南海インベーダーズ




南国的絶対防衛線



 海も空も、おぞましいほど美しかった。
 高速船の窓から見える空には白い雲が漂い、打ち寄せてくる波は穏やかで、日差しは南下するにつれて熱量を 増していた。向かう先は南海の孤島だが、まだ見えてこない。東京を出航してから既に丸一日が経過していたが、 海原しか視界に入らない。デッキに出れば見えるかもしれないが、そんなことが出来る気力は爪先ほども残って いなかった。これが観光旅行であれば、歓声を上げて外に出ていたはずだ。潮風に髪を靡かせ、日差しを浴び、運が 良ければ出会えるであろうイルカの群れを待ち望んでいただろう。だが、今は、もしもイルカに出会えたとしても心は 少しも弾まない。それどころか、自由に波間を泳ぐ彼らに羨望を抱くあまりに海水に身を投じてしまうに違いない。
 死ねるものならこの場で死にたかった。けれど、自分がそんな勇気を持てるぐらいなら、状況はもっと好転していた はずだ。斎子紀乃は窓に映る半袖セーラー服を着た自分を見、滑稽さに笑い出しそうになった。南の島に行くのに、 どうしてこんな服を着てしまったのだ。二度と学校に通えないからか、それともちょっと早い修学旅行に行くの だと自分に暗示を掛けようとしたのだろうか。何にせよ、馬鹿馬鹿しい。どれだけ見た目を取り繕おうとも、普段の 延長だと思い込もうとしても、現実には抗えない。紀乃は半袖から出ている素肌の腕に爪を立て、ぐっと涙を堪えた。 少しでも泣いてしまえば、歯止めが利かなくなりそうだったからだ。
 それから三十分が過ぎ、高速船は南海の孤島に到着した。最新の高速船が停泊するには不釣り合いに思える、 年月によって風化しかけた港に入った高速船は速度を落とし、紀乃を降ろすためだけに長いタラップを伸ばした。 部活で使っていたスポーツバッグを抱えた紀乃がローファーの底で波止場を踏み締めると、高速船に同乗していた 戦闘服姿の自衛官が三つの段ボール箱を運び下ろしてきた。その自衛官が船内に戻るとタラップはすぐに上がり、 高速船は手狭な港から脱して旋回し、本州に向かって去っていった。紀乃は高速船の船影が水平線に溶けるまで 見つめていたが、喉の奥に痛みの固まりが迫り上がって膝が震え出した。

「待って、待ってよぉ!」

 紀乃はスポーツバッグを投げ出して駆け出し、もう見えなくなった高速船に叫んだ。

「どんなことだってするから! 大人しくしているから! だから、お願い、一緒に連れて帰ってぇええええっ!」

 陽炎が揺らぐほど熱した波止場を走るうち、片方のローファーが脱げて転がった。

「だから、お願いぃ……」

 海草の切れ端やフジツボが付着した波止場の端まで辿り着いた頃には、紀乃の靴下は血が滲んでいた。

「一緒に、連れて帰ってぇ……」

 震える膝を折って崩れ落ちた紀乃は、涙を拭う余力すらなかった。破れかけた紺のハイソックスと傷だらけに なったローファーを乱れたプリーツスカートが包み、波止場の割れかけたコンクリートの熱が素肌を痛め付けてきた。 滲んだ涙は潮風に乾かされ、火照った頬が引きつる。体はこんなにも熱いのに体の芯は凍えたように冷たく、恐怖が セーラーに覆われた両肩を震わせた。頬から顎に伝った涙が膝を濡らし、ひどい泣き声を上げながら喘いでいると、 紀乃の耳に自分の泣き声とも波音とも違う音が届いた。
 じゃり、と、波止場に堆積した砂が何者かに踏まれた。潮風が一際強く吹き付け、島に生えた木々がざあっと 荒く騒いだ。紀乃は大きく目を見開き、吸い込みかけた息を止めた。離島に取り残された即物的な恐怖が増大し、震えが 激しくなった。真夏のような暑さの中にも関わらず、がちがちと歯が鳴って寒気が背筋を逆立て、擦り傷だらけの はずの手足の感覚が失せていった。振り返れば、きっとアレがいる。何度となく見せられた資料に載っていたアレだ。 粒子の粗い写真だけでも充分気色悪かったので、実物を直視したくなかった。
 逃げ出したい。逃げなければ。逃げるしかない。だが、紀乃の足は動かなかった。焼け付いたコンクリートに 恐怖によって足が縫い付けられ、立ち上がろうにも腰が抜けてしまった。元々自分は恐がりだと思っていたが、 ここまでひどかったとは。あまりの情けなさに笑い出しそうになったが、口元が奇妙に歪んだだけだった。
 一歩、二歩、三歩。砂を踏み締める足音に混じり、何かを引き摺る音が聞こえた。きっと、それは太い尻尾を 引き摺っているからだ。砂を躙る音よりも硬質な摩擦音は、爪先が当たっているからだ。爽やかな潮風に混じる異臭は、 アレの臭気だ。涙で濡れた首筋に暑さとは違った意味で汗が浮き、セーラー服に染みた。

