南海インベーダーズ




バッド・オア・デス



 白い巻き貝を差し出す手も、受け取る手も、包帯に覆われていた。
 忌部の手は白く、翠の手は黒い。壊れ物でも扱うかのように慎重に手のひらで貝殻を包み込んだ翠は、見慣れぬ ものを丹念に眺め回した。物心付いた頃には海底二百メートルの隔離施設に閉じ込められていた彼女は、海の下 にはいるが海を見たこともなければ潮風を吸ったこともないので、洗っても落とし切れていない潮の匂いを嗅いで、 金色の目を輝かせた。その様子は年端も行かぬ幼子のようで、忌部は包帯の下で頬を緩めた。

「まあ、なんて不思議なのでございましょう。外の世界にはこんなものがあるだなんて、思いも寄りませんでしたわ」

 翠は巻き貝の貝殻を指でさすり、ざらついた感触を確かめた。

「こんなもので良ければ、また持ってきますよ」

 忌部が言うと、翠はやや身を乗り出した。

「ですが、悪うございますわ。私は忌部さんに何もお返し出来ませんのに、頂いてしまっては……」

「気を遣わなくても結構ですよ。しかし、ここは丈夫ですね。上で修復工事をしているのに、音も震動も伝わらない」

「上で何かおありでしたの? 私、ちっとも気付きませんでしたわ?」

 きょとんとした翠に、忌部は苦笑した。

「ああ、いえ、御存知でないのならそれでいいんですよ」

「はあ……」

 翠は訝しげだったが、また貝殻に夢中になった。忌部島から持ち帰ってきた貝殻をお土産にしただけで、こんなに 喜んでくれるとは思わなかった。持ち込む前には徹底的に検疫してあるので、翠の心身には何の影響も出ないはずだ。 もちろん、貝殻から紫外線など出るわけがない。中身が抜けて砂浜に転がっていただけの物体が及ぼすものなど、 あるわけがない。こんなことで喜ばせられるのなら、今度はもっと面白いものを持ってきてやろう。
 翠の世界は、上の階での異変とは無縁だった。変異体管理局に捕獲された紀乃と小松が派手な脱出劇を行って から数日後、忌部は局長命令で徴集された。名目はインベーダー側の情勢報告だったが、懲罰の一件以来、随分と 親しくなった翠の定期検査も兼ねていた。翠の住まう日本家屋に一晩泊まり、人付き合いに飢えている翠と話して 彼女の心身の状態を聞き出すのが忌部の仕事であり、その情報を分析して調査するのはまた違ったセクションの 任務である。忌部も、忌部島に隔離されているインベーダー以外の相手と接するのは少し楽しいと思っていたので、 翠が隔離された地下施設に訪問するのは悪いものではなく、歳の離れた妹が出来たような気分だった。
 翠は忌部を自宅の縁側に招き、貝殻を持っていそいそと台所に向かった。忌部は顔に巻き付けている包帯を少し 緩め、口元の隙間を作った。湯を沸かすためにやかんに水を入れた音が聞こえ、あの御菓子が良いかしら、それとも こちらの方がお好きかしら、との翠の弾んだ声も耳に届いた。料理上手な翠の和菓子の出来に期待しつつ、忌部は 明日に待ち受けている出来事を思い、彼女の鼓膜を震わせないように喉の奥で笑みを殺した。
 ようやく、父親が死ぬ。




 忌部我利。
 その名の通りの生き方をしていた父親は、最早人間とは言い難かった。ビニール製の防護服とビニールカーテン 越しに見える父親は、ベッドの上でぐねぐねと蠢いていた。血の気が消え失せた肌の下で血管のような物体が無数 に這いずり回り、瞼が捲れ上がるほど眼球が膨れ上がり、破裂寸前の舌が口から突き出していた。忌部の記憶に ある父親の体格からは一回りほど膨張していて、傍目に見れば肥っただけのように見える。だが、その実は、ミーコ こと変異型寄生虫罹患者一号に感染させられた寄生虫により、全身の組織を食い尽くされていた。今、父親の身に 残っているのは皮膚と骨格だけであり、内臓も筋肉も脳も神経も寄生虫の餌食になった。皮膚が破れて寄生虫が 飛び出すのは時間の問題だ。変異体管理局の方針では感染の初期段階に罹患者ごと薬殺処分するのが正しい のだが、忌部は己の権限で敢えてそうしなかった。臨床データを集めるためだと言い、父親も脳を食い尽くされる前に そう言い残していたと報告したが、どちらも嘘だ。

