南海インベーダーズ




突発的夏季休暇



 大きな手で、丁寧に髪を梳かれる。
 万能車椅子から解放された手足は柔らかなマットレスの上に投げ出され、視界には天井と男の顔が見えている。 伊号の頭はその男の膝に載せられ、セミロングよりも少し長めに伸ばしてある髪を手入れされていた。髪が後ろに 引っ張られる感覚に身を任せていると、男の手は櫛を置き、太い指が伊号の頬をなぞってきた。

「解ってくれるかい、伊号」

「やだ」

 伊号は即座に機嫌を損ね、唯一自由の利く首を曲げて顔を背けた。

「てか、あたしらは役に立つし。主任の部下なんて使えるわけがねーし。あたしら以外しかいねーし?」

「そうだ。僕達は地上最強の大量破壊兵器だ」

 レースカーテン越しに柔らかな朝日が差し込むベッドの端で、呂号が愛用のエレキギターを手慰みに弾いていた。 彼女がこよなく愛するヘヴィメタルの音色ではあったが、テンポは優しく緩やかだった。寝起きだから、さすがの呂号 と言えどもテンションが上がりきっていないのだ。キングサイズのベッドの中央では、一人だけ起きていない波号が 惰眠を貪っている。抱き締めている枕を涎でべたべたに汚していて、甘えた寝言を漏らしていた。

「困ったお姫様達だな」

 呆れ混じりに微笑んだのは、竜ヶ崎全司郎だった。アイロンが当てられたワイシャツにスラックスを履いているが、 仕事に向かう格好ではなかった。ベルトは締めているが襟元は開いており、ネクタイも締めていない。対する三人の 少女達は、思い思いの寝間着を着ていた。伊号は脱ぎ着しやすい薄手のワンピース、呂号は黒一色のパジャマ、 波号はレースとフリルがたっぷりのパジャマで、昨夜はこの部屋で一夜を明かした。もちろん、竜ヶ崎も。

「いいかい、伊号」

 竜ヶ崎は伊号を抱き起こし、自分の膝の上に座らせた。

「これは君達を思っての措置なんだ。決して、君達をお払い箱にしようと言うんじゃない。少し休んでもらうだけだ」

「解せない」

 ぎぃいっ、と弦を強めに擦った呂号は、エレキギターをベッドに横たえて竜ヶ崎の背に手を付いた。

「僕は乙型一号を許しはしない。この手で殺す。だから戦わせてくれ」

「あまり意地を張らない方がいい、呂号。君も大分疲れているはずだ」

 竜ヶ崎の手が伸び、呂号の頬を柔らかく包んだ。その大きな手の感触に、呂号はびくりと震えた。

「いや……そんなことはない」

「私は君達をいつも見ているのだよ。知らないことなど、何もない」

 竜ヶ崎の指が動き、珍しくヘッドフォンを外して露出している耳をなぞった。普段の圧迫感とは違う感触に、呂号は 喉の奥で小さく声を殺した。薄い皮膚に包まれた喉が僅かに動き、弦の後が残る指がシーツを握る。血の気の ない肌がほんのりと上気した呂号を横目に見、伊号は毒突きかけたが、体の前に回されている竜ヶ崎の腕に力が 込められたので文句を飲み下した。呂号はシーツに力一杯爪を食い込ませ、緊張と歓喜で肩を震わせた。

