洞窟は、細く長く続いていた。 途中で何度か曲がる箇所はあったものの、分岐点はなかった。狭い島の小さな岩山の中にしては深いような気が したが、地下に入ったのかもしれない。エレキギターがこの手にあれば、適当に掻き鳴らして反響の具合で深度を 確かめられるのだが、今はそうもいかない。更に都合の悪いことにヘッドギアに海水が染み込んで故障したらしく、 脳波の制御が上手くいかない。これでは、自在に音波を出せないどころか音感も損なわれてしまう。右足首は依然 として痛んでいるし、抵抗するだけの体力も削げていった。自業自得だが、多少は危機感を抱いた。 甚平が足を止めると、呂号の体にも制動が掛かった。甚平は洞窟の最深部を見回してから、手近な岩場に呂号を 座らせた。呂号が身を乗り出しかけると、甚平は呂号の肩に手を添えて制した。 「あ、えと、この下、地底湖だから。僕はサメだから泳げるけど、君は無理っていうか」 「地底湖?」 「あ、うん、地底湖。落ちたら大変だから、じっとしていて。奥に何があるかはちゃんと教えるし、秘密にしないから。 だから、そこで大人しくしていてね。そんなに時間は掛けないから」 とぷん、と小さな水音を立て、甚平は水面に滑らかに飛び込んだ。水の波紋が広がり、岩に当たって爆ぜる音が 繰り返されたが、程なくして水面は静まった。息を吸い込むと、洞窟の奥底に吹き溜まっている空気の古臭い匂いが 肺一杯に満ちた。慎重に手を伸ばすと岩壁が触れたが、手の甲に水滴が落ち、反射的に引っ込めた。地底湖の 水面との距離を測るべく、身を乗り出そうとしたが、またずぶ濡れになりかねないと断念した。これ以上体力を消耗 しては、右足の傷にも障る。短く声を出して、洞窟の最深部の広さを確認した。正確な数字までは割り出せないが、 奥行きは十メートル近くあり、全高はそれ以上はありそうだ。これまで通ってきた一本道とは違って、構造は複雑に 入り組んでいる。太い鍾乳石が何本も垂れ下がり、地下水が染み出して小さな雫を落としていた。だが、細部までは 解らないのが歯痒く、呂号は左足を抱えて額を押し当てた。 「静かすぎる」 インベーダーもミュータントも怖くないが、静寂だけは怖い。音が消えてしまうと、そこにいる自分を感じ取る手段が なくなってしまう。目が見えなくなってからは十一年が経つが、その間音を欠かしたことはなかった。ヘッドフォンから 流れるヘヴィメタル、自分の指で掻き鳴らすエレキギター、周囲の騒音、そのどれもが大事だった。そして、自分が どれだけ優れているか知ることが出来るものでもあった。どれだけ大音量でメタルを流していても、外から少しでも 違った音が入ればすぐに脳内で形作れた。音に変換した情報だけで、オペレーターよりも正確にソナーが取得した 情報を知ることが出来た。跳ね返ってきた音の強弱だけで、対象物を破壊する音を作り出せた。それなのに、今は 何一つ出来ない。最大の武器を生み出す耳に水が入り、海水を浴びたままでいたせいで喉がひりつき、体の一部 であるエレキギターは手元にない。その上、好奇心に負けてミュータントと同じ空間を共有しているなんて。 死ぬのも怖くない。一人になるのも怖くない。戦うのも怖くない。けれど、音がなくなるのだけは怖い。光は見えても 暗がりしかない世界が完全に閉ざされたかのようで、元から希薄な外界との繋がりが切断されたかのようで、心の底が じんと冷え込む。鳥肌の立った二の腕を強くさすりながら、呂号は込み上げる声を殺した。 甚平が姿を消してから、どれほど時間が経過しただろう。体感時間では一時間以上に思えたが、実際には十数分 か、ほんの数分程度なのかもしれない。忌まわしく気色悪いミュータントで、歯切れが悪くて、苛つくほど物腰が弱い サメ人間に好意なんて抱くわけがないのに、寂しさに負けてそんな奴でも良いから傍にいてくれ、と思ってしまった。 