本家の御前様。 直接会ったことがないのでどんな人間かは知らなかったが、物心付いた頃から身近な存在だった。都子の誕生日を 始め、クリスマス、御正月、進級、入学、卒業と事ある事にプレゼントを贈ってくれた。それも子供騙しの安物では なく、子供心にもちゃんとした物だと解る品ばかりだった。両親に言われて御礼の手紙を欠かさず書いて送ったが、 要するにおねだりだった。御礼の文章はほんの数行で、残りは欲しいもののことばかりだったが、本家の御前様は 文句一つ言わずに都子の欲しがるプレゼントを贈ってくれた。だから、都子の部屋はクラスメイトよりも遙かに充実し、 自分専用のテレビもゲーム機も漫画本もオモチャも服も揃っていた。けれど、それがミーコによって壊されることは 一度や二度ではなく、パッケージを開けることすらなく叩き割られたゲームソフトやCDは数知れなかった。 その日も、ふと気が付くと部屋の中は滅茶苦茶になっていた。壁に投げ付けられたランドセルから教科書やノートが 散乱し、ペンケースが割れていた。都子は我に返ったが、またミーコか、と舌打ちした。ランドセルを拾って教科書を 詰め直そうとすると、ランドセルと壁の間で可愛らしい包装の箱が叩き潰されていた。 「これ、御前様からの……」 都子はリボンを解いて既に破れた包装紙を開くと、箱の中に入っていたのはガラス細工の置物だった。ピンク色の クリスタルガラスで出来たウサギの人形だったが、粉々に砕けて無惨な姿に変わり果てていた。 「ひどい! なんてことをするの!」 都子がミーコに文句を言うと、ミーコは即座に言い返してきた。 「こんなものはいらない、いらないいらないいらない!」 「ガラスのウサギ、欲しかったのに! なのに、どうして箱から出す前に壊しちゃうの! あんたなんか大嫌い!」 「あんなものと関わったら、ミーコも都子も汚染される。だから、都子の代わりにミーコはあいつを嫌っているんだ」 「御前様は凄くいい人だよ、欲しい物をなんだって買ってくれるんだから!」 「あんたってつくづく馬鹿だよ、都子。だから、ミーコが代わりに上手くやっているんじゃない」 「馬鹿なのはミーコの方でしょ! お願いだから、私の中から出ていってよ!」 「それは無理だね。だって、ミーコのミーコで宮本都子なんだもん」 きゃひほはははははははは、と高らかに笑ったミーコは、都子の体をしならせて壁に激突させた。 「うぐぁっ!」 「本家の御前様なんて奴がいるから、ミーコはミーコの宮本都子になったんだ」 都子に言い聞かせるように、ミーコは都子の口を使って喋り続ける。 「ミーコは死なない。だから都子も死なない。だから、ミーコならいくらでも何度でも戦える。それがミーコがミーコの 宮本都子になった理由。だから、都子もいい加減にして。都子はミーコ。ミーコは都子。ミーコは都子になって、 都子はミーコになって、やるべきことをやるんだ」 「そんなの、私には関係ないよ」 「関係ないわけがない。だって、ミーコのミーコが宮本都子なんだから」 ミーコは左腕を使い、都子の頭を壁に押し付けてきた。ぎりぎりとねじ込むように頭蓋骨が圧迫されていく。 「痛い、痛い痛い!」 「いい加減にしろって言ったでしょ。ミーコはミーコで宮本都子なんだ!」 ミーコの意志に操られた左腕が子供とは到底思えぬ腕力を発揮し、めぎ、と都子の頬骨がへし折れた。折れた骨が 眼球を突き刺し、血液とは若干感触が違う液体が青痣の付いた頬を伝って滴る。自分の手で自分の頭を押して 骨を折った手応えが生々しく残り、痛みと恐怖でわなわなと震えた。折れた頬骨の先端で破れた右目からは視界が 失われ、恐る恐る右手で触れると、顔の右半分が変形していた。吐き気混じりの嗚咽を漏らしながら都子はその場に 座り込むが、ミーコはまたも笑い続けていた。けれど、どれだけミーコが笑い転げても、一階にいるはずの母親は 子供部屋に駆け込んでこなかった。一階のリビングでゲームに興じているはずの弟も、都子とミーコが言い争っても 反応しなかった。平日の夕方に似付かわしくない静寂が満ちた自宅に、都子は急に違和感を覚えた。そういえば、 都子とミーコが同じ体の中で意識を戦い合わせるようになったのは、いつ頃からだろう。