風が乱れ、波が裂ける。 紀乃は砂浜に入りかけたところでガニガニを制止し、異物を睨んだ。南洋を吹き抜けた爽やかな潮風を濁らせる 爆音を伴い、巨大な物体が迫りつつあった。航空自衛隊輸送機、C−X。双発のジェットが吐き出す熱風が、無意識の うちに広げた感覚の端を焼いた。紀乃は顔を歪めてサイコキネシスを放とうとしたが、ガニガニが不安げに紀乃の 背後に隠れたので躊躇った。ここで輸送機を迎撃するのは容易いが、戦闘を始めるのはよくない。ガニガニは 体こそ巨大だが、その分足が遅いのだ。まずは集落まで撤退して、ガニガニを安全な場所まで避難させてから、 全面攻撃に移ろう。やられる前にやらなければ。 「手始めに、落としてやる」 紀乃は両の拳をきつく握り、目を据わらせた。セーラー服の襟が舞い上がり、プリーツスカートの裾が翻り、足元 から起きた薄い風が砂を散らしながら巡った。ガニガニを避難させても、輸送機が追ってきて爆撃でもされたら 何の意味もない。紀乃は感覚を一気に拡大させて輸送機の真下の海面に届かせ、戦闘機との戦闘と同じように 海面を持ち上げて海水を噴出させた。無防備な腹部に膨大な水を浴びた輸送機は傾き、落ちるかと思われたが、 ぐにゃりと機体の中央が歪んで翼がへたれ、海水に混じって溶け落ちた。 「ん、なっ!?」 紀乃は輸送機が溶けた海面を凝視したが、外装の一枚もネジの一本すら浮かんでいなかった。だが、今し方噴出 させた水はただの海水だ。昨日も海水浴をしたし、ガニガニと一緒に遊んだのだから間違いない。 「紀乃!」 背後から呼び掛けられ、紀乃は振り向いた。工作場から出てきた小松が、急ぎ足で駆けてきていた。 「何があった、敵はどうした」 「それが、なんか知らないけど、溶けて落ちちゃった」 紀乃が戸惑いながら海面を指すと、小松は敵機が墜落したであろう海面にメインカメラを向けた。 「硫酸でも使ったのか?」 「そんなわけないじゃん! でも、ちっとも手応えがなかったの。だから、本当にやられたわけじゃないと思う」 紀乃は正体の掴めない敵に畏怖し、後退ってガニガニの外骨格に触れた。ガニガニも恐ろしいのか、こちこち、 と小さく顎を鳴らして紀乃の背に頭をぶつけてきた。輸送機の質量が海中に落下したことは事実であり、物理現象が 発生していた。液状化した輸送機が沈んだ箇所からごぶりと泡立ち、一際大きな波が砂浜に打ち寄せる。すると、 打ち寄せた波が意志を持っているかのように渦巻き、凝結すると、長身の女が出来上がった。 「あったり前じゃなあい。あの程度でやられるわけがないのよね」 パール色の艶やかな全身スーツを纏ってヘルメットを被った女は、ちゃぷん、とつま先に水滴を収め、ヘルメット の後ろから伸びる黒髪を払って海水の飛沫を散らしてから、白い肌を際立たせる赤い口紅を載せた唇を舐めた。 「お前、一人か」 小松はすかさず多目的作業腕から溶接機を出し、ばちり、と高温の火花を散らして構えた。 「まさか。あなた方じゃあるまいし、そこまで無謀なことはしないわよ」 女が右手を海面に差し伸べると、ずるりと波が立ち上がり、凝結した。海水の固まりの中から出現したのは、全身 が鋼鉄で成された男だった。ライダースジャケットにライダースパンツにライダースブーツを履いていて、頭部は黒い フルフェイスのヘルメットで覆われている。ジャケットの下から覗く筋肉質の胸は、光沢のある鉄そのものだ。 「ああ、気持ち悪かった。ちったぁ手加減して溶かしてくれよ、芙蓉」 ごきん、と鋼鉄の男が指の関節を鳴らすと、液体の女は下半身を溶かして男に絡み付けた。 