竜ヶ崎に関係があるかもしれないものを見つけたら、竜ヶ崎から余計なことをするなと嫌われるかもしれない。そうで なければ、詮索好きだと鬱陶しがられるかもしれない。竜ヶ崎の気を引きたいだけでインベーダー側のミュータントと 行動を共にした、と裏切り者扱いされて地下に幽閉されるかもしれない。嫌な想像ばかりが過ぎり、呂号は鼻の奥に つんと塩気を感じた。竜ヶ崎の指先が、竜ヶ崎の腕が、竜ヶ崎の胸が、竜ヶ崎の声が、遠のいてしまうのは嫌だ。 けれど、この状況ではどんな言い訳も通用しない。ヘッドギアの記録装置が作動していれば、尚のことだ。 「あ、えっと」 ちゃぽ、と小さく水面が割れ、地下水に濡れた尖った鼻先が出てきた。 「何があった」 呂号は内心の動揺を押さえながら聞き返すと、甚平は、よっこらせ、と呂号の座る岩場に昇った。 「あ、うん。一言で言えば遺跡なんだけど、普通の感覚で言う遺跡じゃないっていうか、うん、あれは御社かな。神社 とかにある石造りの祠をもうちょっと大きくして、人が住める程度の大きさにした建造物が沈んでいたんだ。だけど、 あれは柱の長さとか太さから考えると、この洞窟の岩そのものを削って作った感じっていうか。僕が君と通ってきた 一本道を通り抜けられないような厚さの石壁が四方にあって、床にもあって、屋根もちゃんと作ってあって、その前に 鳥居が一基。ええと、うん、あれは明神鳥居ってやつかな。うん、そうだ。で、その中には多少の生活痕があって、 寝床とか食器とかが置いてあったんだ」 「それがどうかしたのか。それもまた変だとか言うのか」 「あ、うん。変と言えば変ではあるけど、まあ、今度のは意味が通じないものでもないかなぁって気がしてる。御社に いた人ってのは、たぶん、巫女だね。生け贄かもしれないけど、それらしい人骨は地底湖の底にはなかったから、 神様に身を捧げた後は外に出たんじゃないのかな。で、巫女ってのは御子とも書くんだ。かんなぎの女とおんの子、 どっちも読みは同じっていうか。だから、その、龍ノ御子ってのは、もしかしたら龍ノ巫女かもな、って思って。まあ、 僕も最初にそう思ったし、そうじゃないかなぁって見当を付けて調べに来たから、そう意外でもないっていうか」 「それと竜ヶ崎姓の島民と何の関係があるのかさっさと説明しろ」 「あ、う、ごめん。あ、で、その、忌部島に来た龍ノ御子は、神託を得た、つまりその当時の一般人には理解しがたい 教養を得ていた人間のことじゃないのかなぁって。で、その人、たぶん竜ヶ崎って名前の巫女さんが忌部島に来て、 忌部一族と交わって、ついでに学問とかを教えたんじゃないのかなぁって思ったっていうか。龍ノ御子とは言うけど、 それがゾゾと関係があると限ったわけでもないし。龍神信仰なんて珍しくもないっていうか、台風とかで気候変動が 激しい土地なら尚更っていうか、言葉の綾だと思うんだ。だから、その竜ヶ崎って名前の巫女さんが忌部島に来て、 長いこと先生みたいなことをしていたんじゃないかなぁって。で、栄えたって考えるのが順当かなっていうか。だけど、 ちょっと、引っ掛かったのはね」 甚平はエラを開閉させて空気中の酸素を吸い、牙が生え揃った口を開いて話を続けた。 「八百マデ數エルモ、ソノ先ハ數ヘマホカラズ。あ、う、つまり、八百まで数えたけどその先は数えたくない、っていう 意味の一文なんだけど、岩壁に刻んであったんだよね。だとすると、この島にいたのは八百比丘尼なのかなぁって。 まあ、うん、人魚も龍神と同じぐらいに定番の異形だし、いてもおかしくないけど、沖縄辺りはどうだったかなぁってか、 思っちゃった。その辺も調べたいけど、うん、沖縄本島の図書館になんて行けないから、我慢するけど」 「お前が何を言っているのかまるで解らないんだが」 「あ、う、いや、そんなに難しい話をしたつもりはないっていうか、うん、ごめん……」 甚平は大きな体を縮めて尖った鼻先を押さえ、瞬膜を開閉させた。