うんと小さな時から、都子 の中にはミーコがいて、一緒に育ってきた。けれど、ただの一度も両親はミーコと文句を言い合う都子を咎めたこと はない。ミーコがいることを知っていながらも、ミーコを無視しているかのように。 「違うよ、都子」 都子の思考を読み取ったミーコは、左手で潰れた顔の右半分を押さえた。 「あいつらはね、ミーコを利用しているんだ。ミーコが生きていれば、御前はあいつらにもプレゼントをするんだ。この 家も、新しい車も、金も、全部が全部、プレゼントなんだ。ミーコはね、そういうものなんだ」 感覚が異なる左手の下で、折れた頬骨が独りでに迫り出し、破れた眼球が塞がっていく。 「あいつらは同じ血を引いているけど、ただの人間なんだ。だから、ミーコを利用してもなんとも思わないんだ」 まるで意味が解らない。都子は顔の右半分が元通りに再生する気色悪さを味わいながら、血と体液に濡れた唇を 歪めた。ミーコが操る左手が都子をそっと抱き締め、無傷の左目が物憂げに伏せられた。 「ミーコはね、建ちゃんが好きなんだ。建ちゃんは凄く良い子だ。だから、ミーコは建ちゃんのものになりたい」 おぞましい告白に、都子は思い出したように吐き気が込み上がった。だが、ミーコはそれを許さず、喉を押さえた。 ごぶり、と喉の奥で泡を立てた胃液混じりの内容物の酸味に、都子はますます気分が悪くなったが、吐き出せない せいで一層気持ち悪さが増した。ミーコだけでも気色悪くて気が狂いそうなのに、ミーコは輪を掛けて気色悪い小松 建造が好きだと言う。その間に挟まれている都子は、正に生き地獄だ。だが、逃れることは出来ないのだ。ミーコの 言葉通り、自分の体は不死身だと言うことは身に染みている。今も、自分の手でへし折った頬骨が元通りになった ばかりだ。どうやったら自由になれるのだろう。自分の体を自分一人で支配出来るようになれるのだろう。 なぜ、自分だけがこうなのだろう。 掘り起こされて間もない土の上に、不格好な立て札が突き立てられていた。 それはきっと、墓標だ。他でもない都子の墓標だ。この下に埋まっているのは、小松が技術家庭の授業で作った いびつな風見鶏なんかじゃない。都子の心だ、魂だ、意識だ。ミーコの支配から逃れた瞬間に凄まじい強迫観念に 駆られた都子は、制服のまま山道を駆け上り、山頂の作業場まで辿り着いた。片手に握り締めていた懐中電灯の 細い光線は頼りなく足元を照らしていたが、それで充分だった。都子は汗を拭うことすら億劫で、すぐさま立て札を 引っこ抜いて投げ捨て、小松が使ったであろう錆び付いたスコップを取って土を掘り返し始めた。夜の闇は都子の 心中を剥き出しにしたかのように、ひたすらに暗く、冷え込んでいた。 「嫌だ、嫌だ、嫌だ」 ミーコは、小松が好きだと言った。都子の口を借りて。 「やだ、やだ、やだぁああああ」 あんな奴に気を許すぐらいなら、本家の御前様のものになった方がマシだ。 「死ね、死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇえええええええっ!」 夢中で土を掘り返しながら、都子は髪を振り乱して喚いた。涙とも汗とも判別が付けられないものを顎の先端から 落としながら、湿って重たい土を抉り、切り、捨てる。ぷんと鼻を突く土の匂いは生臭く、スコップの先端に風見鶏らしき 鉄片が衝突する音はいつまでたっても聞こえてこなかった。それがまた腹立たしくて、掘る手には力が籠もる。 「私は私なんだ、ミーコじゃないんだ!」 あらん限りの怒りと憎しみを込め、都子はスコップを力一杯突き立てた。がつ、ん。 「あ……あったぁ……」 都子は歓喜に襲われ、スコップをもう一息深く突き立ててから、てこを利用して土を多めに抉った。それを繰り返す たびに金属音が零れ、硬い手応えも返ってくる。思いの外、小松の掘った穴は深かったようだが、見つけてしまえば こちらのものだ。ミーコが大人しいうちに風見鶏を地中から取り出して、滅茶苦茶に壊して捨ててやる。そうすれば、 ミーコも小松も仲違いを起こす。小松はミーコを疎み、ミーコは小松が嘘を吐いたと思い込む。そうなれば、この体は 都子一人だけの所有物になる。