「あら、あれでも分解率は低い方よ?」 「ど、どちらさまで?」 見るからに異様な二人に臆し、紀乃が更に後退ると、鋼鉄の男はライダースジャケットの襟元を正した。 「乙型甲型兵器三号、虎鉄」 「同じく四号、芙蓉よ。それだけ言えば、用件なんて聞くまでもないんじゃない?」 芙蓉は涼やかな水音を立てながら、虎鉄の首に腕を回した。 「奇襲というわけか。だが、俺達が外に出た時はともかく、島にいる時は手出ししてこなかったじゃないか」 小松がどるんとエンジンを噴かして黒煙を吹き出すと、虎鉄はがきんと鋼鉄の拳を鋼鉄の手のひらに当てた。 「今までは今までだ。これからはこれからなんだよ」 「だから、大人しく死んでくれると楽なのよね!」 芙蓉が上半身と下半身を分離させると、虎鉄がすかさず投げ飛ばした。紀乃は心底驚きながらも芙蓉の上半身を サイコキネシスで受け止めたが、芙蓉は目に見えない障壁にスライムのように貼り付くと砂浜に滑り落ち、紀乃と 小松の足の下をぬるりと通り過ぎた。振り返った時には、上半身を再構成した芙蓉がガニガニに近付いていた。 「ダメ、その子だけは手を出さないでぇっ!」 紀乃はガニガニを庇おうと駆け出すが、上半身だけの芙蓉はうっすらと笑い、ガニガニの顎に手を伸ばした。 「あら、可愛いことを言うじゃない」 芙蓉の手が触れた部分の外骨格が、透き通った水と化した。芙蓉の艶やかなグローブを填めた手の上を伝った 雫が砂に吸い込まれると、ガニガニは紀乃を求めて両の鋏脚を振り上げる。紀乃は飛び上がってガニガニの 鋏脚に手を伸ばし、触れた。慣れ親しんだ硬さが訪れ、紀乃は顔を緩ませかけたが、その硬さが手の下でとろりと 崩れて鋏脚そのものが落下した。芙蓉はガニガニが溶けた液体に混じらないように素早く退避し、虎鉄に絡めた ままの下半身と上半身を繋ぎ合わせたが、紀乃にはそんなものを目に入れている余裕はなかった。 「やだ、やだ、やだぁああああっ!」 紀乃は溶けゆくガニガニを受け止めようとするが、ガニガニの外骨格は氷が溶けるかのように透き通って崩れ、 溶け、砂に馴染んでいく。全長八メートルもの巨体の質量は数秒も経たないうちに失われ、最後に残っていた 頭部の外骨格も物言わぬ液体と化して落ちた。せめて抱き留めてやらなければ、と紀乃は、ガニガニの頭部だった 液体の手を伸ばすが、室温よりも少し冷たい液体が腕の間を擦り抜けていっただけだった。 「この野郎!」 小松は多目的作業腕からセメントガンを出し、二人を狙って噴出させた。しかし、速乾性の灰色の奔流は芙蓉が 下半身から散らした雫を浴びると呆気なく溶け、ガニガニの形をした水溜まりの傍らに一筋の水溜まりを作るだけに 止まった。小松は六本足を動かして後退り、紀乃を背後に隠した。 「おい、紀乃! しっかりしろ!」 「ガニガニがぁ、ガニガニがぁ、いなくなっちゃったよお! 溶けちゃったよお! やだ、こんなのやだぁああっ!」 紀乃はガニガニの水溜まりに座り込んで絶叫し、暴発したサイコキネシスが無益に砂浜を抉った。 「俺だってガニ公がいなくなるのは嫌だ! だが、お前までやられたらどうなる! ひとまず下がれ!」 小松はびいびいと盗難防止用アラームを鳴らしながら、虎鉄と芙蓉に測量用ビームを差して照準を据えた。 「やだよ、ガニガニを助けなきゃ、元に戻さなきゃ、一緒に連れて帰らなきゃ!」 紀乃は懸命にガニガニだった液体を集めようとするが、砂が混じるばかりか、掬い取れなかった。 