呂号は出来る限り興味のないふりをしたが、 甚平が語った話が気になっていた。リュウジンシンコウ、リュウノミコ、カンナギノオンナ、ヤオビクニ。どれもこれも 聞いたことのない単語ばかりで、漢字も知らなかったので、どんな字を当てるのかも解らなかった。けれど、それ まで言葉に詰まってばかりいた甚平がすらすら話していたことからすると、余程面白い話に違いない。 「ヤオビクニとはどんな話なんだ。僕はそんな話は聞いたこともない」 好奇心を隠しながら呂号が言うと、甚平は意外そうにした。 「え、あ、そうなの? 君達は国家レベルで大事にされているから、教養もありそうだし、大抵のことは知っていそうな ものだけど。神話とか、歴史とか、そういうのって興味ないの?」 「頭の中に余分なものを入れると兵器としての精度が下がるから知らなくていいものは知らずにいるだけだ」 「あ、そっか。うん、まあ、そういう考え方なら仕方ないけど。でも、だったら、なんで、僕に聞くの?」 「退屈だからだ。音がないと暇だからだ。だが僕は喉が痛い。だから三十九号が話せ」 「あ、う、うん。でも、喉が痛いってことは風邪だろうから、早く外に出ないといけないっていうか、君を元いた別荘まで 戻さなきゃいけないっていうか……。それに、その、僕は話すのが下手だから、長くなりそうっていうか」 「だったら道中話せばいいだろう。要点だけ掻い摘んで明瞭簡潔かつ正確に話せ」 「あ、う、う、努力するよ」 甚平はもたつきながら呂号を抱え上げ、歩き出したが、一度足を止めて地底湖に振り返った。 「あ、でも、うん、まだ引っ掛かることがあるんだよね」 「なんだそれは」 「あ、えと、あの地底湖の底にあった御社、水面から上に出ていた痕跡がないっていうか、土台そのものがないって いうか……。だから、湖底に直接造ったような感じがしたんだ。八百比丘尼は大方ミュータントだろうけど、でも、 何のミュータントかで変わってくるんだよねぇ、色々と。ああ、気になるなぁ。でも、あう、うん、今日のところは帰るよ。 捕まったら面倒だし、何より、君の具合が悪くなったらいけないし」 甚平は後ろ髪ならぬ尻尾の先を引かれつつも、よたよたと歩き出した。呂号は甚平の分厚く冷たい肌になるべく 触れないように体を傾けながら、左半身が接している厚い胸板から骨身に染みてくる声の震動を感じ取っていた。 甚平は辿々しい話し方だったが、熱心に八百比丘尼の話を語ってくれた。 昔々、とある漁村で地引き網に珍しい魚が掛かった。上半身は美しい女の姿をしているが、下半身は艶々とした ウロコに包まれた異形の魚、人魚であり、既に息絶えていた。人魚の肉は美味だと聞いていた長者がその人魚を 屋敷で捌いて漁師の男達にふるまったが、皆、その肉の正体を知っていたので手を付けなかった。口を付けずとも 人魚を喰おうとした業を分け合うかの如く、めいめいで紙に包んで自宅に持ち帰り、家の者達には決して食べるなと 言い聞かせた。だが、その中の一人の男はしたたかに酔っていて、家人に人魚の肉を食うなと言い聞かせることを 忘れてしまった。人魚の肉は満開の花のような芳しく甘い香りを放っており、その匂いに惹かれた男の娘は人魚の 肉を平らげてしまった。その日を境に娘は段違いに美しさを増し、年頃の男を婿にするが、毎夜の激しい交わりで 婿は早々に死んでしまった。次の夫も、また次の夫も、更にその次の夫も、娘に精力を吸い尽くされて痩せ衰ると、 死んでしまった。その上、娘は何年もの月日が経とうとも若さを保ったままだった。肌は透き通るように白く、髪も 黒々と艶やかで、色香を放っていた。その頃になると、娘がどれほど美しかろうとも周囲の者達は気味悪がり、誰も 夫になろうとしなくなった。己の異様さに気付いた娘は男との交わりを断つために出家し、尼となり、全国行脚の旅に 出た。