「生きて恥を曝せ」

 もっとも、生物学的には父親は当の昔に死んでいるのだが。忌部は喉の奥に込み上がってきた笑いを堪えようと したが、堪えきれずに防護服と包帯の内側に零れ出した。病室には監視カメラが備え付けてあるので、見られたら 後が面倒なので俯いて誤魔化した。格好だけ目元を押さえた忌部は壁に寄り掛かり、肩を震わせた。

「これでいいんだよ、これで」

 忌部は口の中だけで呟くと、父親の病室を後にした。クリーンルームには行って防護服を脱いでダストシュートに 投げ込み、制服と包帯を緩めてエアシャワーを存分に浴びた。しばらくそうやっていると、体の外と中から埃っぽさが 剥がれていくような爽快感に満たされた。包帯を締め直し、ろくにセットもしていないので崩れ放題の髪をそれなりに 整えてから、出口で待ち構えていた研究員に父親の殺処分の最終許可書を差し出され、躊躇いもなく署名した。 こうすれば、後は変異体管理局が父親を綺麗さっぱりこの世から消し去ってくれる。
 ロビーに入った忌部は、手持ち無沙汰だったのもあって足早に喫煙所に向かった。スラックスの後ろポケットから ソフトケースのタバコを抜き、包帯の隙間から差して銜えて火を灯す。一ヶ月振りに味わう紫煙の苦みに感じ入って いると、正面玄関から自衛官に付き添われて女性が入ってきた。変異型寄生虫罹患者専用隔離施設の来客にしては 珍しく、普通のスーツ姿だった。すぐさま忌部は顔を背けるが、女性はヒールを鳴らして近付いてきた。

「次郎君よね。久し振りね」

 疲れ切った顔に載せた化粧の濃さが痛々しい中年の女は、忌部の下の名前を呼んだ。

「あんたは俺になんか会いたくもないだろうに」

 忌部がタバコを抜かずに毒突くと、中年の女は喫煙所のベンチに座り、膝の上にハンドバッグを置いた。

「お兄さんはどうしているの?」

「知らん。兄貴が出ていってからは二十年近く経つが、音沙汰はないからな」

 忌部はこれ見よがしに煙を吐き捨ててから、中年の女を視界に入れないように尽力した。

「あんたこそ、娘はどうした。首の骨を折って殺しかけたんだろう? 養育費と賠償金は毎月払っているんだろうな、 裁判所には毎回出廷したんだろうな、ちゃんと刑期を終えてきたんだろうな?」

「……ええ」

「クソ親父が寄生虫に喰われてから、あんたは随分と国から金をもらったはずだ。今更、俺に会う理由なんてどこに あるんだ。新しい男が見つからないから、血が繋がっていないのをいいことに俺を銜え込もうって腹か?」

