ゾゾ・ゼゼの背は大きかった。 人間のそれよりも遙かに太い背骨が分厚い皮を押し上げ、前傾気味の首に合わせて前のめりに湾曲していた。 背骨に連なる尻尾は根本は紀乃の胴体ほどの太さがあり、先端に行くほどウロコが硬くなっているようだ。枯れ葉の 堆積した上り坂を踏み締めるカギ爪の生えた足も大きく、縦横含めて紀乃の足の三倍はあった。きっと私はこの オオトカゲに喰われて死ぬんだ、と泣き疲れた頭で考えながら、紀乃はふらふらと左右に揺れながらゾゾの背中を 追って歩いていた。ゾゾの両腕には、政府が紀乃に分け与えてくれた戦闘糧食入りの段ボール箱が抱えられている が、ゾゾの足取りは軽かった。体格と見た目通りに腕力も強いようだった。 「落ち着かれましたか、紀乃さん」 ゾゾは一旦足を止め、尻尾を引き摺りながら振り返った。紀乃は一週間ぶりにまともに浴びた太陽光の強さと暑さに うんざりしていることもあり、すぐに返事が出来なかった。あの港から歩き通しなので、喉が渇いたせいでもある。 紀乃が木陰で足を止めてよろめくと、ゾゾは段ボール箱を降ろして近付いてきた。 「そうですね、少し休まれた方がよろしいでしょう」 私に近付かないで、と言おうとしたが、紀乃は乾いた喉に粘ついた唾を飲み下すのが精一杯だった。だが、ゾゾは 紀乃に気遣っているらしく、何も言わなくても一メートルほど距離を置いた場所に腰を下ろした。ゾゾは段ボール箱の 片方を引き寄せると、四本指の一本を立てて爪をガムテープに当て、カッターを差し込んだかのように綺麗に 切り裂いた。その中に詰まっていたのは長期保存水のペットボトルで、ゾゾは段ボール箱を紀乃に差し出した。 「どうぞ、お飲みになって下さい。これはあなたの所持品ですので」 あんたの触ったモノなんていらない、とはねつけたかったが、紀乃は体力も気力も限界だった。気温よりもいくらか 低い温度のペットボトルを一本掴み取ると、汗でぬるつく手をスカートで拭ってからキャップを捻り開け、喉を鳴らして 水を飲んだ。部活を終えた後に飲むスポーツドリンクと同じかそれ以上においしく、紀乃は胃がたっぷりと膨らむまで 飲んでしまった。ペットボトルを下ろした紀乃は、熱気に水分を搾り取られた細胞の一つ一つまでが潤う感覚を 味わってから、ペットボトルのキャップをきつく閉め、慎重にゾゾに目を向けた。 「どうして、あなたは私に気を遣うの?」 紀乃は縋るようにペットボトルのキャップを握り締めると、ゾゾは瞬膜を出して眼球を潤した。 「常識的に考えて、あなたはとても悲惨な境遇でいらっしゃるからです。紀乃さん」 「常識って……」 オオトカゲなんかには同情されたくない、と紀乃は言いかけたが黙った。誰かに同情してほしいと、この一週間で 何度となく思った。自分を取り巻く状況がひっくり返ってしまった。帰れるものなら、今すぐにでも自宅に帰って両親に 甘えて慰めてもらいたい。或いは、友人を相手に思う存分泣き喚きたい。けれど、最早紀乃には何一つ許されない。 生体兵器なのだから。だから、同情されたのが嬉しくもありやるせなかった。 「ていうか、どうして私のことを知っているの?」 怖気立った紀乃が身を引きかけると、ゾゾはそれを押し止めた。 「段ボール箱に書かれた識別名称とこの島に隔離された私の境遇を考えれば、おのずと把握出来ます」 「だったら、やっぱりおかしい。私に気を遣うなんて」 紀乃がペットボトルを潰さんばかりに強く握ると、ゾゾは首をゆったりと横に振った。 「いえいえ。立場は違えど、私とあなたは同じ境遇ですから」 ゾゾは口をほとんど開かずに喉だけを震わせ、見た目にそぐわず流暢な日本語を操った。 