けれど、その中で出会った僧や尼達は次々に死に絶え、残ったのは娘だけとなった。望郷の念に駆られて 故郷の村に戻った娘は実家や長者の屋敷を探すが見当たらず、記憶の中にある風景とは大きく食い違っていた。 時の流れの残酷さに打ちひしがれた歩いた娘は、子供の頃に遊んでいた洞窟を見つける。冷たく暗い石に正座し、 水も穀物も断ち、ただひたすらに念仏を唱えた。それから何日も過ぎたある日、娘はようやく死ぬことが出来た。 それが八百比丘尼の伝説だ、と、甚平は締めた。 右足首の腫れが引いても、鈍い痛みは残っていた。 海上基地からこの島にすっ飛ばされた医者による診断は捻挫と軽い風邪で、甲型生体兵器としての機能に損傷 を与えることはないとのことだった。耳に入った水も綺麗に抜かれ、普段の薬と共に解熱剤や鎮痛剤や抗生物質を 与えられ、それらを飲んで一夜明けたら楽になった。当然ながら右足を使って歩くのは当分お預けで、実戦配備も 同様だった。呂号は砂を払ったエレキギターを膝の上に載せ、砂浜に放り投げた際に乱れてしまったチューニング を直していた。海水にダイブして壊れたヘッドフォンと同じ型のヘッドフォンを被り、お馴染みのメタルを流しながら、 ウッドデッキから望む砂浜ではしゃぐ伊号と波号の声を聞き取っていた。 「ロッキー、具合、どう?」 秋葉は呂号の座るデッキチェアに近付き、アイスティーの入ったグラスをテーブルに置いた。 「それなりだ」 呂号はアイスティーに手を伸ばしかけたが、水気でチューニングが狂う、と思い直して引っ込めた。 「でも、なんだかロッキーらしくない。散歩して海に落ちるなんて、意外」 秋葉は呂号の背後に立ち、手を振ってきた波号に手を振り返した。 「そういうこともある」 呂号は秋葉が渡してくれた布ナプキンでアイスティーのグラスを包んで取り、ストローで啜った。 「慣れない場所だから仕方ない。起こり得た事故。ロッキーも私も、そう認識するべき」 秋葉は隣のウッドデッキに浅く腰掛け、アイスティーに口を付けた。 「だがイッチーは違う。当分の間僕をからかう。許し難い」 ぎゅいいっ、と弦を擦った呂号が顔をしかめると、秋葉は小さく笑みを零した。 「それもまた、仕方ないこと」 波打ち際では、防水仕様の万能車椅子で伊号が遊び呆けているようだ。島に来た当初は面倒がっていたくせに、 現金だ。波号は伊号に遊んでもらえるのが嬉しいのか、グレーのゴーグル越しでも鮮やかな景色が清々しいのか、 笑顔が絶えない。そんな二人を見守っている、秋葉の眼差しの優しさが肌で感じ取れた。 「ロッキーが海に落下し、ヘッドギアが故障した際に通信電波も途絶え、内部、外部、共に記録が抜けている。故障 してから、異変があったのならば報告を乞う」 ヘッドフォン越しに入ってきた秋葉の声は、優しさを保ちながらもビジネスライクに硬かった。 「故障してからのことか」 呂号は弦を押さえていた指を外し、甚平の一件を思い起こした。腹が立つほど情けない失敗を見られたばかりか、 竜ヶ崎ではない男に肌に触れられ、二度も横抱きにされて運ばれ、弱った姿を見られた。甚平と遭遇したことを 報告したら、変異体管理局は、忌部島への帰路を辿って海底を歩いている甚平を捜し出して捕獲して、紀乃と小松 のように地下牢に幽閉するだろう。取り調べられたら、気が弱い甚平はすぐに口を割ってしまうに違いない。その中で 呂号の失敗談が語られないわけがない。となれば、報告しない方が身のためだ。国家のためにはならないが。 「特に何も」 呂号は平静を貫いて、弦に指を戻した。秋葉は納得したらしく、そう、と頷いた。それきり秋葉は呂号には尋ねず、 波号から呼び掛けられて砂浜に向かっていった。秋葉の珊瑚礁を踏み締める足音が遠のく様子を聞き取りながら、 呂号は手慣らしのために体に染み付いたメロディーを奏で始めた。