「とにかく落ち着け、状況を見極めろ、話はそれからだ」 小松はがしょんと両腕を重ね合わせて杭打ち形態に変形させると、関節から熱い蒸気を噴き出した。 「あいつらを砂に打ち込んで時間を稼ぐ。その間に、紀乃は廃校に戻れ。あそこを守れなきゃ意味がない」 「で、でも……」 「ガニ公は俺が拾って集めてやる。だから、行け」 小松が急かすと、紀乃は砂まみれの震える手で涙を拭い、力なく頷いた。 「……うん」 紀乃は精一杯集中力を引っ張り出し、サイコキネシスを放った。ゾゾだ、ゾゾならきっとなんとかしてくれる。溶けた ガニガニだって、すぐに元通りになる。小松は建設機械なのだ、そう簡単に負けるわけがない。廃校に行って戻って くるだけなら、十数秒も掛からないはずだ。出せる限りの速度で廃校に向けて飛び始めた紀乃が、横目に振り返ると、 小松に異変が起きていた。杭打ち機に変形させた両腕を、今正に虎鉄と芙蓉に突き付けて発射せんとする姿勢で 硬直している。排気も廃熱も止まり、外装の塗装も鈍色に変色している。その色は、虎鉄の肌と同じ色だった。 「無駄なことをしやがって」 小松の杭打ち機の先端を片手で受け止めていた虎鉄は、全てが鉄と化した小松を小突き、転ばせた。 「テロリストにもなれない、ミュータントとしての力も生かせない、インベーダー風情がヒーローごっこをするなよ」 「そうよねぇ。ああいうことを言うのは、正義の味方なのがお約束なのよね」 芙蓉は虎鉄に寄り添い、くすくす笑う。廃校に至る途中の空中に浮かんだままの紀乃は、凄まじい寒気が背筋を 這い上がったために顎が震えていた。外気はいつも通り暑いはずなのに、日差しも明るく眩しいはずなのに、肌を 掠める風は真冬の如く鋭く、目に入る外界は日差しが途絶えたかのように暗い。戦わなきゃ、戦わなきゃ、と懸命に 自分を奮い立てようとするが、両手に貼り付いたガニガニだった液体が悲しみと恐怖を誘う。守らなければいけない のに、守るはずだったのに、そのどちらも出来ずに彼はやられた。小松もまた、動かなくなった。心臓が無数の針に 貫かれたかのように激しく痛み、息が吸えない。力を出そうにも、涙が出て震えるばかりで感覚も広がらない。 「紀乃さん、御無事ですか!」 背後から羽音が迫り、紀乃は翼を生やしたゾゾに抱き留められた。 「全然だよ、ガニガニがぁ、小松さんがぁ、私が何も出来なかったせいでぇ!」 取り乱した紀乃はゾゾにしがみつき、がくがくと震えた。ゾゾは紀乃を支えながら、虎鉄と芙蓉を捉えた。 「そうですか……」 「虎鉄、芙蓉!」 ゾゾに続いて廃校から飛び出したのは、ぞんざいに包帯を巻いて制服を羽織った透明男、忌部だった。ガニガニの 形をした水溜まりと鋼鉄の固まりと化した小松を見、怒りに任せて吐き捨てた。 「やりすぎだ」 「お前らを攻撃しろ、と命じられた。だがな、殲滅するな、とは命じられていないんだよ」 虎鉄は倒れた小松の横を過ぎ、ガニガニの水溜まりを踏み付けてから大股に歩いてきた。 「私達の能力の素晴らしさを見せつけるチャンスだし、ついでにあなた方の戦力を削れるから効率的なのよね」 虎鉄の背をずるりと這い上がった芙蓉は、虎鉄の肩に座って足を揃えた。 「ついでに言っておこう、忌部現場調査官」 足を止めた虎鉄は、ライダースジャケットの懐から書類を一枚出し、広げて見せつけた。 「国家の汎用生体兵器である乙型二号と関係を持ったことによる器物損壊罪、並びに度重なるインベーダー側への 内通によって国家の安全を重大に損なった罪で、本日付で懲戒解雇、同時にインベーダーに分類されることが決定 した。