「馬鹿なことを言わないでちょうだい」

「だったら良かったよ、あんたの小汚い顔に胃の中身をぶちまけずに済む」

 卑屈な笑い声を喉の奥から漏らしながら、忌部は視界の端に少しだけ中年の女を捉えた。女の名は忌部かすが といい、戸籍の上では忌部の継母に当たる女だが忌部とは十歳も年が違わない。忌部が十三歳の頃に実の母親が 病死して間もなく、父親が家に連れ込んだ若すぎる後妻だった。どこにでもあるような、ろくでもない不倫の経緯で 寝たのだろうと想像には困らなかった。もちろん、家庭は歪みに歪んだ。兄が十八歳で家出したきり行方不明に なってからは、忌部は一人で荒れ放題の実家を片付けたり、子供ながらに下手くそな料理を作った。しばらくすると、 父親は妊娠しているかすがにマンションを買い与え、そちらに入り浸るようになった。それでも生活費だけは納めて くれていたが、中学二年生の少年に満足な生活能力があるわけもなく、食生活も荒れに荒れた。学業も忙しいので ファストフードや出来合いのものばかり食べるようになると、生活費も底を突き、月末は冷蔵庫の中が空っぽになる こともしばしばだった。父親はマンションに入り浸り、兄は二度と帰らず、忌部は寂しさのあまりに母親の仏壇がある 仏間に布団を敷き、布団を頭から被って声を殺して泣いた夜は何度もあった。
 かすがの子供が産まれると、父親の態度は一層顕著になった。女の子だそうだが、忌部は一度も腹違いの妹に 会ったことはない。名前だって知らない。父親が実家に顔すらも見せなくなると、忌部は全てを諦めた。三者面談も 親の都合が悪いと言い切って誤魔化し、親の署名が必要な書類は筆跡を似せて自分で書いた。中学校の卒業式に 来るわけもなく、高校の入学式も同様だった。高校に進学してからは目標を定め、生活費を切りつめてアルバイト をこなし、なんとか受験費用を稼いだ忌部はどうにかこうにか大学に進学した。母親の位牌と一緒に実家を出て、 安普請の下宿に身を寄せ、これからは自分が生きやすいように生きていこうと、父親に振り回されずに済むような 立派な人間になろうと決めた。だが、大学三年生になったある日、忌部の体は突如透き通り、ささやかな人生設計 は脆くも崩れ去った。そして、ミュータントに対する特例が適用されて変異体管理局の職員となり、今に至る。

「次郎君。今日、私はあなたにこれを届けに来たのよ」

 かすがはハンドバッグを開き、白い封筒を取り出した。

「お兄さんが見つからない以上、あの人が死んでしまえば、忌部家の人間はあなただけになるでしょう?」

「だから、それがどうした。あんたには関係ない話だろう」

 かすがの差し出した封筒を見るのも嫌で、忌部は吐き捨てた。

「ええ。でも、まるきりないわけじゃないのよ。御前様が、あなたに渡してくれって」

「ゴゼンサマ?」

 その言葉に、忌部は反応した。紀乃が細切れに話してくれた小松の昔話に出てきた、登場人物の名前と同じだ。 だが、それが宮本都子を孕ませようとしたホンケのゴゼンサマとは限らないが、知っておくべき情報だと判断した。 忌部がかすがの水仕事で荒れた指に挟まれた封筒を見やると、達筆な文字で、忌部家 御前様、とあった。

「これは俺宛じゃないだろう」

 忌部が再び視線を外すが、かすがは封筒を下げなかった。

「いいえ。本当にあなた宛よ。どうか、受け取って」

「受け取ったところで、俺に利益があるとは思えない」

「読むだけでもいいの。だから、お願い」

 かすがは忌部に封筒を突き出したが、その指先は震えていた。空調が効いて涼しい喫煙所にいるにも関わらず、 ファンデーションが塗りたくられた顔には汗の粒が浮いていた。愛想笑いの下に恐怖が滲む、奇妙な顔だった。

「読んだら捨てる。手に巻いた包帯ごとな」

 忌部はかすがの手から封筒を引ったくり、手近なベンチにどっかりと座った。かすがは封筒が忌部の手に渡ると、 強張った顔を弛緩させた。恐ろしいものが手元から離れたことが余程嬉しいのか、自分のハンドバックからタバコを 出し、旨そうに一服した。かすがの吸うメンソール系の匂いに辟易しながら、忌部は便箋を開いた。


  忌部家 現当主様

  凌ぎがたい残暑が続く折から、いかがお過ごしでしょうか。
  先代忌部家御当主の御長男であらせられる忌部我利様が、紙の上での死を認められる日のお悔やみを謹んで 申し上げます。そして、忌部家の御長男であらせられる忌部鉄人様が御不在の今、忌部家の名を継げる血の濃さを お持ちなのは、この書簡をお読みになっているあなた様、忌部次郎様だけにございます。よって、忌部次郎様は、 今日この日より忌部家の当主、すなわち御前となられます。
  我らが一族が連なった時から、当主の成すべきことは神託により定められております。儀来河内へ至る道を開くべく、 龍ノ御子たる子を成すことでございます。身近に妙齢の女性がおられませんでしたら、ご相談願いませ。我が一族 の娘を、御子の腹として喜んで差し出しましょう。