「おやおや」

 人間よりも低く鈍い声が、紀乃の背に届いた。

「これはこれは」

 ずりずりと尻尾を引き摺りながら、それが紀乃に近付いてきた。

「あ……ぁ……」

 紀乃が声にならない声を漏らしながら軋む首を曲げると、それが紀乃の前に回り、逆光の中に立った。

「ようこそ。変異体隔離特区・忌部島へ」

 日差しの輪郭を纏った巨体の生物は、四本指の分厚い手を滑らかなウロコが張り詰めた胸に添えた。

「私の名はゾゾ・ゼゼ。この島にいらしている時点で、私の身の上は御存知かと思いますが」

 知っている。嫌になるほど教え込まれた。夢に出たし、何度もうなされた。涙で潤んだ目を上げた紀乃に、 ゾゾは裂けた口を開いて牙を覗かせた。紀乃の頭上に落ちた影は大きく、ゾゾの体格の巨大さを見せつけていた。 一言で言えば、ゾゾは二足歩行型のトカゲだった。だが、これまで紀乃が見知ってきたトカゲよりも遙かに大きく、 ウロコの色は原色の紫だった。瞬きをするたびに瞬膜に覆われる目は単眼で、鼻先が突き出ている顔の中心に 埋まり込んでいる。見るからに体温が低いゾゾの周囲だけは、この島の熱気すらも及んでいない。紀乃の 肌や鼻腔を掠める匂いは腐敗しかけた魚のように生臭く、生理的嫌悪感を煽り立ててくる。背景が美しすぎるが ために、ゾゾだけが異様だった。それさえなければ、この島は間違いなく楽園だ。

「あなたの名は」

 ゾゾは紀乃の前に膝を付き、牙の隙間から細長い舌をにゅうと出した。紀乃は声を出せずに身を縮めると、ゾゾ の単眼が下がってセーラー服の胸ポケットに入っている学生証に向いた。ゾゾは学生証を爪先で挟んで半分ほど 引き出し、学生証の記名欄に書き込まれた振り仮名付きの名を読み、頷いた。

「サイコ・キノさん、と仰るのですね」

 ゾゾの視線が上がり、波止場に転がされている自衛隊の名が入った段ボール箱に向いた。

「戦闘糧食が入っていますね。T型が十セット、U型が十セット、救難糧食がA食、B食、共に五セット、二リットルの 長期保存水が十本、断熱シートが一枚、救急医療品が一セット、懐中電灯が一本、と、ラベルにありますが」

「無線、とかは?」

 僅かな希望を求め、紀乃の口から掠れた言葉が零れた。間を置かずして、ゾゾは即答する。

「ありません」

「じゃあ、やっぱり、私は」

 紀乃が唇を噛み締めると、ゾゾは同情を示すように優しげな声色を発した。

「あなたは私達と戦うために差し向けられたようですね。旧名斎子紀乃、乙型生体兵器一号さん」

 二つの段ボール箱の側面に、自衛官の乱雑な字でその名称が書き込まれていた。乙型生体兵器一号用戦闘糧食。 それは紀乃が人間扱いされていないことを示す名であり、二度と人間らしい生活を取り戻せない証でもあった。紀乃は 敵前であることも忘れて泣き出した。肺の空気を全て絞り出し、出せる限りの涙を落とし、現実と戦った。
 その間、ゾゾは何も言わなかった。




