どのくらい気を失っていたのだろう。 汗でべたつく肌に貼り付いた砂と口に残る異物感が最初に訪れ、次に強烈な乾きが襲ってきた。忌部は脱水症状に なっていないかを気にしつつ、痛む頭をさすりながら身を起こした。背中の上から何かが落下したので目をやると、 首が変な方向に曲がったミーコが倒れていた。工作場を見渡すと、いつのまにか小松も紀乃もガニガニもいなく なっていて、擂り鉢状の地形に吹き込んだ風が底で渦を巻いていた。 徹底的に分解された光学衛星は、主要部品を全て取り除かれていた。忌部はそれほど機械に明るい方ではないが、 レンズや基盤や記録装置に価値があることぐらいは解る。小松もそれを知っているから、妙な機械を作るために そっくり持ち去ってしまったようだ。こうしちゃいられない、と忌部は起き上がったが度重なるダメージでふらつき、 ミーコを思い切り踏み潰した。すると、目を剥いて舌を出していたミーコの鼻と口から、ぐにょりと寄生虫の固まりが 出てきたので、忌部は肝を潰したが目を覚まされては困るのでまたもや悲鳴を堪えた。水分が減ったせいで粘度が 増した唾液で懸命に砂を絡め取り、吐き出しながら、透き通っているだけの人間にはきつい斜面を駆け上った。 「で、あいつらは……」 忌部はぜいぜいと息を荒げながら周囲を見渡すが、誰もいなかった。ガニガニか小松の足跡を辿っていけばいい のではと判断して地面に目を凝らすと、小松の重量感溢れる窪みとガニガニの浅く削ったような爪跡が残っていた。 ここはすぐに追うのが優れた調査官だろうが、忌部の体力も気力もそろそろ限界だった。廃校に戻って口を濯いで 水でも飲んでから事を起こそう、と考えながら一機と一匹の足跡を目で辿ると、足跡は廃校に戻っていた。だったら 好都合だとほっとしながら、忌部は廃校に向かった。 疲れ果てたせいでいつもより遠く感じた廃校に到着した忌部は、真っ先に風呂場へと駆け込んだ。給水塔で 濾過された水が出る蛇口を捻って体を洗い流し、徹底的に口と鼻を洗い、砂を落とした。風呂場の床が砂っぽくなった のでそれも流してから、内出血が痛む肌から水気を払った。人の気配がする居間兼食堂を外から覗き込むと、ゾゾと 紀乃が昼食を摂っていた。ガニガニは巣の中に戻って餌を食べていて、小松は校庭の隅で光学衛星の精密部品を 基盤に溶接していた。忌部も大概に空腹だったが、任務が最優先だ。紀乃が離れていれば超能力のとばっちりを 食うこともないし、ミーコは気絶している、今を逃せば次はない。忌部はヒューズを飛ばしながら溶接している小松の 背後に近付き、その足を昇って操縦席に乗り込んだ。汗と水の混じった雫が落ちたが、すぐに乾くだろう。独りでに がこがこと動く操縦桿やギアを掴んだ忌部は、それを力任せに引いた。 「おうっ」 思い掛けないことに小松は仰け反り、溶接しかけていた部品を踏み潰した。 「ぐ、ご……」 自由を奪われた小松は無傷の基盤を取ろうとマニュピレーターを伸ばすが、忌部がギアを組み替えると上半身が 半回転し、基盤が薙ぎ払われて砕け散った。 「紀乃、お前か!」 中途半端な前傾姿勢で小松は抗議の声を上げると、居間兼食堂から紀乃が言い返した。 「そんなわけないじゃん。小松さんがドジったんでしょ」 「馬鹿を言うな、俺は正常だ!」 小松は紀乃にメインカメラを向けようとしたが、忌部がスイッチを下げたのでシャッターが下り、視界が奪われた。 小松はなんとかシャッターを上げようとするが、忌部はスイッチを折りかねないほど強く押さえていた。こうなれば、 後は簡単だ。脳が癒着していても人型多脚重機の域を出ない小松は操縦出来るのだから、彼の多目的作業腕で 光学衛星を粉々に壊してしまえばいい。小松自身が分解してくれたおかげで作業時間も短時間で済むだろう。 「わああああ」 情けない声を上げながら、小松はでたらめに両腕を振り回した。もちろん、忌部の操縦によるものだ。 「おわあああああああ」 六本足を前後左右に動かし、小松は校庭を右往左往している。小松が抵抗するので操縦桿も連動して動いたが、 忌部は気合いで押さえ込んだ。言うならば腹部に当たる部分に付いた操縦席もシェイカーの如く揺さぶられ、忌部は 何度も放り出されそうになったが、右手で操縦桿、左手でシートベルトを握り締めて堪えた。よろめいた小松が まだ手付かずの部品の山に倒れ込みそうになった、その時。 「きゃほははははははははははっ!」 あの奇声が轟き、小松の巨体が蹴り返された。