「そう、良い子だ」

 竜ヶ崎の手がするりと外されると、呂号はへたり込んで火照った頬を押さえた。

「局長がそう言うのなら……」

「ふぇ」

 ゴーグルの下で目を開けた波号は、もそもそと薄い掛布の下から這い出すと竜ヶ崎の膝に縋った。

「イッチーだけずるいよぉ、私も抱っこしてぇ」

「解っているとも。だが、その前に伊号を着替えさせてやりたいのだが、それまで待てるかね?」

 竜ヶ崎は波号の寝乱れた髪を撫で付けると、波号は拗ねた。 

「やだぁ、そんなのやだぁ」

「ウッゼェんだよ、朝っぱらから。ちったぁ我慢しろよ」

 竜ヶ崎に抱き上げられた状態でベッドから下りた伊号が優越感で笑うと、波号は泣きそうになった。

「うぁ」

「仕方ない。今日は特別だ。はーちゃんのリクエストは何だ。J−POP以外であれば応えてやらないでもない」

 朝から波号を泣かせるのはよくないと判断し、呂号がエレキギターを構えると、波号の気は逸れた。

「ええとね、じゃあね、アレがいい!」

「アレでは解らない。正確な曲名とアーティスト名をだな」

 呂号は波号を落ち着かせながら、エレキギターを掻き鳴らした。完璧にチューニングされた音色が奏で始めたのは、 リッケンバッカーのエレキギターには似付かわしくない童謡で、波号の舌っ足らずな歌声に呂号の大人しい歌声も 重なった。アンプに繋げていないとはいえ、呂号が力を入れて歌えばこの部屋が音波で吹っ飛んでしまうからだ。 これで当分竜ヶ崎を独占出来る、と伊号はにやけながら竜ヶ崎の肩に頭を預けた。竜ヶ崎は口の端に暖かな笑みを 浮かべながら、伊号にシャワーを浴びせるためにバスルームのドアを押し開けた。
 海上基地の最上階であり変異体管理局の中枢である竜ヶ崎全司郎の部屋は、三人の部屋を合わせても足りない ほど広く造られている。自宅にほとんど帰らない竜ヶ崎の生活に合わせて改装したため、オフィスと居住スペースを 区切る壁はなく、三人と竜ヶ崎が眠っていたベッドからは大きな窓を背負ったデスクが見える。竜ヶ崎の部屋に三人が 寝泊まりするのはいつものことであり、竜ヶ崎の部屋にいる時だけは三人とも安らいでいた。それは、皆、竜ヶ崎 から惜しみない愛情を受けるからだ。精神的にも、肉体的にも。
 シャワーの音は、いつになく長かった。




 翌日、沖縄近海。
 CH−47チヌークに乗せられて沖縄の空港に運ばれ、クルーザーに揺られて辿り着いた先は、絵に描いたような リゾートだった。珊瑚礁で出来た島は真っ青な空とエメラルドグリーンの海に囲まれ、白く眩しい日差しが絶え間なく 降り注ぐ。慶良間諸島の一端にある、こぢんまりとした島だが、政府関係者以外は立ち入り禁止区域になっている。 名目は変異体管理局の保養地だが、要するに甲型生体兵器の三人のために竜ヶ崎が手を回したのだろう。その 証拠に、ただの南海の無人島とは思えないほどインフラ設備が整っていて、三人の体に不可欠な医療設備までも が揃っていた。保養所とは名ばかりの大きな別荘には、電気、ガス、水道はもちろんのこと、伊号の生命線である 衛星ネットワークの中継施設や呂号のためのスタジオ、波号が気に入りそうな可愛らしい内装の部屋もあった。
 潮騒ばかりが多く聞こえ、雑音が少なかった。愛用のエレキギターを片手にウッドデッキに出た呂号は、東京湾とは 違う匂いを感じ取っていた。戦闘機が噴出する排気や粉塵のざらつきが混じっていない純粋な潮の匂いだった。 空気の肌触りも良く、滑らかで気持ち良い。但し、暑さは段違いに強烈だった。汗が浮いたと思ったら次の瞬間には 乾いてしまうほど、暴力的に暑かった。これでは、演奏する前にチューニングを変えなければならない。