 一週間前。斎子紀乃は、人間ではなくなった。
 切っ掛けはテニス部のミーティング後に顧問に話し掛けられたことだった。紀乃は引退を控えていたが、近頃急に 成績が伸び始めた。それまでは部の中でも特に目立たず、成績もぱっとしなかったが、それまで打てなかったボールを 打ち返せるようになっていた。三年間所属していたのに、公式戦に出られたのはレギュラーの選手が急病で欠場した一度だけ だったので、高校に進学したら別の部活に入ろうと思っていた矢先だった。紀乃はただ運が良かっただけだろうと思って いたが、顧問は珍しく紀乃のことを褒めてくれた。顧問からは目を掛けられたこともなければ気にも留められていない だろうと思っていたので、紀乃はうきうきしながら下校した。方向が一緒の部員達と途中まで歩き、道中のコンビニに 寄って漫画雑誌を立ち読みしたついでに菓子パンを買って空腹を紛らわし、さあ家に帰って夕ご飯、だと横断歩道を渡った。
 もちろん、信号は確かめた。青信号だったし、車通りも少なかった。それなのに、急加速した乗用車が交差点を曲がり、 紀乃の目の前に突っ込んできた。痛い、と思ったのは、昼間の熱気が染み込んだアスファルトに擦り付けた右肩から、血が 出ていることを知った後だった。吹き飛ばされた瞬間の記憶はなく、何が起きたのかすら上手く把握出来なかった。周囲が 騒がしいな、とぼんやりした頭の片隅で考えているうちに、紀乃の体の形にボンネットがへこんだ乗用車から青ざめた 運転手が駆け出してきた。その後の記憶は更に曖昧で、明日は塾がある、帰りが遅くなるからドラマの録画をしなきゃ、などと どうでもいいことばかりを考えていた。痛みが一番強いのは後頭部で、切り傷とも打撲とも違った熱を持った腫れぼったい 痛みがじんわりと頭全体に広がっていた。
 赤信号に構わずに突っ込んできたわりにはまともな神経を持ち合わせていた運転手は、すぐさま救急車を呼んで 紀乃を手近な病院に運んでくれた。不幸中の幸いで紀乃には骨折も捻挫もなく、左脇腹の打撲と右肩の打撲と擦過傷、 そして後頭部の打撲だけだった。傷の手当てをされて精密検査をされているうちに泡を食った両親が病院を訪れ、医師と 警察官から紀乃が無事であることを説明されると涙を浮かべんばかりに喜んだ。事故を起こした運転手は動揺しきりで、 両親が逆に諌めるほど謝ってくれた。念のために一日入院した方が良い、と紀乃は処置室から病室に移され、両親は 紀乃の身の回りのものを持ってくるために一旦家に帰った。
 一人、病室に残された紀乃は、大部屋のベッドでじっとしていた。点滴に痛み止めが入れられたこともあり、意識が 薄らいでいた。子供の頃から健康体だったので病院とは縁遠く、病室が物珍しい。窓際から見える街並みの夜景が 綺麗だなと思っていたが、眠気には勝てなかった。後頭部の痛みは次第に脳全体に広がり、ずくんずくんと心臓の 鼓動と共に脈打っていたが、CTスキャンには何も映っていなかったし医師も大丈夫だと言ってくれたので、単純に 事故に遭ったショックなのだとばかり考えていた。
 夢とも現実とも付かない意識の狭間に漂っていると、前触れもなくカーテンレールが弾けた。それは、丁度紀乃が 瞼を開けた瞬間だった。ベッドを囲むカーテンレールの端が壊れて、ねじ曲がったフックが垂れ下がり、クリーム色の カーテンが大きくたわんでいた。なんで突然壊れたんだろう、と不思議に思いながら目線を上げてみると、今度は カーテンレール自体がひしゃげた。見えない手が引き剥がしたかのように、ネジと天井の破片を零しながらくの字に 曲がった。その次は、カーテンが破れて糸が散った。更にその次は薄型テレビの画面が殴られたように抉れて転げ 落ち、その次の次は洗面台の鏡が砕け散り、その次の次の次はベッドの上にある棚が真っ二つに割れた。
 夢に違いない。これが現実であるわけがない。紀乃は信じられない思いで目を開いたが、目に見えない何者かが 暴れ回ったかのような病室は消え去らなかった。打撲の痛みを堪えながら身を起こし、ぎゅっと糊の効いたシーツを 握り締めるが、手の汗が吸い取られただけで惨状は元に戻らなかった。それどころか、止めに窓が割れた。