がぁんっ、と砲弾でも命中したかのような打撃音が小松だけでなく 周囲の空気も震わせ、倒れ込みかけていた小松は姿勢を持ち直して直立した。六本のピストンが震動を吸収した 反動で視界が上下した忌部は、操縦席から出るか否か迷った。小松の足元で勝ち誇っているのは、案の定、ミーコ だった。色褪せたTシャツに包まれた胸を張ったミーコは、操縦席で身を縮める忌部を睨んだ。 「許さないナイナイナイナイナイッ!」 助走も付けずに操縦席の高さまで一息に跳躍したミーコは、操縦席に昇るための足場に捕まった。忌部は慌てて 内側からドアを閉めるが、いつになく恐ろしい形相のミーコは取っ手を掴んでがたがたと揺さぶった。 「出てこいコイコイコイコイコイッ!」 その力は小松の機体をも揺さぶるほどで、事態が飲み込めてきた小松は柳のようにしなりながら納得した。 「なるほど、俺の中に誰かいるってことか」 「考えるまでもありませんねぇ」 紀乃の頭越しに傍観していたゾゾが頷くと、紀乃も頷いた。 「うん。あの人だよね。知っていることを知っていてはいけないけど知っていることを知っていなければいけない人」 「おやおや。それでは、紀乃さんは知っていることを知ってしまったのですか。知ってはいけないと知って下さったと 思っていたのですが、知っていることを知ってしまっては仕方ありませんね」 ゾゾが肩を竦めると、紀乃はミーコの細腕に揺さぶられる小松を見上げた。 「でも、何しに来たの?」 「それは決まっていますよ、紀乃さん。あの方は職務怠慢もいいところな露出狂の現場調査官ではありますが、たま には真面目に仕事をして点数稼ぎをしなければならないのですよ。公務員でもクビになる時はなりますからね」 「じゃ、小松さんが悪用しようとしている人工衛星をぶっ壊しに来たってわけか。機密保持とかで」 「そうでしょうね。ですが、工作員としての腕は三流以下で職業意識も欠如しているので、ろくな成果を上げられずに ここまで来てしまったのでしょう。小松さんを操縦して事態を打開する、という思い付きはなかなかですが、その先が なければ何の意味もありません。さあ、紀乃さん、デザートのマンゴーソルベでも頂きましょう」 窓を閉めたゾゾが身を反転させると、紀乃は喜んだ。 「わあ、凄い! ゾゾって天才、そんなのも作れちゃうんだ!」 見えていないはずなのに、こちらの事情を洗いざらいぶちまけられてしまった。実際、ゾゾの言うように、点数稼ぎの ために破壊工作を行おうとしている。良くも悪くも単純な性格の山吹丈二には小細工は通用しないし、総指揮を 執る一ノ瀬真波は尚更だった。だから、明確な成果を示さなければならなかった。だから、この件は面倒ではあった が、成果を上げられれば忌部の立場も持ち直すに違いない。そんな打算の末に行動だったが、そう上手くいくはず もなく。操縦席の窓には敵意に充ち満ちた顔のミーコが貼り付き、小松は自分の操縦席を叩き壊すか否か悩んでいる らしく、先程から多目的作業腕が行ったり来たりしていた。 「壊すのは簡単だが」 スイッチを押す忌部の手が緩んだので、メインカメラのシャッターを開けた小松はがしゃりと一度瞬きした。 「お前みたいな面白い奴を壊すのは、少し惜しい」 「惜しくないナイナイナァアアアアイッ!」 ミーコはだんだんと操縦席の窓を殴り付け、歯を剥き出しにしている。 「そこでだ」 小松は半球状の頭部を前に傾け、操縦席の中で身を縮める忌部を捉えた。 「俺は光学衛星の部品を壊す。それを、お前が壊したことにして管理局に報告する。だが、その代わりに」 「代わりワリワリワリ!」 「俺達が本土に向けて出撃することを見逃せ。でなければ、壊す」 操縦席のフロントガラスに、小松の溶接機が突き付けられた。だぁん、とミーコは一際強くドアを殴った。 「壊す壊す壊すワスワスワス!」 「どっちにしても俺の大失態には変わりないだろうが。取引にもなっちゃいない」 忌部が頬を歪めると、小松の溶接機からばちりと火花が散った。 「二度は言わん」 「二度ないナイナイナイ!」 ミーコは汗ばんだ額をべたりとガラスに押し付け、弓形に唇を上向けた。この場合、笑顔ではなく威嚇だろう。 「ちょ、ちょっと考えさせてくれ」 小松はミーコが貼り付いているドアを押し開けて外に転がり出ると、居間兼食堂の勝手口に駆け込んだ。物音に 気付いたゾゾと紀乃が振り向くが、二人はすぐに自分の器に目を戻した。