「ロッキー、気に入った?」

 ウッドデッキの床を踏み締める足音が近付き、秋葉が背後に立った。

「暑い。それだけだ」

 呂号は振り返らずに答え、採光ゴーグルを焼き切らんばかりに差し込んでくる日差しに辟易した。目視出来るのが 光だけだが、強すぎる光は目に良くない。ヘッドギアのボタンを押して採光量を自動調節してから、金属板のように 光る海面に気持ちだけでも目線を向けた。潮騒の発生源である海は太陽光線をストレートに反射して、直射日光 とは違った暑さを作っていた。秋葉の服装は制服ではないらしく、麻の生地の擦れる音が風音に混じった。

「丈二君も来られたら良かったんだけど、新入りさんの訓練と基地の補修工事があるから」

 秋葉はウッドデッキの手すりにもたれたのか、声が移動した。呂号は手近な椅子に座り、ギターを膝に置いた。

「どうでもいい」

 呂号はチューニングを始めたが、気温も湿度も違うために音の響きも違い、思うようにいかなかった。それだけでなく、 指の動きも心なしか悪かった。チヌークとクルーザーを乗り継いだから、その震動が体に残っているのかもしれないが、 戦闘時にはそんなことはない。相手が乙型一号だろうが、ミーコの作った巨大生物だろうが、ゾゾ・ゼゼだろうが、この指 は淀みなく音楽を奏でていた。それなのに、なぜ、今になって関節に余分な力が入るのだ。

「なんだよここ、クソ暑ぃだけじゃん」

 万能車椅子のキャタピラを軋ませながらウッドデッキに出てきた伊号は、ロボットアームで扇いでいた。

「てか、面白くもなんともねーし。遊ぶにしたって、遊ぶモンがねーし。マジ退屈すぎなんだけど」

「むーちゃん、むーちゃん!」

 派手に足音を鳴らしながら掛けてきた波号は、秋葉の腕を引いた。

「海、すっごく綺麗だよ! 一緒に泳ごうよ!」

「もちろん。けれど、それは皆で」

 秋葉が伊号と呂号にも笑いかけると、伊号は声を潰した。

「なんでんなことしなきゃならねーんだよ、てか最悪だし」

「イッチーには良いリハビリになる。首から下にも適度な刺激が必要」

「いらねーよ、そんなん。てか、どうせ動かねーんだから」 

 伊号は顔を背けるが、秋葉は伊号の万能車椅子を押してリビングに向かった。

「必要なものは必要。大丈夫、問題はない。溺れることはない」

「本当だろうな、下手なことしやがったらただじゃ済まさねーし!」

 リビングに連れられた伊号は、不安と期待を入り混ぜた声を上げていた。秋葉はそれを受け流しながら、海水浴の 準備を始めていた。竜ヶ崎からプレゼントされた水着も用意されていたようで、秋葉はそれらをリビングテーブルに 広げたらしく、さらりとした生地が擦れる音がする。しかも、一人に付き一着ではないらしく、波号はどれにしようかと 迷っている。伊号も決めかねているのか、彼女にしては曖昧な言葉が聞こえていた。

「ロッキー、お前はどうすんだよ」 

 伊号から話し掛けられ、呂号はチューニングを中断して腕に巻いた包帯を示した。

「無理だ」

「あ、そう」

 マジつまんねーの、と伊号はぼやき、自分が着る水着を選んでロボットアームで掴んだ。秋葉は残念がる波号を 宥めてから波号が決めた水着を取り、寝室に二人を促した。三人の気配がドアの向こう側に消えたのを感じ取り、 呂号は無意識に詰めていた呼吸を緩めた。肺に入る空気の厚ぼったさにうんざりしながらチューニングを続けよう としたが、びょいん、と指が外れて気の抜けた音が鳴った。

「僕らしくもない」

 苛立ちを吐き出すように嘆息し、呂号はエレキギターの弦から指を離した。昨日の朝から、胸中で煩わしいものが 煮詰まっている。目に見えないはずなのに、竜ヶ崎に抱かれて弛緩する伊号の表情が脳裏に浮かぶ。二人で長らく バスルームに籠もり、存分に寵愛を受ける伊号の様が思い浮かぶ。呂号の炎症が絶えない肌を躊躇わずに撫でて くれる指先が恋しくて、頭の芯が抜けたかのようにふらつく。竜ヶ崎を独占していたい。

