南海インベーダーズ




変異体隔離特区掃討戦線



 ミーコは、恐ろしく素早かった。
 虎鉄と芙蓉までの距離は数百メートルはあったが、それをほんの数秒で狭めてしまった。軽く一っ飛びしてから 一度着地し、雑草混じりの砂をつま先で吹き飛ばし、矢のように駆ける。擦り切れて色褪せたジーンズを履いた長い 足が跳ねると、肌の破れ目から寄生虫を撒き散らしながら、虎鉄を殴りに掛かった。

「許さないナイナイナイナイナァアアアアアアアイッ!」

 だが、その拳が埋まったのは虎鉄のヘルメットではなく、芙蓉の柔らかく溶けた頭部だった。手応えはまるでなく、 ミーコは反射的に腕を引いたが、ほんの一瞬触れただけでも肌が溶解し始めていた。透き通った肌の下には筋肉 の代わりに詰まった寄生虫が蠢き、白い筋繊維のように伸び縮みしていた。

「芙蓉、こいつに構うな。時間の無駄だ」

 虎鉄は芙蓉の背中に手を這わせ、顎でしゃくって廃校を示した。

「お前はあっちに行け。手っ取り早く事を終わらせるのに最適なモノがあるじゃないか」

「あらぁん、良い考えなのよね」

 芙蓉は虎鉄に絡み付かせていた下半身をぬるりと剥がし、液体と化して地面に広がった。すると、溶けた芙蓉が 広がった箇所から地面が溶け始めた。ミーコは本能的に地面を蹴って跳ねて後退すると、芙蓉は溶けた体を 地面に馴染ませて姿を消してしまった。ミーコは目を見張って芙蓉を追う姿勢に入りかけると、虎鉄は襟首を 掴んで強引に持ち上げ、ヘルメットの下でにたりと笑った。

「てめぇの相手は俺だろ、違うか?」

「違わないナイナイナァアアアアイッ!」

 ミーコは両足を曲げて虎鉄の胸に叩き込むが、虎鉄はまるで揺らがなかった。じゃり、とサンダルの底に付着した 砂と鋼鉄の肌が擦れただけだった。虎鉄は鬱陶しげにミーコの足を掴むと、触れた部分から鋼鉄に変化し始めた。 擦り切れかけたジーンズは鉄線で織られた防具のように硬くなり、その下に隠れた脹ら脛は中身の寄生虫ごと鋼鉄 と化し、骨に至り、神経も関節も硬直した。膝が固まり終えると太股にまで至るかと思われたが、ミーコは躊躇いも なく己の足を手刀で切断し、傷口から鋼鉄化しかけた寄生虫を零しながら、虎鉄の傍から脱した。

「イカした戦い方じゃねぇか」

 虎鉄は完全に鋼鉄化したミーコの片足を投げ捨てると、ミーコは大腿骨が露出している片足の付け根から大量に 寄生虫を噴出し、今し方失った片足と同じ長さと太さの足を作り上げた。寄生虫を覆う肌もなければ布地もなかった ので、無数の白い筋がねちねちと粘りながら蠢いている様は不気味極まりない。ミーコは虎鉄との距離を測りつつ、 再生させたばかりの足を曲げて飛び掛かるタイミングを計った。虎鉄はミーコに触った手が汚れたと言わんばかりに ライダースジャケットに擦り付けていたが、腰を落として身構え、人差し指を立てて招く仕草をした。

「来いよ、遊んでやる」

「殺すロスロスロスロス!」

 ミーコは無防備に飛び跳ね、虎鉄に真上から突っ込んだ。虎鉄は拳を一旦引くと、ミーコが落下してくる間合いを 見計らって砲弾のようなアッパーを繰り出した。めぎ、と嫌な破砕音がしてミーコのふくよかな乳房と肋骨が一息に 抉れ、内臓の代わりに詰まっている寄生虫がべちょべちょと振った。ミーコは強烈な打撃に上体を仰け反らせたが、 頭を振り下ろしてその反動で体勢を立て直し、胸に穴が開いたことを一切気にせずに虎鉄に突っ込んだ。

「きゃひほはははははははははははっ!」

 普段と変わらぬ奇声を放ったミーコは虎鉄に覆い被さり、仰向けに引き摺り倒した。虎鉄は片足を曲げてミーコの 腹部を蹴り付けようとするが、黒い革製のライダースブーツは女の形をした異形の腹にずぶりと埋まった。