  忌部家の今後の繁栄を、心よりお祈り申し上げます。  草々
 
  滝ノ沢家 当主


 筆書きの手紙を読み終えた忌部は先刻通りに手の包帯ごと手紙を丸めると、革靴の底で踏み潰した。

「滝ノ沢ってのは」

「私の旧姓よ。知らなかった?」

 やるべきことを終えて緊張の糸が途切れたのか、かすがは気怠げに煙を漂わせていた。

「じゃあ、あんたは、乙型生体兵器二号の滝ノ沢翠のことを知っているのか?」

 少しだけ興味が湧いた忌部が竜人の娘の名を口にすると、かすがは憎々しげに頬を歪めた。

「乙型二号? ああ、そういえばそうだったわね、今は政府に飼われているんだっけ。あれは私の最初の子。あれを 産んで役目が終わったから、私は実家から逃げ出せたのよ。で、丁度良さそうな男を見つけて抱き込んでみたら、 あんたらもこっち側だったって気付いたわけ。でも、その時にはもう、私はあんたの親父さんと結婚しちゃってたし、 お腹にはあの忌々しい娘がいたのよ。だから、産むだけ産んで、後はもうどうにでもなれって思ってさ」

 体面を取り繕うのも億劫になったのか、かすがは弛んだ足を組んだ。

「あんたの親父さんのことだって、最初はちゃんと好きだったのよ。二人目の娘も、まともに育てるつもりだったわ。 でも、忌部もこっち側の一族だって気付いたら全部が嫌になっちゃってね。あんたには解らないでしょうね、所詮は 男だから。子供が産める体になったら、有無を言わさずに御前様とやらの前に連れて行かれて股をおっ広げられて ぶち込まれて中に出されて、二ヶ月もしたら出来ちゃうの。日に日に腹が迫り出してきて、重たくなって、親も親戚も 私の体じゃなくて子供のことしか心配しなくて、産まれたら産まれたで本家に取られちゃうわで。自殺しようと思ったけど、 遊び足りないからやめたのよ。あんたの親父さんがイカれた寄生虫女に寄生虫を食わされたおかげで、私の手元に 政府から補償金が湯水の如く入ってくるからね。おかげで、随分と楽をさせてもらったわ」

「俺は知らなかったが」

「知るわけないでしょ、次男だし。それに、あんたの親父さんは当主の役割を自分の都合の良いように受け取って、 女を取っ替え引っ返していただけなんだから。でも、お兄さんの行方を本家の方でも探し出せなかったから、次男 のあんたにお鉢が回ってきたってわけ。御前になったあんたがどうするかは勝手だけど、もう二度と関わらないで。 私はあんたの親父さんが倒れてからすぐに再婚相手を見つけたし、明日にでも離婚手続きが完了するから、忌部とも 滝ノ沢とも完全に縁が切れるわ。翠には一生会わない。あんな気持ち悪い化け物、十ヶ月も腹の中で育てたなんて 思うだけで吐き気がする」

 じゃあね次郎君、と吐き捨てて、かすがはスタンド灰皿に口紅がべっとりと付いたタバコをねじ込んで立ち去った。 言われなくとも、かすがと二度と会うつもりはない。願ってもないことに忌部は心の片隅で浮かれながらも、手紙の 文面とかすがの言葉が忘れられなかった。包帯でくるむように手紙を拾った忌部は、ロビーに設置されているゴミ箱に 投げ込んでから、予備の包帯を出して透き通った右手に巻き始めた。

「本当に妹だったのか、翠さんは」

 血はほとんど混じっていないが、かすがが義理の母親である以上はそういう間柄になる。その下にいるもう一人の 妹の行方についても気にならないわけではなかったが、翠との関係に驚いたせいで考えが及ばなかった。まるで血の 繋がりがない妹なら男と女の関係になっても何の問題は、との下品な言葉が脳裏を過ぎるが、相手が妹なら尚更 普通に扱うべきだろうが、と思い直した。翠にも事実を教えた方がいいのだろうか。だが、それは忌部の一存だけで 許されるものではないだろう。乙型生体兵器であるということを考慮しても、扱いは丁重にしなければ。
 たった一人の家族なのだから。





 


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