お前に拒否する権限もなければ、裁く法もない。なぜなら、お前はインベーダーだからだ」 「予想はしていたから驚きはしないし、願ってもない処分だから文句の一つも言いはしないが、変異体管理局は俺の 行動も見張っていたんだな?」 忌部は躊躇いもなく制服を脱ぎ捨てると、隙間だらけの包帯を巻いた上半身を曝した。 「当然だ。お前は能力は不完全な上に反逆の意志も希薄だったが、インベーダーになりうる可能性は充分だった。 だから、いずれこうなることだったんだ。と、主任が言っていた」 虎鉄はぐしゃりと書類を握り潰すと、薄っぺらいコピー用紙が一握の鉄塊と化した。 「乙型二号も同上よ。あの子は危なっかしすぎて、使い道以前の問題なのよね。だから、重大な問題を起こす前に 治外法権の忌部島にて殺処分しろ、って主任が言っていたわ。日本の領土内で殺処分を行ったら色んな方面から ガタガタ言われるけど、この島でやるなら話は別なのよね。それはあなた方も同じなのよ」 バイザーの下から芙蓉の目が上がり、紀乃を庇うゾゾを捉えた。 「とろっとろに溶けるのって、最高に気持ちいいんだから」 「ヘヴィなメタルに固まるのも、悪くないんだぜ?」 虎鉄はくぐもった笑みを漏らし、肩を揺すった。紀乃は一層怯えてゾゾの腕に爪を立て、ゾゾは紀乃の不安が少し でも紛れるようにと抱き締め返した。忌部はどう動けば事態を打開出来るか考えようとしたが、腹を据えていたはず なのに動揺が襲い掛かり、脂汗が包帯を濡らした。だが、真波ならやりかねない。何が起きようと眉一つ動かさずに 対処し、少女達を前線で酷使している張本人だ。忌部のような半端な輩を切り捨てる時期としては遅すぎるほどだ。 だが、あのメガネ越しの冷たい眼差しにも年相応の女性らしさが滲む瞬間を知っているからか、手前勝手な親しみが 裏切られたと思い込みそうになる。実質、裏切っていたのは忌部だというのに、我ながら情けなくなる。 「小松」 勝手口を開け放した居間兼食堂に突っ立っていたミーコは不自然に首を曲げ、横倒しになったまま動かない小松 に両目の焦点を合わせた。忌部も紀乃もゾゾも通り過ぎた目線が虎鉄と芙蓉に至った瞬間、口の端が引きつって 弓形に持ち上がり、笑顔とは程遠い威嚇の表情を成した。 「許さない」 語尾を繰り返さずに一語で言い切ったミーコは床を蹴り付け、窓を破って校庭に転げ出した。ガラスと窓枠の破片 が肌に突き刺さり、寄生虫が何匹も零れ落ちても意に介さずに駆け出した。忌部はミーコを引き留めようとしたが、 声を出す前にその背は遠ざかる。泣き顔の紀乃も、これ以上仲間がやられるのは見たくないと手を伸ばすも、彼女 の驚異的な脚力を食い止めるほどのサイコキネシスは出せなかった。ゾゾは嫌だ嫌だと首を横に振る紀乃を抱き、 泣き声を漏らすたびに引きつる背をさすってやった。忌部は居たたまれなくなって、翠が身を隠している職員室まで 戻ろうとしたが、職員室の窓から甚平の丸まった背がちらりと見えた。甚平は忌部の視線を感じ、水掻きが張った 手で床を指した。翠のいる地下室の蓋を塞いでいる、ということか。忌部は甚平に妹を任せるのは不安だったが、 不用意に動いて虎鉄と芙蓉に地下室の場所を知られても困る。正直言ってミーコの力では虎鉄と芙蓉を倒せる とは思いがたいが、今、まともに動ける心理状態なのはミーコだけだ。ただ透き通っているだけで何の能力もない 自分が歯痒かったが、翠を戦わせないためには堪えるしかない。 寄生虫の固まりに、命運を委ねよう。 10 9/3 |