進させ、クローゼットのドアを 開けて着替え一式とタオルを取り出し、バスルームに向かった。そのドアもロボットアームで開け、室内に入った。 高性能故に精密な電子回路が詰まった万能車椅子から、バスルームに備え付けてある耐水仕様の万能車椅子に 体を移し替え、入院着に似たワンピースを引き剥がして脱衣カゴに放り、タオルをアームの一本に引っ掛けた。 水圧を緩めにしたシャワーを浴びながら、伊号は体温の上昇と共に脳内に飛び込んでくる無数の電磁波を感じ、 顔をしかめた。眠る時は邪魔なのでヘッドギアもゴーグルを外してしまい、自室にはジャミングを掛けているが、その ジャミングすらも擦り抜けた電波が届いて脳波を掻き乱す。だが、ヘッドギアをしなければ防ぎようがないので、今は 我慢するしかない。やはりロボットアームで髪と体を洗い、脳の奥が針で突かれるような頭痛を堪えながら、伊号は バスルームを出た。体を拭いて下着を付け、脂肪があまり付いていない胸をブラジャーと言うには平べったい布地で 覆い、ゴスパンクに身を包んだ。濡れた髪にタオルを被せて寝室に戻るとドアが開き、秋葉が入ってきた。 「イッチー、おはよう」 「おーす」 伊号が気怠く挨拶すると、秋葉は伊号の濡れた髪を丁寧な手付きで拭った。 「体の調子はどう?」 「良くもねーし、悪くもねー」 「そう」 秋葉は伊号の髪を拭い終え、コードレスのドライヤーで乾かし始めた。彼女自身の髪も相当長いからか、秋葉の 乾かし方は上手い。ブラシで梳かしてから、赤いメッシュを入れた部分が隠れないように整えて、シャギーが目立つ ようにツインテールに結んでくれる。こればかりは、ロボットアームでも上手くいかないのだ。 「またなんかあったん? 無線がマジうるせーんだけど」 伊号がやる気なく問うと、秋葉は伊号の赤いブラウスの襟元を直した。 「昨日の夜、忌部さんから連絡があったんだけど、ゾゾ・ゼゼ、小松建造、ミーコの三名が乙型一号を連れて忌部島 から脱出してしまったの。船足はそれほど速くないけど、相手が相手だから、第一級警戒警報発令中」 「だったら、なんであたしを起こさねーの?」 「イッチー、よく寝てたから」 秋葉は伊号の両足に黒と白の太いストライプのニーソックスを履かせ、ブーツも履かせた。 「それに、先制攻撃を仕掛けるのであれば、イッチーでなくても可能。空自だって、充分強い」 「……んだよ、つまんね」 伊号は毒突き、舌打ちした。秋葉はそれに対して反応せずに、伊号の服装を整え終えて立ち上がった。 「朝御飯の支度、出来ているから。冷めないうちにね」 「腹なんか減ってねーし」 実際、空腹は感じていなかった。昨夜受けた鎮静剤入りの栄養剤の点滴が全身に回っているせいか、血糖値が 下がっていない。秋葉はそれに対しても言葉を返さず、万能車椅子の背を少し押すだけだった。伊号は面倒だったが、 部屋に食事を持ってこられても嫌なので自室を出ることにした。秋葉が開けてくれたドアを通って通路を進み、 食堂に向かいながら、一望出来る都心を見やった。いっそのこと、東京を徹底的に壊せたら、脳内に無遠慮に飛び 込んでくる電波が減ってせいせいするだろうに。だが、自分は機械なくしては生きられない身だ。 不自由を厭えば自由が遠のき、自由を求めれば不自由になる。 空も海も、無遠慮に広い。 甲板に寝そべってぼんやりしていると、自分が矮小であることを思い知らされる。圧倒的な規模を誇る空と膨大な 質量を抱いた海の間に浮かんでいる継ぎ接ぎの船は、地球からすれば木の葉の一枚にも及ばない小ささだ。紀乃は なんとなく手を伸ばしてみるが、薄く恐怖を覚えるほど澄み渡りすぎた青空には届くはずもなかった。今頃、ガニガニは どうしているだろうか。ちゃんと餌を食べているだろうか、良い子にしているだろうか。 「はあ……」 紀乃が退屈と不安でため息を吐くと、左舷で釣り糸を垂らしていたゾゾが振り向いた。 「そう悲観なさらないで下さい、紀乃さん。あの人は服を着ることはしませんが真面目なので、ガニガニさんのことは きちんと御世話しているはずですよ。それに、ガニガニさんは元々野生動物なのですから、餌が足りなければ自力で 捜しに行きますとも。分別も付いているので畑も荒らしませんしね」 「だといいんだけどなぁ」 紀乃は火照りそうな額を押さえて、太陽の眩しさに瞼を細めた。見知らぬ国の言葉が側面に書かれたタンカーを 改造した大型船は、訳の解らない貨物を積んでいた。忌部島近海を航行していた船舶を手当たり次第に拿捕して 掻き集めた部品が満載され、船体の大半を占める貨物室には剥がした艤装が詰め込まれ、船体後部には長方形の 箱が据え付けられていた。強いて言うならば、パトリオットミサイルの発射機のような。 「一つ、出来た」 船体後部で火花を散らしていた小松が作業の手を止め、ぐるりと半球状の頭部を向けた。 「上出来上出来デキデキデキー!」 小松の六本足の足元で、体格の数倍はある艤装を担いだミーコが飛び跳ねた。紀乃が気のない目を向けると、 小松の足元には、全長五メートルはありそうな先端が尖った円筒状の物体が転がっていた。 「……ミサイルじゃん」 紀乃がその物体を指すと、小松はミーコの手から次の艤装を取り、ばちばちと溶接を始めた。 