ごく普通の人間としての人生を過ごせる。真の自由が手に入る。 「うふ、ふは、へはははははは」 泥まみれになりながら包みを掘り出した都子は、穴から這い上がり、けたけたと笑った。 「きゃほはははははははははははは」 壊してしまえ。壊れてしまえ。こんな自分も、あんな奴も、何もかも。 「きゃほはははははははははははは」 がくがくと肩を揺すって笑いながら、都子はスコップを掴んで高く掲げた。勢いに任せてそれを振り下ろすと、先端が 金属板を軋ませるほど強烈に叩いた。防水布のつもりらしいビニールシートに包まれた風見鶏が折れ曲がると、 破れた青いシートの隙間から中身が覗いた。中学生らしい、不出来ながらも一生懸命さが伝わってくる風見鶏だ。 小さな丸い穴を開けられただけの無機質な目に懐中電灯の光が触れ、瞬くと、捻れたクチバシがちかりと光った。 そのクチバシが開くかのような錯覚に陥り、都子は息を詰めて後退り、スコップを下ろした。汚れすぎて元の色合い が解らなくなったローファーのつま先でビニールシートを剥ぎ取ると、風見鶏の全体像が露わになった。ただの鉄板を 溶接機で切り落としただけのものであり、目もクチバシもお粗末で、尾羽に至ってはほとんど円形だ。目になって いる穴がちょっと暗かったというだけで、何を怯えているのだろう。そんな自分が可笑しくて、都子はまた笑った。 「随分と楽しそうですねぇ」 ミーコでも小松でもない声が聞こえ、都子は目を剥いた。 「……誰」 音源を辿ると、木材伐採用にカスタマイズされた人型多脚重機の上に大柄な影が立っていた。 「夜分遅くに失礼いたします。私の名はゾゾ・ゼゼ、しがない異星人ですよ」 都子が懐中電灯の光を向けると、ゾゾと名乗った人物は一礼した。その背中からは一対の翼が生え、太い尻尾が 伸びていた。そして、服を身につけておらず、肌の色は紫で目は一つしかなかった。都子が絶句していると、ゾゾは 翼を広げて舞い降り、秋の夜の冷たい土を踏み締めながら歩み寄ってきた。 「や、やだ、なんなの、来ないでよ」 都子は腰が引けてしまい、スコップを構えるが、腕が震えてまともに持てなかった。 「大丈夫ですとも。あなたに危害は加えませんよ、宮本都子さん」 ゾゾの足取りは穏やかで、眼差しも同様だった。だが、外見と状況に似付かわしくなく、却って恐怖を煽り立てる。 近付いてくると、ゾゾの体格は常人を遙かに上回るものだと解った。血に染めたような真紅の単眼が都子を映すと、 都子の恐怖は頂点に達した。せっかくミーコと小松の淡い関係を引き裂けると思ったのに、なぜ邪魔されなければ いけないのだろう。しかも、こんな訳の解らないトカゲに。都子は奇声を発しながら、スコップを投擲した。 「きぇあああああああああああっ!」 ぞ、んっ。鈍い音を立て、スコップの汚れた切っ先が対象物に刺さった。人間のものとは少し異なる血臭が鼻先を 掠め、びしゃびしゃと水音が聞こえてくる。都子は達成感に満たされながら顔を上げると、ゾゾは右腕にスコップが 突き刺さった状態で直立していた。尻尾を左右に振って地面を擦ってから、ゾゾは単眼を上げた。 「少し、痛いですね」 ゾゾは何事もなかったかのように赤黒く濡れたスコップを引き抜くと、都子に歩み寄ってきた。 「な、何よ、何しに来たの、あんたになんか殺されるもんか、私は私になって生きるんだ!」 都子は更に後退ろうとしたが、木切れに蹴躓いて尻もちを付いた。浅く速い呼吸を繰り返し、喘ぐ。 「もうミーコなんかいらない、私はミーコじゃない、私は宮本都子だ! あんたなんか、関係ない!」 「大いにありますとも。私はあなたのようなミュータントを調べ、研究したいのですよ」 ゾゾは青ざめて震える都子の前に膝を付くと、その首をざらりとしたウロコの手で押さえ、尻尾を掲げた。 「寄生虫形態が基本形の生体組織分裂型のミュータントである時点でも大いに珍しいですが、人格の分裂症が随分と 進行しているようですね。今、統合しなければ、人格どころか生体組織の維持にも関わってきてしまいますね」 「人格、って……」 私は私一人になれるのだ。都子はおぞましい生き物を直視していたが、歓喜のあまりに頬が緩んだ。 