知っていることを知っていてはならない、 という変な取り決めを守ろうとしているらしい。忌部は一瞬迷ったが、とりあえずゾゾに話し掛けた。 「小松があんなことを言っているが、お前はどうする気なんだ、ゾゾ」 「どうもこうもしませんよ。小松さんがやりたいようにやればいいだけですし」 ゾゾは甘酸っぱく冷たいマンゴーソルベを食べ終え、スプーンを置いた。 「透明人間の小父さんがどうなったって、私達には関係ないもん」 紀乃はマンゴーソルベに付け合わされたヤギ乳のアイスクリームを食べ、その甘さと冷たさに弛緩した。 「ふぇえ……」 「変異体管理局をクビになったところで、行き着く先はどうせ変わらないのですから。いっそのこと、任務も何も放棄 してこちらに来てしまえばよろしいのですよ。そうすれば、楽になりますよ」 頬杖を付いたゾゾは、笑みを作るように単眼を細めた。 「お前らのようになりたくないから、俺は仕事をしているんじゃないか」 忌部は甘言ばかりを並べるゾゾにうんざりし、背を向けた。 「お前らがそうなら、俺にだって考えがある。乙型一号の現状を管理局に報告して、回収措置を取らせてやる」 紀乃を盾にすれば、紀乃に執心しているゾゾも判断を変えるはずだ。小松までもは押さえられないかもしれないが、 ゾゾだけでも押さえておけば大分違うだろう。廃屋まで無線機を取りに戻ろうと勝手口を出ると、忌部の目の前に またもやミーコが突っ込んできた。不可抗力だった一度目と二度目とも異なり、今度は鮮やかなドロップキックを 放っていた。忌部は回避行動を取る前に胸を両足で抉られ、背中を派手に引き摺りながら床に倒された。頭上から ミーコの勝ち鬨らしき怪鳥のような笑い声が聞こえる中、忌部の意識はブラックアウトした。 本日二度目の気絶だった。 空っぽの教室で、忌部は書き置きを見つめていた。 窓からは西日が差し込み、忌部の薄すぎる影が室内の陰りに馴染んでいた。校庭では、日が暮れてきて活動的に なったガニガニが動き回っていた。今し方目を覚ました忌部の体の上には、達筆すぎて少々読みづらい書き置きが 添えられていた。皆でしばらく出掛けてきます、冷蔵庫の中身はどうぞ御自由に、ガニガニさんの御世話をお願い します、と、母親が留守番をする子供に宛てて書くような文面がゾゾの文字で綴られていた。状況の厳しさと文面の 柔らかさのアンバランスさに戸惑いながらも、忌部は汗まみれの体を起こした。 台所に入った忌部は、まず最初に冷蔵庫を開け、良く冷えたドクダミ茶を呷った。干涸らびかけていた細胞の隅々 にまで水分が染み渡り、思わずため息が零れた。昼食は完璧に食べ損ねたので、夕食で補填しなければ。幸い、 冷蔵庫の中には出来上がった料理と収穫された野菜の余りがあった。夕食までの繋ぎと水分補給としてキュウリを 囓りつつ、忌部は食卓に付いた。咀嚼したキュウリが透き通った喉を通る様が、視界の端に映る。 「俺って奴は……」 忌部は自虐しながら、がりぼりとキュウリを噛み砕いて嚥下した。昼間の出来事は思い出すだけでも胸が痛む。 小松の操縦桿を奪った時は任務の成功を確信したが、ことごとくミーコに阻害された。相手が女の姿をしているだけの 寄生虫の固まりだと知っているはずなのに、見かけは割と美人なので警戒心が削げてしまう。ゾゾが言ったように、 忌部は工作員の才能はない。それどころか、私情に流されてばかりだ。接触するべきでない相手に次々と接触 しているばかりか、インベーダー達が島を脱するのを見逃してしまった。懲戒解雇か、機密保持のために暗殺されるか、 いっそインベーダー側に、との考えが頭を過ぎったが、それではこれまでの苦労が無駄になる。 「俺は、元に戻るんだ」 元の姿に戻ったら、変異体管理局を辞めて休学したままの大学に復学する。単位を全て取って卒業し、ごく普通の 企業に就職し、どこかの誰かと出会ってまともに恋愛し、結婚し、当たり前の家庭を築く。疎遠になった友人達と 連絡を取り、同窓会に出る。貯金をして、自家用車や一軒家を買う。体が透き通る前の人生と繋がるような人生を やり直し、収まるところに収まる平凡な生き方をする。世界平和も人類の行方も大事ではあるが、一番大事なのは やはり自分自身の人生だ。そのためには真面目に現場調査官の仕事を全うして自活しなければならないのだが、 今日も今日とてこの様だ。今度ばかりは懲罰ものだろう。覚悟しながら、忌部は深く深く嘆息した。 それにしても、ゾゾの作ったキュウリは旨い。 10 7/4 |