「これって」

 どういうこと、と言いかける前に、異変に気付いた女性看護士が駆け込んできた。

「大丈夫ですよ、すぐに先生を呼んできますからね。そこを動かないで下さいね」

 言葉の割に顔を引きつらせた若い看護士は、廊下を走って医師の名を叫んだ。事情を知っているのだろうか、と 紀乃が看護士に追いすがろうとするが、頭の痛みが増してベッドから下りられなかった。自分はどうなるんだろう、これは 幻覚なんだろうか、そうでなければポルターガイストだろうか、でなければ、でなければ、でなければ。

「こりゃひどい」

 看護士に連れられて大部屋に入ってきた医師は、先程紀乃を受け持ってくれた当直医だった。紀乃はほんの少し 安堵して頬を緩めかけると、医師は不安げな顔の若い看護士達に指示を飛ばした。

「取り押さえろ! 鎮静剤の準備だ! 変異体管理局に連絡、すぐにだ!」

 訳も解らないまま、紀乃は看護士達の何本もの手でベッドに押さえ付けられ、それまで受けていた点滴を乱暴に 外され、痣が出来るほど強く握られた腕に注射を打たれた。嫌だ、何で、怖い、と叫んでいたかもしれないが、この時の 記憶は事故にあった直後よりも曖昧だった。荷物を持って戻ってきた両親が病室の外で医師に止められ、医師から 説明を受けている様を見たような気がしたが、涙と眠気で視界がぼやけてよく見えなかった。後から思えば、その時に 瞼をこじ開けてでも目を見開いて両親の顔を見ておくべきだった。そうすれば、ほんの少しだけなら後悔も減ったかも しれないのに。だが、そんなことを考えても何もかも手遅れだった。
 その後、紀乃は寒気で目を覚ました。病院の入院着を着ていたはずなのに、下着も残さずに剥ぎ取られていた。 喉がからからで空腹なので、何か飲ませてと言おうとしたが口が開かなかった。がちん、と歯に異物が当たり、舌には 鉄臭い味が広がった。アイスクリームが残ったスプーンを舐めた時よりもずっとずっと金気臭く、苦かった。嘔吐感が ぐえっと喉から迫り上がり、唇の端から唾液が溢れ、それを拭おうと手を挙げようとしたが帯状のものに阻まれた。 薄暗い中で無理に目を動かすと、紀乃は丸裸で硬いベッドに拘束されていた。その上には手術室に設置されている ようなライトがあり、医療器具の入ったステンレス製の四角いバットがきらきらと輝いていた。あれで殺される、腹を 裂かれる、と思った途端に紀乃の内に途方もない恐怖が生まれ、見開きすぎて乾いた目の端からぼろぼろと涙が 溢れて髪と耳元を濡らした。猿轡の奥から声にならない声を出し、がちゃがちゃと金具を鳴らしながら暴れるうちに、 凶器以外の何者でもない医療器具が浮かび上がった。ほんの数センチだけだが宙に舞い上がった滑らかな刃は、 四方八方に飛び出した。その一本が紀乃を拘束するベルトを千切らないかと願ったが、そんなに都合の良いことは 起きず、壁に激突して勢いを失ったメスや鉗子はそれきり動かなかった。残るはステンレス製の四角いバットだけと なったが、それだけは浮かび上がらなかった。紀乃はぜえぜえと荒い呼吸をしながらバットを睨み付けると、べこん、と バットの側面が殴られたように抉れ、バットもまた数センチだけ宙に浮いた。あらん限りの恨み辛みを込めて睨む 目に力を入れると、バットは回転して頭上のライトに激突し、三つのライトを砕いた。ライトとカバーの細かな破片が 紀乃の素肌に降ってきたが、それもまた、肌を切り裂く寸前で凍り付いたように空中に釘付けにされた。いや、違う。 止まれ、と紀乃が命じたからだ。命じたから、念じたから、思い描いたから、物体は動いた。
 それから丸一日が経過し、紀乃はまた別の場所に連れて行かれた。入院着よりも飾り気のない服を着させられ、 目隠しと手錠をされ、犯罪者のように扱われた。移動する時は常に女性自衛官に間を挟まれ、トイレに行く時すらも 監視され、完全に自由を奪われた。病院、手術室に続いて紀乃が押し込められたのは、白い壁で出来た狭い部屋 だった。窓はあれども鉄格子が填っていて、壁は隈無くクッション材が敷き詰められていて、天井には監視カメラが あり、部屋の隅には洋式トイレが丸出しになっていた。独房か、そうでなければ精神病院の隔離病棟だった。