「いえ、立場もそれほど変わっていませんね。あなたはどこをどう見ても人間側から見限られていますし、私や 他の者達もそうです。安直に脅威であると判断されているのは同じです」 「う……」 紀乃が涙を滲ませそうになると、ゾゾは紀乃を諌めた。 「ああ、どうかお泣きにならないで下さい。後が面倒ですので」 「私だって、泣きたいわけじゃない。でも、そうでもしなきゃ、気が狂いそうだから」 紀乃は汗が染みた袖で乱暴に目元を拭い、日差しで火照った頬を歪めた。 「正気を保つ術はただ一つです、紀乃さん。この状況に順応する他はありません」 ゾゾが単眼で覗き込んできたので、紀乃は身を引いたが、勢いが良すぎて背後の茂みに背中が突っ込んだ。 「だけど、私にはそんなこと」 「出来ますとも。出来なければ、あなたは遠からず死にます。心が先か、体が先かは解りませんけどね」 ゾゾは潮風に揺れる木々を仰ぎ見、心地良さそうに目を細めた。 「私がこの星を訪れたのは、あなた方の時間感覚で言い表せば大変な昔でしてね。経緯は申し上げられませんが、私は この星に辿り着きました。ですが、その際に宇宙へ戻る術を失い、この惑星に止まらざるを得なくなりました。幸いなことに 私の身には生体操作思考変異能力、簡潔に言い表せば一種の適応能力ですが、それのおかげで私の肺は酸素と窒素と 二酸化炭素とアルゴンの化合物を吸収出来るようになり、酸素と水素の化合物を体液として変換出来るようになり、 アミノ酸によって構成された物質を摂取出来るようになりました。私の肺は本来であれば硫黄と窒素と僅かな酸素の 化合物を吸気する仕組みになっていますし、消化吸収出来るアミノ酸の塩基配列も大きく異なりますが、時間を掛けて 体を変えていったおかげで今日この日まで生き延びていられるのです。生きなければ何事も始まりませんし、私の 本来の目的も果たせず終いになってしまいますからね」 「あなたが生きる理由って、やっぱり、地球と人類をどうこうするため……?」 「ええ。異星体は地球人類を侵略するものだと決まっているではありませんか」 瞼を少し下げたゾゾは、表情が窺いづらかったが語気が得意げだった。その様に、紀乃はゾゾの態度の柔らかさ で解けかけていた警戒心が張り詰めた。教科書より硬い文体なのでろくに頭に入ってこなかった政府の資料通り、 爬虫類型異星体一号、ゾゾ・ゼゼは地球を侵略しようとしている。彼が持っている生体操作能力がどれほど のものかも解らないし、どれほどの時間を掛けて行われることなのかもはっきりとは解らなかったが、それが実行 されてしまえば人類には脅威だ。人間や地球上のどんな生物とも体の構造が違うゾゾには、きっとどんな毒も武器 も通用しないのだ。だから、こんな島に隔離して。 「……あれ?」 そこまで凄い相手を、なぜ政府は隔離出来たのだろうか。紀乃が疑問に首を捻ると、ゾゾが問うた。 「何か質問でもおありですか?」 「はい。ゾゾ……って、力もあるし、肌も硬そうだから、自衛隊とか警察の使う武器なんて効かないよね?」 躊躇った後に呼び捨てにした紀乃に、ゾゾは答えた。 「ええ。体を自在に硬化出来ますので、通常兵器は無効ですが」 「毒ガスとか、細菌兵器とか、そういうのも、全然?」 「呼吸器と体内成分を調節してしまえば、どうにでもなりますね」 「じゃあ、どうして政府に捕まったの?」 紀乃が尋ねると、ゾゾは露出した鼓膜の手前まで裂けた口を薄く開いた。 「捕まったのではありませんよ、捕まえて頂いたのです。長らく宇宙を旅していたので、季候の良いところでのんびり したいとも思っていたのです」 「ああ……」 だから、こんなにも気楽なのか。