「うげっ!?」

 思わず虎鉄が声を潰すと、ミーコは虎鉄のヘルメットを鷲掴みにして顔を近寄せた。

「死ね」

「お前如きに殺されてたまるかよ!」

 虎鉄はミーコの手首を掴み返して鋼鉄と化すが、ミーコはすぐさまその腕をへし折り、寄生虫だけの腕を作った。 今度はそれをヘルメットに叩き付けられ、べじょ、と生臭い異音を放って白い筋が黒いヘルメットにまとわりついた。 ミーコの分身はヘルメットの顎やバイザーの隙間から滑り込んでいき、虎鉄を苛んでいく。虎鉄はヘルメットを抱え、 外しかけるも、ミーコは胸に開いた穴や切断した足から溢れ出してくる無数の虫を更に襲い掛からせた。

「ぐぼっ」

 鋼鉄人間でも呼吸はしているらしく、虎鉄はヘルメットの内側で苦しげに呻いた。黒一色のヘルメットは寄生虫の 白一色に染められ、端から見れば首が切り落とされたかのようでもあった。ヘルメットのバイザーを開けようと手を 上げようとするとミーコの足に踏み付けられ、視界を取り戻そうと頭を横に振るとミーコがのし掛かって動きを阻み、 窒息か、寄生されるのは時間の問題だった。それから数十秒もすると、虎鉄は喉を掻きむしろうとミーコの足の下で 爪を曲げるようになった。ミーコは嘲笑のような表情を浮かべ、虎鉄にとどめを刺そうと再生させた右腕の寄生虫を 渦巻かせてドリル状に先端を尖らせ、高く振り上げた。が、ミーコはそれを虎鉄の喉笛に埋める寸前で止め、廃校に 振り返ると、校舎の左端に位置している職員室から慌てふためいた甚平が転げ出してきた。

「あ、う、わぁっ」

 怯え切っている甚平は走ることもままならず、校庭の中程で突っ伏した。ゾゾの腕の中で身を縮めていた紀乃は、 涙で汚れた顔をセーラー服の袖で強引に拭うと、怯えと戦いながら校庭に下りて甚平に駆け寄った。

「甚にい、どうしたの!」

「え、あ、それが、その、床がぐにゃっていうか、ドロっていうかで……」

 甚平は太い指を小刻みに震わせながら、職員室を指した。

「そうか、芙蓉は翠を外に出して暴走させるつもりなんだ!」

 恐怖よりも妹への心配が先立った忌部が駆け出そうとすると、甚平は忌部の包帯を掴んで引き留めた。

「あ、え、それはダメ、ダメです、いやもう本当に!」

「だが、何もせずに見ているわけには!」

 忌部は甚平の手から包帯を引き千切る勢いで引っ張ったが、甚平は頑として離そうとしなかった。紀乃に続いて 校庭に下りたゾゾは、忌部の前に立ち塞がって校舎を背にした。

「あなたはやられてはなりませんよ、翠さんの家族なのですから!」

「だったら尚更、翠を助けに行かなきゃならないだろうが!」

 忌部はゾゾを振り切ろうとするも、腕力では到底敵わなかった。すぐ傍に翠がいるのに、手をこまねいているだけ では兄でも家族でも何でもない。忌部はゾゾに押さえられながら透き通った腕を伸ばし、地下に身を隠している妹に 届かせようとしたが、半端に包帯を巻いた指を透かした先で校舎の左側がどろりと崩壊した。木材も基礎も地面も 全てが水と化して校庭に広がると、ほとんど原形を止めていない地下室の蓋が歪み、地面に染み込んだ。