 郵便ポストのように小窓が開閉する部分から中に突っ込まれた乾いたパンと塩辛いスープだけの味気ない食事を 摂っていると、見知らぬ人間が次々に訪れた。見るからに偉そうな医師とその助手達、政府高官であろうスーツ姿の男、 最後には制服姿の自衛官がやってきた。皆、紀乃を眺め回しては難しい言葉をやり取りし、まるで頭が回らない紀乃に 細かな文字がびっしりと書かれた書類を突き付け、署名と捺印を求めてきた。印鑑は両親が入院の手続きのために 持ってきたであろう三文判で、ボールペンは訪問者達が持ってきたものだった。書類の内容を読もうと思えば読めたの だろうが、読んでしまえばますます悲しくなるので一文字も読まないように気を割いた。だが、署名するためには多少は 目に入り、そのたびに泣きたくなった。人権放棄、生体兵器登録、氏名変更、死亡届。
 どれもこれも、紀乃を人間扱いしないという証明書だった。彼らの言葉は頭に入れたくなかったので、ほとんどを 聞き流していたが、いくつかは頭に残った。それは紀乃が超能力に目覚めたミュータントであり、ミュータントである 紀乃は生体兵器になることで生存権を付与され、生体兵器はいかなる命令の拒否権はないというものだった。紀乃の 十四歳と十ヶ月弱の人生が否定された瞬間だった。当然紀乃は泣いたが、そのたびに真っ白な防護服姿の人間が 何人も飛び込んできて取り押さえられ、鎮静剤を打ち込まれた。
 そして昨日。紀乃はそれまで慣れ親しんだ斎子紀乃という名を奪われ、乙型生体兵器一号という新たな名を与え られ、小笠原諸島南洋の離島に送り込まれることになった。紀乃を隔離して拘束した政府側にも僅かながら恩情が あったらしく、その日だけは紀乃に多少の自由が許された。といっても、持ち込まれたテレビを見たり、食事は母親 の手料理だったり、デザートが付いてきたり、私物が手元に戻ってきた程度だった。通学カバンと兼用していたエナ メルのスポーツバッグからは教科書が抜き取られ、その代わりにセーラー服とジャージと母親が入れてくれた替え の下着や靴下が入っていた。馴染み深い洗濯物を見つめていると涙が込み上がったが、泣いてしまうとまた注射を 打たれてしまう、と歯を思い切り食い縛って涙を堪え、目元を擦って誤魔化した。
 覚悟なんて決まるわけがないので、紀乃はテレビを見て過ごした。二度と見られないかもしれない、と思うと、 それまではただ下らないだけだった芸能界のゴシップや地方自治体のニュースや政財界のスキャンダルが、やたらに 面白く感じた。子供向けのアニメや絵柄が綺麗だけど中身のないアニメにチャンネルを合わせてみたり、教育番組、 料理番組も食い入るように見た。夕食を食べながら好きな俳優が出ているドラマが終わると、消灯時間だ、と部屋の 外から告げられてテレビの電源も部屋の明かりも落とされた。それがなんだか自宅にいるような感じだったので、 紀乃は笑いそうになった。けれど、ぐいっと片頬が吊り上がっただけで声は喉の奥に詰まってしまった。
 狭いベッドに制服のまま横たわると、事故に遭ってから五日ぶりに入らせてもらった風呂で丁寧に髪を洗ったため、 シャンプーの匂いがした。けれど、それは自宅で使っているものとは違って匂いが強かった。目が覚めたら自分の部屋に いますように、といつものお祈りをしてから、紀乃は眠ろうとした。眠っていると、その間だけは白い部屋を忘れられるからだ。 学校に通い続けている夢を見たし、部活帰りに交通事故に遭わなかった後の夢も見たし、進学して大人になった夢も 見ることが出来た。本当はそっちが現実で、今のこの状況が悪い夢なのだと夢の中で何度も願った。夢と現実が 逆転する夢も見た。けれど、最後には目が開き、狭くて息苦しい白い部屋の隅でじっとしている自分に気付いてしまう。 そして、抗えない絶望に潰されそうになった。
 感情を殺せたら、どれほど楽だったことか。







10 5/6