紀乃は腑に落ちると同時に、肩の力が抜けてしまった。自分の中途半端な 超能力如きで、ゾゾを倒せるわけがない。万が一倒せたとしても、その後はどうしろというのだ。政府が寄越した 食糧はほんの少ししかないし、離島で一人で生き抜けるような知識も体力もない。飢え死にするか、毒ヘビか毒虫に やられるか、食中毒を起こすか、入水自殺をするか、のいずれかで死ぬだろう。訳の解らない生き物を倒す戦力どころか、 厄介払いをされただけだ。殺処分するよりは少しだけ有効な活用法だが、要は緩やかな処刑だ。 「ですので、紀乃さん」 ゾゾの分厚い手が、紀乃の前に差し出された。 「私達と人生の余暇を楽しんでみてはいかがでしょうか」 「だけど、私はあなたと戦わなきゃいけないって、政府の人が」 紀乃は考え込み、ぎゅっと膝を合わせた。青く厚い葉を広げる木々の陰はひんやりしていて、これまでの道中で 流した汗は驚くほど涼しい風に拭われた。ゾゾの言っていることをすぐに信用するわけにはいかない。訓練なんて まるで付けられずに島に放り込まれたが、この島に隔離された異形達と戦うという大義名分はある。それがあるから、 自分が人間であることを許されているような気がした。それを果たせるとは到底思えなかったが、戦って勝てばまた 元通りの生活が送れる、と思えばこそ生き延びたい気持ちも沸いてくる。だが、勝てなかったら、紀乃は野垂れ死に するだけだ。通り掛かりの船に助けを求めようにも無線すらなく、食糧だって乏しい。大事にしなければならない水も、 ゾゾが渡してくれたペットボトルの半分近くを飲んでしまった。野営しようにも必要な装備はない。生き延びるためには ゾゾの申し出を受けるべきなのだろうが、人間であることにしがみついていたい。 「決めかねるのでしたら、すぐに答えを出さなくてもよろしいですよ、紀乃さん」 ゾゾは尻尾を丸めて胡座を掻き、楽な姿勢を取った。 「思い悩む時間など、いくらでもあるのですから」 「じゃあ、もう少し休んでもいい?」 「ええ、どうぞどうぞ。長旅でお疲れでしょうから」 ゾゾが快諾したので、紀乃は無意識に詰めていた呼吸を緩めた。肩から提げていたスポーツバッグを開き、柔軟剤 混じりの洗濯の残り香がふわりと立ち上ったが、実家を思い出させる懐かしい匂いは潮風に掻き消された。紀乃 は汗を拭うためのタオルと疲れを癒すためにキャンディーが入った袋を取り出し、顔や首筋の汗を丹念に拭ってから 足に付いた泥はねや木の葉の欠片も払い、ソーダ味のキャンディーを開けて口に入れた。 「ん」 舌の上で弾ける甘酸っぱさを感じていると、ゾゾの視線を感じたので、キャンディーの袋を彼に向けた。 「一つ、食べる?」 「これはこれは。ありがたく頂きます」 ゾゾは人差し指と親指だけを袋の中に入れ、ごそごそと探ってからコーラ味を出した。牙を使って小さな袋の 端を破ると、器用に小さな飴玉を細長い舌の上に置き、味わった。 「泡立ちますね」 「炭酸入りだもん。私、そういうのが好きだから」 「ええ、私も嫌いではありません。二酸化炭素化合飲料はとても面白いですからね」 ゾゾの言い回しがいやに大袈裟に感じ、紀乃は不意に笑いが込み上がってきた。いちいち笑うほど面白い ことでもないだろうに、出会ったばかりなのに失礼だ、癪に障ってしまったらどうする、と、飴玉を口の中で転がして 笑いを誤魔化した。しかし、なんとも奇妙な光景だ。事実上は敵対関係にあるはずなのに、並んで座って同じ袋から 取り出した飴玉を舐めているなんて。 「んーと……」 紀乃は飴玉の小袋をスポーツバッグのポケットに入れてから、衣服の間で歪んだ書類を出した。