「あなたは、数百万にも及ぶ寄生虫を統べる女王寄生虫の人格で在るべきなのですよ」 ゾゾの尻尾の先端が皮膚を破り、都子の頸椎から神経にねじ込まれ、異物が接続した。 「ミーコさん」 耳元で囁かれた名に、都子は漏らしかけた笑みを吸い込んだ。では、己は一体何なのだ。自分が自分だと思って いたのは、自分ではなかったのか。宮本都子という名の人間は最初から存在せず、ミーコが作り出していた偽物の 自分だったというのか。そんなのは嘘だ、このトカゲがいい加減なことを言っているだけだ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。 「ひ」 頸椎から尻尾が引き抜かれると、都子の喉は情けなく引きつった。 「生体接触のおかげで、この数日間に収集した情報を上回る貴重な情報を頂けましたよ」 都子の血が付着した尻尾の先端を拭い、ゾゾはにんまりと単眼を細めた。 「ミーコさん。あなたは非常に素晴らしいミュータントですね」 「ふ、は?」 都子の頭の中が、爽やかな風が吹き渡るかのように晴れていく。小松に対する嫌悪感も、ミーコに対する憎悪も、 本家の御前様への親しみも、目の前のトカゲの化け物に感じる恐怖も、全てが一つに絡み合い、溶け合っていく。 甘く透き通ったシロップがスポンジケーキに垂らされたかのような、場違いな幸福感が隅々に染み渡った。 「ミーコさん。あなたは最初から、あの男に対抗するために生まれてきたのですね」 ゾゾの手が首筋から離れ、都子の汚れた頬をつうっと撫でた。 「あなたが皮膚の下で常時量産し、不死性の正体である無数の寄生虫は、あの男の遺伝子を強烈に拒絶するように 出来ています。ああ、なんと素晴らしいことでしょうか。最初期の改造以外ではほとんど手を加えずに、自然交配 だけでこれほどのものが仕上がるとは、人類とは実に芸術的です」 都子の顎に太い指を添えられ、上向けさせられる。 「ミーコさんは、この星に生きる現住生物を浸食し続けているあの男の企みを阻み、犯すために生まれた、いわば抗体 とでも呼ぶべき存在です。ですが、その身の上でありながら悩んでいるのですね?」 「……うん」 都子の口が動くと、都子の口調とは異なる声が出た。 「ミーコはミーコのミヤモトミヤコ。だけど、ミーコは建ちゃんが好き。でも、建ちゃんとミーコのお父さんは同じ、御前様。 一族の娘が結婚する直前に、御前様が謁見して種付けするからだ。解っていたけど、解っているけど、ミーコは どうしても建ちゃんが好き」 「それはそれは、さぞお辛いことでしょう」 「うん。だから、ミーコと建ちゃんはお姉ちゃんと弟。従兄弟だけど、お姉ちゃんと弟なんだ。だけど、ミーコはいつか 建ちゃんを殺さなきゃならない。そういうモノだから。でも、建ちゃんが好き。大好き」 都子は、いや、ミーコは、ゾゾの手に縋って泣いた。 「でも、ミーコはこれから一杯一杯人を殺す。殺さなきゃならない。殺せって言うんだ、他のミーコ達が。でも、ミーコは 建ちゃんが好き。一緒にいたい。遊びたい。建ちゃんを守りたい」 ゾゾはミーコの傍に膝を付き、何も言わずに頷いてくれた。見ず知らずの相手なのに、遠い昔から知っていたかの ような親近感を覚えながら、ミーコは取り留めのない話をした。生まれて間もなく自分の役割を理解したが、本家の 御前様と呼ばれる男の遺伝子を継ぐ者達が家族であり、彼らには少なからず親しみを抱いていたため、宮本都子と いう普通の少女のような人格を作って自分を誤魔化していたこと。気付くと、宮本都子として振る舞うことが楽しく なってきてしまい、宮本都子が主人格と化してしまったこと。異常極まる世界に生まれた異常極まるミーコにまともな 世界を見せてくれる宮本都子を失いたくなくて、宮本都子を躾けようとしたこと。だが、それに失敗したこと。だから、 宮本都子が暴走してミーコと小松の仲を裂こうとしたこと。これからどうすればいいか、よく解らないこと。それらを 全て吐き出すと、ミーコは少しだけ気持ちが落ち着いた。体の中で蠢く無数の自分を感じ取ると、無数の自分も小松を 思っていた。同じ境遇であるがために近付きたくとも近付けない、従兄弟であり弟である少年を。 近付いたら、きっと殺してしまうからだ。 10 9/11 |