「んっふふふふ。これで任務は完遂、私達の立場は安泰、万々歳なのよね」

 水溜まりから持ち上がった液体が凝結すると、芙蓉が元の姿を取り戻した。

「あらやだ、人の亭主に手を出すなんて!」

 ミーコの下で虎鉄が気絶させられていることに気付いた芙蓉は、腕を振って液体をムチのように操った。ミーコは それを防ぐべく身構えるも、糸のように細く伸びた芙蓉の液体が幾重にも絡み付き、ミーコの体は浸食されて水の 糸が絡んだ部分から細く溶け始めた。ウォーターカッターで切断されたかのように真っ二つにされた頭蓋骨が落ち、 脳漿の代わりに寄生虫の固まりが地面に飛び散り、首が外れて頭の下半分も崩れ、防御のために構えた腕と胴体 が斜めに切れた。切れた部分からじゅわじゅわと溶けて薄い池となり、最後に残った眼球も少量の水と化し、ミーコは 先程のガニガニと同様に固体としての形状を失った。
 その様を注視していた紀乃は、震えすらも止まり、全身から血の気が引いていた。ミーコもまた、皮も骨も寄生虫 も残さずにただの液体になり、地面に吸収されていった。戦わなきゃ、戦わなきゃ、戦わなきゃ、と頭の中で何度と なく言葉を繰り返すが、手も足も棒のように突っ張ったまま動かない。サイコキネシスが働かず、砂の一粒でさえも 浮かび上がらせられない。触ったものを固まらせ、溶かす能力を持つ二人と真っ向から戦えるのは、手を触れずに 物を動かせる紀乃しかない。ガニガニも、小松も、ミーコも、自分がしっかりしていれば助けられたはずなのに。

「ひでぇな、こりゃ」

 虎鉄はヘルメットの隙間から寄生虫を掻き出し、バイザーを上げて顔に貼り付く白い異物を剥ぎ取った。

「体の中に入られたら大事なことには変わりないけど、本体を倒したんだから、そいつらの能力も弱まっているはず なのよね。だから、今のうちになんとかすればひどいことにはならないのよね」

 芙蓉がグローブを填めた指で虎鉄の顔に付いた寄生虫を剥ぎ取り、べちゃりと投げ捨てた。弱々しくのたくった白い 虫は、ミーコを求めて細長い先端を伸ばした。だが、地面を這いずってもミーコはどこにもおらず、唯一固体としての 形状を保っている右足は蛋白質ではなく、鋼鉄の固まりだった。鋼鉄の足からはみ出した同族の亡骸に触れた 虫は、鋼鉄の寄生虫を慈しむように先端で撫でた。高度な知性を持ち得るはずのない寄生虫らしからぬ、深い感情が 宿った仕草だった。紀乃は見開いた目を一度瞬きし、砂を両手一杯に掴むと、爪が食い込むほど拳を固めた。

「……殺してやる」

 全身が激情に炙られ、神経が隅々まで逆立つ。紀乃はゆらりと立ち上がると、虎鉄と芙蓉を浮かばせた。

「畜生、何しやがる!」

「いやぁんっ!」

「いけません、紀乃さん」

 虎鉄と芙蓉をサイコキネシスで潰さんとする紀乃を、ゾゾは柔らかく抱き寄せた。

「なんで!? あいつら、ガニガニも小松さんもミーコさんもやっちゃったんだよ!? 殺されても当然じゃない、殺す のが普通じゃない、殺さなきゃダメじゃない!」

 紀乃はゾゾの腕から脱しようと暴れるが、ゾゾはそれ以上の力で押さえ込んできた。

「今は、翠さんを救うことが先決です! 戦っている場合ではありません!」

 ゾゾの怒声に混じり、板やガラスが砕ける音がした。紀乃が我に返って振り返ると、廃校の左半分が地中が膨れ 上がるかのように持ち上がっていた。甚平の手を振り払って廃校に駆け寄りかけた忌部は足を止め、包帯の奥で 目を見開いて硬直している。旧い時代に建てられた校舎なので基礎はなく、礎石に据えられた柱が湿った土と共に 丸く迫り上がった。トタン屋根が歪んで外れ、風化しかけた壁が折れ曲がり、古びた柱が抜け、歪みに耐えきれずに 窓が割れる。数十年分の堆積物が積もった地面を裂き、生まれ出たのは、緑色の肌を持つ巨体の竜だった。

「翠……」

 忌部は土と校舎の破片にまみれた妹を見上げ、猛烈な悲哀に駆られた。鍾乳石のように尖ったツノには着物と 帯の切れ端が付いていたが、体格が巨大すぎて最早糸切れにしか見えなかった。灯台に匹敵する太さの喉が震え、 奇妙な声が漏れる。差し渡し百メートル以上はありそうな翼を一振りして土を払い落とすと、翠は赤い瞳をぎょろぎょろ と巡らせた。太い爪が生えた両前足を使って這い出すと、胴体以上の長さがある尻尾を地下室から引き摺り出し、 校庭に倒れ込んだ。ぎい、ぎい、と牙の間から零れる鳴き声は弱く、校庭をでたらめに引っ掻く。