高速船に 乗せられる前に政府の人間から渡された、忌部島に隔離されているミュータント達の資料だった。 「えっと、これがゾゾで」 識別名称・爬虫類型異星体一号。解説文の下には、彼の全身写真。 「これが、もう一人の」 識別名称・変異型寄生虫罹患者一号。解説文の下には、明るい笑顔が印象的な若い女性。 「で、これが……」 識別名称・二八年式人型多脚重機寄生体一号。解説文の下には、強面で屈強な青年と人型重機の写真。 「こちらがミーコさんで、こちらが小松建造さんですね」 ゾゾは紀乃の脇から手を伸ばし、二人の写真を指差した。 「あ、そうなんだ。どれも名前がないから、この人達のことをどう呼んだらいいか解らなくて」 私と同じだ、と紀乃は言いかけたが、口にしたら切なくなるので飲み下した。 「誰も彼も一号ですから、そう呼ぶにしても誰を呼んでいるのか解らなくなってしまいますからね」 ゾゾは手を挙げ、進行方向にそびえる小高い山を指した。 「私達が暮らしているのは、あの休火山の向こう側の集落があった土地です。ゆっくり歩いても一時間もせずに到着 出来ますので、もう一頑張りですよ」 「でも、港は山の向こうだったよね。それって不便じゃない?」 「私達に港を使う用事があるとお思いですか? それに、あの港は私を忌部島に隔離する際に政府が急拵え したものであって、利便性など無視されているのです」 「それもそうだね。だったら、どうしてゾゾは私を出迎えに来てくれたの?」 「散歩のついでです。干物の仕込みが終わりましたので、少し時間を持て余してしまったんです」 「干物? って、あの魚の?」 ゾゾから漂う生臭みの正体が解ると、紀乃はますます気が抜けた。不気味さが半減する。 「ええ。その干物です。周囲は海ですから材料には事欠きませんし、暇を持て余さずに済みますから。保存の利くもの を作り置きしておけば、それだけ魚取りに出る回数も減らせますしね」 「じゃ、これって……」 紀乃が二つの段ボール箱を見やると、ゾゾは水の入った箱の蓋を閉じた。 「保存食になりますね。自給自足とはいえ、万が一と言うこともありますから」 「あ、あの、それじゃ私は」 「もちろんご馳走いたしますよ。田畑もありますから米や野菜も揃っていますし、水も雨水を濾過して煮沸したものが ありますし、量も充分ありますから一人分が増えたところで大した負担にはなりません」 「寝床、とかは」 「もちろんありますよ。私達の住居は廃校ですので、部屋は余っています。コマツさんは体格が大きいので体育館の 床を抜いて使っていますし、ミーコさんは一つの教室を丸々、私は職員室を使っていますが」 「意外に優雅だ」 「侵略者である私達が、おどろおどろしくしていないのが御不満ですか?」 「あ、いや、そういうことじゃ」 「さて、そろそろ出発いたしましょう。飴玉も溶けて消えたわけですし」 ゾゾは腰を上げて尻尾を一振りし、湿った枯れ葉と土を払ってから段ボール箱を両脇に抱えた。紀乃は飲みかけ の水のペットボトルをスポーツバッグに詰めてから、靴擦れを起こしかけているローファーを履き直し、ゾゾを追って 歩き出した。道は真っ直ぐ伸びていて歩くにつれて傾斜はきつくなったが、水と飴玉のおかげで紀乃の歩調にも力 が戻ってきた。熱い息を弾ませて斜面を登りながら、紀乃は急に食欲が湧いてきた。ゾゾが作った干物や野菜や米 が食べたくなった。先程まで心底気持ち悪がっていたのに、なんて現金なんだろうか。だが、食欲には逆らえない。 ゾゾの背を追いながら、紀乃は少しだけ希望を抱いた。 なんとかなるかもしれない。 10 5/8 |