「ミサイルだ。これを撃って、奴を爆撃する。だが、俺では上手く装填出来ない。だから、紀乃が必要だ」 「さらっととんでもないこと言ってるけど、それ、発射出来るの?」 紀乃が頬を引きつらせると、釣り糸を上げたゾゾは針に食らい付いた魚を外してバケツに放り込んだ。 「出来ますよ。海水から抽出した水素に多少手を加えて炸薬に加工すれば、飛距離三千キロ程度のミサイルに」 「それ、普通にヤバくない?」 「それはもちろん。ヤバいからこそ、兵器として通用するのですよ」 ゾゾは新たな餌を釣り針に付けて、波間に投げ込んだ。 「小松さんの引いた図面はなかなかのものでしたし、俯角さえ上手く取れれば目標に着弾することでしょう。ですが、 完成までにはもうしばらく時間が掛かるようですので、今のうちにお昼の食材を集めておこうと思いましてね」 「ふーん……」 具体的な説明をされても、紀乃は今一つ現実味が湧かなかった。飛距離三千キロということは、忌部島から本土 までの直線距離の約二倍であり、充分に関東一円を狙い撃てる。だが、無差別に発射するわけではないのだろう。 鉄板を組み合わせただけの頼りない発射機の方向は定まっているし、昨日の小松の口振りからすれば特定の相手を 攻撃するようだ。しかし、小松の敵とはどこの誰なのだろう。有り体に考えれば、変異体管理局なのだが。 「小松さんが攻撃する相手って、どこの誰?」 紀乃が何の気成しに尋ねると、小松はヒューズを散らす溶接機を止めた。 「山吹丈二だ。俺は、あれだけは許せない」 明確な憎悪を含んだ声色で吐き捨て、小松は作業に戻った。山吹丈二と言えば、先日、紀乃が着た防護服一式の 本来の持ち主の名だ。その山吹丈二と小松の間に因縁があるようだが、紀乃には見当も付かなかった。だが、 見当が付いたところで何がどうなるわけでもないのだ。昨日、小松が言っていたように、他人の事情に突っ込んだ話を するのは良くないし、紀乃だって無闇に詮索されたくない。だから、紀乃は小松を気にしないことにした。話をした ければ小松の方からしてくるだろうし、したくないのならば聞き出さない方がどちらにとっても楽だ。 「成功するといいですねぇ、小松さん」 ゾゾは新たな魚を釣り上げ、バケツに放り込んだ。その中では、十数匹の魚が原色の渦を巻いている。 「では、魚も充分な数が連れたことですし、水素化合物の推進剤の調合をいたしましょう。危険ですので、紀乃さんも ミーコさんも第二貨物室には近付かないで下さいね。お昼御飯はその後で」 「あー、うん」 「解った解ったッタッタッター!」 紀乃が生返事を返すと、ミーコは両腕を上げて跳ねた。ゾゾの口から出た言葉のアンバランスさに、紀乃は変な 気分になった。ミサイルを発射出来るほどの威力がある水素化合物の推進剤と、釣ったばかりの新鮮な魚を使った 昼食を同列に扱えるのはゾゾぐらいではなかろうか。 「許せない相手かぁ」 紀乃は小松に人間味を感じ、ちょっとだけ親近感が湧いた。掴み所のない面々の中で、人格の面で言えば小松が もっとも解りづらい。口数も少ないし、ガニガニと違って一緒に遊ぶこともないし、共通の話題がない。気が付けば ミーコにまとわりつかれ、ゾゾから頼まれた土木作業を行い、擂り鉢状の工作場でよく解らないものを作っている が、それ以外はまるで知らない。近寄りがたいから聞き出しづらい雰囲気もあり、うっかり地雷を踏んで怒らせては ストレートに怖いからだ。いくら超能力者でも、全長五メートルの人型多脚重機に襲われたくはない。 小松の行動理念は山吹丈二に対する報復なのだろう。紀乃には具体的に負の感情をぶつける相手はいないが、 今後は解らない。変異体管理局にガニガニを捕まえられたり、殺されでもしたら、小松のような解りやすい破壊活動 を行うかもしれない。そんなことにしないためにも、今のうちから変異体管理局に強く出なければ。超能力を駆使し、 自分の身だけでなくガニガニも守り、ある意味では平和な日々を続けるのだ。 「えー、と」 紀乃は体を浮かび上がらせ、空に向けて四角い口を開いている発射機を見下ろした。どこにどうやってミサイルを 入れるのかを把握しておかなければ、仕事が滞ってしまう。だが、所詮は素人なので、どこに収めればいいのかが 一切解らなかった。なんだか情けない気持ちになりながら、紀乃はアンテナが立つ艦橋の屋根に着地した。視点を 高くしても目に映る景色は変わらず、空と海の他には何もない。こうしていると、この世には敵意を抱くべき相手も、 敵意を抱かれる相手もいないように思えるのだが、現実はそれほど美しく出来ていない。 「私の敵って、何だろ?」 人類に刃向かったのだから、人類全てが紀乃の敵になったのは間違いないだろう。だが、それは漠然としたもの であり、具体的に敵対しているわけではない。透明男の話が本当であれば、紀乃の所属は未だに変異体管理局 だというややこしい状況だが、この際はっきりさせておいた方がいいだろう。平凡でささやかな人生をねじ曲げ、紀乃と いう人間そのものを否定した相手なのだから、遠慮する必要はない。 思い切り戦ってやる。 10 7/7 |