「苦しいのか?」

 忌部は翠に近寄ろうとするが、翠は牙を剥いて威嚇した。

「ここらが潮時なのよね。というわけだから、今日はこの辺で勘弁してやるのよね」

 芙蓉は寄生虫を粗方剥ぎ取った虎鉄を抱えると、にゅるりと溶け、水柱のように変化して海目掛けて飛び出した。 紀乃は二人を逃すまいとサイコキネシスを放つが、不定型な芙蓉の肉体は上手く掴み切れず、文字通り滑るように 逃げられてしまった。紀乃は悔しくて悔しくて奥歯を食い縛りながら、翠に振り返った。あの大人しくて心優しかった 翠は、今や巨大な猛獣と化していた。尻尾を振り回して校舎どころか校庭も裏庭も破壊し、あれほど慕っていた兄を 蛇蝎の如く警戒している。翼が羽ばたくたびに暴風が吹き荒れ、無数の砂粒が襲い掛かる。

「翠! しっかりしろ!」

 忌部は声を張るが、翠はがあがあと喚くだけだった。首をしならせて地面を掻き毟り、威嚇を繰り返す。紀乃の 傍を離れたゾゾは、忌部を引き留めるように甚平に任せてから、翠の頭上に飛び上がった。正気を失った翠は 両目の焦点が合っていなかったが、頭上を過ぎる単眼のトカゲを追って首を反らした。ゾゾは翠の首の後ろに 着地すると、長い尻尾を振り下ろして翠の分厚い肌に打ち込んだ。

「少し痛みますよ」

 ぎい、と翠の悲鳴が一際高まり、尻尾の一振りで校舎の右半分が呆気なく薙ぎ払われた。ゾゾを排除しようと翠は 暴れるが、ゾゾは翠の背ビレを掴んで堪えていた。翠の頸椎に突き立てた尻尾を通じて生体情報を採取したゾゾは、 素早く尻尾を引き抜いて翠の上から脱し、紀乃の傍に舞い戻ってきた。

「ゾゾ、翠さんに何をしたの?」

 紀乃がゾゾの血塗れの尻尾を見て臆すると、ゾゾは尻尾を下げた。

「生体情報の調査ですよ。こんなにも翠さんの体の状態がひどいのなら、事前に行うべきでした」

「何がどうひどいんだ、言ってみろ!」

 ゾゾに掴み掛かった忌部が揺さぶると、ゾゾは単眼を上げ、空に飛び立とうと翼を広げる翠を仰いだ。

「翠さんは極度の紫外線アレルギーなのですよ。ミュータントの体を持って生まれたことが災いして、炎症と浮腫が 出来る代わりにあらゆる細胞が肥大化してしまうのです。ですが、翠さんには激痛を伴う炎症に変わりありません。 暴走してしまうのも、苦しみのあまりに理性を失ってしまうからなのでしょう。直接手を加えれば、今の症状を沈静化 出来るでしょうが、そのためには紫外線を完全に遮断出来る場所が必要です。しかし、校舎がこうなってしまっては、 私の地下室も無事では……」

「俺の妹だぞ! なんとかしてみろ、しやがれよ、ゾゾ!」

 忌部はゾゾを殴り付けかねない勢いで叫んだので、甚平は慌てて二人の間に割って入った。

「あ、その、僕、日差しが届かない場所、知っているっていうかで、海底なら絶対大丈夫っていうかで」

「それは良い考えです、甚平さん! そこでしたら、充分な治療が行えます!」

 ゾゾは単眼を丸めて頷き、紀乃に向いた。

「出番ですよ、紀乃さん!」

「……うん」

 紀乃はプリーツスカートが破れかねるほど強く握り、顔を上げた。

「何、すればいい?」

「あ、うん、僕が案内する。この辺の海は遠浅だから、少し距離はあるけど大丈夫。紀乃ちゃんにはでっかい空気の 泡を作ってもらって、翠さんとゾゾはその中に入って海底に行くんだ。僕はエラがあるから普通に泳げるし、水圧も大分 耐えられるけど、皆はそうじゃないっていうか。でも、簡単にはいかない。治療するのには時間も掛かるし、その間、 紀乃ちゃんはずっと空気の泡を作っていなきゃいけない。当然酸素も消費するから、定期的に海面に出て、新しい 空気を持ってきてくれないと、翠さんの体が良くなる前に酸欠で死んでしまう。だから、その、かなりきついだろうけど、 でも、それ以外に翠さんを助けられる方法はないんだ」