甚平が語ってくれた八百比丘尼の話は、今まで 聞いたこともない不思議な話だった。普段耳にする会話や言葉は、国家防衛や政治家の思惑や税金の動きなどで、 面白味なんてなかった。本を読もうにも文字は見えず、誰かに語って聞かせてもらうのも癪だったから、世の中に そんな不思議な話があるなんて知らなかった。また甚平に会うことがあれば、万が一戦わずに済む状況だったら、 別の伝説を聞かせてもらうのも悪くない。乙型一号こと斎子紀乃は反吐がするほど嫌いだが、鮫島甚平は紀乃ほど 害がないインベーダーなのだと認識した。けれど、インベーダーに対する敵意が薄れるわけではない。 それが兵器というものだ。 それから数日後。鮫島甚平は、久々に忌部島に戻った。 海底を歩いて帰る道中で考え、頭の中でまとめたことを黒板に板書してから日焼けしたノートに書き留め始めた。 誰の利益になるわけでもなく、歴史に刻まれることでもなく、自己満足の極みだが、何もしないでいるよりはまだマシ だと思ったからだ。風呂に入っても尚、潮の匂いが染み付いた体で図書室に籠もった甚平は、忌部島の郷土史を 始めとした記録文書を広げて情報の統合を始めた。様々な角度で細かいところを煮詰めれば、あの島の地底湖に あった御社に似た遺跡の理由も解るかもしれない。機会があれば、また行ってみよう。 「甚にい、いる?」 図書室の引き戸が開き、紀乃が顔を出した。 「あ、う、うん」 甚平は少し驚き、チョークを落としかけて辛うじて受け止めた。 「ゾゾがね、陣にいに貝を捕ってきてほしいってさ。サザエみたいな巻き貝」 こんなの、と紀乃がハーフパンツのポケットから貝殻を出したので、甚平はそれを受け取った。 「あ、うん。解った。どの辺りにある?」 「東側の岩場だよ。てか、甚にい、昨日までどこに行ってたの? 黒板になんか書いてあるけど」 「え、あ、う、その、な、なんでもないっていうか、大したことじゃないっていうか、その、フィールドワーク的な?」 「何の?」 「え、あ、う……」 フィールドワークの内容を話すと呂号の件も話さなければならなくなるので、甚平は口籠もった。生まれてこの方、 身内以外の異性とまともに接したのはあれが初めてで、体に触ったのも、あんなに口を利いたのも、自分の考えを べらべらと喋ってしまったのも、全て呂号が初めてだった。呂号の目が見えていないのをいいことに、目を合わせず に済んでいたから、敵だというのに気を緩めてしまった。戦うつもりもなければ敵対するつもりもないが、一応、甚平の 立場は人類に刃向かうインベーダーだ。その認識だけは忘れてはいけない。 「話したくないなら、無理に話さなくてもいいよ。でも、晩御飯のおかずはちゃーんと取ってきてね!」 紀乃は快活な笑顔を見せ、図書室から走り去っていった。甚平は彼女の小さな背中に控えめに手を振ってから、 図書室に引っ込んだ。紀乃の体温がうっすらと残る巻き貝の貝殻を握り締め、板書した内容をノートに書き写すか べきか少々迷っていたが、まだ考えがまとまりきっていないのでそのままにしておいた。まずは、今晩の夕食の足しに なる巻き貝を岩場から拾い集めてこよう。フィールドワークに出掛けている最中は、海を漂う生魚や海草を拾って 腹の足しにしていたので、火の通った温かい料理が恋しかった。 「あ……あれ?」 甚平は廊下の窓から、日差しの下でガニガニと戯れている紀乃を見やった。この数日、離れていたはずなのに、 それほど懐かしいという感覚が沸き上がってこない。ずっと傍で見ていたかのような、声を聞いていたかのような。 デジャブの逆とでも言うような、しっくり来るようで来ない感覚だ。それはきっと、誰かが紀乃に良く似ていたからだ。 その誰かの姿を思い出すと凄まじい羞恥に襲われ、甚平は居たたまれなくなってどたどたと走り去った。 海に入って、頭を冷やそう。 10 8/22 |