「僕は戦った。なのにあいつは僕を負かした。だからあいつが悪い」

 呂号は竜ヶ崎の腕の代わりにエレキギターを抱え、唇を噛んだ。苦戦の末に捕獲し、地下に幽閉した紀乃と小松が 脱走した際に呂号の部屋も壊され、服を奪われてしまった。どれもこれも竜ヶ崎から贈られたものであり、エレキ ギターと同等かそれ以上に大事にしている。プレゼントが多ければ多いほど、竜ヶ崎から受ける寵愛が濃いのだと 信じている。伊号も波号も竜ヶ崎から存分に贈られているが、呂号には敵わないはずだ。何千枚ものメタルバンドの CD、エレキギター、ベース、ドラム、シンセサイザー、アンプ、ケーブル、最高にクールなメタルファッション。窓を ぶち破って侵入した紀乃は、それらを無遠慮に引っ掻き回し、お気に入りの服を勝手に着て奪い去った。あの時、 広域音波発生器が配備されていれば、紀乃も小松も蒸発させたのに。竜ヶ崎に誰よりも褒めてもらえたのに。

「あいつが悪い」

 今からでも遅くはない、インベーダーを殺しに行くべきだ。呂号は強烈な殺意に駆られて腰を浮かせたが、ふと、 波間から異音を感じ取った。優しく繰り返される波音が途切れた箇所があり、しかもそれが移動している。魚にしては 質量が大きく、風にしては移動速度が遅い。秋葉に知らせようかと思ったが、相手がインベーダーの誰かならば 自力で倒すべきだ。立派な手柄を立てれば、竜ヶ崎は呂号を褒めてくれるはずだ。その様を思い描くだけで、昨日、 触れられた肌が甘ったるく疼いた。アンプがないのが心許なかったが、エレキギター一本でも充分戦える。呂号は 三人が着替え終わっていないことを確かめてから、別荘を出て砂浜を走っていった。さすがにピンヒールのブーツ ではなかったが、ヒールの高いグラディエーターサンダルなので普段と感覚は変わらなかった。
 島の構造は簡単だ。南西には珊瑚礁の砂浜が広がり、島の中央から東北に掛けて岩山がある。その岩山と周囲 に多少の草木は生えているが、迷うほど深いジャングルではない。砂浜を駆けていると、ヒールを噛む砂の感触が 変わって小石が当たるようになった。呂号は熱く息を弾ませながら、波の異音の方向を捉えて歩いた。さざ波よりも 薄く、そよ風よりも密やかだが、確かに異音がある。採光ゴーグルを海面に向け、光の乱れで揺らぎも捉えながら 歩いていったが、それが悪かった。異音だけに集中していれば足元が疎かになることもなく、いつものように外界を 音で脳内に形作ることが出来た。だが、不完全な視覚に頼ってしまったため、呂号は岩場を踏み外した。

「う?」

 ぐぎ、と足首から嫌な音がして、体が傾いた。咄嗟に大事なエレキギターを砂浜へと放り投げると、じゃらあん、と 弦が鳴って柔らかな砂浜に落下した。それを察して安堵した直後、呂号は右半身から生温い海の中に突っ込んだ。 ヘヴィメタルが鳴り響いていたヘッドフォンが外れ、代わりに水泡のノイズが鼓膜に滑り込み、海水の濃い味が鼻と 喉を焼いた。包帯が解けてガーゼも剥がれ、炎症の部分が鋭く染みた。上も下も解らない呂号は混乱に陥り、何か を掴もうと焦れば焦るほどに沈んでしまった。ごぼっ、と飲み込んだ海水の代わりに肺から空気が溢れ出し、細かな 気泡が顔をくすぐった。採光ゴーグル越しに見える海面の光は場違いなほど美しく、遠かった。
 海水浴に行けばよかった。





 


10 8/20