 甚平は一息で喋ったため、エラを開閉して深呼吸した。紀乃はあらゆる激情を押さえ、頷いた。

「解った、頑張る!」

「甚平、お前、泳げないんじゃなかったのか?」

 甚平が長く喋ったことにも驚きつつ、忌部が問うと、甚平はやりづらそうに顔を伏せた。

「あ、えと、泳げないけど、潜れるようにはなったっていうかで。一応、サメだし」

 甚平は照れ隠しに笑みを浮かべようとしたが、口の端が不器用に引きつっただけだった。付いてきて、と甚平が指示を 出すと、紀乃は苦しみのあまりに暴れる翠を優しく浮かび上がらせた。紀乃は虎鉄と芙蓉を追って再起不能に 陥るまで痛め付けてやりたかったが、ガニガニと小松とミーコの仇を討ちたかったが、頭がずきずきするほどの 怒りに駆られていたが、奥歯が砕けかねないほど噛み締めて我慢した。苦しむ翠を放り出して戦っては、翠の命が 危ぶまれる。ゾゾは翠の背中に下りて首筋に作った浅い傷に手を添えながら、竜の娘の兄を見下ろした。

「忌部さんは、ここで大人しくしておいて下さい。お辛いでしょうが」

「辛いのは俺じゃない、翠だ。早く行って、なんとかしてやってくれ」

 自分も行かせてくれ、と言いかけて飲み下した忌部は、包帯を巻いた顔を押さえた。

「夜になったら戻ってくるから。だから、それまで待っていて」

 紀乃は強引に頬を持ち上げて笑顔を作ろうとしたが、痛々しく引きつっただけだった。

「……ああ」

 忌部が弱々しく答えると、紀乃は翠の進路を海へと定めて、刺激を与えぬようにと風を阻みながら飛んでいった。 一足先に走っていった甚平の姿は遠く、既に砂浜まで辿り着いていた。妹の巨体が過ぎ去った後に届いた潮風が 緩んだ包帯を靡かせ、透き通った男を縁取った影を作ってくれた。破壊し尽くされた廃校の木材が雪崩れ落ちて、 乾いた砂埃が視界を濁らせた。実時間にして十数分の出来事なのだろうが、時間の感覚が狂いに狂ってしまった ために数時間掛けて起きた出来事のように思えていた。地面にミーコの水溜まりがうっすらと広がっていたが、先に 液状化されたガニガニの水溜まりは南国の暑さを容赦なく浴びて干上がっていた。その水溜まりの傍らで横倒しに なっていた小松の外装が、いつのまにか元の色彩を取り戻していた。色素が染み渡るように黄色と黒が蘇ってから 数十秒後、どるん、と黒い排気を行った小松は、杭打ち形態に合体させていた多目的作業腕を切り離してから体を 起こした。半球状の頭部を一回転させた後、小松は呆気に取られて呟いた。

「一体、何がどうなったんだ? 俺は、あの鉄の固まりの男にやられたんじゃ……」

「虎鉄は芙蓉と撤退したから、距離が開いたことで能力の制御範囲下から脱したんだろう。よくあることだ」

 忌部が返すと、小松は再度頭部を一回転させた。

「他の連中は、ミーコはどこに行った?」

「ゾゾと紀乃と甚平は、翠を治療してやるために海底に向かった。俺は留守番だ」

「ミーコは」

「ガニガニと同じことになっちまった」

 忌部はそれ以上は言えず、小松から顔を背けた。小松は両腕を落として地面にぶつけ、六本足のシリンダーから 圧力が抜けてぺたんと座り込んだ。比較的汚れの少ないメインカメラが、ミーコの名残である鋼鉄製の右足を捉え、 一度シャッターを開閉させて瞬きした。小松は寄生虫がはみ出した切断面を凝視していたが、吼えた。

「があぉおおおおおおおおおおおおっ!」

 スピーカーが出せる音域を超えた絶叫は、ひどく音割れしていた。叫びが途切れると、小松はその場に突っ伏して 地面を殴り付けた。狂おしく愛した女と、その皮を被った寄生虫の固まりの名を交互に呼びながら、無意味な暴力を 繰り返した。忌部は声を掛けることも出来ず、小松が苦悩する様を見ることも出来ず、翠が収まっていた地下室の 残骸に近付いた。狭いなりにきちんと並べられていた棚やタンスは巨大化した際に潰れ、翠が大事にしていた着物 や帯や襦袢が千切れて土に汚れていた。忌部は穴の底に落ちないように気を付けながら手を伸ばし、翠の着物に しては少々派手な朱色の着物を取り出すと、妹の代わりに思い切り抱き締めた。
 喉の詰まる匂いがした。





 


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